東北----多孔質の身体(Ver. 1.01i)

by
masatsune nakaji

1996年2月26日



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東北 ---- 多孔質の身体


◇森−−襞の多い空間 −− 地下茎のように道が それと分からぬところを走っている。 ◇そして洞窟もまた隠れた通路や巣穴となって、集落を連結し、 はるか彼方にまで繋がり、部族をつなぎ、時には一体となった 巨大な力として現れるかもしれない。驚くべき隣接性。 ◇そして、狼煙による伝達。結集の可能性。早池峰山から岩木山へ。 ◇「気圏の戦士」。

◇◇◆ 東北の森と山と都市

たとえば東京から東北新幹線に乗って北へ向かうと、宇都宮を過ぎ、那須にかか るころから、車窓には、森を基調とした風景が広がるようになる。この景色は終 点の盛岡までさほど変わることがなく続く。列車は折々、田や畑、そして二三軒 の家のある風景の中を走るが、それらの田や畑も、森や樹林に囲まれた、それ自 体は決して広く はないものなのだ。東北新幹線は森を基調とした風景の中を走る。私は、東北新 幹線に乗って、森の連なる風景の中を走る時、この景にはじめてこころが安らぎ 、日本に もまだ未来があるのだ、と感じることができる。日本の未来は、多分、このよう な、森のある地方が、支えてくれるのだ。工場と水田の連なる、東海道新幹線の 沿線の地帯ではなく。また、東京をはじめとする大都市でもなく。人間のこころ の、本当の安らぎは、 森や山を身近に控えたこのような風景の中にしかないのだ、と私は思う。

東北にも、決して大きくはないが、〈都市〉がないわけではない。たとえば新幹 線に乗って、決して新しくはない、赤いトタン屋根の家々が密集した景色に出会 うと、それは大きな都市の手前の、都市周辺地域の住宅地で、その後、列車は間 もなく停車駅 に着く。たとえば福島県の中心都市の一つ、郡山市へ着くのは、そんな経過を経 てである。郡山を例にとっても、東北の都市は、たとえば先端的な商品や娯楽が たやすく手に入る、といった風に、最先端を争うような町ではなく、むしろ安ら ぎの場所を多く備えた、生活のしやすい町になっている。たとえば、郡山では、 開成山公園のような、美しい自然景観と人々の楽しみとがうまくとけあった場所 が、市の中心をなし、そして市内の処所に、逢瀬公園、荒池公園など、緑と水の 快適さにみちた場所が人々に楽しみを提供している。福島市では、信夫山がその まま、市の中心をなす森山を形作っているだろう。そして、吾妻、安達太良の連 山は、町を見守るように、少しだけ離れて、控えている。ひとは、それらの山を 控えた景色を、物心のつくころから、死の床につく時まで、こころの深い慰謝と して、決して忘れることがないであろう。『智恵子抄』の中の高村智恵子にとっ て、安達太良山の上にかかる空が、なにものにも優る究極の慰謝であったように 。山形にあっては月山が、盛岡にあっ ては岩手山が、そして弘前にあっては岩木山が、そうした、人々の一生を見守り 、そうしてひとにその一生と死とを納得させる究極の〈もの〉、ひとを守護する ひとつの究極の〈霊〉、に、なっているのだ。

