「えみし」小考

−その高橋富雄氏の説の検討−

ver. 1.01i

2002年7月30日 初版


presented
by
masatsune nakaji

中路正恒


 

◇◇◇ はじめに

 わが国の古代文献において、一般に「エミシ」と訓む(=和語で表音する)とみなされている語には、「蝦夷」「夷」「毛人」などがある。このなかで最も代表的とみなされるのが「蝦夷」の語であるが、一般にこの「蝦夷」の語は、この語が使われ始めたとみなされる七世紀の段階においても、それ以降も、平安時代初期までは、一貫して「エミシ」と訓まれていたが、しかしその後、平安時代中期以降、北海道のアイヌのことが異風をもった人々として問題となってくるに応じて、この語は彼らアイヌの人々を表わす語となり、「エゾ」と訓まれるようになった、と考えられている。

 しかしこの問題について、高橋富雄氏は、平成三年十二月発行の『古代蝦夷を考える』の中で、根本的な異論を唱えている。高橋氏の強い主張は、「蝦夷」の語の訓みはもともと「エビス」であって、それは狂暴の貶称であって、弓人(ユミシ)から転訛した勇者の美称である「エミシ」とはもともと区別されていた、という説である。

 高橋氏のこの主張は大変強いものであるようにわたしには見えるのだが、残念ながらわたしはいまだ、この高橋氏の主張に対する歴史学者のきちんとした反論というものを目にしたことがない。それのみならず、顧慮すべき新しい知見に満ちた著書『古代蝦夷を考える』自体が、いわば歴史学の世界ではまったく無視されているように見えるのである。それは、人々が、この書の立論を、学説ではなく、単なる問題提起とうけとめたということなのだろうか。それは高橋氏自身がはじめから予期していたことではあった。氏はこの書で展開された論議について、「全編これ問題提起の書といううけとめかたなら、それでも結構である」と言っていたのである。

 それはともあれ、この書で示された「蝦夷」についての高橋氏の新説は、「蝦夷」について論じようとする人々すべての喉元に突きつけられた刃であり、ひとはみずからの蝦夷論をもつためにはこの刃を避けて通るわけにはゆかないであろう。わたしもまたみずからの蝦夷論をもちたいと念じており、それゆえ高橋氏の新説に対して、ひとつの検討を試みてみたいと思う。本稿はそのささやかな試みということになるであろう。

 

◇◇◆ 「愛瀰詩(えみし)」

 「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。

 

資料1.

  愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと) 比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

    訓読

  えみしを 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い)へども 抵抗(たむかひ)もせず  (岩波古典文学大系本による)

 

 歌の大意は、「えみしを人は一人で百人にも相当する強者(つわもの)だと言っているが、俺たち皇軍には抵抗もせずにやられてしまった」というほどのことである。これは道臣命(みちのおみのみこと)が大久米部(おおくめべ)をひきいる神武の軍が、ヤマトに入る前に、忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪。奈良盆地の南東隅)で敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれたところで一気に剣を抜いて殺してしまった後、戦勝を悦んで久米の子ら(=久米部の祖ら)が歌った歌である。思いもかけぬ強敵を倒せたことの悦楽が歌われている、と言えるであろう。「皇軍(みいくさ)大きに悦びて、天を仰ぎて咲(わら)ふ」と言われているのである。

 この久米歌において、「えみし」は、ヤマトの一地域の原住者であり、高橋富雄氏が言うような「あずまの勇者」(高橋、前掲書、p.3。以下高橋富雄氏の同書からの引用はページ数だけを挙げる)というわけではないが、しかし「えみし」はやはり「強者(つわもの)」であり、その強者であることはまさに賛嘆されるべき特質であるとみなされている、と読み取らなければならない。ここでも「えみし」は、やはり「勇者」ではあるのだ。

 ここで、この皇軍に殺された者たちの位置であるが、それは『書紀』の地政学では、宇陀を制した後、ヤマトに入ろうとする神武の軍に、国見丘(くにみのおか)(=経ヶ塚山と想定される)で撃破される八十梟帥(やそたける)の「余党」たち、ということになっている。(ちなみに『古事記』にはこの久米歌は出ないが、そこで殺されるのは忍坂の八十建(やそたける)そのものとなっている。)

