ダムに二度沈むマタギの村

――青森県中津軽郡西目屋村砂子瀬/川原平――

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Since 25 May 2002

中路正恒

 


砂子瀬集落、2002年9月27日撮影


はじめに

 この調査研究の正式なタイトルは「東北の地域づくりにおける風土に関する調査研究」というものである。この研究において調査地を選ぶにあたって、わたしは主として二つの理由からこの西目屋地域を選んだ。一つは、それが津軽の地であるということである。わたしは十数年来、津軽の文化にとて大きな関心をもって津軽に接してきていた。しかしわたしが関心をもっていたのは、主として岩木山を信仰の中心にする民俗宗教的な文化であった。そういうものとして津軽の地を何度も訪れ、細かく各地を見てまわろうとしていた。四年前には、お山参詣の人々に同行し、夜に岩木山神社からお山に登り、ご来迎を仰いだこともあった。そかしそうはいっても、津軽の人々の日常生活の中にまでは、なかなか入り込むことはできず、またそういう接し方もしていなかった。わたしが今回西目屋地域を調査地として選んだのは、津軽における人々の日常的な生き方の内側に目をわかちもち、生活する人々の目を通して見える津軽の地の風土性に接するための好適な機会だと考えてのことであった。それによって津軽の風土は、実際の厚みをもって見えるようになるだろうと期待された。そのような調査は、今わたしが岐阜県の飛騨地方で続けている聞き書き的な調査と方法的に似たようなものとなり、またそこで得られる知見も互いに増幅し合うものになるだろうと期待された。そのようなことがわたしが西目屋地域を調査地とした第一の理由であった。

 そして第二の理由として、右に述べたことと関連することではあるが、西目屋地域には狩猟文化の伝統がまだ残っていると期待された。西目屋地域は、秋田県の阿仁や岩手県の沢内などと並んで、わが国において有数のマタギの里として知られており、その伝統も十分に長いものと考えられている。たとえば西目屋の代表的なマタギ集落である砂子瀬のマタギについて、その社会性や儀礼伝承については、森山泰太郎氏の研究を始めとして幾つかの優れた研究が存在しているが、しかし東北のマタギ集落の相互の関係を調べるという観点からの西目屋マタギの研究はまだ十分なされているとは言いがたく、また狩猟技術や狩猟道具の細かな差違やその気候風土との関係に配慮した研究もまだ十分になされているとは言いがたい。わたしは今、飛騨地方の狩猟文化について一定の研究を進めており、穴熊狩りを主とする飛騨地方の熊猟と、巻狩りを主とする東北地方の熊猟とを対比的に研究することによって、相互の存立の要点はどこにあるのかということを突き止めたい、という希望をもっている。砂子瀬、川原平などのマタギの方々に話をうかがえれば、このような研究も前進するものと期待された。狩猟文化を中心にした山村文化の比較的研究、そのことが西目屋を調査地に選んだことの第二の理由であった。

 しかしながらこのような研究は、はじめから困難が予想された。というのも、夏休みの間に調査に入れなかったために、日常の職務からして調査に入ることのできる日が事実上極めて短期間に限られ、しかも京都から津軽にでかけるにあたっては、経費的にも実際に調査に入れる日数は数日に限られてしまうのであった。実際、冬季になると調査も困難であろうということから、可能な日程として、わたしは調査日を十一月一日から五日までと限らざるをえなかった。そして短期間における調査の効率をあげるために、わたしはひとりの助手とともに調査を進めることにした。助手として山国飛騨の出身の妻紀子に、十一月三日と四日、調査を手伝ってもらった。実際、話を聞くにあたっては、妻とともに聞く方が、話し手にはじめから安心して話してもらえるというという利点があり、その利点は砂子瀬での調査の初日である十一月三日からすぐに感じることができた。また、十一月四日に妻が試みた、女風呂で地元の女性から話を聞くというような調査方法は、女性でなければできないやりかたであった。そうして妻の協力を得て、短期間としては効率的な調査ができたが、しかし集落のひとに話を聞くということでは、この短期間では当然限界のある話であった。

