▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

輪廻

 彼女の甲高い悲鳴が狭い部屋に響き彼女が悪鬼の形相で窓から入ってくるので不快な気持ちで部屋のドアから逃げ出すとドアの外は人一人が通れる幅でアルミ性の螺旋階段が延々と真っ暗な地の底に銀色に続き彼女の声が迫ってくるのが聞こえ恐怖と不快感で螺旋階段を金属音を立てながら降りていくと上の方から大きな金属音の足音のリズムに脳細胞を掻き回すような彼女の叫び声が木霊しながら近づき必死に螺旋階段を下り続けていたが螺旋階段は途中で先が無くなっていて暗黒の闇があるだけになり螺旋階段の終端にねっとりとした炎がぼんやりと静かに燃えて融けたアルミが炎から赤黒く闇に滴り落ちていた。恐怖と肺が萎み無くなるような不快感を感じていた。

 カーテンの外はまだ暗くコンポのタイム表示の青い薄明かりが単色にした天井に波紋模様が次々に浮き出し消える。偏頭痛がする。時計を見ようと見回す。チューリップの造花、猫の縫い包み、壁に架かった制服のセーラー服、一輪挿しの花瓶、猫の縫い包みの白く光る髭、カーテンの皺、チューリップの造花の飾られた一輪挿しの花瓶、暗がりに浮かび消える。コンポの時刻をみればいいじゃない、と思いながらベットの中で偏頭痛と眠気に耐えて自分の髪を掴み引っ張り布団の中で体を縮めこの重い不快な偏頭痛から逃れようと試みて藻掻き続け藻掻くほど偏頭痛は火炙りにされた山姥の呪いのように私に梟の黒い翼を広げ覆い被さり酷く眠く顔が重く苦しい。青く光るドアのノブ。ドアの横に貼られた邦画。あれは蓮だったかしら、白い鳥だったかしら、青い鳥だったかしら、カレンダーだったかしら。闇。闇の中の遠い彼女の金切り声。幻聴に違いない。ドアの横の本棚。題名が見えない。カレンダーの絵は蓮だったかしら、河骨だったかしら。犬の遠吠え。覚めながら浅い眠りと偏頭痛で幾度も寝返りをしながら、また悪夢に誘われていった。

 

 重苦しい音が部屋の中に鳴り響き続けている。半ば睡眠不足と低血圧で偏頭痛の頭を引き摺りながらベッドの頭の先にある目覚まし時計のベルを引っ叩くように止めた。仰向けになり頭に水子霊でも乗っているような重さの頭を這うように持ち上げながら薄目を開ける。カーテンを通して眩しげな光が射し込んでいる。光を覆った手の平の長く深い傷跡。手相を見て貰うとき、きっと日本手相学会で大論争が起こるに違いない(そんな学会があれば)。ベットから倒れそうに立ち上がりミニコンポのパワーをオンにしCDを鳴らす。黒人女性の滑らかな曲が部屋中に満ちる。立ち上がりふらふらと部屋を彷徨う。机の上の大学ノートは昨晩の詩が書かれたページが開かれたままになっている。

 カーテンから猫の鳴き声がした。このアルトの美声はエチオピアに違いない。窓に駆け寄り薄緑のカーテンを開けた。雪豹のような堂々とした薄茶色の長毛を見せびらかし北狐のような豊かな尻尾の先をちょんと持ち上げ振りながらエチオピアが窓の両腕を広げたほど前にある苔が所々生した赤茶色の瓦屋根の上で静かに歌っていた。窓を開けるとエチオピアは獲物を襲うように身をかがめた。すぐに窓の横によけるとエチオピアは部屋の中に飛び込んできた。エチオピアは部屋に飛び込むと直ぐに私の脚に擦り寄せる。柔らかい雌猫の体温が脚に伝わる。一階の裏庭の玄関には猫用の入り口があるが私が起きたときは窓に飛び込んでくる。エチオピアが私が起きたすぐに呼ぶものだからエチオピアは時間が分かるものだと思っていた頃がある。猫の目で時間を計るって話しも聞いたことがあるし体内時計という言葉もある。ありそうな話だが日曜とか休みの日には呼びかけが無いことに気付いた。さては、超能力で私が起きたのが分かるのかと思ったが、よく考えてみると時計のベルを聴いているだけなのかもしれない。

 

     まだ小狐の母親だった頃

     小狐は母狐の尻尾に

     戯れていた

 

     いつの日か

     見知らぬ狐に変化するのも

     知らぬまに

 

     優しく嘗められ

     御機嫌の小狐も

     いつかは彼女の敵になる

 

     その日になれば

     彼女も

     鋭い白い牙をむく

 

     私の縄張りを犯すこの狐

     一体どうして

     くれようか

 

     僕は貴女の子供だよ、僕は貴女の子供なんだよ

     叫びも彼女に聞こえない

     ただただ縄張り犯す敵の声

 

     雑木林にぽっかりと、

     巣穴の近くにある空き地

     毛布のような木洩れ日に戯れていた

 

     あの、優しき日々は

     風船みたく

     飛んで、もどらない

 

 自分で作った詩を眺めながら舌打ちをして「馬鹿みたい」と呟いた。

 椅子の黒猫の絵のクッションをベージュのカーペットの上に投げ脚で中央に合わせる。クッションの猫の頭は窓と反対側の部屋のドアを向かなければならない。窓を閉じカーテンを閉め部屋はカーテンを通した窓からの光だけにする。部屋の電灯ではいけない。パジャマを脱ぎ捨て下着を取り放り捨て裸になる。エチオピアの脇を持ち抱きあげクッションの上に両足を揃えてドアを向いて立ち、エチオピアの顔と私の顔を近付ける。窓の光を反射する大きなエチオビアの両目を凝視する。エチオピアは無防備に私の両手にぶら下がっている。猫の神様、猫の神様、今日も向日葵のような目覚めをありがとうございます、猫の神様のご加護により、昨日も誰にも殺されず、誰も殺さず、自殺もせずに済みました、これからも、よろしくお願いします、と唱え、エチオピアを無造作に投げ捨て、まだ乱れたままの髪を指で梳きながら床の下着を付け直し壁に掛かっている制服のセーラー服を着てエチオピアを抱きあげ部屋の鍵を開け階段を静かに下り一階の洗面所に気怠く恐る恐る向かった。ショートカットは寝癖が付きやすい。伸ばそうかしら。喉が渇いていた。エチオピアの柔らかい熱い呼吸が胸に感じられた。

 

 私が小学生の時に私は家出をしたことがある。

 学校からの帰り道で家に帰るのが私は嫌になった。季節は残暑の頃だった。

 流れる自分の汗が鬱陶しく道路の両側に続く庭木はブロック塀の上からまだ青々と茂り蝉の声も聞こえていた。私はポケットのお金を確かめた。うん、海までは行ける、と私は思った。私はそのまま駅まで歩いた。駅までの道のりは私には遠かった。私が電車に乗るときは太陽はかなり低くなっていた。帰宅の学生や会社員が大勢ホームに集まっていた。電車の中は通学の制服が多かった。灰色や紺色など制服には幾つかの種類があった。屋根やビルが通り過ぎながら赤く染まっていった。明るく事務所の中が見えた。ブラインドとか夜には下ろさないのかしら、と私は思った。ライトを点けた自動車が真下を横切る。降りたときには町並みは薄暗がりになっていた。空は橙色に染まり、海まで歩く道のりに私の影を夕日がアスファルトに長く映した。瞬く間に日は落ちアスファルトを街灯が照らす。私は暗い海に着いた。堤防の手摺りに凭れてアベックが何組も並んで海を見ていた。堤防の上に波音が強く響き続けていた。堤防のガードレールを越えテトラポットの上に私は飛び乗った。遠くの沖で幾つもの明かりが見えた。明かりがゆっくり波間を動いていく。

 私はテトラポットの上に座り込み深い息を吐いた。闇の海になりたい、深海の魚になりたいと、私は思っていた。海は悲しみを飲み込み消え去るというが、飲み込んだ悲しみはまだ海に漂っているのだろう、と私は思った。私の右目から涙が一つこぼれて、それをきっかけに私は声を立てずに泣き続けた。私の喉の奥からしゃっくりが出てきた。しゃっくりは止まらなくなった。海に飲み込まれた悲しみは静かに沈みながら腐敗し浮かび上がる。腐敗した悲しみの皮膚が爛れ骨が見え骨の隙間から内蔵が蠢く。蛆が湧き腐臭を漂わせる悲しみの死骸は呪いの叫びを波音に隠す。彼女の高いヒステリックな声が私の耳の奥から響き私の神経を一本一本切り裂いていく。彼女の叫び声は私の神経を切り裂く度に鋭い痛みを全身に走らせる。私を誰かが解剖するときっと私の内部は至る所で内出血をおこし血だらけだろう。この海は悲しみを飲み込んではくれない、もう飽和状態だ。海にはポセイドンはいない。海神様は悲しみの腐敗した死骸の毒に死に絶えた。心、いや神経繊維が痛い。私にはもう心なんてない。エチオピアが私の目の前に浮かんでくる。エチオピアの温もりだけが私の慰めでエチオピアの鳴き声だけが私との友情の証明だった。エチオピアは夜どこに行くのだろう。エチオピアは何故、ああ悠々と生きているのだろう。エチオピアは何を心の支えにしているのだろう。そうだ、エチオピアは、エジプトで神の使いとされていた猫の末裔なんだ。遙か昔、仏典を鼠から守るために日本にやってきた毘沙門天の化身なんだ。きっと私に隠れて真夜中に猫の神様に会っているんだ。猫の神様って、どんな格好をしているのだろう。黒い衣装をすっぽり被って黄金にエメラルドの王冠、目は青色で毛は長く茶色で所々白髪が混ざっている、神様だから、二股どころではなく、九尾の狐なみに、尻尾は九本で、猫は九つの命があるというから、尻尾の一本一本に命が宿っている、もちろん尻尾も毛はふさふさ、エチオピアと一緒。猫たちは人間が寝静まった夜更けに空き地の隅の茂みの中の猫にしか見えない猫の大きさの穴の中に入いり暫く歩くと真っ暗な狭い穴が急に明るく広い場所にでて、人間の大人程の大きさの猫の神様が二本足で立っている。猫たちは次々に猫の神様の前に座り懺悔とお願いを口にしていく。猫の神様、猫の神様、どうか私の正気を守ってください。猫の神様、猫の神様、猫の神様。エチオピアの温もりが伝わってくる。解放感と安堵感が私を包む。

