玉依姫という思想
--- 小林秀雄と清光館 ---
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中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie

 ◆ 「無常といふ事」?

 ある世代の人々には周知のことであろうが、小林秀雄はその随筆、「無常といふ事」 を、『一言芳談抄』の中のある一節の引用から始める。それをまず、 小林の引いている 通りに引用し、紹介しておこう。それはこうである(1):

 或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま 女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、 つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。 其心を人にしひ問はれて(いはく)生死(しやうじ)無常の有様を 思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと 申すなり。云々

 小林は、あるとき比叡にあそび、 山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりうろついていた。 そのとき、突然この文章が心に浮かび、その文の節々がくっきりと心に() みわたったのだ、という。このとき、この一種啓示的な経験の中で、小林は、一体何を 理解したのだろうか? おそらくなにかがはっきりと分かったのだと思うが、それは 一体何だったのだろうか? それはどんな形をした〈思想〉だったのだろうか? そして、これが最も肝心なことなのだが、小林は、そもそもこの 『一言芳談』の一節から、何を読み取ったのだろうか? それらについて、 ゆっくりと考えてみることにしよう。
 「無常といふ事」の中で展開される小林の思索のあゆみは、ひどく自信なげ である。山王権現のあたりでの経験の方は、おそらく非常にくっきりしたもので あったのだろうが、その経験をわがものにするための思索の方は、きわめて たよりなげである。彼は、「あの時、自分は 何を感じ、何を考へてゐたのだらうか」と、みずから自問する。その時の 明晰さに、今やほとんど達しえないかのようである。そして書き進める にあたって、「実は、 何を書くのか判然しないまゝに書き始めてゐるのである」と、まず逃げを打って いる。まるで、この随筆「無常といふ事」の方はどうであれ、山王での経験の方は、 手付かず、傷つかずのまま、残しておきたい、としているかのようである。
 しかしそれでも、 その結論部の方では、意外なほど明確な主張が述べられている。 「この世は無常とは決して 仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる 一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、 無常といふ事がわかってゐない。常なるものを見失つたからである」。これで 文章は終わる。ここで「動物的状態」とは、小林によれば、「何を考へてゐる のやら、何を言ひ出すのやら、仕出來すのやら」解っていない、「どうも 仕方のない代物」という状態のことである。 この結論部の言い方からすれば、小林は、山王のあたりをうろついていたとき、 「無常といふ事」を 理解した、と考えられるであろう。「無常」ということを、 「常なるもの」とのかかわりにおいて、 はっきりと理解したのであったであろう。そしてこの理解は、『一言芳談』に 語られる「なま女房」の中にも あった、とされているわけである。-----われわれは、「無常といふ事」の主旨を、 このように理解しておくことが できるであろう。
 ここでわれわれは『一言芳談』の前掲の一節に戻りたいのだが、そこで「なま女房」は、 ほんとうに「無常」ということを訴えようとしていたのだろうか。そうして、 「この世のことはどうでもよい。ただ後の世のことをたすけてください」と 十禅師(じゅうぜんじ)の 前で訴えていたのだろうか。そのことが、そもそも問題である、とわたしには 思えるのである。
 その際まず何よりも忘れてならないのは、この「なま女房」が歌っていたのは、 「とてもかくても候、なうなう」という言葉であり、「此()の 事はとてもかくても候。なう後世(ごせ)をたすけたまへ」と歌っていた わけではない、ということである。小林秀雄は、この女房自身による説明を そのまま信じているようであるが、これはほんとうに信じるに足る、偽りのない 説明なのであろうか。この説明自体、称えていた言葉の意を、その心を、人から 強引に問われて、やむなく答えたものである。むりやり言わされた説明のことば、 である。それが真意である、と、軽々しく 信じてしまうわけにはゆかないであろう。そして、よく見れば、この一節には 疑問とすべきところが多々あるのである。

