ある世代の人々には周知のことであろうが、小林秀雄はその随筆、「無常といふ事」 を、『一言芳談抄』の中のある一節の引用から始める。それをまず、 小林の引いている 通りに引用し、紹介しておこう。それはこうである(1):
小林は、あるとき比叡にあそび、
山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりうろついていた。
そのとき、突然この文章が心に浮かび、その文の節々がくっきりと心に
「無常といふ事」の中で展開される小林の思索のあゆみは、ひどく自信なげ
である。山王権現のあたりでの経験の方は、おそらく非常にくっきりしたもので
あったのだろうが、その経験をわがものにするための思索の方は、きわめて
たよりなげである。彼は、「あの時、自分は
何を感じ、何を考へてゐたのだらうか」と、みずから自問する。その時の
明晰さに、今やほとんど達しえないかのようである。そして書き進める
にあたって、「実は、
何を書くのか判然しないまゝに書き始めてゐるのである」と、まず逃げを打って
いる。まるで、この随筆「無常といふ事」の方はどうであれ、山王での経験の方は、
手付かず、傷つかずのまま、残しておきたい、としているかのようである。
しかしそれでも、
その結論部の方では、意外なほど明確な主張が述べられている。
「この世は無常とは決して
仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる
一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
無常といふ事がわかってゐない。常なるものを見失つたからである」。これで
文章は終わる。ここで「動物的状態」とは、小林によれば、「何を考へてゐる
のやら、何を言ひ出すのやら、仕出來すのやら」解っていない、「どうも
仕方のない代物」という状態のことである。
この結論部の言い方からすれば、小林は、山王のあたりをうろついていたとき、
「無常といふ事」を
理解した、と考えられるであろう。「無常」ということを、
「常なるもの」とのかかわりにおいて、
はっきりと理解したのであったであろう。そしてこの理解は、『一言芳談』に
語られる「なま女房」の中にも
あった、とされているわけである。-----われわれは、「無常といふ事」の主旨を、
このように理解しておくことが
できるであろう。
ここでわれわれは『一言芳談』の前掲の一節に戻りたいのだが、そこで「なま女房」は、
ほんとうに「無常」ということを訴えようとしていたのだろうか。そうして、
「この世のことはどうでもよい。ただ後の世のことをたすけてください」と
その際まず何よりも忘れてならないのは、この「なま女房」が歌っていたのは、
「とてもかくても候、なうなう」という言葉であり、「此
その一つが「なま女房」である。普通の語義からすれば、これはまだ若く未熟な
宮廷女房を
意味するものであろうが、そういう女房が、夜深く、みやこから相当に離れた
そして女は、「かんなぎのまね」を、すなわちまねして巫女の格好をしていた
という。なぜ巫女のまねなどをしたのだろう? そしてつづみを打っていたという。
つづみがそう容易に打てるものではないということを考えれば、この女は、
そうした技芸にある程度通じた女、おそらくは家筋としてある程度通じた
女であったにちがいない。
そしてその声も
すばらしい。「心すましたる声」で歌っていた、と言われている。
まだ
その歌っていた
詞は、「とてもかくても候、なうなう」、というものだった、という。
これはどう現代語に訳せるだろうか。まずは逐語訳に近く訳せば、
「どうでもいい。ねえ、ねえ」といったところか。「なうなう」とは相手に対する
呼びかけであるが、この場合相手は誰なのであろう? ------
相手は、まずは
そしてこのとき、みずからの玉依姫への変身とともに、「なうなう」と呼びかけ
られる相手は、おそらく、玉依姫から、その丹塗り矢の神、
男神の丹塗り矢の神気によって孕むこと、そのようなことを
