▲Pumpkin Time▼  小説・俳句

 アスファルトの道路の片側は海に続く高い崖になっており、殆ど垂直に切り立ち、吸い込まれそうなほど深かった。もう片方は緩やかな山林になっており、初夏の午後の何もかも蒸発させようかという陽光を浴び濃淡の緑がまるで沸き上がり天を目指しているかのようだった。俺は陰のないバス亭で一人鞄を日傘がわりにして腐りかけた木製のベンチに腰掛けていた。今朝までの土砂降りが気紛れのように濃い青が広がる。回りを壁で取り囲まれているかのように風がまったくない。背中から波音が唸るように響いている。車も通らない、人通りはまったくない。やっと、あの山奥から降りたばかりでワイシャツも汗で肌に張り付いたままだ。その上まだこんな炎天下に晒されるのか、まったく仕事でなければ誰がこんな所まで来るものか。海でも眺めていたかったが、そうすると陽光を真正面で受けることになる。都会暮らしの俺としては、この山の深緑でも慰めになりそうなものだが、あいにく、たった今までこの緑の奥にいたばかりだ。俺は立ち上がってバスの時間表を覗き込んだ。あと、たった三〇分程だ。鞄の中にはこんな場所に住む偏屈な老人からやっともらった土地売買の契約書も入っている。バスにはきっとクーラーも付いていることだろう。俺はまたベンチに落ちるように座り込んだ。背広はベンチの横に脱ぎ捨ててあるが忘れないようにしなければならないと思い日除けも兼ねて頭にアラブの衣装のように背広を掛けた。口の中はとても渇ききっていた。水分を飲めなくてもいいから、含むだけでもしたいものだと思った。海の呻が余計に渇きを増長させる。死んだ魚の匂いのような異臭が海から這い上がってくる。一度、列をなして行き過ぎるトラックが残す排気ガスが呼吸を困難にさせた。歩道らしいものはなく白線を引いてあるだけだったので、随分、恐怖も感じた。

 疲れ果てた頃にやっとバスが遠くのカーブから姿を現した。俺はその姿を見て安堵した。バスは俺の前に止まり、中央の自動ドアが開いた。俺は乗り込んだ。むっとする澱んだ空気が擦り寄ってきた。なんだこのバスは、クーラーも付けないのか、俺は運転手の背中をまるで連続殺人犯をみるように睨み、後ろの方の海側の席に座った。窓を大きく上げ、日除けを半分程下げた。日陰になった分涼しくなったことに気付いた。走りだした。強い風が吹き込んで、爽快な気分になった。あまりに強い風に髪が吹かれる。もう少し窓を閉じ、その分日除けも下げた。クーラーなどなくても結構涼しくなるものだ、と思った。別にクーラーが付いていないのは運転手のせいでは多分ないわけだし、運転手自身が一番の被害者なのだから。俺は八つ当たりしていた自分を反省した。延々と続く切り立った崖の下では岩に当たり生まれる白い泡波が蛇のようにバスに付いて走る。暗く深い色の海に白い傷をつけながら動くボートらしいものが遠くにみえる。蛇行する海岸線をバスは走る。前の方の席から、きゃあという甲高いが不快ではない幼い女の子の声が大きなカーブのたびにおこる。見えるのは母親らしい女性の後頭部だけだ。他に客の姿はない。耳をそちらに傾けると、どうやら女の子は二人いるらしい。座席の陰で見えないようだ。子供たちも海をみて燥いでいるようだ。燥ぐ女の子たちの声が車内に密やかに響く。海は陽光で白く光り魚の群れが直ぐ下を渡ってるようだ。

 突然、体が、激しく宙に浮いた。

 耳が遠くなり轟音が耳を塞ぎ血が行き場を失い体がどこかに叩き付けられた。怒りにも似た感情が最後に記憶に残った。

 