 ◆ かんなぎのまねしたるなま女房

 その一つが「なま女房」である。普通の語義からすれば、これはまだ若く未熟な 宮廷女房を 意味するものであろうが、そういう女房が、夜深く、みやこから相当に離れた 日吉(ひえ)の山王のあたりをうろついている、とは、よほど特別な 理由がない限り、考えられないことである。確かに 女ではあろうが、どういう女であろうかは、あらためて考えてみなければなら ないであろう。
 そして女は、「かんなぎのまね」を、すなわちまねして巫女の格好をしていた という。なぜ巫女のまねなどをしたのだろう? そしてつづみを打っていたという。 つづみがそう容易に打てるものではないということを考えれば、この女は、 そうした技芸にある程度通じた女、おそらくは家筋としてある程度通じた 女であったにちがいない。 そしてその声も すばらしい。「心すましたる声」で歌っていた、と言われている。 まだ(わか)い宮廷女房という想定も、(あや)しさが増し、 大変捨てがたい魅力があるが、しかしそれにしても『梁塵秘抄』流の芸事の 覚えのある女であったにちがいないのである(2)。
 その歌っていた 詞は、「とてもかくても候、なうなう」、というものだった、という。 これはどう現代語に訳せるだろうか。まずは逐語訳に近く訳せば、 「どうでもいい。ねえ、ねえ」といったところか。「なうなう」とは相手に対する 呼びかけであるが、この場合相手は誰なのであろう? ------
 相手は、まずは鴨玉依姫(かものたまよりひめ)神である、と考えられよう。 それは、この「なま女房」が、人げのない深夜に歌を歌っていた場所が、 十禅師、すなわち 樹下(じゅげ)宮であるからには、まずはその祭神に対して歌いかけていた、 と考えるべきであろうからである。しかしこの神、玉依姫は、周知のように 『風土記』に、 石川の瀬見の小川で 川遊びをしていたところ、丹塗りの矢が川上から流れてきたので、それを取って 床のあたりに挿し置いたところ、孕んで男子を生んだ、と伝えられる女である。 ちなみにその子、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は、上賀茂神社の 祭神である。川上から流れてくる、神の気をおびた矢を拾い、それに孕むこと、 そういう神、玉依姫の御前に、わざわざ巫女の格好をし、鼓の音によって周囲の 邪気を 祓いながら、「とてもかくても候、なうなう」と歌いつづける「なま女房」。 ここに、この女房に、神気(しんき)によって子を孕むことへの願望が なかったとは、わたしには到底思えないのである。「なま女房」は、おそらく、 みずから玉依姫になろうとしていたのである。深夜の十禅師社前への参入や かんなぎのまね、鋭く打ち続けるつづみ音など、それらはどれも、みずからを 玉依姫となすための、そのためのわざの厳しさを示しているものなのである。
 そしてこのとき、みずからの玉依姫への変身とともに、「なうなう」と呼びかけ られる相手は、おそらく、玉依姫から、その丹塗り矢の神、男神(だんしん) 火雷神(ほのいかつちの かみ)(あるいは別伝によれば大山咋神(おほやまくひのかみ))の 方へと向け変えられることになる。そのとき、かの歌の詞は、 「どうでもよいのです。どうぞわたしを好きになさってください。 どうぞ。どうぞ」といった 意味になってゆくであろう。このとき、この厳しさの先に現われるものは、 そこに丹塗り矢的なものがあるならば、それは男神と、火雷神もしくは大山咋神 とみなされる 存在であることになるであろう。
 男神の丹塗り矢の神気によって孕むこと、そのようなことを 願い、行なおうとするとき、この女房の思いを、 最も深い所で動かしているものは、多分、 「みずからが玉依姫になること」なのである。そうやって女神(じょしん) 玉依姫と、この上なく深い縁を、みずからのすべてをゆだねた縁を結ぶことなの である。この縁を結ぶこと、この 他のことは、このとき、この女房にとって、もはやどうでもよいことなのである。 しかし、丹塗り矢には、実際、感応しなければならない、であろうが。