願い、行なおうとするとき、この女房の思いを、
最も深い所で動かしているものは、多分、
「みずからが玉依姫になること」なのである。そうやって
おそらくはこのように、歌いつつ、みずからを玉依姫になそうとしていた女に、
何者かが近づいてくる。それは男だったと考えられる。そして男は、女に、女の歌う
歌の心を訊ねる。それは詰問するような
問いではなかったか、と思われる。おまえはこの人も寝静まった深夜に、この神域の
まっただなかで、一体何をしているのだ。見れば本物の巫女でもないようだが。
おまえは「とてもかくても候」と歌っていたようだが、それはどういうことなのだ。
どういう意味なのだ。ちゃんと説明してみろ。それができないならわれわれの
詰所まで来てもらおうか。という風に。
その男は、坊主だった、と推測される。それは、「
『一言芳談』の時代、つまり十三世紀末から十四世紀半ばぐらいの時期にも、
十禅師の夏堂が健在であったとすれば、ここで「なま女房」の歌いを聞き咎め、
女に強いてその歌の心を訊ね、言わせたのは、彼ら夏堂衆のひとり、あるいは複数人
であった、と相当の確度で推定できる。「其心を人にしひ
女房の答えの、「此世の事はとてもかくても候。なう後世をたすけたまへ」という
部分は、その本心とさほど違うものでもないであろう。ただ「後世をたすけて
ほしい」という願いの縁を、ほんとうは誰に、どの神格に、結ぼうとしているか、
という点で、ひとを欺く
ことになるかもしれないけれども。それは、『一言芳談』の編者が想定したような
阿弥陀仏でもないし、樹下僧たちが想定したであろう十禅師本地仏の地蔵尊
でもなく、また日吉神宮寺本尊の十一面観音でもなく、延暦寺根本中堂の
薬師如来でもなく、ただただ十禅師社の祭神、鴨の、瀬見の小川の玉依姫であったに
違いない
のである(3)。そして、この点、つまりこの女房においては、この世の生を、
後世へのひとつの、玉依姫との結縁の下に
送ろう、という明確な決意がなされている、ということさえ
見誤られないならば、その場合にはこの玉依姫神の背後に、どんな本地仏が
想定されようと構わないことになるであろう。
見失ってはならないことは、どんな仏格と結縁がなされようと、ひとはこの
世の生を送らねばならず、この世の生のスタイルは、本地垂迹説的な
概念組織においては、むしろ神格によって示される
ものだ、ということなのである(4)。
その場合「此世の事はとてもかくても候」という表現は、先にわれわれがみた
もともとの「とてもかくても候」が、おおむね「この身のことはとてもかくても
候」という、非常に突きつめた意味であったのに比べると、多少のずれと
緩やかさは生じているが、しかしその要点は変わっていないと考えられる。
つまり、「此世の事はとてもかくても候」とは、
この「なま女房」にとっては、
この世の生をどんな男との関係で生きることになっても、わたしはかまわない、
それをわたしは「ほのいかつち/おほやまくひ」のおぼしめし
と思って生きるのです、という
意味のことになるのである。
そしてそう思えるようになるために、女は、今、十禅師の社前で、なまみの身を
青森県の八戸地方から岩手県の北東部にかけて伝わるある盆踊り歌も、この
『一言芳談』の「なま女房」の歌ととてもよく
似たことばを語っている。その語る思いもよく似たものなのだろうか?
その盆踊りについて柳田国男が記したことは、高等学校のある教科書にも載っていて、
比較的よく知られている。それは『雪国の春』に収められる「清光館哀史」
(「文藝春秋」大正十五年十月初出)で、この小論の中で柳田は、
六年前に柳田がそこの盆踊りを見たとき、彼は、それに「しおらしさ」を感じた、
という。その感じは、あるいは満月の「月夜の力」のせいかもしれないが、
あるいはまた、それは、この辺の盆踊りが昔からそういう感じを抱かしめるように
仕組まれてあったためかも知れない、と柳田はみずから分析する。彼はその
「仕組」を見極めようとしているかのようである。