 遠くで痛みがして意識が戻ってきたのだがなにか変だという感覚があった。自分の家ではないらしいと思った。波音がしている。ベットも目覚まし時計も妻の姿も見えない。激痛は左腕からしていることが分かった。目の前にあるものがなんだろうと思っていたがバスの網棚であることが理解できてきた。俺はバスの屋根の角でくたばりかけているんだ。動くのか。右腕を動かしてみる。動く。痛みのある左腕も大丈夫だ。首を上げ、左腕の様子をみる。背広にまで血液が滲んでいるようだ。上体を起こし、背広を脱いだ。ワイシャツの左腕は血で大きく染まっていた。血の匂いが広がる。座席が俺の頭上にぼろぼろに壊れながら宙吊りになって並んでいた。バスは見事に引っ繰り返り、前部分が大きく裂け折れて消失していた。裂け目から遠くに暗い海が見えた。どうなっているんだろう。今、このバスはどこにあるのだろう。静かに立ってみる。足場がゆらりと動いた。俺はまた蹲踞んだ。蹲踞んだまま、そろそろと裂け目の方に近付いた。裂け目に着くとゆっくりと首を出す。太陽が激しく照り付ける。目を細める。辺りは海面から数メーター突き出た岩場が点在しており、波が岩の間を泡になりながら擦り抜けては戻っていく。もう少し身を乗り出して上を見上げた。黒く垂直に切り立つ崖の上の白いガードレールが引き千切れているのが見えた。崖の上に上がることはできるのか、しばらく見ていたが、不可能だということは考えなくても判断できた。俺はそこにへたりこんだ。海面までは数メータあるが、岩場を伝っていけば降りられるかもしれない。恐る恐る立ち上がってみる。岩場は一歩で届く距離に結構大きいのがある。一番近い岩に足を伸ばし移る。充分安定して立っていられる広さだ。陽光が照り付ける。あまり時間は経ってないようだ。どうにかして助けを呼べないものか。そう交通量が少ないわけでもない。直ぐにこの事故に気付くはずだ。落ち着いてなにができるか考えろ。俺は鞄がどこにいったのか見回した。切り裂かれたバスの中には破壊された藍色のシートが幾つか転がっている。シートの陰に俺の大事な書類の入った鞄が隠れているのかもしれない。俺はまたバスに跳び移った。ぐらりと大きく揺れた。俺は構わず奥に進んだ。もう、ここがどこか分かってる。怖くはない。足でバスの逆さになった屋根に散らばったガラスの破片やシートの切れ端を蹴って、その下に鞄がないか探してみる。そうして足元に注意しながら進んでいくと、ついには一番奥にいつの間にか突き当たった。鞄はどこかに行ってしまっている。まあ、仕方がない。不可抗力だ。契約書はもう一度、取り直せばいい。世の中、そうそう大事にはならないものだ。ゆっくり助けがくるのを待とう。俺はまたバスの先まで歩いた。途中何度か大きく揺れた。バスの運転席の部分が細切れになって至る所に散らばっている。海の匂いに混ざってオイルの匂いがする。波音が高く強く響く中に金属音が紛れ込む。どこかでバスの破片が波に打たれている。あ、一緒に乗っていた人たちはどうなったのだろう。あの金属の破片と一緒に肉塊となり波に弄ばれているのだろうか。海から突き出た岩の集団は崖に沿って延々と続き、海に向かい徐々に海中に潜っていく。俺は岩に跳び移る。左腕に痛みが走る。ワイシャツも脱いで、怪我の様子をみてみる。上椀部の外側が一〇センチほど切れているがそう深くはない。出血から想像されるほど酷くはない。怪我は長さがあるので肉がぱっくり開き、醜く筋肉を見せているが、血も止まりかけている。指でそろりと触れてみる。ぬるりとした固まりかけた血の感触が指先を包む。ずきりと痛みが一瞬走った。照り付ける太陽を避けるため俺はワイシャツを頭から被り、次に移れそうな岩場を検討する。そうして幾つかの岩場を移ったが、見付けられるのはバスの破片ばかりだった。それから先は距離がありすぎて移れそうにない。それで俺は日陰にいくためにバスに戻りかけた。