このように、東北の都市は、森や山とのかかわりの中に人があることの、 快適さと、ほんとうの豊かさを、忘れない。

◇◆◇ 森------果て無しの空間

ところで、「森」の本質はどのようなところにあるのだろうか? 森には木々が 繁っている。それは「林」よりも深い。私はこの〈深さ〉に、森の、林とは異な る本質が、あるように思う。そのかたわらを通る時にも、森には、一種の予感が つきまとう。その中に入る時にはなお、そうであって、その時には、場合によっ て、全感覚を領してそれが感じられることがある。その感覚とは、わたしが今、 果て無しの空間の中にいる、という感覚のことである。出口もなく、入り口も分 からない一種の迷宮、一種の異界、一種の魔界、一つの異空間の中であって、そ の空間には外がなく、また果てがないのである。一例をあげると、『日本書紀』 は、森と山の国信濃で、ヤマトタケルが、白鹿に化身して現れた山 の神を、蒜(ひる=にんにく)の玉を打 ちつけて、斃(たお)すが、しかしそのために(その神の庇護を失い)、突 然、出口のまったく分からない空間の中に投げ出されてしまう、という話 を語っている。「爰(ここ)に王、忽(たちまち)に道を失(まど)ひて、出(い)づる所を知らず」(「景行天皇四十年紀」)というわけで ある。この話は、まさしく〈果て無しの異界〉としての 〈森〉の経験を語っているであろう。 森とは、こうした感覚がつきまとう森林空間の ことであって、その点で林とは異なるのだ、と私は考えたい。 実際、「林」には、出 口、入り口が分からなくなってしまう空間、という印象は存在しないであろう。 他方、森には、予感にせよ実感にせよ、ゆきみちに迷い、果て無しの空間の中に 入ってしまう、という危惧が、いつもつきまとって感じられるのである。われわ れは森を、そ の中に果て無しの空間をもち、魔界をもった森林空間として考えることにしよう 。

しかしこの果て無しの空間の中には、多くの道がある。しかも多くの場合、それ らは地下茎のよう な、隠れた道、普通にはそれと分からない道である。そしてそれらの道は、相互 にさまざまに連結され、実際、きわめて複雑で、多様な、道のネットワークを形 作っている。たとえばある種の業病をもった人だけが通るような、ひそかな道、 秘された道、がある、と宮本常一は言う(「土佐寺川夜話」)。その道は、当 然のことながら、公的に発行される地図には載っていない。また、特別な地図、 たとえば参謀本部の「陸地測量部の地図」にも載っていないような道である。そ れゆえ、まさにそのゆえにこそ、森の中では思いがけない出会い がありうる。「魔物」と の出会いももちろんある。そして、ある偶然の出会いによって、そうした秘され た道が分かることがある。宮本常一はそのようにして、レプラの女と出会い、彼 女の歩いてきた道をたどり、寺川に出たのであった。

こうして森は、ひとつの多孔質の空間、多孔質の身体、になっている。それはス ポンジのように、 多くの孔が、縦横に、奥深くまで走っていて、ある地点から他のある地点にゆく ためには、数多くの経路がありうる身体になっている。無数の気根をもつガジュ マルのように。人も、物も 、情報も、どのような経路をとってでも流れうる。流れを遮断できない空間。た とえ主要な経路を遮断されたとしても、他の地点から、別の秘された経路によっ て、あるいは別の秘された経路を創ることによって、別の流れが形成される。森 は、こうして絶えず〈外〉というもの、流れを管理し、制御しようとする思想 の〈外〉と言うべきものでありつづけ、またそのような〈外〉を創りつづけるの である。

◇◆◆ そして洞窟

そしてそうした森の中に、時として洞窟がある。たとえば福島県滝根町の「鬼穴 」と呼ばれる洞窟。それは大滝根山の山中にあり、かつて国家に抗して戦った人 々(「大多鬼丸」ら)がそれに拠ったとされる、長さ八十メートルほどの相当に 広い洞窟だが、その 入り口は高さ一メートル足らずの小さなもので、中に広い空間があるようには、 見えない。そしてこの「鬼穴」自体が奥でさらに「大滝根洞」とつながり、さら に「 あぶくま洞」にもつながっていて、その全体が総延長二六〇〇メートルをこえる 複雑な経路の束を形作っている(『滝根町史、第一巻』参照)。このような洞窟 は、地下茎をなし、また一種の 巣穴をなして、そして森の秘密のさまざまな道を複雑に中継する。 洞窟自体が複数の出入口をもち、きわめて遠方の、思いがけない所 に出入口をもっていたりするのである。アメリカ軍に対してベトコンが掘ったき わめて精 巧な地下の洞穴は、それ自体が一種の兵器になっていたが、森の中の洞窟も、多 数の出入口を備え、多数の秘密の道を中継している場合には、戦術上きわめて有 効な装置となるであろう。