 嗚咽の中でしゃっくりが止まらないまま私はテトラポットの上で眠りについた。

 辺りの大騒ぎに私は目が覚めた。眩しい朝日の中で警察や釣り人がテトラポットの上の私を見詰めて怒鳴りあっていた。海が光っていた。朝日が海に白い道を眩しく光らせていた。喧噪の中で、また家に戻るんだな、と私は考えていた。

 

 ハンドボールをする殺気立っていながら楽しそうな歓声が響く。学校の二階にある教室からは高い緑色のネットに囲まれた運動場が一望できた。ネットは野球部の練習でときおりファールボールが民家に届くのでバントの練習だけしておけば費用もかからないのに私が入学する直前に増設されたため低いネットと高いネットが二重になっている。端にはまだ季節が早いため水泳部しか使用していないカルキの臭いが漂うプールがある。緑が増えてきた桜の木がネットの内側に並ぶ。花はとっくに散っている。体育の授業でハンドボールをしている。鳩が運動場の上を滑りながら私の直ぐ前を通り過ぎる。私の隣の席は学年が変わりクラスも新しくなってから一度も出席していなかった。佐上純子という名前だった。前の学年では別のクラスだったので顔も覚えていなかった。「篠原さん、篠原茜さん」と若い女教師が叱責する声で私を呼んだ。なにぼんやりしてるんです、来年は受験なんですよ、あっと言う間なんですからね、と説教が始まった。彼氏とうまくいってないんじゃない、と昼休みに教室の端に女子が数人が集まり噂話が始まった。彼氏いるの、いるいる、みたみた、きっとあの人だよ、どんなひと、どんなって・・・。運動場からの賑やかな声が響いている。野球やサッカーのボールが跳ね回っている。「茜ちゃん」と声がした。「ぼっとしてるのは授業中だけじゃないね」と、みんなが笑った。私も愛想笑いをして、ねえ佐上さんって、どうしてるの、ずっとこないじゃない、と訊いた。茜ちゃん、知らないの、登校拒否って話だよ。なにかあったの。わかんないけど、いじめがあったって話しも聞かないしね、と教えてくれた。

 

 学校からの道程が気怠く一緒に帰るクラスメイトの話しは相変わらず退屈で私達は魚食魚に怯える水草の間の小魚みたいに群れて歩きながら他の友人の噂話とか漫画の話しとかしていたが今日の自分が気分と関係なく燥いでいるのが自分を不愉快な気分にした。やがてクラスメイトの群れから一人ずつ減り私も同じ方向の恵理華と一緒に彼女たちと別れて横道に入る。

 「なんだか、茜ちゃん最近変だね」と恵理華が話し掛けてくる。恵理華は背が高く痩せ気味の体型で、セーラー服の短く上げたスカートからは細い真っ直ぐな脚が伸び、中性的な胴から折れそうに細い腕があり、面長の顔に濃い色の横に大きめの唇、細い鼻筋、大きな目で髪は七三に分け肩に着かないぐらいの長さにし先を外にカールさせている。未成熟と成熟の衝突を感じさせる容姿だった。

 「何が?」と私は聞き返す。

 うん?なんとなく、と恵理華が笑顔を作り、相談があれば、聞くぐらいはできるわよ、と続けていった。

 「別に何も」と答えた。変なのは小学生の頃からだ。変でないはずがない。恵理華と私の家はこの辺りで一番急な坂の上の少し高台になった所に何年か前からできた住宅地にある。坂の上の住民たちは皆、緑の垣根と花壇の花と十年を越すローンに囲まれながらきっとそれぞれに重大で深刻な問題を抱えながらも自分の生活こそ平凡で善良なんだと思って暮らしているのだろう。

 ほら、あの家が純子の家だよ、と恵理華が横道の先を指差した。背の低い雑草に覆われた細い道が民家のブロック塀に挟まれ伸び、その突き当たりの家の表札に『佐上』とあった。

 恵理華とも別れて一人になる。アスファルトで固められた駐車場を通り抜けると近道だ。落ち葉が散らばるアスファルトを突き破り細い草の固まりが所々生えている。突き抜けた先の出口の横に大きく蜘蛛の巣状に罅割れながら盛り上がるアスファルトの頂上から八つ手の葉が見えた。罅割れは酷く完全に八つ手に浮き上がっているだけの破片となっている部分もあり、そのアスファルトのごつごつした一抱えもある破片を持ち上げ除けると薄緑の脆弱な色の矮小化した八つ手が歪曲し這いずり、ひよわな植物は運命に流されながら逆らって生きようとして根から憎悪と絶望を吸い上げ全身に流し込み希望と反抗に変えてアスファルトを持ち上げていた。駐車場を抜けるとあとは住宅地の狭い道路が続く。

 私は道を引き返し佐上純子の家の前に来た。民家に挟まれた横道に入った。踏み拉かれた雑草の端にブロック塀に沿って背の高い草が白い小さな花を咲かせていた。門の前に来た。チャイムを押した。ドアが直ぐに開いた。母親らしき人が出てきた。今、私の中には佐上純子が自分と同じ人種なのかもしれないという期待か好奇心と呼べる感情が泥のように湧いていた。母親は、心配そうに私に、純子のお友達、と訊いた。クラスメイトです、と答えた。純子は、今、ずっと入院中なのよ、ごめんなさいね、と怪訝な表情を崩さずに言った。私は、礼をして、帰った。

 自宅のドアを開けるのが憂欝だった。レンガで囲まれた花壇は背の高い雑草が増えてきている。梅雨直前の煙った陽射しは玄関先の植木鉢の植木の緑を鈍く光らせ、その影をより濃く静かに感じさせる。花を植え換える人がいなくなり花だった植物はもう雑草と変わらない程茂ってしまった。もう花を咲かせない。私はゆっくりとノブを回す。なるべく音を立てないようにノブを押した。家の中は静かだった。廊下に応接間から低い父のゆっくりした歌声が微かに聞こえる。テレビから流れる好きな曲に合わせて歌っていると分かる。胃と心臓が重くなった気がしながら二階の自室に向かった。

 ベージュのカーテンの向こうはもう暗くなっていた。虫の音が鬱陶しく聞こえてくる。部屋で日記を書いているとノブを繰り返し回す音がした。振り向いたがドアは何事もなく静寂のまままで気のせいだったかと、また向き直るとノックが二、三度鳴った。「お父さんだよ」と声がした。立ち上がり部屋のドアの鍵を開けに行った。父が入ってきた。なあに、と私は椅子に座り直して訊いた。明日は、お母さんを病院に連れていくからね、茜ちゃんは鍵もって学校いかなきゃね、と父は、優しく私に話し掛ける。彼は私の父親ではない。彼女の夫。そお、と私はなるべく冷たく答える。父はいつものように気弱で優しい笑みで頷く。そして入ってきたのと同じように静かにでていく。私は緊張から解放され、蒲公英の綿毛になったような気分になる。そしてもう誰も入ってこられないように部屋の鍵を掛けに私は立ち上がった。雨音が聞こえだした。机に戻り日記の最後に詩を書き足した。

 

     突然の雨が、

     アスファルトの上を気忙しく、

     足速に歩いている、僕に向かって、

     降ってくる。

     雨は、傍で見るより、冷たくて、

     窓から覗いてる人もいる

     こっそり、笑ってはいないかい?

     雨は細かく、痛くはないが、

     冷たい悪魔は、服に染み込み

     肌を犯し、神経を通り、感情を殺す。

     突然の雨が、

     時間割りを濡らし、

     今日の予定を未定に変える

     今から、僕は何をしなければならないんだろう

     僕の予定は何処に行ったんだろう?

     時間割りを書いたメモを乾かそう

     雨に滲んだ、読めない文字を、

     上から擦って書いてみる

     前の予定と、少々違うが構いはしない。

     灰色の雲が裂け、陽光が差してくる、

     きっと…

 

 窓ガラスを通して聞こえる雨音は密教の呪詛の呪文に似ている。壁のハンガーに掛かっている夏用のセーラー服はパステルカラーの水色をベースにしていて新鮮に感じさせる。この頃ずっと目覚めに軽い偏頭痛になる。栄養が足りないのか睡眠が浅いのかと考えてみる。

 世界中の全ての母親はきっと自分の子供と他人だ。母親たちは自分の遺伝子を残すためにただ生まれてきたコピーを大切にしているだけ。童謡の文句を私は思い出す。『ねえやは、十五で嫁に行き・・・』、きっとそれを越えると、その子は穀潰し、寄生虫と同じ、次の子供を育てる障害にすぎない。子供は一五歳辺りで親から独立するように遺伝子に書き込まれている。反抗期なんて言っているが、あれは寄生虫を追い出そうとする親の迫害と独立期が衝突しているだけ。男もそれくらいまでには元服したり丁稚奉公にいっていた。あの童謡と同じようにするのが自然の摂理に適合している。

 『ねえやは十五で嫁に行きお里の便りも絶え果てた』

 窓の外は暗がりで見えないが密教の呪文のような雨音が相変わらずしていた。

 

 

 朝はまだ晴れていたが中学の下校時間には窓の外は霧雨が煙っていた。私は鞄に教科書とかを詰め込みながら置き傘はあったかしらと考えていた。三階の窓から色とりどりの傘が連なって校門に向かって増殖していくのを、私はぼんやりみていた。私の肩を後ろから叩いて恵理華が、傘もってきたの?と、穏やかな微笑を浮かべて聞いてきた。

 「ええ、大丈夫よ」私は腰掛けたまま体を大きく捻って彼女の方を向いた。「靴箱に、置いてたと思うわ」

 「そう」恵理華は含み笑いをした。「実は、私持って来てないの、途中まで送ってくれない」菩薩のような優しく美しい声だった。きっと、この声だけでこれからの人生渡っていける。

 「いいわよ」私は愛想良く答え「恵理華にしては珍しいんじゃない?」と軽い調子で尋ねた。

 「そう、どうして?」

 「だって、なんだか、いつもきちんとしていそうだもの。落ち度がなさそう」

 「そんなことないわよ」恵理華は悪戯っぽく笑った。

 「ふうん」私は帰る用意が終わったので、鞄をもって立ち上がった。

 恵理華は自分の席に戻り自分の鞄を取ってきた。恵理華と私は教室をでて靴箱のある場所に向かった。靴箱についた。

 私は自分の靴箱を開けた。

 「あっ」私は短く高い声をたてた。

 「どうしたの?」恵理華が横の方で靴を履き替えながら尋ねる。

 「傘がないの」私は情けない声で答えた。「御免なさい。持ってると思ったの」

 恵理華は小さく笑った。「いいわよ。私、今思いだしたんだけど、鞄に傘を入れてたの、忘れてたわ」とまた悪戯っぽく笑って、ほら、と鞄を開けて赤い折り畳み傘を手で差し上げた。一緒に帰りましょ、ね、と恵理華は唇に柔らかな菩薩のような笑みを浮かべた。