 そのとき、声がした。

 女の子の声だ。辺りを見回してもどこから声がしたのか分からない。もう一度声がしないか耳を澄した。おうい、俺も呼び掛けてみる。確かに声がした。どこからだ。また声がした。声の方向をみるが、黒い崖しかその方向にはない。小さい声だったので方向を誤ったのに違いない。しかし、確かに声がした。どこだ。一緒に乗ってた女の子が近くにいて俺の助けを待っているんだ。早く助けてやらなければ。俺は耳を澄まし、ゆっくりその場で回りながら目を凝らす。動くものは波と、遠くの海鳥だけだ。こっち、と声がした。崖から声がしているとしか思えない。声は大きくなり、泣き声に近くなる。上だ。見上げる。ごつごつした絶壁がかなりの凹凸をもって高層ビルのように聳える。岩盤が濃淡の層になり左右に伸びる。伸びた岩盤の層が絶え間なく続く波の縞のように天空に積み重なっていく。崖に無数に存在する窪みや突起で一〇メータほど上にここからは確認できないが深そうな横に長い窪みに動くものが見えた気がした。助けて、女の子の声が聞こえる。ああ、あの窪みにいるんだ。あの窪みできっと一人で泣いているんだ。登れるだろうか。俺は勇気という言葉を思い浮かべる。俺は優しさとか、人間性とかいう言葉を思い出す。あの窪みで泣いてるのはまだ幼い一人では何もできない女の子だ。誰かが側に行って助けてやらなければ。とにかく、崖の側に行ってみよう。俺はどうしたら崖の側に行けるか、目で迷路を追うように渡って行けそうな岩場を伝って行った。そうして、何度か迷路を試行錯誤をし一番易しそうな通り道を決めた。この暑さでも眩暈もおこさない丈夫な体に期待して俺はあの絶壁を目指した。時折、跳び移った瞬間ぬるりとした足元に恐怖を感じた。原因は海草や牡蛎、フジツボの群落だったりした。ビジネスシューズでこんな場所を跳び移ってまわるのは無理があるな、と思った。因幡の白兎を思い出した。絶壁の真横に立つと、そのままの形で崖が俺の上に倒れ込んできそうだ。ゆっくりと崖は動き始めることだろう。根元を支点として一旦倒れだし傾斜角が大きくなるにしたがって、加速度をつけ、俺は異常な気圧を全身で感じるんだ。Tシャツ一枚でもまだ暑い。頭から被っていたワイシャツは近くの岩の上にはためいていた。飛び回る途中で落ちたやつだ。俺は深く深呼吸をして、ごつごつした岩に右手を掛けた。足場は充分ある。手足を一つずつ動かす。壁に張り付くヤモリの気分になる。凹凸はかなりあるので崖の中腹でも安定していられる。一挙手一投足を注意し慎重に少しずつ上に進んでいった。背中を太陽が照り付ける。熱くなる。だんだん後悔してくる。俺はこのまま海苔のように干涸らびて死んでしまうんじゃないだろうか。左腕をぐっと伸ばし岩をまた掴む。激痛が走る。傷口が開いたんだ。血が吹き出す。右手でぐっと岩を掴み、両足をより安定した場所におく。左腕を放す。呼吸が荒い。落ちるかと思った。汗がどっと湧き、立ち眩みに似た症状が頭上に降りる。もう何メーターか登ってしまった。下がることも、進むことも簡単にはいかない。もう少し上に大きな岩の突起がある。あそこまで登れば俺は休めるんだ。頑張れ、登るんだ。俺の血液がだらだらと流れ出る。聴覚に脈搏が響く。左そして右、そうして、着いた。俺は息を吐き突き出た岩に座り込んだ。あとどれ位あるんだろう。身を乗り出しても見えない。鼓動と共に痛みが突き抜ける。ずくずくずく、傷口をそろりと触る。泥のような血の感触、この暑さだと直ぐ血も乾くだろう。直射日光は皮膚癌になりやすいというが、俺が皮膚癌で死んだらみんなこのせいだ。肌が焦げていく。汗が幾筋か額や頬を這う。俺がこの崖を登りきることにどんな意味があるのだろう。渇ききった喉が痛みすら持つ。俺が側に行くことでどんなことができるというのだろう。風が死に絶えたこの場所で助けを待つのが正解なのではないか。微かに泣き声が聞こえた。遠くで、女の子がたった一人ぼっちで泣いているんだ。風の独り言かもしれなかった。しかし俺はあの女の子の声だと確信した。俺を呼んでいるんだ。もう一度深呼吸をゆっくりした。俺は右手を近くの岩に置き崖に向かって慎重に俯せ左腕を少し上の岩を掴んだ。右足を一歩上にやりぐっと上に進む。岩を持つ手が熱い。左腕に痛みが力を込める度響く。登れ、登れ、俺はあの位置まで行かなければならない。男として、人間としてあの女の子を助けなければならない。それが俺の義務だ。ここで彼女を助けられるのは俺だけなのだから。左腕の傷がますます開き血が湧く。この血で輸血をすれば何人の患者が助かるだろう。力を入れる度に血が噴いた。不愉快な痛みが神経を駆け巡る。

 そうして遂に着いた。高さはあまりなく座り込んでいても頭が岩に当たる。息を切らし、しばらく俺は動かなかった。横を見た。そこは横に長い岩盤の層でテーブルになっていた。反対側を振り返った。何も動く物がない中で啜り泣く声がした。だんだん薄い幅になっていく岩の隙間の奥に身動ぎもせずに何か不思議な生物のように存在していた。

 俺はおいと優しく声をかけた。ぴくりと動いた。朝顔が開くようにゆっくりと顔を上げた。蹲っていた女の子はますます大きく泣き始めた。大丈夫だよ、助けにきたんだ、俺は思い切り優しく話しかけた。

 少女は上目遣いで俺の方をみた。激しく首を振った。散らばっている大小の岩の破片の小さいのを軽く投げてきた。俺の目の前に落ちる。音が響く。

 俺は不愉快になり、少し声を荒げて、駄目だろこんなことしちゃ、と叱り付けた。女の子はまだ小学生になるかならないかの年齢のようだった。また、一段と煩く泣き始めた。くっと唸り俺は諦めた。

 また這って元の位置に戻った。直射日光の中でこのまま静かに待ち続けることにした。左腕の傷はもう完全に開ききっており鈍痛は止まりそうもない。汗は湧き続け、湧いては流れ落ちる。暑さで内臓から溶け乾きミイラになりそうだ。あと何時間で俺は助け出されるのだろう。あとどれくらい俺は干涸らびそうな中で、この不快な騒がしい泣き声に悩まされ続けなければならないのだろう。