 しかしながら、この久米歌においても、「えみし」は「つわもの」を意味しているわけではない。「つわものである」ということは、「えみし」の属性であり、それはたしかに「勇者」という価値をもち、彼らは決して狂暴な者というわけではないが、しかし「つわもの」イコール「えみし」というわけではなく、「えみし」とはやはりある種の敵であり、あの忍坂のあたりにいる、国見丘の戦いでも少しも傷つかなかった者たちなのである。「えみし」とは、正確に言って、この久米歌においては、「あそこのあのきわめて強いやつら」というほどの意味であるだろう。それはもう神にも近いほど強いやつらで、だからこそ宴会と称して酒を飲ませ、だまし討ちにして殺してしまっても、人はそこにやましさを感じることなく、かえって勝利しえたことを天の恵みとし、天を仰いで咲(え)み、神が降りてきたかのように、陶然として悦びにひたることになるのである(1)。われわれはここに、まさに八岐大蛇(やまたのおろち)を倒す素戔嗚(すさのを)命の神話の反映を見ることができるのではないだろうか。もっともスサノヲの場合は、いつわりの言葉でもってさそうという契機は存在しないのであるが。

 ところで、この久米歌において、「えみし」は仮名で「愛瀰詩」と記されている。これが「エミシ」と訓まれることは疑いないが、これはしかしたいへん美しい表記である。「愛のみちわたる詩(=志が言葉となったもの)」といった意味になるであろう。ここにも貶視のようなものはそのかけらもない、と言うべきである。

 このように「エミシ」という言葉は、その最初の確実な表記例において、一種の美称であり、畏敬の対象となる敵なる強者を指す言葉である、と言うことができるであろう。

 

◇◆◇ 「毛人」

 わたしが次に注目したいテキストは、『宋書倭国伝』の倭王武の条である。この倭王武は、稲荷山古墳出土の鉄剣銘にワカタケル大王と記され、諱を大泊瀬幼武(おほはつせわかたける)という『書紀』の雄略天皇にあたるが、彼は宋の順帝の昇明二(478)年、使いを遣わして上表文を呈している。その上表文は次のように始まる。

 

資料2.

 封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬(みづから)ら甲冑を@(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。(岩波文庫、石原道博訓による)

 

昔から父祖みずから甲冑を着て、東方、西方、そして北の海外を征服・平定してまわった、というのである。

 ここで注目したいのは、東の被征服民を「毛人」と呼び、西のそれを「衆夷」と呼んでいることである。この「毛人」「衆夷」はそれぞれどういうことを意味しているのであろうか。

 さらにここにもう一つ、「毛人」の出てくる中国文献を引用しておきたい。それは『旧唐書倭国日本伝』の長安三(703)年の、遣使、粟田真人に関連して、日本国について説明した条である。

 

資料3.

 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあると以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。・・中略・・またいう、その国の境、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。(岩波文庫、石原道博訓による)

 

このテキストにおいては、「山外は毛人の国だ」と言われているが、毛人の国である山外とはどのあたりのことなのだろうか。それは関東平野を含むのであろうか。

 この二つのテキストは中国文献であるが、わが国の文献においても「毛人」の出るものがないわけではない。代表的なものとして挙げられるのは、まず敏達十(581?)年紀の、数千の軍勢をもって辺境を侵寇してきた「蝦夷の魁帥綾糟等(あやかすら)」を註して「魁帥は大毛人なり」と記しているものである(資料4とする)。さらにもう一つを挙げると、『上宮聖徳法王帝説』に蘇我蝦夷のことを「蘇我豊浦毛人」と表記しているものである(資料5とする)。なお、「毛人」字を人の名にしている例は、小野毛人や佐伯今毛人をはじめ、奈良時代までの文献に限っても相当数みられ、例えば喜田貞吉はその「東人考」のなかでその例を十四挙げている。

 これらの資料に出る「毛人」について、はじめに高橋富雄氏の説を見ることにしよう。氏の毛人論については、その要旨が、前掲書のはじめのところに述べられているので、まずはじめにそれを紹介しておきたい。少し長めに引用することにしよう。「毛人の訓は本来ケヒトで、しかもケヒトははじめ異人(けひと)だったというのが本書での新しい視点である。異人(けひと)に毛人をあてたから、ケヒトの訓は本来ケヒトだったとする。その毛人国(けひとこく)がすなわち毛国(けのくに)=毛野国になる。毛野国はケノ国すなわち毛ノ国なのである。」(p.3)

