共産主義の根拠となるのが労働価値説というものらしいのですが、労働価値説というのは、物(商品となるサービスは全て含まれます)の価値というのは本来労働量(労働の集約)によって決まるはずなんだよ、現在の市場価格というのは変なんだというもの。古典派が最初に商品価値は生産過程が決定するとか主張したのが始まりらしいのですが、共産主義だと、それ以上の利益を得るのは搾取だぞ、と追加されたりするらしい。 まあ、共産主義だと赤字の会社と黒字の会社で同じ労働をしても給料が違うのはおかしいだろ(市場価値とは関係なく労働価値を判断するべきだ)、とか、コスト以上の利益を資本家が搾取しているとか、そんなふうに使っているみたいで、古典派だと利益が大きすぎるのは自由競争が阻害されているためで阻害原因を排除しろとと言うみたいですが、賛否両論。そのへんの難しい理論は他に任せて、常識的に検討してみましょう。経済学の難しいことって分からないし。
まず、本来の価値の決め方を中世に求めているために現在に適用できない部分が多くあります。同じ労働量でも現在はアイデアとか繊細な気遣いとかで価値が大きく変わります。市場価値と労働価値が当然のように異なる時代に、このような考えを取り入れると工夫・アイデア・デザインやコスト削減の努力などの労働量に関係のない部分(ひらめきや決断、判断)の意欲をそぐことになり、それは消費者の幸福を削ることになります。それと時間の価値もないようです。稚拙だけれど迅速、とか求められた時間に作業しますとかのサービスの価値がないように感じます。利子も認めないようですからね(利子は資本家の搾取らしい、すると預金をしている人はみんな資本家なんだ)。
次に労働の価値を決める方法がなく、結局はその労働価値の判断責任者に多くの権限が集まり、不平等が増大されます。市場経済では最終的には市場が商品の価値を決めますから、企業内での労働価値の評価も、結局は消費者の判断が左右するのですが、市場価値よりも労働価値を優先すると、労働価値の評価は恣意的になります。
標準の労働価値の評価方法を決めると、商品という本来幸福をもたらすもののためではなく、その評価のために働くことになり商品の品質が悪くなります。製造個数で判断するなら簡単に作ろうとしますし、労働時間なら無駄な時間を費やします。旧ソ連では同じサイズの服ばかり作っていたとか不良品が多かったとかありますよね。ほら、レストランガイドの星とか、ヤフーの登録とかその基準を発表しませんよね。基準を作ってしまうと本来の目的から外れるのが増えてくるからです。
評価責任者の決定方法も問題になります。選挙で決めるのであるなら投票者との利害関係が強く影響してしまい適任者が選ばれるとは限りませんし中央政府からだと天下りとか出てきそうだし。特権階級とかでてくるはずだ。
最後に、決定の価値が認められにくいことが上げられます。知的所有権のような独占使用権が一時的に競争をなくし労働価値とは無縁に市場価値を高騰させますが、これを否定すると知的な付加価値こそが命のベンチャーが存在できなくなります。つまり、冒険的な商品がでてこれなくなるのです。発展の否定になります。リスクに対する報酬がないということですね。商品製造以前のどのような商品にするかの決定の価値を認めなければ発展はありません。
「永遠の昨日」が中世を象徴的に表す言葉だそうですが、「二度とない今日」に何をするべきかを考えながら生きる現代人にとって、固定的な価値判断は不可能ではないかと考えます。「今日とは違うはずの明日」のために新古典派も労働価値説による政策は、もはや否定しています。
まあ、中世のように時代が進歩しないようになってから考えることですね。そういえば、共産国家って中世的ですね、進歩しないし。 |