 花蟷螂に誘われる蜜蜂のような感覚に陥りそうだった。「ええ」私の声は微かに震えていたかもしれない。

 埃のような霧雨の中を私たちは小さな折り畳み傘の下で寄り添って歩いた。運動場を校門まで色とりどりの傘の細長い群れが続いている。その群れの中に私たちはいた。恵理華は腕を私の腰の後ろに置いた。小さな傘では二人は入りきれないからだとは思ったがいい気分ではなかった。それでも私はそのまま校門を出て、ガードレールで仕切られたアスファルトの狭い道路を歩き始めた。道路の幅は一車線だが結構広く車の通りも多い。私たちの直ぐ横をアスファルトを削るような音をたてて鮮やかな色の自動車が滑り過ぎていく。けっこう水が撥ねる。このまま両手で私が横に突けば恵理華はあのタイヤの下でキロ三〇〇円の肉の塊になってしまうかもしれない。

 「ねえ、震えてるわよ、寒いの?」恵理華が聞いてくる。「それとも、怖いの?」悪戯ぽい笑み。「私、別にあちらの気はないわよ、そんなのじゃないのよ」

 「あちらの気? レズのこと?」

 「そう」

 「そんなこと思ってないわよ」

 「分かってるわ」恵理華は世界中の知識を占有しているような平然とした口調でいった。「ちょっと、鬱陶しい雨だわ」天候に命令するように呟いたあと、私を向いて「よっていかない」と、道路の向かい側のファーストフード店を指差した。「茜ちゃんは、真面目だから寄り道とかしないか?」

 「ばか」と言い返して、思わず挑発的な台詞にのってしまった自分に瞬間に後悔した。恵理華のあの菩薩の微笑がまた浮かんだからだ。もう、仕方がないと考え「あんまりお金持ってないのよ」と答えた。

 「ええ、私もダイエット中だから」と言って、恵理華は横断歩道の前で止まった、全ては決定しているかのように。

 横断歩道を渡って私たちは店の中に入った。入り口のドアと店内に入るドアに挟まれた傘置き場で恵理華は優雅な手付きで傘を閉じ雨水を払い畳んだ。もう一つ奥の部屋に私たちは入った。店内に散らばった白い楕円のテーブルでアベックたちが話し込んでいる。流行の歌が部屋中に然り気なく降り注いでいた。様々な音声が交錯し山林の奥深くに迷い込んだ気分になる。カウンターの上に並んであるメニューの写真を私たちは、しばらく眺めた。私はチーズバーガーに決めた。私が恵理華をみると恵理華も見上げるのを止めて振り向き笑ってカウンターに向かって歩いていった。

 「照り焼きと、」と店員の女の子に唐突に告げ私の方を振り返り「茜ちゃんは?」と聞いてきた。「チーズバーガー」と私は答え「だそうよ」と恵理華は店員に告げた。お飲み物はと店員がマニュアル通りの笑顔で聞いてくる。マニュアル通りというのはいいものだ。日本人もアメリカ人の真似をして恋愛から自殺の方法まで全国共通のテキストを作成すべきだ。

 「私は、苺シェイク、茜ちゃんは?」また、私に尋ねる。

 「オレンジジュース」

 「あら、渋いのね」

 「なにが」その自分の口調が向きになってるようで嫌悪した。

 ポテトはいかがですか?の店員の声に恵理華は「いらない」と答えた。注文は直ぐにきた。私たちはそれを、盆に乗せて、開いてるテーブルに運んだ。席は店の真ん中付近で辺りのアベックの話し声が四方から聞こえてくる。私たちは向かい合わせに座り、いつものような他愛ない話を始めた。

 「ねえ、みんな、どうしてこんなもの食べると思う」と恵理華が照り焼きバーガーを口にする。

 「美味しいからでしょ」私が打っ切ら棒に答える。

 「美味しい? そうかしら、味だけなら他にも美味しいものはあるだろうし、美味しくたって、結局、意味はない訳だし、栄養はあまりないし、健康には悪いはずだし、あれだけダイエットが流行ってるのに、みんな太るために食べるようなものじゃない?」

 「人間て太るものよ、それに栄養とかってゆうのより、ずっと昔からキロジュールの方が重要だったんじゃない」

 「そういうことは言ってないわ、今、こんなものをみんなが食べる合理的な理由がないってことよ」

 「合理的ときたか」

 「知的でしょ」

 「ま、理由とかじゃなくてね、本能みたいなもの」

 「本能ときたか」

 「うん、人間が太るのは、本能なのよ、遺伝子の命令に従ってるだけなのよ」そう言って私はコップのオレンジジュースのストローを咥え一口飲んだ。甘ったるい香りを感じた。 茜ちゃんて面白いね、と窓が軋むような声で恵理華は笑った。

 「なにが?」私は恵理華が私を怒らせようとしているのではないかとさえ思った。

 別に怒らせようとしてるわけじゃないのよ、と恵理華はまだ笑いを含んだまま言った。

 「怒ってなんかないわ」

 「だったらいいんだけど、でもね、私って本能に勝ってるわよ」

 「え?」

 「食欲にも、なんでも、私は肉体の欲求を押さえ込めるの、理性というか、大脳皮質でね」

 「そのまま、死ぬまで走れといわれたら走れる?」

 「ええ」恵理華はあの笑みになった。そして続けて言った、茜ちゃんて、あんまりこんなところ来ないんじゃない。

 そうね、でもどうして、とできるかぎり平静に尋ねた。この店は意外と狭いことに気付いた。後ろのアベックのしている同級生らしい女性の噂話の内容がはっきり聞こえてしまう。外とはガラスの壁で隔たれている。外をゆっくりと次々に歩き過ぎていく人々。恵理華が何か話している。私に対して話してくれているんだ。誰も構わないでほしいと、突然思った。恵理華が黙った。彼女と真正面で視線が合い続ける。後ろの会話は、なんだかくだらない映画の話しになってた。

 恵理華は最高の無邪気な笑顔をみせ、「茜ちゃんて、とっても素敵よ」と言った。

 え、と声を出し私は自分の鼓動に聞き入った。

 貴女は人を引き付ける残酷な魅力があるわ、と言った恵理華の声は今から戦場に出掛けるかと思うほど落ち着いていた。

 「残酷? 残酷ってなによ」私は恵理華に早口に言い返した。

 「懐いてる猫を蹴飛ばすような感じがあるわ」

 「はあ?」

 「いいのよ」そう言って恵理華は残りを食べ始めた。それ以上は私も話を止めて食事を続けた。チーズバーガーは意外に美味しかった。食べ終わって恵理華のゆっくりした食事を観察していた。恵理華は私の方をちらちらと見ながらも決してその速度を早めようとはしなかった。私が彼女を見ることが、彼女にとって圧力にならないことは、私にとって居心地を随分良く感じさせた。満腹感と恵理華の落ち着きが、精神を安らかにしてくれる。恵理華は、途中で食べるのを止め立ち上がりながら「帰ろうか」と言った。

 「最後まで食べないの」

 「飽食の時代の少女だから」恵理華はそう言って笑った。私も立ち上がり、一緒に店を出た。辺りは雨上がりの風景だった。アスファルトは群青色に濡れ、道路の端に濁った水溜まりが続いていた。道路の両端の家屋を網のように結ぶ電線の至る所から滴が不規則に落ち続けている。私たちは舗装道路の水溜まりを避けながら歩く。一台の乗用車が水を撥ねながら行き過ぎていった。

 

     ほらほら満月

     あらあら月光

     ちらちら何かが動いてる

 

     くるくる鼬か

     ぴんぴん兎か

     ぽんぽん狸がばかしたか

 

     かんかん太陽

     どんどん照って

     はきはき色々走ってる

 

     わんわん子犬が燥いでる

     きりきり小鳥が騒いでる

     さんさん太陽照りつけて

 

 

 夏休みが近付く頃、父は会社を辞めた。これからは自宅でできる仕事を貰ってくるそうだ。いざとなれば家を売ろう、そう父は笑って言った。今はお母さんと少しでも近くにいてあげたい、そうとも言った。私は別にどうでもよかったので、「お父さんの好きにしていいわ」と答えた。父は深刻そうな表情で「茜にも苦労を掛けるね」と時代劇に出てきそうな台詞を言った。私は何日間かその言葉をときおり思い出し、そのたび不快な気分に覆われた。

 

 忘れられない言葉がある。誰もが、なんて、決め付けないけれど色んな人が、色んな言葉を、一生、胸の鼓動の鳴る近くの横隔膜の陰にでも隠し持っている。素敵な台詞か、残酷な文句か、だけど、平凡でも忘れられない言葉もある。理由もなく忘れない言葉もある。彼女が、私の名前を最後に呼んだ日、窓の外はきっと、小雨が降っていた。茜ちゃん、傘、持っていきなさい。きっと、あれが、最後の言葉、母親として彼女の。きっと彼女は、私の名前をそれ以来、呼んだことがない。

 彼女はもともと小学生の娘がいるにしては無邪気な言い換えれば幼い印象さえうけるような穏やかな容貌の持ち主だったし年齢並みの老け方はしていたが、おっとりしていて世の中の繁雑な出来事と無関係の異次元に住んでいるようだった。毎日、夫と娘のために手を抜いた朝食を造り、車庫を作ったため殆どなくなり玄関先に辛うじて残っている庭を季節毎の花で飾るのを彼女は唯一の趣味にし、その生活を退屈だとも壊したいとも変化をつけたいとも考えたことが一度でもあるとは私には思えないほど静かに朗らかに彼女は生きていた。

 

 風が庭先の立ち木を揺らし嘲笑うような音を立てる。夕暮れの蒸し暑い陽射しが風で揺れる立ち木に当たり夕日の赤い色がその何十も揺らめく葉の上で点滅する。私は玄関の戸の鍵を開けて中に入った。私は無言で靴を脱ぎスリッパを履く。足音を忍ばせ二階に上がる。階段を登りながらどこかの部屋で叫び声がするのが聞こえた。彼女の声だ。彼女が二階に上がっているのならこれ以上登るのは止めなければならない。立ち竦み耳を澄ます。貴方、貴方はどこにいるの、父がどこかに出掛けているらしい。台所の方向から声が聞こえる気がする。音の発生源は二階ではないと判断できた。