達谷(たつこく)の窟(いわや)に 拠って戦を展開したとされる悪路王。その窟には、戦の後、坂上田村麻呂によっ て毘沙門堂が建てられた、と伝えられるが、そのことは少なくとも、国家の軍隊 が洞窟というものをどのように恐れていたか、ということを示しているだろう。 武神・毘沙門天の力によって、洞窟が湛(たた)えつづけている、隠れた無 数の道をもつ 空間の、恐るべき力を封印しようとしたに違いない。平泉を征服した後、源頼朝 もこの洞窟につよい関心を懐いた。『吾妻鏡』はそれをこんな風に記している。

その厳窟の前途は、北に至るまで十余日、外(そと)が浜に隣(とな) るなり。
(『全訳 吾妻鏡』による。一部改変。文治五年九月二八日の条)
これは何を言っているのだろうか。「前途」という言葉は、単にこの洞窟と津軽 の「外が浜」(1)との空間的、地理学的な距離の ことを言おうとしているようには見えない。 それはむしろ、この洞窟からは、通路として、地中の見えない 所を、北へ、非常に長い道が続いていて、それを辿ってゆくと十日ほどで、その 出口の、津軽半島の「外が浜」の近くに出る、ということではないだろうか。こ こには森の中の洞窟の、本来の機能、地下茎による道の形成の、恐るべき本性が 、驚嘆とともに記されているように見える。達谷の窟が、二百数十キロも離れて いようという「外が浜」と〈隣接〉している、というのである。驚 くべき隣接性。道はあるいは地上に出るのかもしれない。しかし地上を走るにし ても、それは知られない道に違いない。いずれにせよ、二百数十キロを隔てて、 「達 谷の窟」と「外が浜」とは隣接している、と理解されていたのである。カフカの 「城」が近くにあると見えながら、無限に〈遠い〉のと、ちょうど逆になってい る。この隣接性によって、またたくまに、情報が走り、戦士が到来し、そして物 資が補給されるであろう。こうした地下茎のような連結網が、森の中、森に拠る 地域、森の世界、森の領域、森の身体、には張りめぐらされているようなのであ る。これは 頼朝をはじめとする鎌倉の武士団が思い描いた、東北の目に見えぬ力、東北のも つ魔界の力であるが、このような、森としての、折り重なる襞としての、多孔質 の多様な身体としての、魔界の力は、この土地に対して征服をおこなおうとする 、すべての国家的な試みに対して、いつも現実に出現してくるものなのである。 東北に対してそのような征服を企てる試みが、これまで幾つかなされてきたが、 森の身体としての東北に対してそのようなことを企てる国家の将兵たちは、いつ もどこか腰が 引けてしまっていたようである。その代表が紀古佐美(きのこさみ)の軍 であったろうか。しかしそれも当然のことである。なぜなら、時として姿を見せ る、こうした東北の魔界は、つねに国家の想像力の外にあるものだからである。 国家のひとは、 魔界にとりこまれてしまう恐怖から、決して逃げることができないであろう。

こうした国家的な征服を企てる武将たちの中にあって、ただ坂上田村麻呂ひとり が例外で あったであろう。なぜそうなのか、ということを、簡単に言うわけにはゆかない が、われわれは後にそのことについて考察をすすめるつもりである。

◆◇◇ そして狼煙のこと

ここでさらに、驚くべき隣接性のもう一つのスタイルについても述べておかなく てはならない。赤坂憲雄氏によれば、今から十何年か前に、こんな実験が試みら れたという。それは、『遠野物語』で知られる岩手県遠野の早池峰山の山頂と、 そこから百九十数キロ離れた、津軽の岩木山の山頂に、それぞれ、晩の同じ時刻 に、トランシーバーを手にして一群の人々が登り、そしてその両峰の頂きから同 時に発煙筒を焚いたのだという。その煙りは、双方で確認された・・・(「忘れ られた東北2」『本』1992年2月号)。

