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共産主義の亡霊たちへの伝言

真実が現実の中にないとしたら真実は存在しないというのが真実ではないのか


  1. 共産主義の亡霊たちは憲法を貪って生きる
  2. 空想科学的共産主義
  3. 共産主義は100年前の経済学だ
  4. 銀行国営化反対
  5. 資本家は本当に獰猛な人でなしか
  6. 共産主義−労働価値説批判
  7. 共産主義者はなぜ犯罪者びいきなのか?
  8. 資本主義とは何か
  9. 共産主義にとって資本家とは何か
  10. 是非に及ばず
  11. 筑紫哲也を嫌いな理由

共産主義の亡霊たちは憲法を貪って生きる

 共産党が共産主義をテレビなどで全く話さなくなって久しい。共産党でさえも共産主義が一般に受け入れられないことを認めているということだ。自己の思想を語らないならば、政党の価値はなく、裏で密かな思想を抱えた秘密結社と同様だろう。共産党が手段を選ばなくなったともいえる。もともと、日本国憲法を根本的に否定した思想集団が現政権の批判のためだけに日本国憲法を支持するような性質の政党である。『憲法第29条 財産権は、これを侵してはならない。』。この条文は明らかに日本が資本主義であることの宣言である。事実、本多勝一氏は「文筆業の方法」(だったかしら)のなかで、天皇制は不要で理解不能であるが、護憲問題との関わりで、問題にはするべきでないと書いている。彼らにとって憲法とは利用するものであり、愛し守るものではない。

空想科学的共産主義

   共産主義はきらいだ。なんやかんやいってもきらいだ、偉そうだし、自分の考えと違うとさも悪人か馬鹿のような扱いをするのは、傲慢としか言いようがない。傲慢はきらい。いや、傲慢でも実績があるなら許す。共産主義は全てが失敗した。あれは共産主義ではないという人もいるだろう。それなら、共産主義は、発現した実績もない。
 人間の知性だけで社会の全てを支配できるというのが共産主義だ。なるようになるし、なるようにしかならない。それを、下手に制御しようとしたら、混乱、いや、混乱した事態を少数の人間で収拾できるというのだから、 狂乱、混沌の世界。
 そんな混乱を収められるのは、ケインズのような天才だけ。マルクスなんて実績がゼロなんだから。 全部失敗したんだから。壊滅したのにどうして日本共産党は残っているのかしら。共産主義は、彼らは科学的共産主義だなんて呼んでいるけれど、実績がなく全てが失敗したんだがら、はっきり言って 空想科学的共産主義だよね。

共産主義は100年前の経済学だ

  科学というものは10年もたつと、過去のものだ。それは社会科学でも同じだ。古くならないとしたら、それは科学ではなく、宗教に近いものだろう。
 共産党の政策をテレビで聞いたが、第一段階は大企業のみの国有化だそうだ。
 経済も経営も、小学生並。さすが100年前の経済学の信者だ。
 大企業を国有化して地獄に堕ちていくのは中小企業ではないか。
 中小企業は大企業に小回りと集中によって対抗する。大企業は資本とコネクションによって全てを網羅しようとする。
 大企業が一般的にとる戦略が「リンゴの毒味」と呼ばれるものである。中小企業が、先見性により成功した商品を、そっくりまねするのである。パナソニックがソニーに対してよく使う戦略だ。
 それが度が過ぎないように知的所有権なるものがあり、国家が大企業を制止させる。
 では、大企業と国家が公然と手を結んだら、郵便局に対する特例をみればわかるとおり、国営企業は優遇される。怪獣から守るはずのウルトラマンが怪獣と手を結んだようなものじゃないか。赤字になっても血税で公然と公的援助をうけることだってできる。
 しかも国営大企業は、いずれ中小企業も国営化、つまり吸収合併することを目的としているのだから、地獄よりも凄惨だというべきだろう。