 二階に上がり部屋の鍵をかけた。鞄をベッドに投げ出し、CDケースから「POISON」とタイトルの書かれたCDを取り出しコンポにセットした。女性シンガーの神経にまで響きそうな甲高い声が流れてくる。同じソプラノでも大違いだ、不快感がない。私は制服のまま鞄の横に俯せになる。このグループはまだ続いているのだろうか、とっくに解散してしまった気もする。いいボーカリストだわ、なにかくだらない映画にも出ていたっけ、でも誰かあの映画はいいって言ってたっけ、そうだわ私、あの映画は見てないんだわ、レンタルしてこようかしら。しばらく私はそのままでいた。このまま溶けてベッドの染みになりたいと思った。永久にこのままでいたい、そう思った。その望みは適いそうもなかったので私はベッドから跳ね起き、Tシャツとジーンズに着替えた。机の中から日記にしているノートを取り出し、椅子に座って思い付くままに詩を書いた。

 

       風は夏に死に絶える

       蝉の声に殺される

       だから、あの蝶は孤独なのだ

 

       あの黄色と橙色とメタリックブルーの

       あの蝶は風がないから

       あれほど幸せそうに孤独なのだ

 

       ああ、しかし風は夏に蘇る

       夕暮れのあの次々に変わる空の青さ赤さと共に

       蝶はきっと風に吹かれて死亡する

 

 書き終えて自分でもよく意味が解らない。馬鹿みたいと私は呟いた。ノートを閉じた。立ち上がってベッドの上の鞄の中から数学の教科書とノートを取りだし机の上に投げた。ノートは机の上のブックラックにぶつかり跳ね返り絨毯の上に落ちた。教科書の方は捩じれながら机の上に止まった。私はまたベッドの上に俯せに飛び乗った。皆くたばっちまえ、私は目を閉じて呟く。彼女の喚き声が不意に近くで聞こえた。私は慌てて飛び起き、部屋の鍵を確かめた。くたばっちまえ、ドアの前で頭をドアに押し付けながら、また呟く。これは呪いの呪文なのかもしれない。

 あ、電話が鳴っている。耳を澄ませていたせいでそのことに気付いた。部屋の外に出る気はまったくなかった。電話は鳴っている。誰が出るのだろう。私は石だ、私は彫刻だ、私は大理石だ、私はマネキン人形だ。突然、電話の音が大きくなり私の体はバネ仕掛けのように、びくりと直立した。鼓動が、感じられるほど、高まっている。電話の音は、この部屋からしている、ああ、そうだ、この部屋にも子機を付けたのだった、暫く親機に誰も出ないとここの電話に回ってくるのだった、はは、と笑ってベッドの端の電話機のところへ行き、ベッドに座って受話器を取った。

 「はい、どちら様でしょうか?」と言った。悪戯電話を用心して名前は先に言わないようにしている。

 ”あら、茜ちゃん、元気してる”恵理華の透明な声がした。

 「あ、恵理華? 元気してるって学校であったでしょ」

 ”挨拶よ、挨拶、ねえ、今から会わない?”

 「会わないって、今からじゃ無理でしょ、何言ってるのよ」

 ”やっぱり真面目ね、茜ちゃんて”

 「真面目って、貴女が不良なんでしょ、今取り込んでいるんだから」

 ”ま、私、不良って呼ばれるの好きよ、何だかわくわくする言葉よね、で、取り込んでるから、そこ出たいんじゃない、ね”

 「そんなこと、ないわよ、不良、不良、不良、お気に入りの言葉なのなら何度でも言ってあげるわよ、これ、切るわよ」

 ”なに、怒ってるのよ”

 「怒ってるわけじゃないわよ」

 ”じゃ、また誘うわ”

 電話は切れた。ベッドに仰向けになり手を伸ばして鞄を取り学校の図書室から借りてきた本を取って読み始めた。この作者は短編しか書かなかったので未だに読み継がれている。『くたばってしまえ!』と主人公はロシア人の書いた本を『力いっぱい』放りつける。この主人公は、憂欝らしい、不機嫌らしい、私はその言葉が気に入った。そうだ、くたばってしまえ、とっとと、くたばってしまえ。読み進めていく。

   けれども偶然僕の読んだ一行はたちまち僕を打ちのめした。

    「いちばん偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません」

 この一節にとても感謝し俯せになり読み続ける。この作品は彼の最高傑作に違いない。主人公は気に入らないが、私は主人公が子供向けの『ギリシャ神話』から見付けたこの一行でこの作品は読まれる価値があると感じた。しばらく読み進んでいく。ふとノックの音に気付く。その紳士的なノックの音で、彼女の立てているものではないことが分かる。本をベッドの上に伏せ、ベッドから降り、ドアの前に行った。

 「お父さん?」

 「ああ、食事にしないか」

 「お母さんは?」

 「食事が終わって落ち着いてる」

 「そう」と言ってドアの鍵を外しドアを開けた。父のなんだか情けない顔がある。父と階段を降りる。あの主人公はどうして、あんな素敵な言葉に『打ちのめ』されたのだろう。『復讐の神にはかないません』なんて素晴らしい言葉、どこかの詩人のふりをして祝福の詩でも作ろうかしら、ああ、なんと素晴らしき詩、なんと心打つ言葉、我はそなたに千本の薔薇と百を越える賞賛の接吻を与えよう、だがしかし、そなたは死んでいる、なんてね。ダイニングルームのテーブルの上にはいつもの定食屋の黒い弁当箱が二つ並んでいた。蓋をとると、唐揚げ弁当だった。私たちは向かい合ってテーブルの前の椅子に座った。

 食べながら私が聞く、「ギリシャ神話の一番偉い神ってなにかしら」

 父は「それは、ゼウスだろう」と答えた。

 「やっぱりゼウスよね、じゃツォイスの神ってゼウスのことかしら」

 「なんの話しだい?」

 「小説の一節にあったのよ、一番偉いツォイスの神より復讐の神の方が強いって」

 「いったい何の小説だい」

 私は笑って答えなかった。答えたくなかった。そう、私の世界は誰にも犯させない、そういった決意が私の中にあった。それこそが私の孤独を保証するものだ。

 「お父さんは、どんな小説を読んでたの?」

 「あんまり、小説は読んでないな、歴史物とかかな」

 「まったくの、サラリーマンだね」

 「うん、まったく、普通のサラリーマンだ」そういう、父の笑顔は随分哀しく、情けない表情に思えた。疲れている、と思った。

 「ちょっとは、文学って顔してるの読まなくっちゃ」

 「そうかも、しれないな、今頃になって思うよ」

 私は優しく微笑んで食事を続ける。「明日は店屋物じゃなくて、私が作ってあげるね」 「茜は、そんなこと気にしなくていいから、しっかり勉強しなさい」

 「こんな食事ばかりじゃ、私の健康に関わるわ、老い先短い老人はともかく、私は一八五センチを越えてスーパーモデルになるつもりなんだから」

 「なれないよ、お母さんは、そう身長は高くないからね」と父は小さく声を上げて笑った。その言葉は私をとても不愉快にした。私の気分が分かったのか父もそれ以上なにも言わなかった。

 父の方が先に食事を終えた。私は黙って食事を続ける。エチオピアが現れ私の脚に擦り寄る。立ち上がり戸棚から缶詰を取り出し開けて猫用の皿に出しカーペットの上においた。あの主人公はどうして、あの台詞を気にいらなかったんだろう。ゼウスでさえ復讐の神にはかなわない。どうして私はこの台詞に惹かれるのだろう。まるで私を称え励ましているようだ。食事を終えて私は、御馳走さまと言って椅子を立った。エチオピアも食べ終わっている。エチオピアの皿を片づけた。部屋に戻る。ドアの鍵を掛けベッドに寝そべる。伏せてあった小説を取り続きを読む。この作品は『誰か僕の眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか?』で終わる。私が締め殺してやろうか。こんなことを思うような主人公だから、あの台詞が不服なんだ。ああ、誰か彼女が眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか? 本を机の上に軽く投げる。うまく乗った。ベッドの上に大の字になっていると段々と眠くなる。ゼウスよ、私に復讐の神を紹介してくれ。

 とても眠い。瞼を開けると電気が付けっぱなしで眩しいし、パジャマにも着替えてない。でも気が遠くなるように眠かった。私はやっと立ち上がり電気だけ消して、またベッドに倒れ込んで寝た。

 

 

 終業式が終わって蝉時雨が降る欅並木道の正午の木洩れ日の歩道を恵理華と並んで歩いていった。陽光に当たり晴れた空に両手を広げたように真っ直ぐに竹箒形に広がっていく茂った緑の枝が濃淡に翻る。光に翻った木々はこの通りを遠くまで薄い日陰としながら続いている。広めの歩道の空を覆い木洩れ日を散らす。この通りは美しい並木のために人気が高いそうだ。ニュース番組で言っていた。

 恵理華は私に「ねえ今日は帰ってからどこかで待ち合わせしない?」と話し掛けてきた。木洩れ日にときおり恵理華の顔に光がさす。

 「別にいいわよ、なにするの?」と私は恵理華の顔を覗く。

 「ショッピングでもしょうか」と恵理華は意味もなく笑った。

 「街へ繰り出すわけね」

 「そう、ぱあっと、辛いことを忘れてね」

 「なにか、辛いことがあるの?」と私は笑いながら言った。

 「熊本弁でね、ひゅんごつ、とか舞うごつ、だごんごつ、山んごつとか言うぐらい」 「なにそれ、熊本に住んでたの?」

 私の質問には答えずに恵理華は話し出した、「ひゅんごつ、というのはね、ひゅんて蠅のことらしいの、蠅みたいにいっぱいっていう意味、舞うごつ、というのはあんまり沢山で空を舞ってしまうぐらい、という意味なの、そしてね、だごんごつというのは団子、皿に山盛りに盛った団子のようにいっぱい、という意味、山んごつは山のように沢山という意味なの」

 「山のようには使うわよね」

 「宿題のように、小言のように、校則のように」

 「みんな沢山あるわよね、ねえ知ってる? 生徒手帳の校則にね、いつもお金は持っていることっていうのがあるの」

 「そう、現金はなるべく持ち歩かないようにって、いつも言ってるのにね」

 「きっと、ずっと前にできた規則なのね」

 恵理華は微笑みを浮かべて答える、「日本の国って、自分の昔の間違いを認めたがらないの、言い訳もしなくて自分の意見を変えちゃうなんて…、自分の言動に責任を持たないのは、この国の特徴だわ、あの教師たちだって親だってきっと、みんな同じよ、他人には責任とかなんとか言っておきながら、ほら、全共闘とか知ってる、昔、大学生たちが学校を封鎖したり、角材振り回したりして、馬鹿騒ぎしたのを」