ここには伝統的な隣接性の、もう一つの形が認められるであろう。往時には 狼煙(のろし) によって技術的に可能にされていた、〈情報の隣接性〉。この場合には 、〈山〉が、欠かすことができない。それゆえ昔は、山というものが、きわめて 速やかな情報通信のための装置として、そのための大変貴重な場所として、了解 されていた可能性がある。敵の切迫を語り、援助への願いをのせて、山頂に焚か れ、空をたなびいてゆく、狼糞の黄色い煙り。たとえば\ruby 紀古佐美(きのこ さみ)軍の五万の軍隊 によって攻め寄せられ、近隣の戦える者たちをすべて動員したとしても、数千に も満たないであろう\ruby 日高見(ひだかみ)の地の人々。彼らが、たとえば種山 高原、物見山の、頂きから昇る狼 煙の煙りに託した願いは、どれだけ切実なものであっただろうか。その煙りは早 池峰山に中継され、駒ヶ岳に中継され、岩手山に中継され、そうして恐山や岩木 山にまで届いたであろうか。 あるいは、ヤマトタケルの大軍団に侵攻された、白河の南東、八槻(やつ き)の里の人々。 『陸奥国風土記』逸文によれば、彼らは、「津軽の蝦夷(えみし)」に援助 を求めたようである。八槻から津軽まで、ほとんど四百キロを越える。しかし、 たとえば 八槻の五来山から焚かれた狼煙は、大滝根山で中継され、安達太良山、吾妻山、 蔵王山 屏風岳を経由するならば、日高見の地に届き、そこから先と同じように津軽に届 くかもしれない。あるいは往時には、こうした情報伝達の経路と、簡単な信号の 方式が定まっており、それによって危急の声は、森の領域の全体に伝わるように なっていたかもしれない。 実際、上述の風土記によれば、強い弓を引く津軽の蝦夷たちが、土 蜘蛛(つちぐも)と蔑称された八槻 人の救援に、駆けつけていたのである。

私は、それぞれの集団のテリトリーの主要な標識をな してい たであろう、各地の代表的な山は、また、その地で生じた危急を告げるための、 信号の発信地として、広域的に了解されていた可能性がつよい、と思っている。 多分われわれは、森 の領域である東北地方の人々の内に時として見られる、〈山〉に寄せる、稀有 な、〈命懸け〉と言いうるような、畏敬の心情の中に 、このような 政治的戦争的な要素も見ておく必要があるのだろう。

このような狼煙もまた、侵攻する人々にとっては、〈恐るべき隣接性〉を予感 させるものである。それは実際に情報伝達の空間を大いに収縮させ、離れた複 数の地点を恐るべき早さで連結するのである。森はそれ自身の内に多くの〈孔 =道〉を走らせるが、山の上の空間にも見えない〈孔=道〉が通っていて、遠 く離れた多地点を隣接させ、均質な空間という国家的な空間表象を、ねじ曲げ 、失効させてしまうのである。魔界の空間・・・。

◆◇◆ 〈気圏の戦士〉

カフカはこう言っていた。「彼らが、どうやってここまで突き進んできたのか、 私には理解しがたい・・・ 。しかし何と言っても、彼らはこのとおり 現に侵入しているのである。そして毎朝その数を増やしているようにみえる 」(『田舎医者』)と。 「彼ら」の謎めいた、予期しがたい侵入、到来。この テクストは、騎馬民族の動きというものが、国家的社会の側の人間には、きわめ て捉え難いものであ ることを言っている。カフカが騎馬遊牧民について言うことは、われわれの森 の人々についても妥当する。 そこには別の空間・時間があり、別の運動があ り、そして別の正義がある、と いうことを、この、森の、多孔質な魔界空間は教えてくれる。 とりわけ「王化に服すること」とは別の正義がある、ということを。そのことを 歴代の征東将軍や征夷大将軍は、予感するだけで、理解することはできなかった のである。