 以上がその第一段であり、毛人の本源論にあたる。続いてその歴史的変遷が論じられる。

 「異人(けひと)の中心が日高見国蝦夷に移り、毛野中心の東国がヤマトの干城(かんじょう)に編成がえされて、毛人たちは、勇者の意味でエミシと呼ばれるようになる。毛人がケヒトすなわち異人(けひと)であったころは、蝦夷と同じく賤称であった。それがあずまの勇者の意味でユミシ(弓人)となり、エミシに転訛して、美称になるのである。」(p.3)

 ここで高橋富雄氏は、「毛人」ははじめ「異人」の意味の「けひと」であったと説く。これに対してわたしは素朴な疑問を懐く。それは、奈良時代の音韻において「毛」の「け」はke:と表記される乙類であるのに対し、「異」の「け」は甲類keであるということである。この違いは無視してよいものなのだろうか。

 さらに、この疑問が何らかの仕方で解決されるとして、わたしがいだくもっと大きな疑問は、「毛人」が「異人」を意味したとして、そのような言葉を、たとえば昇明二(478)年の大王雄略は宋の順帝に対する上表文の中で用いることがあったのであろうか、ということである。雄略もまた、「六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に除される(任ぜられる)ことを望んでいたはずである。そのための上表文の中に、中国の朝廷で理解されない語を使うはずはないのである(資料2参照)。「衆夷」の語は、およそ「もろもろの未開人たち」という意味で問題なく理解されるであろうが、「毛人」の「毛」に、中国語では「異」にあたる語義が含まれていないのであれば、雄略が、「異人」の意味で「毛人」と記したとはとても考えられないのである。雄略は、そしてこのことは大宝三(703)年(=長安三年)の粟田真人も同じで(資料3)、彼らは、「毛人」は「モウジン」に近い音で読まれ、「体毛」や「地表に生ずる草」(『字統』参照)に縁の近い人のイメージで理解されると考えたに違いないのである。そしてそれで一向に差し支えなかったはずなのである。

 わが国における「毛人」のイメージについても、その基本は、この中国においても通用するイメージと変らないものだったと考えるべきである。藤堂明保氏の『漢和大辞典』は、「毛」は「小さく細い意を含む」と説明するが、そこからすれば、「毛人」は、それ自体では、決して強力な人々のイメージをもたず、いわばそれ自体では細い、地に生える雑草のような小さい人々というイメージで捉えられていた、と考えるのが妥当であろう。もちろん彼らを「毛人」と呼ぶヤマトの人々は、みずからを大きな人間と考えているわけであり、そこから彼らを「異人」とする見方は生じるであろう。しかし「異人(けひと)」から「毛人(けひと・モウジン)」という概念が生まれたとするのは、捉え方としては逆なのである。

 実際、個人の人名を除いては、わが国の古代文献に「毛人」という語はほとんど存在しない。管見の及ぶかぎり、『令集解』の中にも若干はあるが、重要なものとしては資料4の敏達十(581?)年紀のものだけである。敏達紀においては、「魁帥は大毛人なり(魁帥者大毛人也)」と記されている。わたしはここの「大毛人」の「大」が的確に解釈されていると思える解釈例を知らないが、わたしはこの「大」を、単に「大きな」とか「立派な」とかいう意味ではなく、「第一の(=全体の公式代表となる)」という意味だと考える。そうすると、ここの箇所は、「魁帥は毛人たちを統率する毛人である」というような意味になる。このように解釈するとき、この「魁帥綾糟等」に付けた注の意味が明らかになる。それは、このとき辺境を侵寇した「蝦夷」ないしは「毛人」たちは、ひとつの集団としての統一性をもっている、ということを説明していることになるのである。(この「毛人」ないしは「蝦夷」の統一性については、このテキストを『書紀』の別の蝦夷テキストと重ね合わせて分析するとき、より明確になるのであるが、それについては先に論じたことがあるのでここでは繰返さない(2)。)そしてそうすると、ここの「毛人」字の使用は、『書紀』の用字の統一性の観点から本来「蝦夷」字に書き換えるべきものが、割注であるために見落とされ、残っただけのものだ、と考えられることになるであろう。

 