 「ああ、あの『赤頭巾ちゃん気をつけて』にでてた東大が封鎖されたりしたのでしょう、主人公がそれで大学いくの諦めるんだ」

 「まったく、今の大学を間抜けにしたのは、きっと彼らだわ」

 「楽になってよかったじゃない、そんな正義感じゃ世の中、渡っていけないよ、あと何年かしたら私たちも行くかもしれないんだから」

 「茜ちゃんて理想家だと思ってたけど、そうでもないんだ」

 「どうして、理想家だなんて思ったの?」

 「妥協が嫌いでしょ」

 「妥協の塊よ」

 そうかしら、と恵理華は微笑んだ。

 信号に引っ掛かって私たちは立ち止まった。私は日光を避けるため街路樹の影に下がった。街路樹の幹には蝉の殻が二つ低い場所の近い位置についてた。殻の背の割れ目はまだ瑞々しく今朝羽化したばかりだろう。この蝉はコンクリートとアスファルトで固められた町中の僅かな街路樹の回りの土の下に眠り続けていた。きっとまだ朝早いうちに蝉は何年もの暗闇から金色の光の取り巻く世界に登ってきた。よく見るとまだ足の一本一本まで生々しく背中の割れ目さえ気が付かなければまだこれから羽化しようかとするところに思える。羽化するときの蝉の色は人工でも自然の中でもあまり見ることができないほど新鮮で淡く混じりのないパステルグリーンをしている。あの色を生で見たときには自転車から降りてしばらく見入っていた。コンクリートのブロック塀に止まり薄茶色の蛹の殻の背から体半分ほど抜け出てその朝焼けのように一時的な色を、何十分かじっと見ていたが、なかなか進展しそうになく(そう暇な身分でもないので(それでも何十分も見ていられるぐらいの暇人ではあったが))私はまた自転車に乗って去っていった。あの色がつい何時間かまえにここで産まれ消えていっただろう。

 「なに、そんな抜け殻見てるの」恵理華が不意に話し掛けてくる。

 「あと、一週間足らずの命なんだなって、命の儚なさを思っていたわけよ」

 「儚ないわけじゃないわ、きっと、ただ比較的に短いだけ、私たちの人生も短いものよ、学生の頃を過ぎてきっとそう感じる時がくるの、人間て山を登るときは長い時間にかんじるものだけど、下り坂は、あっ、と言う間よ、蝉が地上にでて短いように」

 「私たちはまだ、地下二階にいるの?」と私は笑って続けて言った、「今が一番日の当たる季節じゃない」

 信号が変わって私たちはまた歩き始める。横断歩道を渡って欅並木は終り、カナリアポプラの街路樹が続く。街の端を掠めたあと、住宅地に向かって道は徐々に上り坂になっていく。歩道と車道の境は一本の白い線だけになる。緩やかな坂は何度か大小に勾配を変えながら住宅地に続いていく。

 「あ」と私は小さく声を上げた。

 「どうしたの?」

 「ううん」急に思い出した。ゼウスさえも復讐の神には敵わない、どうして、この言葉にあの主人公が『打ちのめされ』たのか、彼は復讐される者だったんだ。なにかしらないが、彼には酷い加害者意識があった。そして、私には、私の肋骨の内側には、凄まじい被害者意識がある。私は復讐を誓う者だ。『毒虫』になろうが、理由も分からない裁判で『犬のように』処刑されようが、結局、不快感と反発だけで充分な抵抗ができなかった主人公を描いた作品をかいた人がいたが彼のテーマにも復讐はなかった。主人公は反抗はできないし、そういう被害者の立場になった理由は分からない、興味もない、そう、なるべくして、なった、この本の解説に哲学者が唱える実存も不条理もたいした意味はない、そんなことは白亜紀から分かっていたことだ、人は理由もなく産まれ、きっと理由を造り生きていく。その中で偶然に悲劇が降り懸かろうが、どういう因果があるのか、雨は降りたい時に降る、土砂降りに濡れるのは本人の責任ではない、責任は傘を持っていなかったことだ。

 彼女が私の顔を見るなり、目を見開いて悲鳴を上げるのも、私の責任ではない、私はその時まで、彼女に姿を見せてはならないことを学習してはいなかったのだから。

 あの日、私はいつものように、小学校から帰りただいまと声を上げて家に入った。誰もいないのか、と私は思った。玄関から真っ直ぐ廊下を歩けば二階に上がる階段がある。そこまで彼女に見付からなければいい、そう私は思っていた。しかし一方できっとまた笑顔で母子の会話をできるときがすぐにくると私は信じていた。偶然に出会うことを私は希望していた。きっと、彼女はもとに戻ると私は疑わなかった。もとの母親に彼女は帰ってくる。

 私は靴を脱いで玄関から家に上がった。廊下を足早に私は歩く。誰、と声が響いて廊下の横のドアが激しく開き、彼女が飛び出してきて振り返り真っ直ぐに私を見た。震える微かな声で彼女は、どなた様ですか、と私に聞いてきた。血液だけではなく、筋肉も内臓も、皮膚も、皮下脂肪までが凍り付く気が私はした。あのとき私の皮膚をちょっと突いただけで、きっと薄氷のように蜘蛛の巣状に罅割れていっただろう。ぱらぱらと皮膚は剥がれ落ち凍り付いた筋肉繊維が露わになる。彼女は随分若くなったように私には見えた。誰よ、貴女、誰よ、彼女の声が次第に高く大きくなる。私は彼女が変わってから始めて声を掛けた、お母さん、と落ち着いて静かに言ったつもりだったが震え声になった、お母さん、私よ、茜よ、お母さん、静かに、とても静かに震え声は響いた。彼女は悲鳴を上げた。首を絞められた鵞鳥のように彼女の悲鳴が甲高く不愉快な音声で、あう、あ、あ、と口籠もり吃りながら、出てきたばかりのドアの中に逃げるように彼女は戻っていった。

 取り残された私はまた歩き始めた。開けっ放しのドアの前を通る前に少し立ち止まりまた横を振り向かず歩こうと私は思った。やはり私が彼女に会うのは間違いだった、きっとまだ早すぎた。

 私がドアの横を過ぎる時に濁った叫び声とともに固い物が肩口に飛んできて、当たり、痛み、床に落ちた。私は当たったものが何か、落ちた音がした床を見た。床に転がっているものは目覚まし時計だった。貴女は誰よ、なぜ来たの、なんのために来たの、私の邪魔をしないで私はただあのひとと慎ましく生活していきたいだけなのだから、そっとしといてよ、段々と彼女の泣き叫ぶ声が激しくなる、私たちの邪魔をしないでよ、あの人を取らないでよ、あの人は私の大事な人なの、あの人を奪わないでよ、私の方を目を見開いて見詰めながら彼女は黒光りする鎌のような声で泣き叫ぶ。彼女は両腕は駄々っ子のように振り回し、ときおり偶然に手に触れる物を、その部屋はもともと彼女の部屋で、テーブル掛け、鏡台の上の化粧品、口紅や化粧水の瓶とか、昔の婦人雑誌とかを私に投げ付ける。その殆どが床に当たったり、見当違いの壁にぶっかったりした。私は、直ぐに正気になり、そのまま走り出し、階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込み、鍵を掛けた。彼女は私の知らない女性だ、私とは無関係の女性だ。呼吸が乱れていたのは、階段を駆け上ってきたせいだと私は思った。私の心臓は憎悪という陶器に固められ鼓動をしなくなった。心臓から憎悪は血液になり全身に流れ私の全身は憎悪で創られていく。私は全身の皮膚から滲み出る血液で血塗れに立ち竦む。

 「じゃ、忘れないでね」恵理華の声が響く。

 「え、何を?」

 「帰ってから、待ち合わせするっていったでしょ」

 「あ、そうね、で、どこで」

 「じゃ、いいわ、私が迎えに行く」

 「でも、私の家、知らないでしょ」

 「知ってるわ、大丈夫よ」

 「そう」

 恵理華と私はバイバイ、またね、と挨拶をして別れた。

 

 別れた後、家に来られたらまずいな、と思った。失敗した。それからあと僅かの家路が重くなった。太陽があまりに強かったので立ち並ぶ住宅の影を選んで歩くことにした。日向にでると内部から溶けて干涸らびてしまいそうだった。自宅につき、鍵を回しドアを開ける。何も言わずそっと玄関を上がった。いつものように足音を忍ばせる。この家には悪霊が取り付いてる。どっかの霊媒士にお払いを頼んだ方がいい。空気が澱んで重すぎる。頼む時は金は払ってはいけない。金を取る霊媒にはまともな霊は近寄らない、また悪霊が一匹、増えるだけだ。通っている廊下の横のドアが開いた。ぎくりとして立ち止まった。凍った皮膚がぼろぼろと禿げ落ちる気がした。出てきたのは父の方だった。

 「ああ、茜か、泥棒でも入ったのかと思ったよ、帰った時には、ちゃんとただいまって言わなきゃ」

 それを説明するのも鬱陶しく父親の鈍感さに不愉快になった。父の言葉には答えず「あとで友達がくるから、お母さん、ちゃんとさせといてよね」と言い捨てて、そのまま通り過ぎた。自室に入り鍵を掛けた。イージーパンツと大きめのTシャツに着替えた。Tシャツにはアメリカアニメの犬の絵がプリントされている。別に好きなキャラクターでない。そのアニメは私の嫌いな方だったし、ただあるから着ているだけ。ノートを取りだし机に広げる。

 

     私は復讐の女神

     憎悪に心臓を焦がす君に

     祝福の接吻を与えよう

 

     私は復讐の女神

     ああ、重なる恨みに肺臓を詰まらせる君に

     親愛の抱擁を与えよう

 

     ああ、私こそが復讐の女神だ

     誰かあまりの殺意に涙する者はないか

     汝とともに泣き暮れよう

 

     私が復讐の女神

     漆黒の谷底にて復讐を誓え

     汝とともに私が寄り添おう

 

     憎悪にまさる情熱はない

     復讐にまさる思想はない

     殺意にまさる感情がどこにある

 

     私が、ああ、私こそが復讐の女神

     私に敵う神はなく

     ただ、ただ私と視線を逸らせよ

 