 日は少しずつ傾いていき俺を焼き付くそうとする。いくら傾いてもその残酷な熱気を一層強烈にするだけだった。

 徐々に気分が悪くなってきた。岩に腰掛けた姿勢を保つのが辛くなってきた。今眠ってしまえば俺は崖下まで叩き付けられ再び立ち上がることはできなくなるだろう。嘔吐がする。眩暈がする。日射病だろうか、出血のせいだろうか。ああ、泣き声が煩い。誰か黙らせろ。誰のせいでここにきたと思っているんだ。御前のせいだぞ。黙れ、俺は怒鳴った。鼓動が高まる。俺は、這って狭い隙間に入り泣き声を掴まえようとした。泣き声は伸ばした俺の手を噛んだ。いたっ、俺は小さく叫んだ。このやろう、俺は殴るように泣き声の主の頭髪を鷲掴みにして、力任せに隙間の奥から引っこ抜いた。そのまま、広い場所まで泣き叫ばせながら膝で這いながら引き擦って持っていった。おい、おとなしくしてなきゃだめじゃないか、少し静かにしなきゃ、分かったか、俺は低く強く念を押した。だが、この女は泣きやまない。ますます酷くなる。俺は苛々してきた。軽く思わずひっぱたいた。泣き声が一層高く、大きくなる。息が詰まるような、声にできない感情が俺を支配する。何か、熱く尖ったものが食道を込み上げてこようとする。俺は思い切り平手打ちをくらわした。平手打ちを何度か往復させた。そいつは、鼻や唇から血を飛び散らせた。俺は、髪を鷲掴みにし、片手で宙に吊り、大きく後ろに振って、そのまま反動を利用して、足元の岩盤に叩き付けた。蠅のように岩盤に張り付き血を飛び散らせ、そいつは静かになった。

 俺は座ったまま、足先で肉塊をつつく。肉の弾力が足に伝わる。笑うような波音が絶え間なく聞こえた。俺は足で肉塊を押した。押して崖下に落とした。豚肉の塊のようにごろりと転がり、落下していった。何度か突き出た岩に撥ねながら、最後に海面の岩場にぶつかり、動かなくなった。波が屍の上を、通り過ぎて、横を擦り抜け、戻っていった。

 女の子を殺して、俺は崖下にゆっくりと降りていった。日は茜色に色付いてきている。随分時間が経っていたんだな、と思った。死骸の上を行きは過ぎる白かった波は朱色に染まり海に帰っていく。その血が広がったかのように海全体が夕日に赤く染まっていく。

 

 俺が助けられたのはもう夕刻に近かった。

 病院は、密やかに騒然としていた。左腕を縫い合わせた直後で俺はベッドの上でおとなしく点滴を受けていた。病室は三人部屋で、隣のベッドとは白い布の衝立てで仕切られていて、俺は一番廊下に繋がるドアに近いベッドに横になってた。警官の制服を着た人が何人か入ってきた。ベッドの横に立ち、警官の服に混ざって入ってきた背広の男が義務的な挨拶をしてきた。俺に事情を聞いてきたので、何が何だか分からないうちに、気が付いたらひっくり返ったバスの中にいた、と答えた。運転手の運転ミスか、と尋ねてきた。よく判らないが、そうかもしれない、と返事をした。他に客はいましたか、の質問に俺は母親らしい女性が女の子を二人連れてたようだと説明した。警官たちはバスが転落したときの様子ばかりをしつこく聞いてきた。質問が一区切り付いた後、俺は運転手や一緒に乗ってた母子はどうなったのか尋ねた。運転手は無残なものでしたよ、バスはきっと頭から落ちたんでしょうな、五体がばらばらで至る所に散らばってましてね、原形をとどめないとは、あんなのを言うんだと思ったね、そうそう、母と子の三人ね、女の子が一人助かりましたよ、もう一人の女の子はバスからちょっと離れた場所で死んで見付かりましたよ、転落の途中で投げ出されたんでしょうな、崖下の岩に叩き付けられて、そうそう、助かった女の子も落下の途中で投げ出されたんですがね、海の上に落ちたらしくて、海を漂っているところを見付けられたんですよ、運が良かったんでしょうな、ああ、母親の方は見付かってないんですよ、見付かった女の子に聞いてもわんわん泣いていたり、そうかと思うと、塞ぎ込んだりと大変でね、子供がいるんだったら親もいたはずだと、そう思いまして、まあ、貴方にそうこう尋ねたわけでね、まあ、十かそこらの子供ですからまあ、錯乱状態になるのも分からんでもないし、外傷が殆どないんでじき落ち着くでしょう。俺はじっと話しを聞いていた。その男は、事務的な別れの挨拶を行い他の警官たちを引き連れ部屋をでていった。俺は、今日俺が覚えていることは全て気絶していたときの夢だったのではないかと思ったし、夢であってほしいと田舎の少女のように祈りもした。しかし、ゆっくりと記憶を思い浮かべると、非現実的ではあるが、はっきりとした記憶がある。他人の記憶が植え込まれたような感触があった。ああ、俺はどうしたんだろう、なぜあんなことが起こったのだろう。どうしてあんなことが起こったのだろう。病室は酸っぱい清潔な匂いが充満していた。俺はいつしか眠りについた。何かを追い掛けてるか、何かに追い掛けられてる夢から覚めたとき横に妻が座ってた。目が覚めた、と彼女が聞いてきた。ああ、と答えた。不思議に寝起きなのにすっきりしてる。あれは仕方なかったことなんだ、俺は正気ではなかった、あの暑さのせいだ、俺は出血をしていた、全身が弱ってたのだ、神経も正常なはずがない、俺は正常じゃなかった。気が付いたの、と妻が言った、まったく、ついてないんだから、前世でなにか悪いことしたんじゃないの、もう、あんまり、心配かけないでほしいわ。俺のせいじゃないだろ、不可抗力だよ、と俺は答えた。そうだ、不可抗力だ。俺のせいじゃない。ねえ、と妻が話し掛けてくる。なに。君もパパになるんだよ、とにっとお道化た笑顔をみせた。え、なに、俺が聞き返す。父親になるの、君も自覚したまえ、事の重大さに、と不敵に笑った。また、冗談じゃないんだろうな。君も、疑い深いね、こんな事態に、もう、愛する夫がベッドでひいひい泣いてる時に、こんなこと冗談で言えるわけないじゃない、とけらけら笑った。誰が泣いてるんだよ、俺は笑って言い返した。そうだ、名前も知らない死んだ奴のためにうだうだ悩んでる暇はない、俺には家族を守っていく義務があるんだ、どんな罪を背負おうと俺は働いて、家族を養っていかなくてはならない。俺は確かに犯罪者かもしれない、しかし、それがどんな意味があるというのだ。俺は、善良な一市民なんだ。俺が逮捕されてみろ、俺の家族はどうなるというのだ、俺は生き残らなきゃならないんだ。