 ◆ 女房の歌を聞き咎めた男

 おそらくはこのように、歌いつつ、みずからを玉依姫になそうとしていた女に、 何者かが近づいてくる。それは男だったと考えられる。そして男は、女に、女の歌う 歌の心を訊ねる。それは詰問するような 問いではなかったか、と思われる。おまえはこの人も寝静まった深夜に、この神域の まっただなかで、一体何をしているのだ。見れば本物の巫女でもないようだが。 おまえは「とてもかくても候」と歌っていたようだが、それはどういうことなのだ。 どういう意味なのだ。ちゃんと説明してみろ。それができないならわれわれの 詰所まで来てもらおうか。という風に。
 その男は、坊主だった、と推測される。それは、「夏堂(げどう)衆」と 呼ばれる十七人の僧侶たちのうちの何びとかであったのだろうか。嵯峨井建氏の 『日吉大社と山王権現』によれば、中世期、山王七社にはそれぞれ夏堂が付 属しており、特に十禅師の夏堂は、現在の樹下宮拝殿のうしろの木立付近に、本殿・ 拝殿をしのぐ規模で存在していたという。そしてそこには十七人の 「樹下(じゅげ)僧」が 長日参籠して行を勤めており、彼らは特別に、「亥子谷の大衆」とも、 「夏堂衆」とも呼ばれていた、 という。
 『一言芳談』の時代、つまり十三世紀末から十四世紀半ばぐらいの時期にも、 十禅師の夏堂が健在であったとすれば、ここで「なま女房」の歌いを聞き咎め、 女に強いてその歌の心を訊ね、言わせたのは、彼ら夏堂衆のひとり、あるいは複数人 であった、と相当の確度で推定できる。「其心を人にしひ(とは)れて (いはく)」という書き方には、ここで女が、のっぴきならないところに 追いつめられていたことが示されている。しかも、ここで女を追いつめたのは、多分、 「ほのいかつち/おほやまくひ」的な男、丹塗り矢的な男ではなく、むしろ 浄土願生者に近い 男たちだ。どのような説明が彼らに許容されるか、彼らを惑わすことができるか、 そういうことを女はたちどころに理解する。そして、歌の思いを少しだけずらして 説明する。「生死無常(しょうじむじょう)有様(ありさま)を思ふに、 此()の事はとてもかくても候。なう後世をたすけたまへ」と、そう思って 歌っていたのですと女は答える。この答えの、「生死無常の有様を思ふに」とは、 あまりにもありきたりの説明であろう。しかしそれゆえにこそ、それは、尋問者に、 女の歌と行為を解釈するための枠を、暗黙の内に、ただちに定めさせることに なるのである。
 女房の答えの、「此世の事はとてもかくても候。なう後世をたすけたまへ」という 部分は、その本心とさほど違うものでもないであろう。ただ「後世をたすけて ほしい」という願いの縁を、ほんとうは誰に、どの神格に、結ぼうとしているか、 という点で、ひとを欺く ことになるかもしれないけれども。それは、『一言芳談』の編者が想定したような 阿弥陀仏でもないし、樹下僧たちが想定したであろう十禅師本地仏の地蔵尊 でもなく、また日吉神宮寺本尊の十一面観音でもなく、延暦寺根本中堂の 薬師如来でもなく、ただただ十禅師社の祭神、鴨の、瀬見の小川の玉依姫であったに 違いない のである(3)。そして、この点、つまりこの女房においては、この世の生を、 後世へのひとつの、玉依姫との結縁の下に 送ろう、という明確な決意がなされている、ということさえ 見誤られないならば、その場合にはこの玉依姫神の背後に、どんな本地仏が 想定されようと構わないことになるであろう。 見失ってはならないことは、どんな仏格と結縁がなされようと、ひとはこの 世の生を送らねばならず、この世の生のスタイルは、本地垂迹説的な 概念組織においては、むしろ神格によって示される ものだ、ということなのである(4)。
 その場合「此世の事はとてもかくても候」という表現は、先にわれわれがみた もともとの「とてもかくても候」が、おおむね「この身のことはとてもかくても 候」という、非常に突きつめた意味であったのに比べると、多少のずれと 緩やかさは生じているが、しかしその要点は変わっていないと考えられる。 つまり、「此世の事はとてもかくても候」とは、 この「なま女房」にとっては、 この世の生をどんな男との関係で生きることになっても、わたしはかまわない、 それをわたしは「ほのいかつち/おほやまくひ」のおぼしめし と思って生きるのです、という 意味のことになるのである。 そしてそう思えるようになるために、女は、今、十禅師の社前で、なまみの身を 火雷神(ほのいかつちのかみ)大山咋神(おほやまくひのかみ) の丹塗りの矢に捧げようとしているのである。 しかし今、そこを、「生死無常」の観念を尊ぶ無骨で無知な僧侶どもに 邪魔されてしまう。 そして女の語りと行為は、彼らを通じて、更に、ひとつの「芳談」に仕立て 上げられてゆく。・・・・・・