銀行国営化反対

 今更、銀行を国営化するのになんの意味があるというのだろう。
 もはや、共産主義は死滅し、国会対策が必要でもなく、国民にその要望があるわけでもない。
 今まで、日本で、世界で、現在で、過去で、国有化政策が幸福をもたらしたことがあるだろうか。
 国有企業は、大体において血税を吸い上げ消費する吸血鬼以上の役割をはたしてはいないではないか。
 共産党でさえ事実上、共産主義を捨てている。共産主義のことは語らなくなり、闇の底に隠している、ナチスに追われるユダヤ人のように、隠れキリシタンのように。隠れ逃げ回るのは敵からだ。ユダヤ人の敵はナチスだった、隠れキリシタンの敵は幕府だった。では、共産主義の敵は誰か、共産党は何者から共産主義を隠しているか。分かり切ったこと、国民から、一般市民から隠し通そうとしている。共産主義は共産党でさえも認める国民の敵になった。
 国有化は血税を食い荒らすだけではない、営業努力を削ぎ、責任者を不在にし、挙げ句の果ては優遇処置まで受け、自由競争を破滅に追い込む。

資本家は本当に獰猛な人でなしか

 よく、共産主義者の話を聞いて違和感を覚えるのは「資本家」という言葉の使い方。資本家は、獰猛で他人の財産を骨の髄まで吸い上げ搾取する人でなしであるという、あの考え方にはついていけない。
 第一、あの人たちは「資本と経営の分離」という言葉を知っているのかしら。殆どの産業には資本が必要で、それは、資本主義以前でも共産主義でも一緒、資本とは生産財や商品の元手であったり、準備金だったりするが、(体が資本というのもあるかもしれませんが)、その資本を提出するのが資本家で、中小企業とかでは、資本と経営がよく一致するが、大企業とかになると資本は株式となり多くの人に分散され、ごく普通のサラリーマンが大企業の株を持っていたりするのだから、資本家とは何かというのは現在では意味をなさず、また、中小企業の資本家であり経営者である場合も、それは創業者一族の経営の独占であって、乗っ取りなどで手に入れたものではないから、資本家なしでは企業そのものがなかったわけ。資本家は獰猛であるというのはどういう現実を見て言っているのか、確かに権力を持つと横暴になったりしがちだが、それであれば、資本家ではなくて経営者であり、今の大企業の経営者なんてサラリーマン社長が殆どだから労働者の延長で資本家なんてほど遠い存在なんだから、すると共産主義でも、ある産業の大きな権限を持つ責任者は必ずいるわけだから、それは資本主義での権力を遙かに凌駕した権力になることは当然で(資本・経営・政治を独占するからね)、高級官僚の腐敗や旧ソ連の特権階級を見ても分かるように獰猛な人でなしなのは資本ではなくて権力なわけ。資本と経営の分離が発達した現在は資本自体は権力よりも利益を得ることを選択するのよね。権力には責任がついて回るから。
 資本を一般人から集めないとなると、税金とか一般市民から強制的に資本を徴収するわけだから、そっちの方が搾取ぽいけれどね。いったい資本を減らしたりしたら誰が責任を負うんでしょう。資本主義であれば、経営者の経営責任と資本家が投資額の範囲で責任を負いますけれど、強制的に取られた金が責任として戻ってこないのはね、それこそ搾取でしょ。現在のところ国営・公営企業の赤字責任を責任者はまともにはとっていませんが、あれ、民間経営者のように根保証人制度(企業等の取引を無限に保証する保証人制度、企業が活動を開始する際にメインバンクがなければ普通は許可されないが、その金融機関は経営者が根保証人になることを要求する)でも取り入れてみればどうでしょう、もちろん独立採算制でね、自己破産、自己破産。

共産主義−労働価値説批判

 共産主義の根拠となるのが労働価値説というものらしいのですが、労働価値説というのは、物(商品となるサービスは全て含まれます)の価値というのは本来労働量(労働の集約)によって決まるはずなんだよ、現在の市場価格というのは変なんだというもの。古典派が最初に商品価値は生産過程が決定するとか主張したのが始まりらしいのですが、共産主義だと、それ以上の利益を得るのは搾取だぞ、と追加されたりするらしい。