 

 海に迫る崖に俺は近付いていく、雪のように波が散る、俺が岩場を伝わり、海を見にいく、波が奇妙な渦を巻き、俺はそれを眺め続ける、俺は何も考えずに海に見とれている、風が強くなっていく、近くにいた知り合いが、それ以上先に行くと津波にさらわれるよ、と忠告する、ああ、俺は海に落ちちゃいけないんだ、そう考えた俺は下半身を踏ん張った、風はどんどん強くなる、しかし、俺は大丈夫だと思う、そのとき波と共に腐りかけた死体が俺の足に飛び付き足首を掴み海に引き摺り込もうとした、ああっ、あの母親だ、とうとう、見付からなかったあの母親の死体だ。

 暗い部屋に、隣で寝ている妻の寝息が暖房の重い音に混ざって聞こえた。ベッドの横に置いていた目覚まし時計を見た。暗くてよく見えないが多分まだ、何時間か寝られる。俺は直ぐに眠りにつこうとした。別に興奮しているわけではなかったのに一度目が覚めると寝付けないものだと思った。随分眠かった。とうとう、目覚まし時計が鳴るまで寝付くことがなかった。あれから、女の子が産まれ『美代子』と名付けた。美代子は今年の春には小学生になる。テーブルの上には朝食のトーストとベーコンエッグが並べられていた。パパ、今日は止まっていかないの、と食事中に俺に話し掛けてくる。パパは毎日ちゃんと帰ってきてるわよ、でも今日は遠くに泊まって帰ってこないけれどね、と妻が答える。ああ、この頃帰りが遅くて朝しか美代子とは合わないからな、俺は独り言のように答えた。この家もローンで買って一人前の『絵に描いたような』一般サラリーマンだ。きっとこの国中に『星の数ほど』似たようなのが生きてるだろう。俺はこの『普通』の生活を快感で望ましいものと思ってる。群衆に紛れて群像の一部になることを心から望んだ。誰も俺を俺の役割以上の者と考えたりしないでほしい。夜、帰り道をゆっくり歩いていると、後ろから足音がしてくることがある。俺は足音を先に行かせるためにもっとゆっくりとした速度にする。恐怖ではなく息苦しいような不安が心臓の付近を浸す。いっそ俺は自分の感情を失って電池で動くおもちゃとして生きていきたい。