 ◆ なにヤとやーれ

 青森県の八戸地方から岩手県の北東部にかけて伝わるある盆踊り歌も、この 『一言芳談』の「なま女房」の歌ととてもよく 似たことばを語っている。その語る思いもよく似たものなのだろうか?
 その盆踊りについて柳田国男が記したことは、高等学校のある教科書にも載っていて、 比較的よく知られている。それは『雪国の春』に収められる「清光館哀史」 (「文藝春秋」大正十五年十月初出)で、この小論の中で柳田は、 九戸(くのへ)小子内(おこない)という海沿いの小さな村で、彼が六年前に見たという 女たちだけで踊る盆踊りのことを、今は石垣だけで、すでに影も形もなくなった 清光館のこととからめて、半ば懐古的に 論じている。ちなみにタイトルの「清光館」とは、その六年前に彼が泊まった旅館の 名前であるが、その旅館がこの日、あるべき所から消えていたのは、 そこの亭主が、ある年、 海の事故で亡くなってしまったためだった、ということが、人に聞いて段々と 分かってくるのである。
 六年前に柳田がそこの盆踊りを見たとき、彼は、それに「しおらしさ」を感じた、 という。その感じは、あるいは満月の「月夜の力」のせいかもしれないが、 あるいはまた、それは、この辺の盆踊りが昔からそういう感じを抱かしめるように 仕組まれてあったためかも知れない、と柳田はみずから分析する。彼はその 「仕組」を見極めようとしているかのようである。

 物腰から察すればもう嫁だろうと思う年頃の者までが、人の顔も見ず笑いもせず、 伏し目がちに静かに踊っていた。そうしてやや間を置いて、細々とした声で歌い 出すのであった。たしかに歌は一つ文句ばかりで、それを何遍でも 繰り返すらしいが、妙に物遠くていかに聴き耳を立てても意味が取れぬ。 好奇心の余りに踊りの輪の外をぐるぐるあるいて、そこいらに立って見ている 青年に聞こうとしても、笑って知らぬという者もあれば、ついと暗い方へ 退いてしまう者もあって、とうとう手帖に取ることもできなかったのが久しい 後までの気がかりであった(5)。

 この気がかりを、柳田は、今、六年後に、消し去ろうとする。彼は浜辺に 群がっている娘たちにそれとなく尋ね、その盆踊りの歌の文句を教えてもらおう とする。すると比較的年のいった一人が、鼻歌のようにしてその文句を 歌ってくれる。

  なにヤとやーれ
  なにヤとなされのう
ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、 この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。

 ここで柳田が「あの歌」と言っているのは、小子内の盆踊歌のことではなく、 彼が「しょんがえ」の流行節の系統に属する、と考える歌のことである。 この小さな村でも、あの「しょんがえ」歌と同系統の歌が歌い踊られて いるのだ、ということに、柳田は浅からぬ感慨を懐いたのである。それは 同じ歌詞、同じ文句、という意味ではまったくないであろうが、しかしその 思いの形が、まったく同じだ、というのである。そこに彼は深い思いを 抱く。そして、土地に生れた人でもその意味が解らぬ、といわれるこの歌の文句を、 彼は、あっさりと、こう解くのである。

 どう考えてみたところが、こればかりの短い詩形に、そうむつかしい情緒が 盛られようわけがない。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい と、男に向かって呼びかけた恋の歌である。