 まあ、共産主義だと赤字の会社と黒字の会社で同じ労働をしても給料が違うのはおかしいだろ(市場価値とは関係なく労働価値を判断するべきだ)、とか、コスト以上の利益を資本家が搾取しているとか、そんなふうに使っているみたいで、古典派だと利益が大きすぎるのは自由競争が阻害されているためで阻害原因を排除しろとと言うみたいですが、賛否両論。そのへんの難しい理論は他に任せて、常識的に検討してみましょう。経済学の難しいことって分からないし。

 まず、本来の価値の決め方を中世に求めているために現在に適用できない部分が多くあります。同じ労働量でも現在はアイデアとか繊細な気遣いとかで価値が大きく変わります。市場価値と労働価値が当然のように異なる時代に、このような考えを取り入れると工夫・アイデア・デザインやコスト削減の努力などの労働量に関係のない部分(ひらめきや決断、判断)の意欲をそぐことになり、それは消費者の幸福を削ることになります。それと時間の価値もないようです。稚拙だけれど迅速、とか求められた時間に作業しますとかのサービスの価値がないように感じます。利子も認めないようですからね(利子は資本家の搾取らしい、すると預金をしている人はみんな資本家なんだ)。

 次に労働の価値を決める方法がなく、結局はその労働価値の判断責任者に多くの権限が集まり、不平等が増大されます。市場経済では最終的には市場が商品の価値を決めますから、企業内での労働価値の評価も、結局は消費者の判断が左右するのですが、市場価値よりも労働価値を優先すると、労働価値の評価は恣意的になります。
 標準の労働価値の評価方法を決めると、商品という本来幸福をもたらすもののためではなく、その評価のために働くことになり商品の品質が悪くなります。製造個数で判断するなら簡単に作ろうとしますし、労働時間なら無駄な時間を費やします。旧ソ連では同じサイズの服ばかり作っていたとか不良品が多かったとかありますよね。ほら、レストランガイドの星とか、ヤフーの登録とかその基準を発表しませんよね。基準を作ってしまうと本来の目的から外れるのが増えてくるからです。
 評価責任者の決定方法も問題になります。選挙で決めるのであるなら投票者との利害関係が強く影響してしまい適任者が選ばれるとは限りませんし中央政府からだと天下りとか出てきそうだし。特権階級とかでてくるはずだ。

 最後に、決定の価値が認められにくいことが上げられます。知的所有権のような独占使用権が一時的に競争をなくし労働価値とは無縁に市場価値を高騰させますが、これを否定すると知的な付加価値こそが命のベンチャーが存在できなくなります。つまり、冒険的な商品がでてこれなくなるのです。発展の否定になります。リスクに対する報酬がないということですね。商品製造以前のどのような商品にするかの決定の価値を認めなければ発展はありません。

 「永遠の昨日」が中世を象徴的に表す言葉だそうですが、「二度とない今日」に何をするべきかを考えながら生きる現代人にとって、固定的な価値判断は不可能ではないかと考えます。「今日とは違うはずの明日」のために新古典派も労働価値説による政策は、もはや否定しています。

 まあ、中世のように時代が進歩しないようになってから考えることですね。そういえば、共産国家って中世的ですね、進歩しないし。

共産主義者はなぜ犯罪者びいきなのか?

