悪路王・桓武・アテルイ碑
『火怨』がもっとおもしろくなる
三つのキーワード

中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

 ◆ アテルイと悪路王伝説

 茨城県の鹿島神宮には「悪路王の首」とされている木像がある。江戸時代に制作されたものだと言われるが、肌や唇の彩色がなまなましく、またまゆ毛やまなじりも極度に吊り上がっていて、間違いなく悪人顔をしている。この悪路王とはいったい誰なのだろうか。 悪路王の名は、しばしば高丸や赤頭などと共に出てくるが、それらの名は互いに混同されることがある。そして彼らは、たいてい達谷窟(たつこくのいわや)を拠点にして悪事を働き、田村将軍や利仁将軍に討伐される、と語られる。近年でも悪路王は、たとえば宮沢賢治の詩「原体剣舞連」に「むかし達谷(たつた)の悪路王」と、悪役として登場している。

 ところで、悪路王が出てくる最も古い文献は、『吾妻鏡』である。源頼朝が、平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある青山に目をとめ、その名を、案内人にしている奥州人の豊前介実俊に尋ねる。実俊は、それは田(達)谷窟で、「田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨をうけたまわって夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋だ」と教える。そして田村麻呂は、この窟の前に、九間四面の精舎を建てて、鞍馬寺をまねて多聞天の像を安置し、西光寺と名づけた、ということを語る。

 悪路王が、田村麻呂が戦った敵の長であるということなら、悪路王はそのまま正史に言われるアテルイのことになるだろう。そして赤頭はモレ(あるいはモタイ)のことになる。この『吾妻鏡』に言われていること自身、それほど信憑性の高いことではないが、しかしここから、以後、悪路王は、濃厚に賊主としてのアテルイの影を引きずってゆくことになる。

 私がひそかに考えているのは、「悪路」というのはアイヌ語の「アコ」と同じ意味で、「われわれの」という意味ではないか、ということである。つまり、つまり平泉周辺の人々は、アテルイのことを「アクロオウ」と呼ぶことで、ひそかに、昔の自分たちの言葉で「われわれの王」と呼んでいたのではないか、ということである。どうだろうか?

★ 参考文献
ジョン・バチラー『アイヌ・英・和辞典』(第四版)岩波書店、1995年
海保嶺夫編『中世蝦夷史料補遺』北海道出版企画センター、1990年
中路正恒『ニーチェから宮沢賢治へ』創言社、2002年
 ◆ 桓武天皇----鷹狩りする帝

 桓武は歴代の天皇中もっとも多く狩猟を行なった天皇である。『類聚国史』によれば、彼は百三十回近い回数の遊猟や鷹狩りを行なっている。記録上この回数を越える天皇はいない。桓武は、鷹を使った鳥獣の狩りと、犬を使い鹿などを獲物とする騎射による狩りを、ともに行なったと考えられる。

 この桓武の狩りは、『日本書紀』に出てくる「祈狩(うけひがり)」とは別のものだと思われる。「祈狩」とは一種の占いで、「事が成就するならばよい獲物がとれるように」と祈った上で狩りをして、その結果で行き先のことをあらかじめ知ろうとする狩りである。神功皇后即位元年紀二月の条に出てくる「祈狩」では、大きなイノシシが出てきて、祈った王のひとりが食い殺されてしまう、という結果になっている。

 しかし桓武の狩りは、このような「祈狩」そのものではないであろう。というのも、そういう「祈狩」は、重要な結果を知るべく行なわれるものだろうからだ。そういう狩りは、行なわれたとしても一度か二度のことであろう。

 桓武の狩りは征夷の軍事に掻き立てられる思いと深い関係があるのではないだろうか。『寛平遺戒』には、桓武はみずから鷹に餌をやり、嘴や爪を具合の好いものに作ったと記されている。小刀で嘴や爪の先を切るのは、訓練中に爪を折ったり、訓練者が傷ついたりするのを避けるためである。とすれば桓武は多少なりともみずから鷹の訓練をしていたのではないだろうか。

 鷹は強くまた誇り高い動物である。そのような生きものを自らの意のままに操れるというのはこの上ない喜びだろう。延暦十六年を頂点に、桓武の狩猟の回数が減ってゆくが、それはこの年十一月に征夷大将軍に任命した田村麻呂を、徐々にみずからの「鷹」と感じられるようになっていったためではないだろうか。私には、軍によって蝦夷を討とうとする思いと、狩りで獲物を討とうとする思いが、桓武の中では密接につながっているように思えてならない。

★ 参考文献
中澤克昭「狩猟と王権」(『生産と流通』岩波書店、2002年)
花見薫『天皇の鷹匠』草思社、2002年
中路正恒『古代東北と王権』講談社、2001年
 ◆ アテルイの碑

 今、京都の清水寺境内にはアテルイ・モレ(阿弖流為・母禮)の顕彰碑がある。気にとめる観光客が多いわけではないが、その意味は決して小さいものではないだろう。なぜならこの碑は、京都・関西の人々に、1200年前の「征夷」がいったい何を意味していたか、ということを考えさせるための大きな機縁になりうるだろうからである。

 この碑は一九九四年、平安京遷都1200年記念の年の十一月六日に建立された。運動の中心になったのは関西胆江(たんこう)同郷会の人たちである。今「関西アテルイ・モレの会」の事務局長をしている松坂定徳氏によれば、はじまりはアテルイらの斬首の地と想定される大阪・枚方市の「首塚」の傍に、簡単な掲示板を建てて、その由来を人々に知ってもらいたいという思いだったという。しかしそれは市の方と折り合いがつかず、挫折する。そこで話を清水寺にもっていったところ、寺の方でも大慈大悲の思いから田村麻呂とアテルイとの絆が再び結ばれることを喜び、石碑建立が許されたのだという。田村麻呂は清水寺創建の後援者でもあるのである。

 ところで田村麻呂とアテルイらの絆のことだが、それは、『日本紀略』に、アテルイらの斬首のことで、田村麻呂らが「この度は願いに任せて(居所に)返し入れ、その賊類を招こう」と言ったとされていることが最大の根拠になっている。しかしここで「その賊類を招く」のはどこに招くのであり、また何のためなのだろうか。招くのは律令政府の新しい拠点としての〈胆沢城〉ということになるであろう。そして招かれるのはまだ帰服していない族長たちであろう。そしてそれは何のためなのだろうか。

 ここに律令政府のだまし討ちの策略を見ようとする解釈もあるが、私としては、田村麻呂は、マッカーサーが天皇制を残したような意味での共和政策を考えていたと考えておきたい。もちろん田村麻呂に薄っぺらな友好主義は微塵もなかったであろう。しかし陸奥国の養蚕振興を図ったとみられる彼の施策を考えると、田村麻呂にはその地の長期的な安定化への明確な展望があったように思えるのである。アテルイもそこでは重要な協力者だったはずだ。

★ 参考文献
三浦佑之「『新しい歴史教科書』が描く「東北」像」(『東北学』第5号、作品社、2001年)
中路正恒『古代東北と王権』講談社、2001年
このテクストははじめ『IN POCKET』2003年2月号(講談社)に
「『火怨』がもっとおもしろくなる三つのキーワード」として発表されました。
この度鷹狩りについての知見を広めることができたのを機に
Webで公開することにしました。
中部大学国際関係学部の「鷹狩りの文明誌」シンポジウム関係者各位、
並びに吉田流鷹術継承者の方々に御礼申し上げます。

有職紋様:綺陽堂