 ベッドの上に寝転んで、学校の図書室から借りてきたばかりの『城』を開く。彼の作品は2冊しか知らないが。一冊目は主人公が『毒虫』になって家族から迷惑がられるのだったと記憶を辿る。ゆっくりと読み進める。この人は味のない文章を書く。もう少し綾とか技とかなければ退屈になってしまう(きっと翻訳者が下手なんだわ)。私はとっとと本をベッドに伏せて立ち上がった。父がいるのだったら彼女も大人しいだろうから、一階に降りて恵理華を待ってようかしら、別にあの彼女と顔を会わせるような事態にはならないだろうし。でも父が無神経に対面させてしまったら最悪だ。私は彼女に合わせて今度こそ暴れてやる。あの、『奇跡の人』のヘレン・ケラーの役者のように椅子を床に叩き付け、テーブルを蹴倒してやる。

 いまさら母親に戻れなんて赤ん坊みたいなことは願わない。迷惑になるな生活を叩き壊すな関わり合うな。もう貴女とは他人なのだから。今日は静かだ。遠くで蝉が漏電したコンセントのような音でけたたましく騒いでいる。窓を開けると意外と近くで例えば窓の横の壁とかで鳴き騒いでいるのかもしれない。クーラーの音が耳障りだった。父親と会うのも気怠い気がした。でも、恵理華を彼女と会わせるわけにはいかない。『城』は夏休み中に読みおえればいいだろう。宿題の読書感想文もこの本のことをしおらしく『被害者意識』とか『不思議な』とかという表現でごまかしておけばいい。思った通りに、『馬鹿だ』『違う』『甘い』『復讐しろ』などと書くほど正直には育てられていない。今日貰った通知表を眺めていたが、親の判の欄を見付け鬱陶しい気分になった。父親にどう話してなにを聞くことがあるのだろう。彼はただの養育係にすぎない。私の人生は私にしか決定できない。

 退屈だ、これからの何十日の夏休みをこの退屈が覆う。鞄から今日貰った宿題とかを取り出す。

 「馬鹿みたい」と声に出す。たかだか地方公務員の端くれ平凡なサラリーマンがそんな苦労をして宿題用の問題など作らなくてもよさそうだ。教師なんて、みんな馬鹿な管理主義者だ。髪形を揃えようがスカートの丈を守らせようがピアスを禁じようが、万引きも苛めも自殺者も減ることはない、増えることはあるかもしれないが。

 ベッドに腰掛けぼんやりとカレンダーの蓮の邦画を凝視する。絵の水面は泥で濁り、白鷺が斜め上を見上げている。花は咲いていない。所々、泥水は白く波が光っている。このまま時間が絵のように固まってしまえばいい。

 しばらく何も考えずに静かにいた。

 彼女はときおり父がいなくなると暴れる。父が側にいるときには猫のように体を擦り寄せて恍惚とした半目の表情で他になにも感覚器官に受け入れない。しかし父がずっと家にいるわけにはいかない、彼女が眠り込んだりしたときに、彼女は一日の半分以上を浅い眠りに費やしている、そのときにそっと外に出ていく。買い物とか、仕事の打ち合わせ、仕事は決定したら自宅でずっと行えるのだが、そんなことで父は外出をすることがある。目を覚ましたときに傍らに父が居なかったら、彼女は弱々しく泣き始める。立ち上がり探すことさえ彼女は考え付かない。物音に敏感でなにかの拍子に泣き喚きながら、家中を探し回る。

 私が一階に降りて行ったときに彼女に出会ったことがある。危険物に遭遇したと私は思った。私は父親の気配を私は探ったが、それより先に彼女は私に掴み掛かってきた。貴女誰よ、どうしてここにいるのよ、神経に直接触れるような不快な甲高い彼女の声。危険ということよりも、今、父親は外出なんだとしか私は思わなかった。彼女の私への攻撃方法は単純だった。彼女は両手を不器用に振り回すだけだった。ただ、妙に酷く私は苛立たしかった。どうして、あの人は私の大事な人なの、私から奪わないで、盗まないで、その玩具をデパートでねだる子供のような不快な彼女の表情を、殺人鬼のナイフのような血塗れた彼女の声を私は嫌悪した。般若の顔になった彼女が恐ろしく深く暗い憎悪を私に沸き起こさせる。両手で彼女の手を私は避けながら、くたばっちまえ、と頭蓋骨の中で、くたばっちまえ、と私は叫び続けていた。なんだ、私の前で喚き立てているのは、いったいどこからきた旅人なのか、さっさとどこかへ、この家の他ならどこでもいい、消えてしまえ、二度と私の前に現れるな。どこまでも哀しみに似た憎悪が私の下腹部の内臓から癌細胞のように増殖し様々な内蔵に転移していく。この人の前にいることは私には一人よりも孤独、孤独よりも寂しい。私は、ふと、気付くとベッドの上に腰掛けたまま、両手を合わせ、忌まわしい記憶に憎悪を叩き付けていた。

 いつからか彼女はだんだん無口になっていった。

 一日中応接間のソファーの横で彼女は座り込み続けるようになった。その焦げ茶色のソファーを彼女は毎日ゆっくりと撫でるように人差し指で掻き続ける。白いテーブルと焦げ茶色のソファーの間から眠そうな表情の彼女が私は観察できた。今でもあるそのソファーの横のその位置は次第に薄くなり一センチ程裂てしまった。その裂け目を彼女は延々となぞり擦り続けた。彼女は食事もとらなくなった。父は座り込んでいる彼女の横に行き自分で作った料理をスプーンで口に運んでやるようになった。差し出されたスプーンを彼女は死にかけた犬のように咥える。私はそれを無感情に眺め続けた、毎日、毎日。

 父がいないとき彼女はソファーの陰から追い詰められた猫のような視線を私に向けるようになった。怯えたような、それでいて挑戦的な視線を彼女は放ってくる。

 私は彼女が母親でなくなったことをまだ理解できていなかった。

 その朝に私は顔を洗って歯磨きを終えてダイニングルームにパジャマのまま行った。ダイニングルームの私をソファーの横の彼女が隣の応接間から睨んでいた。私は応接間の入り口のドアを閉めようかとも思ったが、面倒なので放っておいた。彼女は絨毯にべたっと座り込んだまま女狐のような視線を私に向けていた。私はテーブルの上のテレビのコントローラーを取りパワーをオンにしチャンネルを幾つか変えて決めた。私は棚の上の食パンと赤いオーブントースターを木製のテーブルの上に降ろし冷蔵庫からマーガリンとトマトを取り出した。その食パンを一枚取り出しマーガリンを塗りオーブントースターに入れスイッチを私は回した。冷蔵庫からトマトを出し、幾つかに切って白い皿の上におき私は食塩を振り掛けた。そのうちマーガリンを塗ったパンが焼ける香りがしてきた。

 椅子に腰掛けて私がパンを食べていると父が入ってきた。父は不規則で不格好な円模様の、ポロシャツを着ていた。もお起きてたのか?と父が気弱な笑みを浮かべる。いつもの時間よ、と無愛想に私が答える。そうかと父が頷く。父はパンを二枚、オーブンに入れスイッチを回した。オーブンのジーという音と私がパンを齧る乾いた音が絡み合う。

 そのとき、彼女は誰?と、彼女の甲高い叫びが、響いた。振り向くと見ると久し振りに彼女が立ち上がっているのが見えた。彼女のロングの花柄のスカートが部屋の中なのに微妙に舞っていた。目を見開いて怒っているのか驚いているのかはっきりしない彼女の表情。父に叫び続けている。父は立ち上がって彼女の方を向いていた。私の位置からは父の表情が見えない。その娘は誰なの、誰なのと、繰り返し喚き続ける彼女のソプラノ。彼女の声でテレビの音か聞こえなくなるのが私は不愉快だった。彼女はふらふらと砂漠を漂うように父の足元に倒れ来んできた。父は異国に一人取り残された船員。彼女は父の脚に縋り売られる遊女のように泣きながらテレビにでてくるような台詞を叫び続けた、父に私に。私はもう彼女にとってのただの恋敵だった。世界が憎悪に包まれ全てが呪われた。私が口にするものは全てが魔物の呪いがかかった憎悪の塊だった。憎悪の塊は私の中で消化され取り込まれ、私の全身の細胞を創る。私の皮膚も私の髪も私の爪も私の目も私の耳も全てが憎悪に変わっていった。憎悪は私の脳髄を浸食し私の神経も私の脳細胞も私の記憶物質も全ては憎悪で彩られる。見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの思い出すもの、全て私は呪わしかった。私は何も見たくも聞きたくも思い出したくなかった。

 

 「馬鹿みたい」私は呟く。時計を見た。ずいぶん時間が経っている。恵理華がもうそろそろ来てもいい頃だ。道に迷っているのかもしれない。この家に来たことはなかったはずだ。父親も下にいることだし降りてみようか。鍵を開け部屋の外に出る。耳を澄ます。どこかで話し声が聞こえる。私は歩きながら考えた、誰の声だろう、まさか父の独り言でもないだろうし、彼女は会話は好まない。彼女はただ父の側にいれば今はおとなしい。誰か客が来ているのかしら、だとすれば私としては好ましい事態かもしれない。外国人に始めて言葉を教える時にはどういった言葉から教えますか、という質問に、『勇気』と書いた小説があったが、私もその『勇気』という言葉を教わりたい、そんなことが頭に浮かんだ。私は下に降りる気になった。話し声は父親と誰か女性の声だということが判ってきた。誰か客がきてる。父は彼女を完全に制御しているのだろう、もしかしたら寝かせ付けたのかもしれない。安心して階段を降りていった。

 応接室から声は聞こえてきていた。ドアをそっと開ける。父の背中の向こうから恵理華がソファーに深々と凭れてチェックのパンツを穿いた脚を熱帯植物のように組んで絡めていた。組んだ膝の上にはエチオピアが体を恵理華にすり寄せている。

 「あら、茜ちゃん、お邪魔してまーす」

 「あ、恵理華、来てたのなら、教えてくれなきゃ」

 「ごめん、今来たばかりなのよ」

 父は、「じゃ、ゆっくりしていってね」と椅子から立ち上がった。

 「あら、お父さん」と恵理華が出ていこうとする父を呼び止めた。「今日、もしかすると遅くなるかもしれませんから、あの、私の家で食事していってもらいますから」

 「そうですか」と父は答え、私の方を見て、「あまり遅くならないでね」と言った。

 恵理華は「大丈夫ですよ、あんまり遅くなれば泊まっていってもらいますから」恵理華は上品な微笑みを父に向ける。

 「あんまり、迷惑になるなよ」と父は私に向かって言って出ていった。

 私も父の座っていた椅子に腰掛けテーブルに両肘を立て頬杖をついて、恵理華に「なんて言ったの」と聞いた。

 恵理華はくすくす笑って「別に、愛想良く、とか茜ちゃんてとっても、みんなから人気があってね、とか」「太鼓持ち」

 「あら、茜ちゃんて、古臭い言葉しってるのね」

 「どうして、恵理華が、『お父さん』とか他人の父親に言うのよ」

 「あら、習わなかった、敬語を使いましょうって、『お父さん』というのが赤の他人の父親に言う正しい敬語なのよ、珈琲ほしいなぁ」

 「あんた、他人の家でふてぶてしいいとちゃうかぁ」と私は立ち上がって、「インスタントでよかね」と言いて捨ててキッチンに向かった。

 「どうして関西弁や九州弁になるの、できればキリマンあたりがあればインスタントよりそっちの方がいいなあ」

 「贅沢」と私は珈琲カップにインスタント珈琲の粉を入れ、電気ポットからお湯を注いだ。熱い湯気が手に当たった。珈琲の香りが充満する。カップの熱くなった取っ手を持ってテーブルの上に「ほい」と言って置いた。