  共産主義者とか、その残党が子供の人権とかいっているけれど、実は犯罪者の人権しか問題にしていませんのは何故なのでございましょう。あれほど数十年前から拉致国家として悪名高い北朝鮮を無罪だ言いがかりだと言い張っていたし。まあ、これは未だに共産主義とかが理想だと思っているようなお花畑の人達だから、共産主義を信じたように北朝鮮を信じたと考えるのも可能だろうが、一番被害に遭いやすいのが子供たちであるのにもかかわらず子供の人権とか言って犯罪者を刑罰から逃れさせ子供たちの安全を脅かし続けているのは、知能程度だけの問題ではないと思われるのです。

 乳幼児に対する殺人は軽くなるそうです。そのような慣例に対して乳幼児殺人に対しても厳罰を要求し犯罪者から命を守る方が子供の人権を守ると言うことだと思いますけれど。

 そういえば、なにかで見たんですけれども、数十年前のことだとは思いますが人質を取って立てこもっている犯罪者を警察側が射殺して人質を助けたら、殺人で訴える団体があったとか、一般人の生命よりも犯罪者を優先する異常さをどのように考えたらよいのでしょうか。

 たぶん、戦前に非合法犯罪集団として誕生した共産主義者たちは、誕生時の性質を持ち続けて、戦後も無差別殺人とかを繰り返してきたため、犯罪が特性となってしまったのかもしれない。あの言い訳のしようのない無差別殺人のテロリストたちでさえもかばうかばう。きっと犯罪者に同族・同類を感じさせるものがあるのでしょう。犯罪者同士は同じにおいで引き合うものかもしれません。

 あげくには、

暴力的な手段によって権力を奪おうとする思想には賛成できません。選挙で過半数をとれるように努力すべきなのではありませんか?

一般国民が政治的な意思を表わす方法は選挙だけではなく、集会、デモ、ストライキといった様々な形があります。そういった形も含めて、暴力的でない形で権力をめざすのが望ましいことは言うまでもありません。しかし、場合によっては暴力的な手段に訴えざるをえないこともあります。あらゆる政府が外交官だけでなく軍隊も持っているのと同じです。

マルクス主義FAQ

などと、恐ろしいことまで恥ずかしげも罪悪感もなく、まるでそれが正義のように告示しているサイトまであります。あんたたちのは、政府が軍隊を持つのと同じなのではなく、政府がテロリズムをしているのと同じだよ、って言っても分からないのでしょうね。市民の安全を守るための警察の取り締まりと、自分の主張を暴力で脅し取ろうとするテロリストの殺人を一緒にするなよな。自分に従わないやつは人間じゃないと思っているかのようです。共産主義と民主主義が相容れないということがよく分かります。

資本主義とは何か

  資本主義とは何かという問いに簡潔に答えることのできる人はいません。どのような簡潔な解答も資本主義は裏切り例外が発生するからです。あえて私なりに定義するならば、「現在、先進国と呼ばれる国家群での経済活動の総称」、ということになります。ほんと、説明になっていませんよね。
 資本主義という言葉は「主義」とついていますが、それ自体が明確なものではなく、共産主義の対義語として共産主義者が命名した既存の経済体制のことですので、共産主義者が資本主義とは利潤を追求する目的で活動している、と言い張っても、その資本主義の中の一人一人にその自覚が必ずしも発生するものではなく、利潤を目的としない企業は(収支トントン利潤なしを目標としている場合とか)資本主義とは呼べないのでしょうか。いいえ、資本主義経済の枠組みの中にある場合は全ては資本主義なのです。
 それとは逆に、資本主義を明言し利潤を追求する企業は資本主義かと言えばそうでもありません。そんなものは商業経済が発生した当時からあったわけです。それだと貨幣経済があれば資本主義になってしまいますが、実際には商業主義は発生しているが、資本の蓄積や投資が少なく資本主義とは見られない場合が多く、多くの発展途上国での停滞が資本主義の発生の難しさを物語っています。
 資本主義は、現実の経済活動ですから、状況によって次々に変わっていきます。どのような定義を作ってもそれを裏切り別個な存在になっていくのです。
 マルクスの資本主義は100年前の植民地資本主義、そのあとに修正資本主義が発生し、現在は新古典派の資本主義になっていこうとしています。たとえば日本では資本家がいない資本主義が発達しています。
 つまり、近世での手工業時代とは比較にならないほどの富を生み出す経済が資本主義経済であり、その内容にはあまり厳密なものはなく、資本主義かどうかは結果により判断するということです。