◇◆◆ 「毛人の国」

 高橋富雄氏の、「毛人の国」ということから「毛野国」という呼び名が起こった、という説の方はどうであろうか。この説については、わたしは目下のところ、少しの異論ももっていない。先ほどの敏達紀の場合もそうであるが、「毛人」の語は、和語の文化圏においては、「モウジン」という音で読まれるよりは、「けひと」和訓読みされることの方がより普通のことであっただろう。それゆえ、「毛人」という語が和語の文化圏においても汎用性をもった語であったかぎり、「けひと」という言葉も広まっていたであろうし、そうであれば、「けひとたちの国」という意味で「毛野国(けのくに)」という言葉も成立したであろう。そういう連関の限りにおいて、わたしは高橋説に少しの異論ももたない。

 わたしが問題にしたいのは、むしろ『旧唐書倭国日本伝』に「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり」と言われるときの「山外の毛人の国」をどう考えるかという問題である。高橋氏はそれを、「東界・北界を限った大山というのは、東海道の足柄山、東山道の碓日(うすひ)嶺の二つであり、山外の毛人国というのは、すなわちあずまの国のことをさすと理解するのである」(p.33)と解釈している。しかし、大宝三(703)年の遣唐使粟田真人の「毛人の国」理解ということを考えて、つまり当時の毛人/ヤマト国界ということを考えて、この高橋説は納得できるものであろうか。

 というのも、この問題についても詳論は別稿に委ねなければならないが(3)、わたしは、斉明年間(655-661)以前に「蝦夷」問題への対応の重点が陸奥の側から出羽の側に転じ、その後、阿倍比羅夫らが日本海北方の征服に実績を上げるようになるが、その政策転換は、陸奥側の「蝦夷」に対する対応がすでに一応の決着を見たからであると考えている。そしてその決着は、舒明九(637)年紀の、上毛野君形名による、叛(そむ)いた「蝦夷」らの平定によって示されており、そのとき毛人/ヤマトの国界は、すでに仙台平野のあたりまでは十分に及んでいたと考えるからである。そしてその説を支えるものとして、宮城県仙台市南部にある郡山遺跡の、七世紀後半と考えられる遺構を挙げることができる。この遺構は、この時代の陸奥国府跡と考えられるものなのである(4)。そうであれば、粟田真人が唐に遣わされる大宝二(702)年に、ヤマトの国領は仙台平野までは十分に広がっていたはずなのである。そのような時代に、粟田真人が、「山外の毛人の国」を、足柄山、碓日(うすひ)嶺の東の関東地方と考えていたとは、とても考えがたいことである。大宝二、三(702-703)年の時点で、東と北の「山外の毛人の国」とは、おおむね岩手県一関市以北と秋田県雄勝町以北あたりを指していたはずであり、決して群馬県、栃木県などの両毛地方や、あずまの国などを指してはいないのである。ちなみに、「東界北界を限る大山」とは、山の名をひとつ挙げるならば、郡山遺跡の場所から考えて、栗駒山がそれになるであろう。

 わたしは高橋富雄氏とともに、「毛野国」というものは「毛人の国」ということから生じた名だと考えるが、しかしあずまの国の北方を「毛野国」と呼ぶその言い方は、大宝年間(701-703)に生じたことではなく、むしろ五世紀後半後期のワカタケル大王(雄略)の時代に、あるいはそのワカタケルが宋の順帝への上表文の中で「自分の父祖はみずから甲冑を着て東の毛人を征服した」と言う、みずからの父祖の時代、およそ四世紀のこととみなされる、『書紀』に言われる景行(天皇)の時代に生じたことであっただろう。八世紀初頭の『旧唐書倭国日本伝』に言われる「毛人の国」とは、「毛野国」ではなく、やはり、当時の陸奥国府から見て、さらに道の奥の地方のことであろう。

 

◆◇◇ 「夷」

 ところで高橋富雄氏は、先に引用したところの後半部で、異人(イジン)とされる人々の中心が、あずまの国の毛人から、北上川中流域の日高見国蝦夷に移る、という歴史的過程の存在を説いている。氏の説くこの歴史的過程の存在は、わたしも異論なく認めることである。しかし、この歴史過程にともなう変化として氏が主張することの方には、疑問とすべきところがあるように思われる。その疑問の一つは、異人(イジン)とされる人々の中心が北上川中流域の「蝦夷」に移るとともに、「毛人たちは、勇者の意味でエミシと呼ばれるようになる」(p.3)という主張である。この主張は、その中の「毛人」というものをどの範囲の厳密性で受け取るかによって、その意味が変るのであるが、この「毛人」を文字どおりの意味で受け取る場合、さきほどみたように、「毛人」は大宝二、三(702-703)年の時点で、まさしく北上川中流域の「蝦夷」そのものであり、「異人(イジン)」そのものであったとみなければならないのである。