 俺はその日、家族にいつものように出掛けの挨拶をし家を出た。息はまだ白かったが少しは寒さも和らいできているなと感じた。家を出で直ぐ俺は歩きながら、財布と鞄の中の航空券を確認した。コートのポケットに両手を入れて耳の痛くなりそうな冷たさはコートをばたばたとはためかしている風のせいだと考えといた。アスファルトの道路は一年中様子をかえないが、他人の庭先は白く霜が黴のように覆っている。この街は優しい街だ。誰も他人に対して話し掛けてくることはない。厚着をした男女の群れに合流し駅に向かう。何度か移動手段を替えて空港に着いた。空港の中は暖房が利いていた。まだ時間まで一時間ほどある。搭乗手続きの後、受け付けの見える椅子に腰掛け受け付けにくる人々をぼんやりみてた。一度何人かの集団が受け付けで搭乗手続きを行っていた。あっ、あれは野球の解説やってる人だ、なにしにここに来たんだろう、どこかキャンプでもやってたか、と考えていた。あの受け付けは東京行きだ。今から戻って行くんだ。ここは暖房が利き過ぎている。そのとき、内ポケットに入れていた電話がなった。俺は出口から出て、コートを着て電話を出した。もしもし、受話器の向こうから年の判らない女の声がした。女の声は俺の返事を待たずに、貴方が殺したのですね、あの子を貴方が殺したのですね、あの時、貴方が殺したのですね、と詩を奏でるように続けた。君は誰だ、俺が苛立った低い声を出す。貴方は罪に対して罰を受けなければなりません、人類の誕生からそれは定められた規則なのです、まるで俺の声が届いてないように同じ調子で喋り続けた。君は誰だ、なんの真似だ、どこにいる。近いうちにお会いできることを楽しみにしておりますわ、きっと、お会いできると思います。電話は切れた。額に汗をかいていた。俺は手で汗を拭いながら空港の中に戻った。あの母親はとうとう見付からなかった、しかし、生きている可能性がどれほどあるというのだろう、あのことを知ってる可能性のあるのは…。なんだか、力が入らない。眩暈がする。気が遠くなる。俺はコートを脱いで、柱の側にある自動販売機で缶珈琲を買った。いつも思うのだが缶珈琲は砂糖の入れすぎだ。きっとあまりにまずいので砂糖水にしてごまかしているんだ。吐き気がしてくるほど甘ったるい。暖房が強すぎる気がする。俺は力なく椅子に座り込んだ。血が頭部から逃げていく感じがする。大丈夫ですか、とハンカチを差し出された。見上げるとロングヘアの若い、というより幼くさえ見える女性がにこやかに立ってハンカチを差し出していた。目は細く地味ではあるが整っていて上品な顔立ちだと感じた。いえ、結構ですから、俺は掌を左右に振った。汗、出てますよ、寒気がするほど感情のない微笑みを向けてきた。ご気分が宜しくないのではないですか、の言葉に俺はもう一度、いえ、気にしないでくださいと答えた。俺はその女性が鬱陶しくなって、立ち上がった。どうも、と会釈してざわめくゲートに向かった。ゲートを潜りながらふと、心臓を鷲掴みにするような悪寒が貫いた。何かがあった、と予感に似た感覚が残った。あの口調だ、似てるんだ、あの電話と。深いマンホールに急に落ち込んでいくような眩暈を感じていた。心臓が圧縮される。俺は搭乗券に貼られた番号の場所に行った。まだ何十席の空席のなかで数人しかいなかった。壁際に売店があり、ビールやお菓子、お土産などが売られていた。そこの売店で小説を買った。席に座って暫く読んでいたがあまりに退屈な小説で不機嫌になってきた。その待合室は煙草で空気が澱んで渦を巻き拡散している。俺は文庫本を立ち上がって近くの塵芥箱に投げ捨てた。壁際をうろうろと往復したがそれにも飽きて、また席に座った。だんだん人数が多くなってくる。苛々する。何に俺が苛立たなければならないのかそのときは、判断できなかった。俺はまた売店に行った。ビールの、と売店の軒先に掲げられているメニューを見て、中、と伝えた。その言葉を売り子は繰り返し、ポリコップにビールを注いでよこした。俺は滑走路が見える場所まで行き、遠くから滑り降りてくる航空機を眺めながら、ビールを飲み始めた。あの女は何を知ってるのだろう、しかし、何を知っていようがもはや関係がないのではないか、随分過去のことだ。ビールの冷たさと苦さを心地好く感じた。空気を押し潰すように航空機が着陸した。窓ガラスを越えて爆音が海鳴りのように響く。ビールをまた一気に半分ほど飲み干した。

 その日は仕事を終えて、その街に泊まった。ホテルの部屋からの眺めはあまり良くなかった。狭いホテルの部屋の窓から夕日に照らされた裏山の鬱蒼とした常緑樹が羽を窄めた梟のように茂っているのが目の前に構えているのが見えた。コートを脱ぎ壁に掛かっていた木製のハンガーに掛けた。背広も同じように別のハンガーに掛け、ネクタイもそれに掛けた。窓を押し開けると生暖かい部屋に冷気が雪崩れ込んできた。俺は慌てて閉める。ホテルに備え付けの電話が鳴った。出ると、もしもし、あなた、わたし、と妻の声がした。ああ、俺は明らかに安堵の声を出しそれが自分でも何だか滑稽だった。なに、なにかあったの、と俺は尋ねた。なにか、とはちょっと失礼じゃない、愛妻からの待兼ねたお電話に向かって、用事がなければ電話掛けちゃいけないの、といつものように憎まれ口を利いて、受話器の向こうからくすりと笑い声がし、別に何でもないのだけど、今日、貴方が出ていったあと、変な電話がきたの。どんな。うん、女の人の声でね、貴方の今日の予定を確認してくるの、会社の人だとかいってたけれど、後でよく考えてみると会社の人が電話掛けてくるって変じゃない、ね、会社の予定なのに、私、貴方の浮気の相手じゃないかって一瞬思ったんだけど、一瞬よ一瞬だけよ、そんな様子もないし、第一、浮気相手がそんなこと聞いてくる理由もないし、なにか気持ち悪くって…。馬鹿だな、気にするほどのことじゃないよ、きっと、と俺は笑い声で話し掛ける。彼女はそうねと軽く答えた。彼女とすればただ、電話をする理由がほしかっただけなのかもしれない。だいたい、そういう女性だ。うん、美代子は元気にしてるか、そう俺が聞くと、彼女は、代わるわねと言って美代子を電話に出してきた、あっパパ、出るのが早かったのはきっと近くで待ってたからなのだろう。パパ、明日帰ってくるの、甲高く嬉しそうな声が響いた。その声は俺を上機嫌にした。ああパパだよ、いい子にしてるかな、と急に自分の声が舌足らずになるのが判る。こんな時に、当たり前の誰でも言いそうな台詞しか思い付かないのはなぜだろうと、ちらと考える。暫く子供と喋って、じゃあねと言って切った。気分が良かった。