 柳田のこの読み取りは、「恋の歌」という一点を保留すれば、あとはまったく 正しいであろう。「なにヤとやーれ」は、おそらく「なんなりとあれ」の 変形であり、あの「なま女房」の「とてもかくても候」と同じ意味であり、 つまりは「どうあってもよいのだ」ということであろう。そして「なにヤと なされのう」は、「なんなりとなされよ、のう」の変形で、 「わたしをどうなさってくれてもよいのです、どうぞ」と男に 呼びかけた言葉だ、ということになるであろう。これは「なま女房」の 「なうなう」に相当するであろう。
 このような読解から、柳田は、この盆踊りを、この日を限っての「快楽すべし」 という機会だ、と見て取る。しかし、柳田は、この「快楽すべし」を 浅はかなものとする見方を退ける。彼はこう主張する。 「ただし(この盆踊りのかがいは)・・・・、この日に限って (はじ)や批判の煩わしい世間から、(のが)れて快楽すべし というだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった」と。そして彼はこの 「快楽すべし」の浅はかではない深層に、深く目を凝らそうとする。そして 結論として、彼は、「こういう数限りもない明朝の不安があればこそ、 ・・・・依然として踊りの 歌の調べは悲しいのであった」と理解する。彼は、この決して容易ではない 「明朝の不安」こそが、この「快楽すべし」の底にある、とするのである。 今日は朝が迎えられたけれど、明日の朝はまたちゃんと迎えられるのだろうか、 という不安。そういう不安が毎日つきまとっているような生活の日々。 これはあの「なま女房」が語っていた、「生死無常(の有様を思ふ)」 ということと、結局は同じことなのではないであろうか。
 柳田は、書き始めに近いところで、さりげなく、「あの朝は未明に 若い女房が起き出して、踊りましたという 顔もせずに、畠の隠元豆か何かを摘んでいた」という記述を挟んでいる。 この女房は、亭主の年齢に比べれば相当に若かったのであろう。 その女房が踊ってきたということは、彼女が、亭主ならぬ男と、快楽のひとときを 持ったのであろう、ということを、暗に語っていることになる。 そしてその亭主は、ある暴風雨の日に沖に出た船に乗っていて、その船は再び 戻っては来なかったのである。その翌日から、当然、彼女は再び夫とともに朝を 迎えることはなかったのである。そして彼女は、その後、久慈の町のある家で 、子どもとも別れて奉公をすることになった、といわれている。 このエピソードの内に、われわれは確かに、「生死の無常」と「快楽すべし」との 結びつきの具体を読み取ることができるであろう。

 ◆ 恋の歌? 

 しかしそれにしても、「なにやとやれ」は「恋の歌」と言うべきものだろう か? 一方で柳田がなぜそれを「恋の歌」と呼んだのか、は容易に察することができる。 柳田は目くらましを仕掛けたのであり、彼を信憑する読者たちに、美しいとは 必ずしも言いがたい事情について、余計な詮索をさせないために、 言葉の魔法を投げかけたのである。 そうやって、軽やかに小子内のひとたちの真情を、人々の好奇な目から 護ろうとしたのである。
 例えば、五来重もまた『踊り念仏』の中で柳田の「清光館哀史」を論じているが、 彼もまた柳田がそれを「恋の歌」と呼んだ魔術から抜け出せずにいるようである。 そのため彼は、一方で、時流に流れ、人間性に適合するだけの、 宗教性を失った盆踊りは、「むしろ人間性を 腐敗させ野獣化させてしまうだろう」と言う。しかし彼はすぐに、みずから、 「このように いいながらも私は、柳田先生が見た素朴で、ひかえ目で、粗野な情熱を内に秘め た小子内の女たちの、月夜の小さな踊りの輪をこよなく美しいものとおもう」 と付け加えるのである。五来は、小子内の盆踊りに、宗教性を見ているのだろうか、 そうだとすればそのどこに宗教性を見ているのだろうか。小子内の盆踊りも、 「この日が魂祭で」、それは「後生をねがった」営為なのだ、と言うのだろうか。 五来は、ここでは、まるで分析力が麻痺したかのように、何ひとつ明確には 語っていない。そして柳田への追従のように、小子内の盆踊りは「こよなく美しい」、 と言うのである。どこが美しいのだろうか?
 もともと論じることの難しい問題である。しかし「恋」と言うかぎり、 そこには、瞬刻なりとも、特定の相手と、隔てるものなく一緒にいたい、という 思いがあるべきだ、とわたしは思う(6)。「なにやとやれ」を歌い踊る 小子内の女たちは 、誰かそうした特定の相手を心に念じながらそうしていたのだろうか。それならば 、失恋に終わるにせよ、そこに恋の思いを見て取ることができるであろう。 それとも そこでは、「快楽せよ」という命令の方が、その村落社会の無上の掟に近いもの だったのだろうか。それならば、それは恋というべきものではないであろう。 それとも、古代のギリシアにおけるアフロディーテを讃える祝の日ように、 「快楽せよ」という掟と、ひとが「恋をする」こととが不思議に一致する、 そういう祝の日の晴れやかな 〈浮かれ〉のようなものが、この小子内の盆踊りにもある のであろうか。「伏し目がちに静かに踊っていた」というこのしおらしさは、 この村の女たちの〈浮かれ〉の表現なのだろうか。 あるいはそれとも、柳田が後のところで言うように、 「他には新たに心を慰める 方法を見出し得ないゆえに、手を把って、酒杯を交え、相誘うて恋に命を 忘れようとした」のであろうか。この場合、それをもまた恋というべきだろうか。 特定の相手とのことではあれ、「命を忘れようとする」ための恋とは、功利的な 恋ということになろう。それは、恋の思いとは、やはりどこか違い、どこかずれた ものであるだろう。
 それとも、小子内の「なにやとやれ」は、女がみずからを〈みあれ〉、すなわち 〈聖なる出産〉を行なう 女神と結縁するための、一種の試練の時ではないのだろうか。女は、そうして 〈みあれ〉の女神と結縁することによって、はじめて男との生活やとりわけ 出産を受け入れられるようになる、というところはないのだろうか。「なにやと やれ」の踊りと歌は、そのような結縁のために、一瞬にせよみずからの身を 村落の女神となす機会なのではないだろうか。小子内の村の女神、それをわたしは 遮光器土偶のような姿で思い描いているのだが。・・・・・・
 ともあれ、五来重が、先に引いた論文の中で「おそらく@女耀歌(かがい)と いえども、宗教的目的なしに男女が集まり、また交会がゆるされるはずは ないから・・・」 と述べていることは、この小子内の盆踊りについてもまったくあてはまるで あろう。