 また、宿泊地としては、弘前市の施設と西目屋村の施設を利用したが、その西目屋村内の施設からにしても、たとえば砂子瀬集落に行くにも自動車を利用せずにはほとんど身動きが取れず、この調査の二日目からはレンタカーを利用することにした。

 

調査地の概要

 わたしが調査地に選んだ青森県中津軽郡西目屋村は、平成七年のデータによれば、世帯数六一五戸、人口二一三七名の村である。

この数字は、昭和四十年の統計が、世帯数九八七戸、人口五〇三九人と比べてみると、この二十五年間に世帯数が三七二戸、人口が二九〇二名減少していることになり、この間の世帯数の減少率が約37・7%であるのに対して人口の減少率は57・6%に達し、世帯あたりの人口の減少が著しいことがわかる。つまり、昭和四十年には一家族が平均五・一名で構成されていたのに対し、平成七年においては平均三・四七名で一家族が構成されるようになっているのである。これは三世代の同居家族がきわめて少なくなったことを意味しているのである。

 また西目屋村の場所は、津軽地域の西部に位置し、岩木川の源流部をなしている。この位置は西目屋村の運命に少なからぬ影響を及ぼしている。岩木川の水は遠く十三湖にそそぎ、そこから日本海に流れ出るが、西目屋村の岩木川源流域は、平川、浅瀬石川と並んで、この岩木川の水の約三分の一を供給しているのである。そしてこの岩木川の水は、一方でその流域に広がる津軽の穀倉地帯の命運を握っているとともに、他方その川の漁業の命運も握っているのである。そしてまた、その下流には弘前市・五所川原市などが広がり、岩木川源流はある意味でそれらの町の人々の飲料水を司っているとともに、洪水などの問題において、その流域の人々の生命にも少なからぬ影響力をもっているのである。

 このような位置のために、西目屋村は、その下流域の津軽地方の問題の多くに配慮をしなければならないことになるのである。

 その一つの表われが昭和三十五年の目屋ダムの建設である。目屋ダムは、治水・利水、そして発電などを目的として建設されたが、それは結局、公開講座「岩木川〜みず・ひと・しぜん」の成田静雄氏の報告記録によれば、「一〇〇年もつといわれたダムが、わずか四十年経たないうちに、ダムの容積の七割も八割も堆砂が進んだ」のだといわれる。そして今や「目屋ダムの容量不足」が明らかなこととして言われるようになっている(津軽ダム工事事務所「津軽ダムの概要」)。しかし、目屋ダムが建設されたときには、西目屋村の砂子瀬・川原平の両集落はダムの下に水没し、そこの人々はみな移転しなければならなかったのである。

この時の移転について、佐々木幹男氏はこう語っている。「目屋ダムができる時に、『米一握り運動』が起きた。どういう事があったのか。洪水で困るのは下流の人であり、砂子瀬の人はダムができても関係ない。ダムのために彼らは移転しなければいけない。代々ずっと住んでいたところを離れなければいけない。砂子瀬の人は移転に反対したのです。でも流域の人は何とかして、洪水をなくしたい。そこで、どういう事が起きたか。砂子瀬の人は我々のために移らなければいけない。だからみんだで一握りの米を、砂子瀬の人に、気持ちとして出そう。これが一握り運動です。人によってはお金を出したという方もおります。砂子瀬の人は、反対はしたのだけれども、最後は集団で一斉に判子を押した。その時の話があるのです。いろんな人が行っても砂子瀬の人は移転にはウンと言わなかった。副知事も何回か行っている。行ったけれども、馬橇ごとひっくり返されたこともあったと聞いています。砂子瀬の皆さんが一斉に判子を押したきっかけは、一握り運動です。下流の人は宝刀にダムを作って、洪水をなくしたい。砂子瀬のみなさんには本当に申し訳ない事をするけれども、これが気持ちだと言って、津軽平野の皆さんは一握りの米を出した。・・[中略]・・津軽平野に住む全住民を対象にした運動でした。この一握り運動で集めた物と気持ちを砂子瀬の皆さんに持っていったとき、砂子瀬のの皆さんは集団で一斉に判子を押したのです」と。砂子瀬の人々は、おそらくそのような経緯で、移転を承知したのであろう。しかしその目屋ダムが、建設して四十年も経たぬうちに、公然と容量不足を指摘されるようになったのである。そして実際、最近では、平成九年五月八日の洪水のように、目屋ダムが目一杯力を出しながらも洪水による農産物被害を出したこともあるのである(注1)