『旧唐書倭国日本伝』に記される「山外の毛人の国」は、「勇者エミシたちの国」ではなく、まさに「異人(イジン)たちの国」なのである。

 さらにもう一つの疑問は、「蝦夷」は、はたして高橋富雄氏が説くように「エビス」と読まれたのかということである。この問題は、しかし大変大きな問題であり、本稿で論じつくすことは不可能であろうが、しかしその要点にだけはここで正しく迫っておきたい。

 はじめに、この問題を論じるための基本資料として、景行紀から幾つかのテキストを抜き出しておきたい。

 

 資料6. 景行二十七年二月紀

 武内宿禰、東国より還(かへりまうき)て奏(まう)して言(まう)さく、「東の夷の中に日高見国(ひたかみのくに)有り。其の国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為人(ひととなり)勇み@(こは)し。是を總べて蝦夷と曰ふ。亦(また)土地沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。

 資料7. 景行四十年六月紀

 今東国安からずして、暴ぶる神多(さは)に起る。亦(また)蝦夷悉(ふつく)に叛きて屡(しばしば)人民を略む。誰人(たれ)を遣してか其の乱を平(む)けむ。

 資料8. 同前

 其の東の夷は、識性(たましひ)暴(あら)び強(こは)し。凌犯(しのぎをかすこと)を宗とす。・・中略・・其の東の夷の中に、蝦夷は是(これ)尤(はなは)だ強(こは)し。

 

 この資料6と8にはともに「東の夷の中に(東夷之中)」という表現が出るが、しかしその意味はそれぞれ多少異なっている。つまり、6の二十七年紀の方の「夷」はいわば「場所」を指すのに対し、8の四十年紀の方の「夷」は、その場所にいる「人」を指しているのである。それゆえ、二十七年紀の「夷」はおおむね「ひな」と訓み、意味は「鄙(ひな)」と近く、「辺鄙なところ」というような意味の語だと考えることができるであろう。そしてこの二十七年紀では、その「東夷」の中にさらに「日高見国」があり、その国の人々は特異な風俗をもっているが、その国の人々をすべて「蝦夷」と言うのだ(是總曰蝦夷)、と説明している。

 『書紀』においては、この条が「蝦夷」の初出になるのであるが、ここの説明の仕方においては、読者に「蝦夷」概念の知を要求していない。つまりこれは「その国の人々はみな蝦夷だ(是總蝦夷也)」という言い方とははっきり異なっており、『書紀』はここで「蝦夷」の定義を行なっているのである。「蝦夷」とは「東夷」の中の「日高見国」の人々のことであり、彼らは男女とも椎(つち)の形に髪を結い、また文身(いれずみ)をするという風習をもち、そのひととなりは勇猛であるという特徴がある、というわけである。そしてこの日高見国の人々を「蝦夷」と言う、という定義は、資料7においても確認することができるであろう。ここでも「蝦夷」は、東国の中の日高見国の人を指していると考えられるのである。

 他方、資料8の景行四十年紀の「夷」は、先述のように人を指し、「東夷」とは、「東方の未開人たち」というような意味で使われている。しかしここの「夷」もまた先と同じに訓まれるべきであり、「夷」は「ひなびと」の意味で「ひな」と訓まれ、「東夷」は同じく「ひと」の意味で「ひがしのひな」もしくは「あづまのひな」と訓まれるべきであろう。

 しかし問題は、ここでなぜ「ひな」に「夷」の字が用いられているかということであろう。その答えは、多くの人が考えるように、『書紀』のこの条が、「東夷」という中国の夷民観の伝統に則って記されているから、ということになるであろう。高橋富雄氏もその見解である(p.18)。しかしその場合にも、「夷」字が和語の中でどのように理解されるか、という問題が残るであろう。この「夷」字は、しばしば、「大」と「弓」に分解され、「大弓をもつ人」の意味だと解されている。高橋富雄氏もこの解に従い、「夷」字は、和語では「ゆみし」であり、また「えみし」であると説く(p.18,p.62)。しかしこの字解は正しいのであろうか。白川静氏は、その『字統』の中でこの「夷」字を論じ、「ゆみし」とする字解は、その「平らかなり」というその訓義と一致しないと疑問を呈している。そしてその金文の字形が、「いくらか腰や膝をまげた人の側身形にしるされており」、それは「尸(シ)」字と同じであると指摘する。そしてそれはうずくまるような夷人の坐りかたを写したものであると説く(5)。わたしもまたこの「夷」字の字解については白川静氏の見解に従いたい。そして注意して見るとき、『書紀』においても「蝦夷」には弓矢の名手というイメージが伴うが、「夷」には弓の使い手というイメージは乏しいのである。例えばこの景行四十年紀においても、矢を束ねた髪の中に隠していると言われるのは、「夷」ではなく、「蝦夷」なのである。また雄略二十三年八月紀においても「蝦夷」の、弓術に大変たけたさまが描かれている。