 ◆ 玉依姫という思想

 日吉大社の山王祭では、四月の中の(うま)の日(現在は、四月十二日)に、 午の神事として 「御生(みあ) れの神事」が行われる。その日の夜半、八王子山の牛尾宮(祭神、大山咋神荒魂)と 三宮(祭神、鴨玉依姫神荒魂)にあらかじめ二月 (さる)の日(現在、三月一日)に (かつ)ぎ上げて あった二基の神輿が山口にある二宮の拝殿に入れられ、そこで互いの神輿の (ながえ)を差し交わす形で安置される。これは「シリツナギ」と呼ばれ、 二神の交合を表わしている。このときその轅の上に板を渡して献饌が なされるが、それは「シリツナギの御供」と呼ばれる。そしてそれから宮司が祝詞を 奏上して、御生れ祭は成し終えられる。これは大山咋と玉依姫の聖婚を表現した ものである。そして翌(ひつじ)の日(現在、四月十三日)は、 山から下りた神輿二基と、二宮(祭神、大山咋神)と十禅師(祭神、鴨玉依姫神)の 神輿二基とがお旅所に移される。献供・祝詞等がものされた後、夕刻、 壇から下りた神輿四基が、先を争うように、けたたましく西本宮へ急ぐ。これは 若宮出産の様を表現している、とされる(7)。このように、山王祭は、玉依姫と 大山咋との聖婚とそこから生じる若宮の出産を象り、それを祝福していると 考えられる。 こうしたことのすべては、そのときただのありきたりの娘であった玉依姫が、 川上から流れてきた朱塗りの 矢の神気に感応してそれを手に取り、その神気に恋し、 そしてそれに孕んだことから生じたことである。 それは、神聖な、限りなく 目出度いことであった、ということになる(8)。
 そして、小林秀雄の「無常」と、深夜、十禅師社の前でつづみを打っていた 『一言芳談』の「なま女房」 である。女は明確に「生死無常の有様を思ふに・・・」と言っていた。女に とって「無常」とは仏説のようなもの、「出離(しゅつり)詮要(せんよう)」(『一言芳談』)、というようなものではなかった であろう。小林秀雄の言う通りである。しかし、それはまた小林の言うような 「動物的状態」、姿勢の坐りきらない生半可な状態のことだ、というわけでも ないであろう。確かにあの 「なま女房」には、明確な、不退転の覚悟をもった姿の美しさがあるであろう。 女の意志には、小林自身の姿勢を正し、しかと定めさせる明確さがある。 しかし彼女の思いは、小林には分からないのである。
 しかし、あの「なま女房」そのひとにとっては、「生死無常」とは、何よりも みずからの行為へと促す深い思想であった。それはむしろ 「時不待(ときまたず)」という思想として、みずからを肯定し、 みずからの最も深い願望を現実に成し遂げるべく促す神聖な力であったであろう。 ひとは「生死無常」という思想によって、この今の時を、無限の 持続であると同時に無時間性でもある、そういう 〈永遠〉に、結びつけるのである(9)。 彼女は、その夜、みずからを、玉依姫となそうとした。有時(あるとき)、 鴨の玉依姫が、 みずから玉依姫になったように。