 しかしこのような目屋ダムの容量低下には、土砂の堆積によるところが多いようにみえる。西目屋村のホームページはそれをこんな風に記している(2001年2月19日。http://www.vill.nishimeya.aomori.jp/siru2.html)。「昭和三十五年に完成した目屋ダムは、上流域の森林伐採や道路開発等による土砂流入で貯水能力が低下したため・・・」と。この記述には、かつての施政に対する反省が色濃く滲み出ているであろう。というのも、ここで言われるダム「上流域の森林伐採や道路開発等」というのは、青秋林道の「大川林道」部分の工事のことを言っているに違いなく、この「大川林道」は、鬼頭秀一氏の指摘によれば、大川沿いの民有林を林業資源として利用するために必要なものでありながら、独自にそれを建設する予算がなく、そのために村としては「青秋林道の『大川林道』の部分の建設予算を獲得するためにだけ、青秋林道の建設を推進する必要がどうしてもあった」(『自然保護を問い直す』一八八頁)という事情で、森林を伐採して、道路開発が進められたものだったからである。

 わたしが西目屋村を訪れたとき、迂闊にもわたしは、ここで今新しいダムの建設準備が進んでおり、砂子瀬・川原平の人々が再び住居の移転を迫られているということを知らないでいたのだった。一生の間に、ダム建設のために二回も移転を強いられる人々が砂子瀬にはいた。人々は皆、みずからの重たい運命に心を重くしているように見えた。今度の移転は、砂子瀬・川原平の多くの人にとって、生活のスタイルを大きく変えざるをえないものになるはずである。というのも今度の移転は、川の近くから百メートルほど上の山腹へといった移動ではなく、弘前市若葉一丁目地区とか、岩木町一町田地区とかいった村外か、あるいは村内の場合にも、田代地区という、津軽平野にそのままつながるような農村地区への移転だからである。田代地区では、砂子瀬のように、山に日々接しながら生活を送るということは困難になるであろう。いわば生活スタイルを根こそぎ奪われることになる人が多いであろう。

 砂子瀬でわたしが話を聞くことのできた人は、十人に満たないくらいではある。しかしその誰の口からも、移転を望む人がいるという話は出なかった。若い人でさえ、町へ出る事を喜ぶと単純に言うわけにはゆかないようであった。

 最後に西目屋村の地勢について、そのホームページが語ることを紹介しておこう。

 本村の基幹産業は農林業である。とはいえ、三方が山に囲まれ平均標高が182mと高地のうえ、積雪寒冷地等の立地条件から土地生産性は低い状態にある。さらに、農用地面積は372haと村面積の1.5%と基幹産業としては少ない現状にある。しかし、耕地は少ないが特性を生かす自然がたくさんあり、風土と気候を生かした新しい農林業が着々と育ちつつある。

 農地面積が、村面積のわずかに一・五%なのである。 そのわずかな農地は、津軽平野に連なる地域にほぼ限られるであろう。リンゴの果樹園はさらに奥の集落にまでつながるが、湯ノ沢橋より上流のところではさらに雪が深くなり、リンゴの木も生育しないのである。砂子瀬・川原平の二集落は、鉱山の町であり、またマタギ集落であった。わたしの関心はその二集落に向いたが、今回の調査ではほとんど最初の話をする、というところまでしか入ってゆくことはできなかった。次にその調査の概要を記すことにしよう。