 

◆◇◆ 「蝦夷」小考

 しかし、さらなる問題は「蝦夷」である。この「蝦夷」の語を、高橋富雄氏は、五世紀末から六世紀初の頃に、毛野国に御諸別王らのヤマトに親近的な毛人の王国が建てられるとともに、毛人が、「東の夷人(ゆみし)たる毛人(えみし)」(p.63)という美称に転じ、それと同時に、その勇者「えみし」たる「毛人」とはっきりと区別された蔑称として、「えびす」と訓まれるべき語として登場してきたものである、と説くのである(pp.62-65)。

 しかしこの高橋説は、先に見たように、旧唐書を顧慮したとき、その「毛人」論に少なからぬ疑問があり、わたしとしてはそれをそのまま受け取ることには躊躇せざるをえないのである。しかし今わたしは、この高橋説に代わる十分な代案をもっているわけではない。そこで以下、新しい「蝦夷」説を起こすための幾つかの方向を述べて、ひとまず本稿を終えることにしたい。

 まず、この「蝦夷」という語は、管見の限り中国には存在せず、これは和製の語であると考えられるであろう。そして記紀のおける「蝦夷」の語の使用の実際を、それぞれ『古事記』『日本書紀』の編集時期にまで引き戻せば、「蝦夷」の語の使用の最古の例と見なしうるものは、人名における「蘇我蝦夷」の例と、そして斉明五(659)年紀に載る「伊吉(いき)連博徳(はかとこ)書」におけるものということになるであろう。しかしこの二つのうち、「蘇我蝦夷」の場合は、国家的な検閲を経ない『上宮聖徳法王帝説』に「蘇我毛人」と記されているからには、『書紀』編集以前には「毛人」と記すことが普通であった可能性が高いであろう。ちなみに、この蘇我毛人の場合の「毛人」を、今わたしは、高橋富雄氏の説にこの限りで従い、「えみし」とよむべきものだと考えている(pp.49-51)。

 しかし、斉明五年紀に載る「伊吉(いき)連博徳(はかとこ)書」には、まさにこの「蝦夷」の語が、中国において発音された可能性が見いだせる。「博徳書」によれば、斉明五(659)年の遣唐副使、津守(つもり)連吉祥(きさ)たちは、連れていった「蝦夷」の男女二人を見せつつ、唐の皇帝高宗と「蝦夷」の語を使って会談している。そして高宗みずからが「これらの蝦夷の国はどの方にあるのか」とか、「蝦夷には何種あるのか」と尋ね、それに副使が答えているのである。この博徳書の「蝦夷」記事が改筆によるものでないとすれば、「蝦夷」の語は中国で使われ、中国でも通用するものであったことになるのである。あるいは筆談のようなことも交えられたであろう。「蝦夷」の字が、筆で記されて示された、ということもあったであろう。「夷」は周知の語である。そしてそれに冠せられる「蝦」字は、ガマガエルかエビを表わす語である。高宗皇帝はその字と連れられてきた男女を見て、得心するところがあったのだろうか。そしてそのとき、高宗は「蝦夷」を何と発音したのであろうか。それは間違いなく「カイ」に近い音であったことだろう。そしてわが国の副使らも、同じくそれを「カイ」に近い音で発音したことであろう。