共産主義にとって資本家とは何か

  マルクス主義FAQ

  1. 資本家というのは株主のことですか。経営者は資本家ではないのでしょうか。

    株主も経営者も資本家階級の一員です。いわゆる「サラリーマン社長」もそうです。彼らは労働者から搾取した剰余価値を分けあっているだけです。

  2. 経営の民主化と労働者独裁とどこが違うのか。

    経営の民主化という言葉が労働者の経営参加という意味であるとしたら、それは社会主義・共産主義とは何の関係もありません。社会主義というのは経営者と労働者の平等を意味するのではなくて、経営者(厳密には資本家)という階級の廃止を意味します。

  3. 現代の日本にはマルクスの時代のような飢餓スレスレの貧困は存在しません。搾取の問題はもはや重要ではないのでは。

    単なる貧富の差が問題なのではなくて、資本家が労働者の賃金や労働時間を勝手に決めていること、さらには必要とあればクビを切って街頭に放り出すことができるということが問題なのです。この問題は現在でもまったく変わっていません。

 経営者というのは労働者で、資本家とは株主のことに決まっています。経営者を「資本家階級」にするということは、役職を階級として認めると言うことです。そうです。課長階級、部長階級とかがあると共産主義は言っているわけです。つまり役職による労働に質の差はない、総理大臣も書記長も、そのへんの新入社員と変わりない労働の質だから同じ給料にしろといっているわけですね。経営者をなくすということは、責任者をなくすということです。名称がどう変わろうが、どのような形態になろうが、経営者とは経営責任者のことですよね、最高責任者のことですよね、CEOのことですよね。その立場の人間がいなくなると言うことは、共産主義は計画経済のはずなのに計画が立てられないし、計画遂行の責任者もいないわけです。まさに、混乱の極みに共産主義はいたっているということでしょう。上のサイトのいっていることは権力を持つ者はいなくなれ、命令をする者はなくなれということですから、共産主義ではなく無政府主義に該当するものと思われます。共産主義は国家権力が民間権力も独占しますから資本主義よりも遙かに多くの権力が少数の人間に集中します。搾取は資本が行うのではなく権力が行うと上記のサイトは主張しているのですから、共産主義での搾取者は共産党上層部ということになります。
 資本主義に明確な定義がないように、共産主義からも明確な定義が消えてしまっているのでしょう。資本主義が流れゆく現実そのものだとすれば、共産主義は言葉にできない漠然とした桃源郷なのでしょう。共産主義にはもう具体的な理想を抱くこともできなくなっているのです。上のサイトの考えは、いくらなんでも共産主義者の中でも異端だとは思いますが、共産主義に具体的なイメージを持てなくなっているのは確かでしょう。もはや「科学的」共産主義を「空想的(理想郷的)」共産主義の進化系として扱うことが不可能であることは、共産主義者であっても認めざるを得ないでしょう。「空想科学的」共産主義ぐらいに呼び名を変えるべきです。

是非に及ばず

 「是非に及ばず」、信長らしいリアリズム。リアリズムとは、形式や感情を排除し純粋に結果を求めること。善悪は関係ない、善悪の議論の範疇にない、そういって信長は弓の弦が切れるまで矢を放ち続け、それから切腹します。彼は、リアリストではあったがマキャベリストではありませんでした。人の心を読み、人心を把握することに興味はありませんでした。家康がマキャベリストであったのと逆でしょう。マキャベリズムというのは誤解が多いのですが、まあ、権力者はいかなる手段をとっても目的を遂行しろと言うもので、今の共産主義者に似て、優しい人間だと思わせながら自己の目的を手段を選ばずに実施するのですが、信長は正攻法によって天下を取ります。マキャベリストであるためにはリアリストである必要がありますが(現状の把握や結果の予測はリアリストでなければ正当に行われません)、リアリストがマキャベリストであるとは限りません。その点では共産主義者はマキャベリストではあってもマキャベリズムを正常に運用できてはいないと言えるでしょう。現状から最短でどのように目的を達することができるかを正確に読む能力はリアリストに欠かせないものですから。