 

調査の概要

 ここで調査のおよその概要を、日程を追って示すことにしよう。

 わたしが京都を発ったのは十一月一日水曜日の早朝であった。八時四十分伊丹空港発のJAS便に乗り、途中異常もなく十時十分ごろに青森空港に着いた。それから空港バスに乗って弘前バスターミナルに着いたのは十一時を少し回ったころだった。バスターミナルで西目屋村役場にゆくバスを確かめ、田代の公民館で西目屋村教育委員会、社会教育指導員の笹谷柾四郎にお会いし、わたしの調査の主旨をご説明してご指導を仰いだ。マタギ関係資料を紹介していただくとともに、翌二日にマタギ、工藤光治氏にお目にかかる手配をしていただいた。そして夕方、その日の宿泊所である「もりのいずみ館」に送っていただいた。

 十一月二日(木)は、午前中に宿所まで訪ねて下さった工藤さんに少しお話しをしたが、工藤光治さんは大変お忙しい状態で、代って猟友会長の工藤勇さんと、副会長の工藤寅四郎さん、および西津軽郡の赤石マタギの後継者である方を紹介していただいた。そして本日『砂子瀬物語』の著者である森山泰太郎氏とダムの工事事務所でお会いする予定になっているということをお聞きした。

 その後、公民館に笹谷氏をお訪ねして、生活道具を色々ご説明していただくとともに、蓑作りをしている工藤健治さんと、箕づくりをしているという西沢忠一さんを紹介していただき、翌三日にお目にかかる手はずを整えていただいた。またそれとともに、近くに見えておられるという森山氏にお目にかかりたく思い、笹谷氏にご紹介いただいた。森山氏は日本民俗学会の重鎮であり、津軽民俗学の泰斗と言うべき方である。

 森山氏には西目屋での調査の基本的な心得をお教えいただくとともに、弘前に帰るバスに同行させていただいて、折口信夫や柳田国男についてのお話しをうかがい、また氏が柳田の「稗の未来」に感銘して、ガリ版で複製を作り、友人に配ったりしたという話をお聞きした。また、当時弘前にいらした秩父宮擁仁親王のことをお聞きしたりした。森山氏の話では、岩木山に登拝するという歩兵の訓練法は、秩父宮がする以前から第三十一聯隊ではなされていたということだった。

 その後弘前でレンタカーを借りる手続きをして、弘前で妻を迎えた。弘前泊。

 十一月三日(金)はまず西沢忠一さんお目にかかり、今も箕づくりをしている三上秀五郎さんを紹介していただくが、三上氏は今喉に傷を負っており、話をうかがうのは春になってからということになった。

 その後田代字山科に工藤健治さんを訪ね、蓑作りについてお話しを聞き、少し実演を見せていただいた。

 それから暗門にある「白神山地ビジターセンター」を訪ね、そこで石田武四郎さん、對馬恵子さんにお会いして炭焼きのことを中心にお話しを聞いた。

 夜は工藤勇さんに電話をかけ、お会いする日をとっていただけないかをたずねたが、無理ということであった。また工藤寅四郎さんにも電話で同じようなお願いをしたが、時間がとれないとのことであった。しかし電話で色々親しくお話しいただいた。

 十一月四日(土)ははじめに砂子瀬集落に行き、誰彼となくそこにいる人に声をかけ、雑談をしたり、村の生活の様子を聞いたりした。中で佐々木安信さんと佐藤武雄さんには少し長く話をうかがうことができた。その後、前日焼き始めた炭の取り出しの様子を見学するために、再び暗門の「白神山地ビジターセンター」に行き、石井さん、對馬さんに話を聞いた。その後、ビジターセンターで紹介していただいて、砂子瀬集落の美山湖温泉に行き、そこの奈良千義子さんと佐藤美和子さんに村の生活について話を聞いた。