 備え付けのテレビを付けると、歌番組が行われていたので、チャンネルを変えた。窓の外はもう暗くなっていた。カーテンを閉めた。宇宙でジェット機がやり合うアニメがあってた。俺は宇宙空間でどうして翼のある乗り物が登場するのが可笑しく思った。電話が鳴った。俺は電話をとって、はい、と言った。あら、どなたと電話だったのかしら、と言ってくくっと喉の奥で笑う声がした。朝の電話の声だ。俺は、精一杯、俺に空港で話し掛けた女の声を思い出そうとする。抑揚は似ているが音質は似てるとも断言できない。電話のせいかもしれないが、何か声に操作をしているのかもしれない。君は空港で会った女だな、何のためにこんな電話をするんだ、理由を言え、理由を。そのような事は貴方が一番お分かりになっているのではないのですか、それとも貴方にとってそれほど簡単に忘れられるような出来事だったのですか、貴方は今は静かに判決をお待ちになればいいのです。生温い滑らかなガラスのような触感を持った声が顔の皮膚に張り付き皮膚呼吸もできなくなる。風が窓の外で鯱の呼吸音のように鳴っている。君は誰だ、何のことを言っている、俺の声がだんだん高くなっていく。落ち着け、もっとゆっくりと話せばいいんだと俺は深く息を吸った。お仕事は明日の午前中で終わりですわね、飛行機はそれから何時間か余裕があるのではないですか、私がその間ご招待しましょう、貴方のいらっしゃるホテルの裏に小さな丘がありますよね。ああ、この窓から見える山のことか。そうです、その丘には一本の細い道が丁度ホテルの北の端辺りから通ってます、その小道を登っていくと貴方は、小さな公園に辿り着くでしょう、そこには錆び付きほんの少し揺らすだけでぎいぎい軋むブランコや、もう木が腐り取っ手が地面に落ちて錆び切っているシーソーがあるでしょう、そこで貴方は待っていてください。君がそこで待ってるという訳か。ただ風が吹いてるだけかもしれませんけど。どういう意味だ。別に意味などありませんわ、貴方はただ明日の午後、その公園に来ればいいのです、それ以上の意味などありませんし、あったとしても不必要なものなのです。電話は切れた。 電話を置いたあと、俺はコートを壁から取って着た。ホテルのキーを持ち部屋の外に出た。キーはフロントに預けホテルを出た。外は随分と寒かった。上半身を丸くして、電話で説明された小道を探した。ホテルの裏の一車線のアスファルトの道路の向かい側に雑木の茂った丘があり、その丘を見上げながら道路に沿って歩いた。街灯がけっこう明るく雑木林の端を照らしている。探していた小道は直ぐに見付かった。余り物で造られたような、ごつごつしたコンクリートの人一人が通れるほどの道が林の暗がりに続いている。このままこの道を歩いていっても先が見えなくなるだろうと考えた。町中に近いのでまったくの闇はこの街にはきっと存在しないだろうが、懐中電灯は買ってくるべきだろう。俺は表通りに出てコンビニを探した。簡単に探しだせた。店に入ると急に暖かくなった。店の棚を見て回った。けっこう大きな懐中電灯が売ってあるものだ。俺は一番大きなものを買って外に出た。また、あの小道の場所に行った。懐中電灯で前方の道を照らしながら俺はその道に入っていった。地面を固めてあるコンクリートは罅割れを所々おこし、そこから雑草が密集して生え、その裂け目をさらに拡大させようとしている。顔に何度か背の高い草が当たり、その度に全身が一瞬痙攣を起こす。風が頭上にあるだろう木の枝を揺さぶり音を立て続けている。道はますます雑草に横から侵略され、その雑草が俺の脚によく当たった。緩やかな坂だった道が徐々に平らに近付いて、丘の頂が迫っていることが感じられる。急に開けた場所に着いた。懐中電灯の光を辺りに振り向ける。ブランコ、シーソー、背の低い鉄棒、そこは確かに以前は公園であった場所だった。今きた道とは反対側に光に彩られた港が右の遠くに見下ろせた。波音が確かに聞こえた。すると、この公園の直ぐ下は、海が広がり、海岸線を伝った先にあの煌びやかな港があるのだろう。気に入りましたか、この公園の景色が、女の声が不意に響き、俺は反射的に振り向き何かに躓づいて、声を上げ尻餅をついた。女の抑制の利いた笑い声が辺りに響き渡った。どこだ、と俺は怒鳴り懐中電灯を振り回して女を探した。人影を見付けたと思えば、それは木立であったり、モノクロに浮かび上がったトーテムポールであったりした。何のためにこんなことをするんだ、俺は叫んだ。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。俺は深呼吸をして立ち上がった。俺は彼女が何者か考えていた。あの事故の関係者は、生き残りは俺の他はただ一人だ。死んだ少女の姉だ。当時は十歳前後だったはずだ。従って現在は十代の半ばを過ぎ、高校生あたりか。あの空港で会った女性はもっと年上であった感じがするが、それは当てにはならないだろう。きっとあの少女の姉に違いない。目的はなんだ、復讐か、それとも他にあるのか。ざくっと草木を掻き分ける音がした。振り向いた。女が、立っていた。風が辺りの枝を揺らしている。きっとずっと枝は風の音を立て続けていたのだろう。俺は光を向けた。木の見間違いかとも考えた。筋を引いて明かりは物陰を映す。光を僅かに上に向けた。闇に女の顔がぼうっと浮かんだ。空港の女なのかよく判断がつかない。君は、あのときの少女なのか、あの事故のとき君は何を見たんだ、君の勘違いだ、俺は何もしていない、俺は息を落ち着かせながら話し掛けた。直立したまま女は微笑んだように見えた。私が何を見て、何を知っていても、関係ないでしょ、貴方は今からあの罪の償いをするんだから、女は早口に乾燥した声でそう言い、喉の奥で痙攣するように笑った。なにを…、と言い掛けたとき銃声のようなものが轟き体のどこかに激痛がした。俺は地面に倒れ込んでいた。痛みは左腕だった。傷口を押さえる右手に生温い液体の感触があった。ライトが俺の顔を照らし俺は右腕を目の前に晒し光を遮った。指の間から女がゆっくりと近付いてくるのが見えた。自然に呻き声が肺の奥から湧いてくる。口径は小さい、まだ左腕は動く、脚を折り、俺は飛び掛かる準備をした。俺は冷静だった。銃で撃たれ、倒れ、その狙撃犯が近付いてきているのに、なお、恐怖でもなく、憎悪でもなく、義務を遂行するのに似た感情が俺の心の大半を占めていた。呼吸は落ち着き、動悸も正常より僅かに早い程度だろう。俺は異常なほど静かな精神状態だった。貴方が殺したのよ、あの子を殺したのは貴方よ、明るいライトの後ろで暗い人影が迫る。違う、俺は叫ぶ。俺は飛び掛かる距離を目算する。俺はあと何歩と数える。俺が決めた距離を女が越えた。俺は全身の力で飛び掛かった、女の右腕が動くのを感じた、俺は女の右腕を捻り上げ一緒に縺れ合いながら地面に倒れた、銃線が耳元で炸裂した、何度か横に転げ回り最後に俺が女の両腕を押さえ付ける格好で馬乗りになった。お前は何を見た、俺が怒気を含んだ声で言った。なにもみちゃいないわ、女は吐き捨てた、あんたが崖の上にあの子と一緒にいたのを見ただけよ、だ、だ、だけどあんたが殺したのよ、あの子は、あんたが殺したんだ、激しい息遣いで喚く。女の右腕がびくりと動く。俺は右腕を掴む左手の力を増した。視線を女の右手の先に向けた。小さな拳銃を握っていた。俺は両手で拳銃を千切り取ろうとする。銃声が響いた。女も両手で拳銃を掴むが俺は直ぐに捩じ取れた。取った瞬間、俺は拳銃を遠くに弾いた。女の憎悪に染まった視線が目の前にあった。風がどこかの木の枝を揺らし音を立てている。俺は両手を女の首に掛けた。左腕の血は腕全体をすっかり染めていた。腕を染め終えた血液は女の首も染めていく。やだー、殺さないでよー、突き刺さるような絶叫が素っ頓狂に轟く。息が何色かに染まってる。何色なんだ、暗くてよく分からない。俺の呼吸音が治まっていく。この女の眼は憎悪ではなく恐怖なんだ、命乞いをする飼い兎のあの赤い眼なんだ。俺に服従し、媚びる眼だ。俺は胸の中に生塵芥を入れられたような不快感があった。