この気がかりを、柳田は、今、六年後に、消し去ろうとする。彼は浜辺に 群がっている娘たちにそれとなく尋ね、その盆踊りの歌の文句を教えてもらおう とする。すると比較的年のいった一人が、鼻歌のようにしてその文句を 歌ってくれる。
ここで柳田が「あの歌」と言っているのは、小子内の盆踊歌のことではなく、
彼が「しょんがえ」の流行節の系統に属する、と考える歌のことである。
この小さな村でも、あの「しょんがえ」歌と同系統の歌が歌い踊られて
いるのだ、ということに、柳田は浅からぬ感慨を懐いたのである。それは
同じ歌詞、同じ文句、という意味ではまったくないであろうが、しかしその
思いの形が、まったく同じだ、というのである。そこに彼は深い思いを
抱く。そして、土地に生れた人でもその意味が解らぬ、といわれるこの歌の文句を、
彼は、あっさりと、こう解くのである。
柳田のこの読み取りは、「恋の歌」という一点を保留すれば、あとはまったく
正しいであろう。「なにヤとやーれ」は、おそらく「なんなりとあれ」の
変形であり、あの「なま女房」の「とてもかくても候」と同じ意味であり、
つまりは「どうあってもよいのだ」ということであろう。そして「なにヤと
なされのう」は、「なんなりとなされよ、のう」の変形で、
「わたしをどうなさってくれてもよいのです、どうぞ」と男に
呼びかけた言葉だ、ということになるであろう。これは「なま女房」の
「なうなう」に相当するであろう。
このような読解から、柳田は、この盆踊りを、この日を限っての「快楽すべし」
という機会だ、と見て取る。しかし、柳田は、この「快楽すべし」を
浅はかなものとする見方を退ける。彼はこう主張する。
「ただし(この盆踊りのかがいは)・・・・、この日に限って
柳田は、書き始めに近いところで、さりげなく、「あの朝は未明に
若い女房が起き出して、踊りましたという
顔もせずに、畠の隠元豆か何かを摘んでいた」という記述を挟んでいる。
この女房は、亭主の年齢に比べれば相当に若かったのであろう。
その女房が踊ってきたということは、彼女が、亭主ならぬ男と、快楽のひとときを
持ったのであろう、ということを、暗に語っていることになる。
そしてその亭主は、ある暴風雨の日に沖に出た船に乗っていて、その船は再び
戻っては来なかったのである。その翌日から、当然、彼女は再び夫とともに朝を
迎えることはなかったのである。そして彼女は、その後、久慈の町のある家で
、子どもとも別れて奉公をすることになった、といわれている。
このエピソードの内に、われわれは確かに、「生死の無常」と「快楽すべし」との
結びつきの具体を読み取ることができるであろう。
しかしそれにしても、「なにやとやれ」は「恋の歌」と言うべきものだろう
か?
一方で柳田がなぜそれを「恋の歌」と呼んだのか、は容易に察することができる。
柳田は目くらましを仕掛けたのであり、彼を信憑する読者たちに、美しいとは
必ずしも言いがたい事情について、余計な詮索をさせないために、
言葉の魔法を投げかけたのである。
そうやって、軽やかに小子内のひとたちの真情を、人々の好奇な目から
護ろうとしたのである。
例えば、五来重もまた『踊り念仏』の中で柳田の「清光館哀史」を論じているが、
彼もまた柳田がそれを「恋の歌」と呼んだ魔術から抜け出せずにいるようである。
そのため彼は、一方で、時流に流れ、人間性に適合するだけの、
宗教性を失った盆踊りは、「むしろ人間性を
腐敗させ野獣化させてしまうだろう」と言う。しかし彼はすぐに、みずから、
「このように
いいながらも私は、柳田先生が見た素朴で、ひかえ目で、粗野な情熱を内に秘め
た小子内の女たちの、月夜の小さな踊りの輪をこよなく美しいものとおもう」
と付け加えるのである。五来は、小子内の盆踊りに、宗教性を見ているのだろうか、
そうだとすればそのどこに宗教性を見ているのだろうか。小子内の盆踊りも、
「この日が魂祭で」、それは「後生をねがった」営為なのだ、と言うのだろうか。
五来は、ここでは、まるで分析力が麻痺したかのように、何ひとつ明確には
語っていない。そして柳田への追従のように、小子内の盆踊りは「こよなく美しい」、
と言うのである。どこが美しいのだろうか?