 その後、妻を青森空港まで送り、夜は弘前に宿泊した。

 十一月五日(日)は、一昨日、田代の工藤健治さんから聞いた黒石市の伝承工芸館に、熊沢一さんの作る蓑をみせてもらいに行ったが、時間の余裕がなく、熊沢さんから首部の折り返しの技法についてお聞きすることはできなかった。この日は飛行機が取れず、午後二時ごろに弘前を発ち、バスと新幹線を乗り継いで京都に戻った。

以上が調査の進め方のあらましである。

 

聞き書き調査

一.笹谷柾四郎さん

わたしが最初に話しをお聞きしたのは西目屋村教育委員会の笹谷柾四郎氏ということになるだろうか。公民館の一コーナーに設けられたいわゆる「民俗資料」としての生活道具について質問に応じて教えてくれた。その幾つかを箇条書きにする。

・蓑のことをこちらではケラと呼ぶ。ケラの材料は、藁を使うものもあり、またこちらでマンダと呼ぶシナノキを使うものもある。普通は藁で作るという。そして藁でも、先端の一節であるメゴを使って作るという。ちなみに、飛騨地方では藁の先端の一節をニゴと呼んでいる。それらは言葉として関連のある呼び方であると考えられる。

・また、同じく編んで作る道具にコダシと呼ぶものがあり、それは山菜とりに行くときに背負い、弁当を入れたり、採った山菜を入れたりするのに使うものだという。それはものを「小出しにする」のに使いやすいものだからその名で呼ばれるのだと言われているとのことである。材料は藁であったり、マンダであったり、ブドウ蔓であったりする。この同じような道具を、飛騨地方ではテゴとかテンゴとか呼ぶが、この呼び名には関連はないように見える。(ただしテンゴが「手籠」の転化したものであるとすれば、多少似たような発想びよる命名があるのかもしれない。)わたしが多少驚いたのは、こちらではコダシが今でも実用品であり、店で販売されているとともに、材料としてビニール紐も用いられていることであった。ちなみに、工藤光治氏のもつ自然の知識を、斎藤宗勝、牧田肇、瀬上恵子の三氏がまとめた「西目屋村砂子瀬の一人のマタギが有する植物を中心とした自然の知識」(以後「自然の知識」と略称する)によれば、鉄砲を担ぐときはヤマブドウの皮製だとすれて鉄砲に傷がつくので、藁製ののものを使用するのだそうである。

・箕については、村に作っている人がいて、弘前市の稲作をやっているところに売りに行ったということであった。こんなところに、津軽平野から付かず離れずのところにある西目屋村の独特の位置があるように感じられた。西目屋の箕は横目にはイタヤを使い、縦目にはフジの皮を使う。そして所々に装飾として褐色のカバの樹皮をまじえる。取っ手となる枠のところに軸には二本の竹を曲げて使い、それをイタヤで巻く。折り重なりの所は縦目・横目ともイタヤで編まれているが、一番難しいその部分の作り方は見ただけでは分からなかった。なお、箕作りについては、十一月三日に杉ヶ沢の西沢忠一さんのところでその実物を見せてもらい、また西沢さんに箕作りをしている三上秀五郎さん(中畑和泉在住)を紹介していただいたが、三上さんは、箕作りをしている作業のなかで喉に材料の一部が刺さり、今ははっきりと声が出せない状態であった。近いうちに手術をして取ってもらう予定だとのことだったが、おそらくはイタヤの繊維がトゲのようになって喉に刺さったものであっただろう。箕作りの作業にもそのような危険が伴っているということは、これまで予想もしたことのないことであった。なお、杉ヶ沢・中畑などの地は田代よりさらに下流の、津軽平野につながる平坦地であり、今日、平地は水田となり、山にはリンゴ畑が続いているところである。

