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山下綺麗の日記 零

 

 山下綺麗、十四歳、今、鏡を見ながら。
 鏡は人を左右対称にそっくりに映す。歪んだ鏡は歪んで、濁った鏡は濁って映す。それでも、私を映しているだけ。
 他人は、自分を映す鏡。いろいろな人が、いろいろな見方をするのも、それは私の一部。私に対しての接し方もそれは私の部分を映したもの。たとえ、誰かが私の思ってもいないことを私が抱いていると言ったとしたら、それもきっと私。
  だから私が私を見つめたとしたら、それも私の一部。私には違いない。だから私は日記を書くことにした。
 十三歳という縁起の悪い年齢がこの間すぎた山下綺麗は、日記を書き始める。
 私は意地悪く高飛車で、それで綺麗。きっとそうだ。でも、私が見つめる私は違う。私は臆病なのに鈍感なだけ。臆病だから鈍感にならなければなかったのかも。
 生まれてから一度もいいこともなく、生まれてから全く悪いことにも出くわさなかった。生まれたことを感謝することもなく、自殺する理由もなく生きている。父親のことも、母親のことも、不幸でもなく、だからといって幸運だともいえない。動く脳死状態。壊死した脳は腐らないのか、腐敗物にたかる昆虫は卵を産み付けないのか。脳を生きている肉体が栄養物として食って、脳がなくならないのか、溶けて消えてしまわないのか。
 私は本当に生きているのか。
 この日記は私が私を映す鏡。私の奥の魔物に会いたい。
 もうすぐ新学年が始まる。

 心のない私が日記を付けるのは、確かに間違い。目の前で人が死んだとしても何も書くことがない。
 元クラスメートのエッちゃんが自殺未遂をしたという噂。 ちかこから聞いた。ちかこは深刻そうで楽しげに私に聞かせる。マクドナルドの明るい店内にお似合いの会話。マクドナルドにはトイレの花子さんがよく似合う。
 自殺が悪い理由なんて、何もないし、でも生きていて悪い理由なら、たまに持っている人がいるかもしれない。生まれたからという理由で自殺はいけないのなら、いつか死ぬという理由で自殺は正しい。でも、生きている人はみんな生きているというだけで生きることを肯定している。自殺を否定している。自殺を肯定できるのは死体だけ。だから生きている人間の書いた自殺肯定論は、みんな嘘だ。自殺して息を引き取った瞬間に自殺は肯定できる。そんなものだろう。誰も本気で自殺を肯定できない、生きているのだから。
 だから自殺を論じることは楽しい。自殺未遂を語るちかこの口元は重そうだが、瞳は輝いている。やはり、うわさ話は十代なら自殺と売春、それ以上なら離婚と浮気に決まっている。

 飲屋街の裏路地の生活臭は、昼過ぎ頃からどんよりと漂い始める。野良犬が似合う場所。公園は幼児たちの野外ベビールームに成り下がり、遊べる場所ではなくなり、狭い裏路地が遊び場になる。舗装されもろいガラス窓に挟まれた、最悪の遊び場。大人たちの邪魔者。親たちはその環境の悪さに機嫌を悪くする。 私にはそんな場所にも居場所がない。
 学校からの帰り道の裏路地は、単なる近道。そこには誰もいないし、何もない。野良犬もゴミを捨てる人も私には見えない。風もなく日も照らない場所。私がそれらを映す鏡だとすれば、それらが私を避けて逃げているから。悲しみはきっと風が運ぶから、喜びはきっと太陽が持ってくるから、優しさは人がもたらすものだから、私にはそれがないに違いない。

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