 注

(1) 小林秀雄からの引用は、『新訂 小林秀雄全集八巻』(1978、新潮社)による。
(2) 現在では、元旦未明に東本宮拝殿において、観世流の片山社中によって四海波が 謡われ、その起源は正徳元年(1711)の『日吉社年中行事社司中分大概』の正月六日に 記事の「於十禅師神庭神事能在之」に遡りうるが、嵯峨井建氏によれば鎌倉中期の 『耀天記』にも、同後期の『日吉社領注進記』にも、また天正十六年(1588)成立の 『日吉社神役年中行事』にも、神事能のことは記されていない、という。ここから すれば、この「なま女房」のつづみのわざの系統も、日吉猿楽の系譜以上に、 白拍子系の芸能に繋がるように思われるが、この問題については、今後引き続き 考察を進めてゆきたい(嵯峨井建『日吉大社と山王権現』1992、人文書院、 参照)。
(3) 樹下宮(=十禅師)の下殿には、京都の貴船神社奥宮の社殿下と同様に霊泉が 湧いているという。この、玉依姫に深い縁をもつ両社殿の霊泉は、男神の 丹塗り矢を浮かべたという瀬見の小川を、原型的に表わしているものでは ないだろうか。
(4) この問題、わが国においてだけ生れた結縁という思想の問題を、わたしは今後、 「結縁の思想」として、壬生狂言の「桶取」や、寺山修司の「田園に死す」などの 作品の深層の問題として考察を進めたいと思っている。
(5) 柳田国男からの引用はすべて、ちくま文庫版『柳田国男全集』による。
(6) この「恋」の概念については、光田和伸氏の、1999年7月8日の京都造形 芸術大学「風土の日本文化論」特別講義に多くのものを負っている。付記して 感謝の意を表わしておきたい。
(7) 以上の山王祭の記述は、概ね、村山修一著『比叡山史』(1994、東京美術)に 拠っている。
(8) 山王祭の「御生れの神事」が行われるのと全く同じ日(四月の中の午の日) に(現在は五月十二日)、上賀茂神社では 「御阿礼(みあれ)神事」が行われ、また 御蔭(みかげ)神社(下鴨神社)では「御蔭祭」 が執り行われる。これらはどちらも、一般には祭神を降臨させる儀式だと 言われているが、その祭儀の核心は秘とされている。この葵祭の発端に 位置する両神事の核心は、本当は、日吉の山王祭と全く同じように、玉依姫の 神婚・妊娠と出産を表わすものなのではないだろうか。そしてそれゆえにこそ、 葵祭の日が「・・・あふひゆゑ神のゆるしの今日を待ちける」 (『源氏物語・葵』)と 歌われるのではないであろうか。葵祭とは、源氏物語の時代には、多少とも アフロディーテの祝日に似て、玉依姫の名において、恋を讃え、恋をおこなう 日であったように 見えるのである。
(9) この(〈infinite temporal duration〉と〈timelessness〉という)二つの 永遠概念を統一するものとしての〈永遠〉の概念を、わたしは ニーチェの「永遠回帰」の概念において読み取るのだが、 それを実践的に発展させたものとして、拙稿「カオスモスの変身装置」 (『ニーチェから宮沢賢治へ』1997、創言社 )を参照していただければ 幸いである。

このテクストははじめ『東北学』第一号(1999年10月、作品社)に同じタイトルで発表されました。発行後既に三年以上が過ぎたので、この度HTML化することにしました。
今回HTML化するにあたって、注の一部を少し改めました。

Ver. 1.1: 副題をつけました。(4 June 2003) 

有職紋様:綺陽堂