・西目屋村の公民館にはいわゆる「目屋人形」の大きなものがが飾られていた。それはかすり木綿の仕事着に、折った風呂敷を頬かむりにして、背に二、三俵の炭俵を負った女性の人形である。これは今日、西目屋村を代表する郷土工芸であるが、この姿は砂子瀬の女性をかたどったものである。砂子瀬の女性は、男たちが焼いた炭をこの格好で田代まで運び、そこで米を買う金を得ていたのだそうである。炭焼きは砂子瀬の重要な産業の一つであり、また田代は山村の産物を買い取り、消費物資や町の商品を山村の人々に売る交易地であったのである。砂子瀬から田代までの十二キロの道のりを、砂子瀬の女たちはこうして毎日のように往復したのであった(この項、森山泰太郎『砂子瀬物語』参照)。

・また、炭の材料であるが、それにはナラが一番よく、次いでイタヤカエデがよいが、ブナは柔らかい炭しかできないということである。そして有名な備長炭の材料となるウバメガシのことを尋ねてみたが、ウバメガシは聞いたことがないということであった。ウバメガシが照陽樹であるからには、この質問は愚問であったことになるであろう。

 

二.工藤光治さん

 わたしは今回の調査のかなりの部分を西目屋地方の狩猟文化の理解に向けていたので、工藤さんからほとんどお話しを聞けなかったのは残念なことであった。しかしその中でもとりわけ聞きたいことは二つであった。一つは目屋のマタギの間ではクマの膵臓はどうしているのか、ということであった。このことを尋ねたかったのは、わたしが聞いた飛騨の猟師の話では、膵臓だけは人が食べず、それで山の神様への奉げものにしているのだということだったからだ。その同じ答えを、飛騨で、直接間接を含めて三人の猟師から聞いていたのであった。そしてマ現代のタギ研究の第一人者、田口洋美さんの著書にも、このクマの膵臓の問題はきちんと触れられていなかったのである。この疑問に対する答えは、しかし「自然の知識」の中に少し記されていた。膵臓はビキと呼ばれるが、それは「人は食べないので、ここだけは犬に食べさせる」ということであった。当然であろうが、人が食べないという点では飛騨地方と共通しているのであった。

 工藤光治さんにできれば尋ねたかったもう一つのことは、この津軽地方では、クマの穴熊猟はどうなっているのか、ということであった。それは、そもそも穴熊猟が行われているのか否か、行われていないとしたらそれはなぜか、ということであった。一つに、雪深い地方では、実際に冬眠期に熊穴にまでたどりつくことができない、ということがあり、そのために穴熊猟が行われないということがあるが、そのへんの問題がこの地方ではどうなっているのか、ということがわたしの大いに知りたいことであった。

今、工藤光治さんは「白神マタギ舎」というグループをつくり、マタギ文化を後世に残したいという願いをもって、エコツアーのガイドをしているということであった。わたしが訪れた十一月初旬はまさにそのガイドの仕事で手一杯の時期であったのだった。次に来るときは、水没する砂子瀬の村の人々から話を聞くことと、目屋のマタギ文化のことだけに焦点をあてて来たい、と思ったのであった。

 

三.工藤健治さん

 蓑作りをしておられる工藤健治さんは田代字山科に住んでおられる。役場のあるあたりから車で十分ほど奥に入ったところである。そこは山の迫った所であり、田はなく、そこで工藤さんは主にリンゴ畑を営んでおられるように見えた。工藤さんは十八歳の時から、冬場にする藁細工として蓑作りを始めた。例年ひと冬で十二枚を作っていたという。材料にするのは、藁の先の所のミゴと呼ばれる部分である。藁を水につけ、凍らして、そして叩いて丈夫でしなやかなものにする。そうしてミゴでつくった蓑のことを、ここではミゴケラと呼んでいる。しかしミゴケラを作るためには材料がたくさん要るという。しかし米を作っていない家では稲藁を外から調達しなければならない。

 ビニールカッパが普及して以来、蓑は雨具としての実用性をほとんど失ってしまったようにみえる。そうして今、工藤さんが作るのは、工芸品としての小さな蓑だ。その工芸蓑を工藤さんはマンダ(シナノキ)の皮で作っている。そして今使っているマンダ材そのものも、父親から引き継いだものなのだそうである。よいマンダ材を作るためにも長い年月がかかるのである。