 「ありがと」恵理華はちょっと口を付け「私、猫舌なの」とカップをテーブルに置いた。 「で、他になんていったの?」

 「別に、特に何もいってないわ」

 「じゃ、私たち今から何するかってことも言ってないの」

 「え、何するつもりなの?」

 「私じゃなくて、君は父に何と言ったのか、それとも言ってないの」

 「私の家で夏休みの宿題をするって、常套句でしょ」

 「ほほう、伺っときましょ」と答えた。恵理華は冷えてきた、まだ湯気が立ってる珈琲カップを摘んで口を付けた。黙って恵理華が珈琲を飲むのを見ていた。恵理華は別に急ぐ様子もなく休み休み無表情に飲み続ける。

 「この猫かっこいいわね」と恵理華は膝の上のエチオピアを見て言った。

 「血統書付き」

 「ほう、生まれがいいんだ、鼠なんかとらないか」

 「とるとる、鼠を銜えてきては、私の前に並べるの、見て見てって」

 「あれって、腕自慢って訳じゃないみたいよ、狩りの下手な子供に餌あげてる母猫の気分なんだって」

 「へえ、まあ確かに私は鼠取るのは上手じゃないな」と言って笑った。

 「鼠って外で取ってくるんでしょ、血統書付きを放し飼いにしてていいの、雌でしょ、孕んじゃうよ、得体の知れない野良の」

 「去勢してる」

 恵理華は優雅な手付きで珈琲を飲み干すと「さっ、行こうか」と言った。

 どこに行くか決めていないが、とにかく家を出ることにした。ドアの外に出る。鍵を掛ける。

 恵理華が「いちいち鍵を掛けるんだ」と言い私が

 「内の家系は他人を信用しないの、出ていく人が鍵を掛ける」と答えた。恵理華は自転車で来ていたので私も自転車に乗った。

 「ゲーセン行こうか」と恵理華が前を走りながら行った。自転車は下り坂を滑りながら進んでいく。ゲーセンなんて行ったことがないな、と思ったが黙っていた。信号のない四つ角で子供が私の自転車の前に飛び出し私は急ブレーキを掛けながらひょいと飛び下りる。自転車は横倒しになりながら私の両腕によって止まった。両腕で倒れかけた自転車を起こしながら相手の男の子を睨んでやったが男の子の方は目を伏せごめんなさいと言って目を合わせず走り去っていった。

 「大丈夫?」と恵理華の声がした。見ると恵理華は自転車を止め片足を地面に付けて私の方を振り返っていた。

 「別になんでもないわよ」私は自転車にまた乗る。恵理華もまた走り始めた。陽射しが強い。帽子を被ってくればよかった。吹き過ぎる風が心地好い。

 「坂は降りる時は楽ね」恵理華が前から話し掛けてくる。

 「登る時には地獄よ」大声で答える。

 「そうよね、きつかったわ、ここを登るの」

 「脚が太くなっちゃうね」坂道はやがて終わり市街地にでる。建物が高くなったお陰で陽射しが遮られ日陰が多くなる。自動車が絶え間なく青白い排気ガスを残し行き交う。もう、けっこう大声を上げても恵理華に届かなくなる。

 デパートの裏に曲がり自転車置き場の前に私たちは止まり降りた。ぎっしり詰まった自転車置き場の隙間を見付けて自転車を突っ込んだ。私たちはデパートに入った。急に涼しくなった。金属色のピアスの売り場の前で恵理華は立ち止まり掛けられている様々な形状のピアスを覗く。ピアス専門のデザイナーとかいるのかしら、余りに多くの種類があるものだ。私は桜ん坊が二つ並んだピアスを指で突く、そして隣のジグザグな形の物を、と幾つか触ってみた。「恵理華、恵理華はピアスなんてしてないじゃない」と私が言う。

 「まだまだ甘いな、ほら」と横の髪を掻き揚げ私の顔の側に寄せた。

 「何」と思わず声に出したあと直ぐに恵理華の耳が目の前にありピアスの穴に気が付いた。「うわあ、不良だ」私は笑いながら言った。

 「不良って言葉、素敵じゃない?」恵理華が嬉しそうに答える。ああ、前にも聞いたことがある台詞だと思った。「茜ちゃんもしない?」と恵理華が言う。

 「私って真面目だから、遠慮しとくわ、痛いのも苦手だし」私は嬉しそうに笑う。私が真面目って言葉、誰かに言われたことがある。他人の言葉に私は占領されている。

 アクセサリー売り場の前を様々な人が通り過ぎる。私の前でファンデーションの香りを撒き散らして年増の女性が私が気にいっていたパラソル型のピアスを取っていった。恵理華が私の物欲しそうな表情を見詰めていた。エスカレーターで階を幾つか上がるとヤング向けの階があった。ウオッチやネックレスが色とりどりに飾られている。何も私を引き付けない、私はこの時間が終わるのを待っていた。同じぐらいの年の少女たちが、きゃらきゃら騒ぎながらカラフルなウオッチを指差したり摘み上げたりしている。

 暫くデパートを目的もなくうろついた。意味のない会話を楽しみながらデパートを出てアーケード街を見て回った。人工の洞窟の中は様々な店が建ち並び人々が細胞の間を流れる血球のように通りを蠢き過ぎていく。有線らしき音楽と雑踏が異国にいる気分にさせる。

 恵理華が「あんまり痛くないよ」と話しかけてくる。「何が」と訊くと「ピアス」と答えてきた。

 「ピアスの穴、安く開けてくれるところ知ってるよ、行ってみようか、ねえ、茜ちゃん、今時結構みんなしてるじゃない」

 「私は知らないわよ、中学生でピアスなんかしてる子なんか」

 「嘘、よく見掛けるでしょ」

 「町ではね、友達にはいないわ」

 「学校で、してるわけないじゃない。ねえ、今から観るだけでいいから行ってみよう」と恵理華は微笑んだ。ううん、じゃあ、観るだけだよ、と返事をした。

 人込みが淀みを所々作りながら血流のように私たちを通り過ぎていく。恵理華が、こっちよと言いながら流れの一部になっていった。その後を奴隷のように付いていく。道路を渡り、向かいのアーケード街も抜けて、何もかも溶かし尽くそうとするような傾きかけた日差しの下に出た。城の堀沿いに暫く歩くとまた商店街に入った。襤褸なコンクリート建ての茶店の端から地下に続く階段の前で恵理華は立ち止まり振り返って「ここよ」と言った。さもいかがわしそうな汚れた壁の隙間から狭い階段が薄暗い下へ続いていた。

 恵理華の後ろをゆっくりと付いて階段を降りていった。固いコンクリートの感触と響く足音を感じながら独房へ連れて行かれる囚人はこんな気分かと思った。揺れるようなジャズが漏れている。階段を降りた先には木製の半開きになった古いドアがあり恵理華はそのドアを開けた。その部屋はアラブの骨董品屋のようだつた。

 冷気が私を包む。アンティークな木製の机の前にピアスだらけの男が私たちの方を向いて座っていた。鼻、唇、両耳、いったい幾つのピアスをこの男は顔中に付けているのだろう。両耳のピアスは全て異なる様々な飾りが付いたものだった。金色の鎖のような飾り、赤・黄色・紫・白・緑などのカラフルな色の糸の束の飾り、緑の宝石かガラスの飾り、青と赤のガラス玉が数珠繋ぎになった飾り、いったい幾つのピアスがこの男の両耳にぶらさがっているのか。肌の色は人工的な浅黒さで白髪混ざりの口髭に厚めの不健康そうな色の唇。この地下室の淡いライトがこう絵に描いたような如何わしさ、怪しさを醸し出してるのだろうか。

 恵理華が「久しぶり」と声をかける。

 「やあ今日はどんなのが欲しいんだい、ただの冷やかしだったらとっとと帰ってくれよ」とピアスの男は笑いながら指で手招きをした。

 私たちは部屋の中に踏み入れた。黴の匂いが噎せるようだった。黴の匂いではないのかもしれない。剥き出しのコンクリートの床、壁の金属の網に掛けられた幾百ものピアス、乱雑に置かれた幾つかの木製の机の上に無造作に置かれた工作機械、正面奥のスチールラックに英語のタイトルと日本語のタイトルの本が乱雑に突っ込まれている。ジャズやピアス関係の本らしい。

 「ただの冷やかしよ、何も買う気はないわ」恵理華は笑ってはいなかった。

 男は机の上の煙草の箱を取り一本取り出して銜え机の上のガスライターをとり片手で気取った火の付け方をした。

 「まあゆっくり観ていきなよ、今日は暇なんだ残念ながらね」男はまた笑った。笑顔は無邪気だと思った。きっと詐欺師ほど笑顔が素敵な人種はない、いつも研究しているから。

 「ねえ」と恵理華が男に声を掛けた、「どうやってピアスの穴開けるのか説明してあげてよ」男はまた無邪気に低い声を上げて笑った。

 「この娘がピアスするのかい」とまだ笑いながら私の方を優しい目で見た。

 「私、する気ないわよ」と少し不機嫌な口調で答えた。

 はは、と恵理華が笑って、「その娘は見学よ、見学」と言って私を見て目で合図をした。私は手で口を隠しながら小さく欠伸をして目線を逸らした。

 ここは空気が薄い、濁っていて酸素濃度が低くなっているのかもしれない。ライトが暗すぎるのも影響しているのだろうか。まあ、わざわざ説明するのもなんだしな、待っててよ、誰か来るかもしれないし、運が良ければ見せてあげるよ、男は薄笑いをして近くの金色の針金のようなものを手を伸ばして取り目の前の万力に似た機械に固定しラジオペンチで加工しはじめた。