もともと論じることの難しい問題である。しかし「恋」と言うかぎり、
そこには、瞬刻なりとも、特定の相手と、隔てるものなく一緒にいたい、という
思いがあるべきだ、とわたしは思う(6)。「なにやとやれ」を歌い踊る
小子内の女たちは
、誰かそうした特定の相手を心に念じながらそうしていたのだろうか。それならば
、失恋に終わるにせよ、そこに恋の思いを見て取ることができるであろう。
それとも
そこでは、「快楽せよ」という命令の方が、その村落社会の無上の掟に近いもの
だったのだろうか。それならば、それは恋というべきものではないであろう。
それとも、古代のギリシアにおけるアフロディーテを讃える祝の日ように、
「快楽せよ」という掟と、ひとが「恋をする」こととが不思議に一致する、
そういう祝の日の晴れやかな
〈浮かれ〉のようなものが、この小子内の盆踊りにもある
のであろうか。「伏し目がちに静かに踊っていた」というこのしおらしさは、
この村の女たちの〈浮かれ〉の表現なのだろうか。
あるいはそれとも、柳田が後のところで言うように、
「他には新たに心を慰める
方法を見出し得ないゆえに、手を把って、酒杯を交え、相誘うて恋に命を
忘れようとした」のであろうか。この場合、それをもまた恋というべきだろうか。
特定の相手とのことではあれ、「命を忘れようとする」ための恋とは、功利的な
恋ということになろう。それは、恋の思いとは、やはりどこか違い、どこかずれた
ものであるだろう。
それとも、小子内の「なにやとやれ」は、女がみずからを〈みあれ〉、すなわち
〈聖なる出産〉を行なう
女神と結縁するための、一種の試練の時ではないのだろうか。女は、そうして
〈みあれ〉の女神と結縁することによって、はじめて男との生活やとりわけ
出産を受け入れられるようになる、というところはないのだろうか。「なにやと
やれ」の踊りと歌は、そのような結縁のために、一瞬にせよみずからの身を
村落の女神となす機会なのではないだろうか。小子内の村の女神、それをわたしは
遮光器土偶のような姿で思い描いているのだが。・・・・・・
ともあれ、五来重が、先に引いた論文の中で「おそらく
日吉大社の山王祭では、四月の中の
そして、小林秀雄の「無常」と、深夜、十禅師社の前でつづみを打っていた
『一言芳談』の「なま女房」
である。女は明確に「生死無常の有様を思ふに・・・」と言っていた。女に
とって「無常」とは仏説のようなもの、「
しかし、あの「なま女房」そのひとにとっては、「生死無常」とは、何よりも
みずからの行為へと促す深い思想であった。それはむしろ
「
(1) 小林秀雄からの引用は、『新訂 小林秀雄全集八巻』(1978、新潮社)による。
(2) 現在では、元旦未明に東本宮拝殿において、観世流の片山社中によって四海波が
謡われ、その起源は正徳元年(1711)の『日吉社年中行事社司中分大概』の正月六日に
記事の「於十禅師神庭神事能在之」に遡りうるが、嵯峨井建氏によれば鎌倉中期の
『耀天記』にも、同後期の『日吉社領注進記』にも、また天正十六年(1588)成立の
『日吉社神役年中行事』にも、神事能のことは記されていない、という。ここから
すれば、この「なま女房」のつづみのわざの系統も、日吉猿楽の系譜以上に、
白拍子系の芸能に繋がるように思われるが、この問題については、今後引き続き
考察を進めてゆきたい(嵯峨井建『日吉大社と山王権現』1992、人文書院、
参照)。
(3) 樹下宮(=十禅師)の下殿には、京都の貴船神社奥宮の社殿下と同様に霊泉が
湧いているという。この、玉依姫に深い縁をもつ両社殿の霊泉は、男神の
丹塗り矢を浮かべたという瀬見の小川を、原型的に表わしているものでは
ないだろうか。
(4) この問題、わが国においてだけ生れた結縁という思想の問題を、わたしは今後、
「結縁の思想」として、壬生狂言の「桶取」や、寺山修司の「田園に死す」などの
作品の深層の問題として考察を進めたいと思っている。
(5) 柳田国男からの引用はすべて、ちくま文庫版『柳田国男全集』による。
(6) この「恋」の概念については、光田和伸氏の、1999年7月8日の京都造形
芸術大学「風土の日本文化論」特別講義に多くのものを負っている。付記して
感謝の意を表わしておきたい。
(7) 以上の山王祭の記述は、概ね、村山修一著『比叡山史』(1994、東京美術)に
拠っている。
(8) 山王祭の「御生れの神事」が行われるのと全く同じ日(四月の中の午の日)
に(現在は五月十二日)、上賀茂神社では
「
(9) この(〈infinite temporal duration〉と〈timelessness〉という)二つの
永遠概念を統一するものとしての〈永遠〉の概念を、わたしは
ニーチェの「永遠回帰」の概念において読み取るのだが、
それを実践的に発展させたものとして、拙稿「カオスモスの変身装置」
(『ニーチェから宮沢賢治へ』1997、創言社
)を参照していただければ
幸いである。
今回HTML化するにあたって、注の一部を少し改めました。
◆
Ver. 1.1: 副題をつけました。(4 June 2003)