 そのマンダの皮を使った蓑(ケラ)作りを、工藤さんは実演して見せてくれた。蓑作りのためには、薄板製の、型紙のようなものが必要である。割竹に紐を弓のように張り渡し、その紐を型紙にあててマンダを縛り止める場所を定めるのである。その紐の所が首に当たるところになり、工藤さんの蓑作りは首の所から作り下ろしてゆくやりかたになるのだ。肩にあたる部分と背になる部分とでも作り方に違いはなく、肩の部分は短く揃え、背蓑の部分は長い材料で作るのである。そうして裏になる部分と表になる部分を独立に作って、それを結び合わせるという作り方をするのである。マンダそのものが丈夫な材料であり、そうしてマンダで作られた蓑もすごく丈夫なものであるように見えた。

工藤さんは研究熱心な方で、黒石市の伝承工芸館でみたマンダケラの首の部分が重ね合わせたものでなく、折ったのであることにとても大きな刺激を受け、自分もそのやり方を習得したいものだと言っていた。以前わたしは飛騨高山で、有名な蓑の作り手である藤井新吉さんに、蓑作りを見学させてもらったことがる。藤井さんも、最後の首折りの工程は特別大事な工程としているようであった。藤井さんの蓑は藁蓑であるが、裏表分を一枚に作っておいて、最後にそれを二つに折るというその技法は、マンダケラにも応用できるものに思えた。工藤さんのますますの技術的発展を期待しておきたい。

 

四.砂子瀬の人々

 砂子瀬では多くに人に話を聞いた。十一月初めの砂子瀬の山々は紅葉でとても美しく、とくにその独特の朱の色は才能のある画家に特別な霊感を与えるものではないかと思えた。わたしはただ感嘆しているばかりであった。

 庭に菊を植えている家があった。それは食用菊なのか尋ねたくなって、表で雪囲いの準備をしているご主人に話を聞いた。佐々木安信さんは尾太(おっぷ)鉱山の閉鎖後も鉱山から溶けて流れ出る鉱毒を監視し、必要に応じて毒性を中和する薬品を加え、下流の水域の水質を維持する仕事をしている、ということであった。佐々木さんは砂子瀬の自然の美しさを語っていた。一番美しいのは新緑の頃で、一瞬黄葉と同じような色になるときがあるのだ、と語っていた。雪は二メートルほど積もるが、それがあるから春はなおのこと美しいのだ、とも語っていた。そしてこのあたり、橋から上は、リンゴはやらない。雪が深くて枝が折れてしまうからだ、と説明してくれた。砂子瀬の人々の大半は、林業か保険の仕事をしている、と教えてくれた。そして村では今年(平成十二年)中に一軒は移転をはじめ、来年のうちには大半が移転してしまう、と話してくれた。佐々木さんも、居られるものならここにずっと住んでいたいということだった。佐々木さん自身は二回目の移転になるのである。そして今度の移転では、緊縮財政の折りから、補償金もほとんど出ないのだ、と言っていた。

 前日道路わきでみかけたサルの話をした。サルが人家の近くまで出るのは、人が山を荒らしてしまって、山に十分な食べ物がなくなってしまったからで、サルが悪いわけではないのだ、と語っていた。

 庭の菊は、食用ではなく、観賞用だということであった。

 道路から数十メートル山の手の方に、庭先で作業をしているような人の姿が見えた。犬に吠えられながらも近づいて、話を聞いた。佐藤武雄さんという方だった。佐藤さんはまな板を大きくしたような台の上に大豆をのせ、木槌で叩いて、莢から豆を出していた。それはとても気持ちよさそうな作業で、木槌で叩くと、思うように豆がこぼれ出てくるのである。ついついその作業に見とれていた。この快適な作業も、多分豆が充分よく陽に干されているからできることなのであろう。春木を積んだ庇の先に拵えられている稲架のような横木に、大豆が束ねて干してあった。こうして莢から出した豆を、殻などから、以前は箕を使って取り分けていたが、今は網を使っている、とのことだった。話を聞くと、この辺は、サルやシカやクマがよく出るということだった。クマはスイカを狙って出てきて、明日収穫しようと思っていると、その晩に来てすっかり食べられてしまうこともあるのだ、ということだった。しかしその語り口には憤激したようなところは少しもなく、むしろそういうクマを、かわいい生き物だと思っているような様子がうかがえた。