共産主義

ディミトリ・マヌイスキー「勿論、今日、私たちは攻撃するには充分強くない。勝つためには私たちには驚かせる要素が必要である。ブルジョワジーは、眠らせる必要がある。従って、私たちはかつてなかったほどの目を見張るばかりの平和運動を始める。衝撃的な提案や前代未聞の妥協があるだろう。資本主義諸国は、愚かで退廃しているので、自らの破壊に喜んで協力するだろう。彼らは、私たちと友情を結ぶどのような機会にも喜んで飛びつくだろう。彼らの防御が地に落ちたとき、私たちは握り拳で彼らを打ちのめすのだ。

1931年モスクワのレーニン校の政治的戦争学科での講義)p293

 こういうのがマキャベリズムの典型的なものですね。素晴らしい。

筑紫哲也を嫌いな理由

 筑紫哲也はバカだから嫌いです。ずーっと前に、「安保闘争などは結果的に自民党独裁を防いだから正しかった」などどふざけたことを言っているのを聞いてから彼の番組は見ていません。ほんとに君は結果論者か? 自民党長期政権は結果的に経済的繁栄を実現したから正しいとか思っているのか? 第二次世界大戦は人種差別の廃止と自由貿易(ブロック経済打破・植民地の廃止)を実現したから正しいと思っているのか? 結果論者でもない者が都合に合わせて、結果論を持ち出すそのバカさ加減が嫌いです。結果論とは一種の哲学です。結果さえよければ、その行為の目的も効力も問わないという信念です。もちろん、別の結果論もあります、手段や過程を問わず目的を達したり、目的を達せなくても別の利益を得ればOKという結果論、こちらの方が一般的でしょうが筑紫哲也はこちら側で言ったのではないでしょう。安保闘争なんて、所詮は、反社会的な衝動をぶっちらかした集団犯罪でしょ。犯罪は犯罪。なに言っているンだか。

貧富の差は矛盾か

 矛盾と言う言葉は、整合性が合わないことを指しますから、なんと矛盾しているのかを明らかにしなければなりません。「納得できない」とかいう主観的な感情のことを指すのは国語の乱れの一つです。
 では、貧富の差と整合性が合わないことは何でしょうか。平等主義との矛盾でしょうか。
 平等主義とは一般に機会均等、権利統一、義務均等などを指します。個人の資質に対しては、矛盾と言わず、資質に応じて権利・義務が発生することで平等と解釈します。収入が多ければ税も多くするなどですね。つまり、平等主義というのは行為・存在に対して当然の結果を与えることです。収入の差を矛盾とすると、それは平等ではありません。たとえ共産主義であったとしても、収入の差は必ず発生します。それを逃れようとするのであれば貨幣経済を止めるか、労働の差がない社会にするしかないでしょう。その結果は発展も自由も失われることになります。前者は配給制しかないでしょうから、全員の要望が異なっても、子供も大人も同じ量の同じものを食事しなければならないような社会です。後者は一番低い労働量に合わせることになります。それは平等ではなく管理社会になりますから、管理者という矛盾した存在が発生することになります。
 親からの資産とかに絞ってみると、日本でも大昔から荘園などで相続を認めては止め、止めては認めてと、繰り返しています。相続を認めないと労働量が減り結果的に幸福の量が減っていくのです。労働とは富を生み出すことです。労働の量に対して豊かになれない社会は衰退していきますので、余りに極端な富の分布は一定の間隔で訂正さます。つまり、労働に対しては富の報酬が必要であるが、余りに大きな富の偏在はこの富の報酬が「平等」に配分されることの妨げになるということです。貧富の差は必要ですが、新たに豊かになる人を妨げるような状態は不平等と呼ぶのか社会の未来に対して正解だと思います。
 

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