風土 肯定する明るさ

--赤坂憲雄『山野河海まんだら』書評--

 

中路正恒


 わたしは五年間、東北は福島県のある町で暮らしていたことがある。そこで得たことは、今もわたしに、計り知れないほど大きなこととして生きつづけている。それは何だったのだろうか。ある日こんなことがあった。五歳になる長男に自転車を買ってやるために、近所の、夫婦でやっているくず屋に出かけた。そこらに転がっているどれでも五百円でもっていっていいぞ、ということで、青色のまずまず動くやつを買って帰った。その自転車は滋賀県に引っ越したときも持っていって、小学校二年まで使っていた。それが普通の生活だった。そのくず屋さんにはそれ以外にも何度もお世話になった。

 ひとがみな、生活のための努力、ということをよく分かっていること、そういうことだったのだろうか。赤坂さんのこの本にも、そうした東北的な、ひとの、ぎりぎりの努力というものが互いに分かっている文化の、健全さ、そしてあえて言えば、明るさ、というものがいっぱいにつまっている、と感じられる。その努力は風土や自然とのかかわりの中で、そしてひとや行政とのかかわりの中で、具体的に刻まれてゆく。そうした努力の現場にそっと立ち会ってみること。その現場で、ひとはみな肯定的だ。ただ、そうした努力が決してむなしいことではない、ということに、ひとの同意がほしいとおもう。そしてじぶんの努力の形に、姿を与えてほしいとおもう。そんなところに赤坂さんがいた。そして丁寧に『まんだら』が織られた。それは「文芸」だろうか。「雪国の春」の中で柳田国男は、地方地方のひとびとが、「都は雅で鄙は卑俗だ」という見方を脱して、ひとがのびのびとその風土を肯定して語れるような「文芸」の誕生を期待していた。しかしひとはたいてい文芸をやらない。そして中央のメディアも、たいていそんな「文芸」には関心をもたない。柳田の先の、そのすき間のところに、赤坂さんがいる。「東北学」はここからはじまる。


初出 『山形新聞』1999年(平成11年)5月10日


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《東北学》
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