 前日、石田武四郎さんに聞いて少し覚えた木の違いについて、話をきいてみた。炭にするにはナラの、げんこつくらいの太さで、伐って一週間から十日ぐらい経ったのが一番よくて、イタヤはあまりよくない、というような話だ。お聞きしていると、木のことにはとてもよく精通しているのが分かった。アブラコは薪にはもってこない。イタヤはもろくて、長い炭がとれない、等々。よく聞くと、佐藤さんはこの集落で一番最後まで炭焼きをやっていたのだという。十八歳からはじめて、炭焼きを三十年ばかりやっていて、今は七十歳を越えた、ということだった。窯は一時間も二時間もかかるところに作っていた。窯を作るための土や石は、当然のことながら背負って運ぶのである。また、ドアにする石を見つけるのがたいへんだ、ということも言っていた。炭焼きはこの村の大きな収入源であったのだろう。村のかなりの人が炭焼きをやっていたのだ、とは後で聞いた奈良千義子さんの話だった。この村では、ほとんど誰もが山の木のことに精通しているのである。

 佐藤さんも佐々木さんもそうなのだが、この村の人は年齢がきちんと顔や身体に刻まれている、という気がする。五十代の人には五十代の達成があり、七十代の人には七十代の達成があり、その達成の尊さが、その姿形にきちんと刻みこまれている、という感じなのだ。都会にありがちな、若く見えすぎる老人というのは、この村にはいないようにみえるのである。

 また、奈良さんは、村の男ならほとんど誰もがクマの巻狩りに加わったことがあるのだとも言っていた。この村で命をつないでゆくことの必死さが、少し見えるような気がする。この辺ではシラと呼ばれる罠をかけてクマを獲るのは、鉄砲を買えない人だ、と石田さんは言っていた。それもまたひとつの必死さなのである。そして村の人には、他の人の必死さがよく分かっているのである。

石田武四郎さんや奈良千義子さんにお聞きした話についてはまだほとんど報告していない。それを細かく述べるのはここでは差し控えておこう。そのお二人の話は、個々の内容のことを越えて、マタギの村とはどういうものなのか、ということをよく教えてくれた気がするのである。マタギの村とは要するに、山のすべてのことに村の皆が精通しており、そして人々が山が与えてくれるすべての恵みを自分なりの仕方でしっかりと掴み、それに依って生活を営んでゆこうとする村のことなのではないだろうか。津軽ダムによってそのような村が二つ消えてゆくのは非常に残念なことではあるが、真実津軽ダムの大きな有益性というものが存在しているのであれば、そして消えてゆく村の人々の正しい納得が得られているのであれば、その消滅についてわたしが余計な口を挟む必要は全くないであろう。わたしとしては、この集落の消滅前の姿を正しく書きとどめておきたいと思うばかりである。

 


注1.私が津軽ダム工事事務所発行の説明用冊子「津軽ダムの役割」中の資料から読み取る限り、岩木川のこれまでの何度かの洪水にもかかわらず、目屋ダムがその貯水能力を100%発揮したのはこの一回だけである。この私の読み取りに誤りがある場合、専門家のご指摘がいただければ幸いです。




このテキストははじめ、『東北の風土に関する総合的研究--平成十二年度調査報告書--』
(2001年3月、東北芸工大東北文化研究センタ−発行)に
「津軽マタギの村――青森県中津軽郡西目屋村――」として発表されたものです。
今回、HTMLにするにあたってタイトルを初めの構想時のものに戻し、そして注を一つ付けました。



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