 俺は覚めた。なんだか、馬鹿げた非現実的な感じがした。俺は手を離し立ち上がった。俺は言った、このことは、なかったことにしよう、大丈夫だ、君の事は誰にも言わない。俺は背を向けてぐらつきながら歩き始めた。なんだか、とても疲れている。背中に衝撃が走った。俺は激痛に前のめりに倒れた。女の声が聞こえる。声が出ない。土の味がする。妹がどうだとか、ママがどうだとか、どうでもいいのさ、あんたが、誰でも関係ないんだよ、誰でもいいからぶっころしたかっただけなんだよ、世界中の皆がくたばっちまえばいいんだ、俺の中で、女の叫び声に触発され、真っ黒な憎悪が、増殖している、くたばっちまえ、あの女締め殺しておけばよかった、締め殺して、内臓を取りだし、野良犬の餌にでもしてやればよかった、いや、メインストリートで通り掛かりの誰もをきりころしておけばよかったのだ俺の体になにか刃物が突かれ、激痛の中で気が遠くなっていく、てめえなんかとっとと死にやがれ誰の声だ俺のかもしかするとあの女の声がまだきこえつづけているのかも、しれない、鼓動が、とおくで、きこえている。              

 天井がぼんやりと見えた。眩しい白い部屋だった。懐かしいような消毒薬の匂いがした。あっ、やっと目が覚めたのね、と妻の顔が現れた。病院なんだ、俺は助かったんだな。あの女はと俺が聞くと妻は、倒れていたのを見つけられたのよ、他に誰も見つかってはいないわ、と言いながら美代子を、ほらパパよ、と俺の前に抱き上げた。美代子はパパと言いながら、パパ今日忘れ物したでしょう、ほら、玄関に忘れてたのよ、と一通の封筒を俺に差し出した。封筒はかなり古く変色し、水のシミが全面に付いていた。