そしてこの「別の正義」は、今日もなお、生き続いているのである。 碁盤の目状に網をかけられ、隅々まで監視され、制御される国家の空間が、ますま す広がってゆく中においても、その〈外〉は、慎重に創造され、そしてデリケート に護られているのである。今日もなお、この国家の〈外〉の空間の存在に、気付か ぬ人は多い。しかしそれは、森の中の地下茎のような道と同じように、知られぬ道 をつくり、折りたたまれる襞によって多数多様な孔の通路をつくり、多数の出入口 をもった洞窟をつくり、そして狼煙の上がる空をつくっているのである。

このようにして、国家の〈外〉は、つねに森のような身体をもち、そして言って よければ、〈東北〉という名をもつのである。

東北には、国家の〈外〉には、つねに戦士たちがいた。戦士たちが〈外〉をつく り、それを活用し、奥の深い、さわやかな空気の飲める空間を、やすらかに息 のできる小さな隠れた洞窟を、つくり、護ってきたのである。彼らのことを、宮 沢賢治は、「気圏の戦士」、と呼んでいた。そして「わが朋(とも)たちよ 」と。

われわれは、ほとんど名をもたない、歴史にほとんど名を残すことのない、縄文 以降の、東北の、歴代の 、〈気圏の戦士たち〉について、幾つかのデッサンを描いてみたい。 彼らが、どのような空気を飲み、そしてどのような涙を飲んでいたか、について。

思うに、 森の領域である東北は、多孔質の多様な身体を形成し、国家の〈外〉、国家の管 理の手を逃れる〈外〉を形成し、それを保持しつづけて来たのである。今日われ われは、森の領域東北から学ぶべきものを多くもっているであろう。それはある いは中沢新一氏が言うように、「禁欲」かもしれない(『哲学の東北』二〇六)。 しかしそれは「禁欲」である以 上に、そういう心的態度を伴いながらも、より積極的なものである、ひとつの「 技術」ではないであろうか。戦士の技術、〈外〉をつくり続け、国家の〈外〉に さわやかな〈気圏〉をつくり続ける技術、さまざまな霊気とともに、国家のつく る中心化された〈内〉の空間を突き破り、森の中に、あるいは精神の森の中に、 果て無しの空間をつくる、そうして踊る宇宙のリズムを鳴り響かせる、そうした 〈気圏の戦士たち〉の技術ではないであろうか。

王化され、中心化されることを拒否する力、中心化に抗し、〈外〉とのかかわり の中に絶えず身を開き、そのようにみずからの生の意味を見定めてきた、多孔質 の身体、森の領域である東北は、これまでの、記されることのない歴史の中で、 〈外〉をつくり、〈外〉とかかわり続ける技術と精神を、強靭に守りつづけてき たのであった。

われわれは「東北」から、深く広がる森とともに、国家の中心化に抗して多孔化 をおこない、呼吸のできる〈外〉の地下茎をつくりつづける、この、「敬虔に年 を累(かさ)ねた師父たち」(宮沢賢治「原体剣舞連」)の、戦士の技術を 学ぶべきなのではないだろうか。

(1)「外が浜」(原著では「外濱」)は、通常、津軽半島の陸奥湾岸の青森 市から平館のあたりの沿岸のことを言う。しかし時に、たとえば菅江真澄の 著書では、青森県西部の深浦、鯵ヶ沢から十三湊あたりの沿岸部を指して用 いられることがある。この『吾妻鏡』においては、さほど正確な地理学的知 識なしに、陸奥の最奥部を指して用いられているようである。



このテクストの改定したものが拙著『古代東北と王権』(講談社、2001年)に収められました。
そちらもご覧いただければ幸いです。



中路正恒『古代東北と王権』(講談社)案内


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2002年5月25日著書案内付加

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