 こうして「蝦夷」の語の最初の、確度の高い使用例が「カイ」という音によってなされたと考えうるとすれば、そのことはわたしを松浦武四郎が「天塩日誌」に記した「蝦夷」説におもむかせるのである。松浦は、北エゾの地でアイヌのことを「カイナー」(女子は「カイナチー」)と呼ぶのを耳に留め、また山中のヲクルマトマナイの地で同じく「カイナ」と呼ぶのを聞き、疑問に思い、宿家のアイヌの古老アエトモに尋ねた。すると古老は、「カイとは此国に産れし者の事」と答えたのであった(6)。そしてさらに、平地の方では和人の言葉に慣れて呼びやすいように「アイノ」と呼ぶようになったが、深山の村々ではまだ和語と接していないので「カイナ」と呼ぶのであるということを聞いたのであった。そこから松浦は、官人の前に進み出るときのアイヌたちの、腰をかがめ足を引きずる姿が、エビの姿によく似ていることを思い出し、そこから一つの非常に大胆な仮説を思いつくのである。それは、かつて「蝦夷」が唐に連れて行かれたとき、その唐の国が「蝦夷」の字を作り、「カイと」呼称したのが始まりではないか、という説なのである。

 わたしは斉明五年に唐に連れられて行った「蝦夷」が北海道のアイヌであるとは考えないのであるが、官人の前に進み出るとき、エビのように腰をかがめて進むといった姿勢を取る東北「蝦夷」というものは充分考えられ、そうした「蝦夷」の姿を見て、高宗皇帝みずからが彼らを「蝦夷(カイ)」と名づけた、ということはこれまた十分にあり得ることだと考えるのである。そして遣唐使らはその話を持ち帰り、朝廷に伝えるのである。

 そうであれば、「蝦夷」の語はまず「カイ」として唐土において誕生し、そしてわが国においては『書紀』編集の段階において、「夷」に当てられていた概念のうち、「夷」をさらに強め、より未開で、より強力かつより反抗的な者たちを貶めて言う言葉になっていったのである。そしてその訓みは、高橋富雄氏の説くように、養老訓にも見える「えびす」であったことだろう。

 他方「毛人」の語は、人名にしばしば用いられていることからして、中国的な「細くて小さい」というイメージを脱却し、美称として強者(つわもの)のイメージとともに用いられるようになっていったと考えられる。そのとき、この「毛人」は神武紀の強敵「愛瀰詩(えみし)」の概念と近づき、結局は、高橋富雄氏の説くように、「えみし」の訓で読まれるようになっていったものだろう。そして『書紀』は、その編集過程で、はじめ「毛人」で綴られていた幾つかの箇所を、すべて統一的に「蝦夷」に書き改めたのであろう。それはやはり反抗者を貶めるためである。「蘇我毛人」もこの段階で「蝦夷」に改められたのである。そしてただ一ヶ所、敏達十年紀の注が残ったのである。

 ここで最後にわたしは、とりわけ「蝦夷」を「えみし」と訓むという説を保留することにしておきたい。それは一方で「蝦夷」が、「愛瀰詩(えみし)」に比べ、はるかに貶められている言葉に思えるからである。『書紀』の編集の段階で、「蝦夷」から、勇者につながるイメージは、すべて取り払われたであろう。しかし他方、「蝦夷」を「えみし」と訓むという説は今日も大きな広がりをもっており、わたしはそれを支える諸説をこれから十分に検討したいと思っているからである。

 

 

  

(1)白川静氏の『字統』は、「悦」の語意について、およそ、「神気が降って、神とともにある恍惚とした状態において、神意にかなったことのよろこびを表わしている語だ」という風に説明している。わたしの論はこの白川氏の語釈に従っている。

(2)詳細については、中路正恒「三輪山・蝦夷・天皇霊」、京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第3号、一九九七年、を参照していただければ幸いである。なおこの論考の論述の大半は、わたしの著書『古代東北と王権』(講談社現代新書1559)に収められるはずである。

(3)この問題についても、わたしの著書『古代東北と王権』(講談社現代新書1559)を参照していただければ幸いである。

(4)工藤雅樹『日本の古代遺跡15宮城』一九八四/一九九四、保育社、二〇〇頁。同、『古代の蝦夷』、一九九二年、河出書房新社、三十六頁以降参照。

(5)白川静『字通』一九九六年、平凡社、も同時に参照。

(6)吉田武三編『松浦武四郎紀行集 下』一九七七年、冨山房、二五七-二五八頁。

 




高橋富雄氏の説の紹介があります。
エミシ・エビス・エゾ


このテキストは同じタイトルで『東北学』第4号(作品社、2001年)に発表されたものとほぼ同一のものです。

この度「蝦夷」についての議論の発展を願ってホームページで公開することにしました。

これを足がかりに「蝦夷」についての議論を前進させていただければ幸いです。


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