 金属の棒は複雑に絡まり一部は平たく一部は細くなる。次第に精巧な細工になっていく。ああ、蝶を作っている。金色の芸術的な柄の揚羽蝶になっていく。でも絶対に動きそうにない蝶だ。急な寒波に凍えて固まってしまった蝶だ。その耳飾りの蝶はピアスになるためのフックを拘束衣がわりに身に着けて凍り付いている。淡く仄かに赤いライトが蝶をガラス細工のように見せる。金色に透き通る蝶に見える。なぜか自分が黄金の針金でできた蝶の止まる銀の針金でできたチューリップに思えた。

 すごいんですね、と私はピアスの男に声を掛けた、あっと言う間にできちゃうんですね。ああ、簡単だよ、慣れるとね、と私の方を振り向いて無邪気な笑顔を見せた。続けて、何か作って欲しいピアスがあるかい、作ってあげるよ、と微笑んで、ああ君はピアスしないんだったねと笑った。チューリップ、作って、私はぼそっと言った。チューリップ?好きなのかい。別に好きじゃないけど、なんとなくね、蝶と合うのはチューリップだと思いませんか? 特にそうは思わないね、と大声で楽しそうに笑い声を立てチューリップでオランダが大不況に陥った話を知ってるかい? と私に質問してきた。知らない、と答えると男は淡々とした口調で喋り始めた。チューリップの球根が昔、もの凄く値上がりしたんだ、球根一つでフェラーリが買えるくらいにね、株やなんかと一緒だな、チューリップに投資し始めたんだよ、もっと値上がりするだろうから、もっと買っておこうってね。それで大暴落したんでしょ、きっと、と私が口を挟む。そうさ、それでその十年か二十年かあとにまたおこったんだ。そして、また大暴落したんでしょ。そうさ、次はチューリップじゃなくてヒヤシンスだった。ヒヤシンスも綺麗よ。家と引き替えにできるほどじゃない、所詮、ただの球根さ。でもダイヤモンドだってただの石ころよ。あれはイギリスかどこかの会社が海に捨てている、値段を保つためにね。黄金は?、あれも高いでしょ。黄金は特別さ、あれは大昔から貨幣の代わりをしてた、そして今もね。どうして?、ダイヤモンドがただの石だったら黄金もただの金属でしょ? 黄金は魔性の魅力があるんだよ、ダイヤモンドさえも適わないようなね、人の欲望や願望の奥底に忍び込むような冷たく煌やかな魔力があるんだよ、きっと今に分かるよ、金製のアクセサリでも身につけ始めるとその魅力に溶かされてしまうんだ、どろどろにね。どうして、信じられないわ、黄金に溶かされる人はダイヤモンドにだって、きっと溶けてしまうわ。黄金は特別なんだ、母親の愛情のようにね、美しいだけじゃないんだよ。

 不意に不愉快な気分になり私は口を噤んで暫くの間の後、視線を泳がせ部屋の中を見回し始めた。まるで自分が自分でない感覚、魂が体から抜け出して抜け殻になったような。いまカッターで指を切り落としたとしても一滴の血も出ないのではないかと思わせる他人の肉体の感覚だ。

 私はピアスの男に、黄金のために争いや不幸も数しれないのでしょうね、と独り言のように言った。ああ、きっと他のどんな貴金属や宝石よりもね、と男は優しい口調で返事をしてまた机の上の器具に向かい新しいピアスを作り始めた、金色の細長い金属で。どろどろに、もうこの男は溶かされてしまっている。復元できないほどに自分の形を失っているに違いない。

 いつもの偏頭痛がしてきた。左前頭部が杭を打ち付けられたように重い痛みが鼓動とともに響いてくる。

 早くこの場から出て脳髄ごとこの頭痛を抉り取ってしまいたい。私は掌で頭を押さえながら、黄金に溶かされる人はきっと色んなものに溶かされるわ、くだらないものに、そういい捨てた。男は私の言葉がバックに流れるジャズのメロディに溶けて消えてしまったのか全く反応せずに金色のピアスを作り続けた。この男たちは、くだらない物、愛だとか恋だとか情だとか、人か自分の都合のいいことに使う言葉にきっとどろどろに、まるで金や銀のようにどろどろに溶かされるに違いない。

 恵理華はずっと壁際の黒く塗られたネットにぶら下がった金や銀のメタリックな色のピアスを眺めていた。私も恵理華の隣に行きピアスを眺め始めた。恵理華は私をちらっと見てピアスの男の方を振り返り、ピアス開けに来る客が来ないんだったらもう帰るよ、と伸びのある歌うような声で言った。ああ、今度きたときはなんか買っていけよ、と男は机の上の繊細な作業から目を離さずに返答した。

 ドアが開く音がして私は振り返った。よお、いらっしゃい、と男は顔をドアの方に向けて屈託のない笑顔で呼びかけた。中学生か高校生にしか見えない女の子の二人組が無表情に入ってきた。ぶっきらぼうに、ピアスの穴開けたいんだけど、ここでやってくれるって聞いたんだけど、とスカートの女の子が口を開いた。横のスリムジーンズの女の子は、二人ともピアスしたいんですけど、とにこやかに尋ねる。ピアスの男は、ああ簡単だよ、直ぐ済むよと、明るく答えた。ほら、ちょうど良かったじゃない、と恵理華が耳元で囁く。私は早く外に出たかった。偏頭痛が私の頭部にしがみついている。エイリアンかタランチュラのように寄生している。私は早く外の空気を吸いたかった。何も興味がなかった。それに人が傷つく姿など見たくはなかった。なんだか自分までも痛覚を刺激された気分になる。ジーンズの方が男に、どれ位するんですか、と前に出ながら訊いた。どれ位って値段かい?と男は聞き返しながら続けて、一枚だよ安い方、と小さな楽しそうな声を上げて笑った。ふうん、でも安全なの?テレビで見たんだけどホッチキスみたいなので穴開けるんでしょ、とタータンチェックが訝しげな薄笑いで責め立てた。男は少し狼狽した口調でここじゃそんな機械使わないよ、スプレーで冷やしてる間に針で穴を開けるんだよ、と机の上の千枚通しのような道具を摘み上げ、これでね、と付け足した。女の子たちは顔を見合わせ態とらしい困った表情を見せた。痛くないの、とジーパンが訊くと、ピアスの男は、そりゃ少しは痛いよ、とにやりと笑って、でもあまりの痛さに安楽死を申し出た奴はいない、と付け加えた。そりゃいないでしょうけど、途中でやめた人はいるんじゃない、ねえ、とジーンズがタータンチェックに話しかけた。うーん、でもやっぱりピアスしたいな、とタータンチェックが答えた。そうね、そのために来たんだものね、とジーンズが深刻な問題でも語るように答えた。私するわよ、ピアスしたいもの、とタータンチェックが少し口を尖らせた。どうしようかな、とジーンズは辺りを見回した。じゃあ、お願いします、とタータンチェックがピアスの男に言った。ああ、いいよ、直ぐ済むからね、とピアスの男は千枚通しに似たあの道具を手に取り細目でその先端を凝視した。

 尖った先端は淡いライトを反射し薄い赤色に光る。眩暈がするほどの痛みの恐怖に私は襲われる。偏頭痛が脳髄を鷲掴みにする。聴覚に直接に鼓動が響く。うん、その椅子に座って、とピアスの男は命令する。タータンチェックは素直に黙って座った。ピアスの男は彼女の頬を指で押して耳を自分の前に向けさせ彼女の耳朶を軽く摘んで下に引っ張った。引っ張って伸ばした耳朶に片手を伸ばして取ったスプレー缶から白い霧をその耳朶に吹きかけた。滑らかで最小の動きで千枚通しをダーツを投げるような持ち方で耳朶の横に当て躊躇いもなく耳朶を突き通した。

 タータンチェックは日本人形のように固まったままだ。痛くはなかったのだろうか、耳朶からは一滴の血も流れない。ピアスの男は立ち上がりながら、終わったよ、と言って透明な焦げ茶色の瓶を近くの棚から取り蓋を開けながら瓶の中から一切れの脱脂綿を指で取り出しタータンチェックに渡し、暫く血が漏れると思うけど直ぐ収まるから、と話しかけた。タータンチェックは、はい、と答え脱脂綿を受け取り耳朶の今串刺しになったばかりの場所に当てた。ジーパンが、意外と簡単ね、と驚いたように話しかけ、痛くなかった?と訊いた。うーん、痛かったけど、思ったよりそうでもないよ、と脱脂綿を押さえたままジーパンの顔を見上げた。そうね、やっぱり開けようかしら、とジーパンが呟く。そうよ、そうよ、一緒にピアスやろうよ、とタータンチェックが誘うと、ジーパンの方は少し迷った表情で黙り込んだ。脱脂綿からアルコールの香りが漂ってくる。そうね、私もするわ、と言ってピアスの男の顔を見た。分かった、じゃ君もそこに座って、とピアスの男は瓶をテーブルの上に置いた。タータンチェックが立ち上がりジーパンに席を譲る。タータンチェックが押さえている脱脂綿が赤く滲んでいた。偏頭痛が鼓動を頭蓋骨の中で騒がしく響かせる。

 この場所から逃げ出したい。私は首を振り顔を顰める。どうしたの、茜ちゃん、と恵理華が不意に声を掛けてくる。いつもの頭痛、と答える。外へ出ようか、の恵理華の言葉に私は頷いた。

 私たちは階段を上がり外に出た。夕日で辺りは茜色になっていた。溶けるように暑かった。空気だけが新鮮で清浄に思える。茜ちゃん、血は苦手なのね、と恵理華が夕焼けに染まった雲の方向を見上げながら言った。好きじゃないけど、この頭痛とは関係ないわよ、と私は少し不愉快に言った。分かってるわよ、そんなこと、と恵理華は受け流した。逆光で恵理華の表情は見えない。茜ちゃんはもう帰るよね、と恵理華は楽しそうな声で言った。うん、帰りたいな、眠りが浅くなると直ぐ頭痛がするのよ、寝不足の原因も偏頭痛なのにね、私は弱々しく笑った。恵理華も私に微笑みを見せる。恵理華は暫くの沈黙の後、残念ね、まだ連れていきたかったところがあるのに、とお道化た表情を見せた。私はただ早く一人きりになりたかった。誰もいない潮騒だけが聞こえる無人島に漂流でもしたかった。私はそこで野垂れ死にたい。誰にも看取られず詰まらないことで例えば裸足で砂浜を歩いていて蟹にでも足の親指を挟まれ破傷風に罹ってとかで死んでしまうのが一番いい。夕日はやけに蒸し暑く感じられる。

 徐々に茜色から藤色に移ろうとする夕日を眩しく感じながら私たちは来た道を戻った。純子の家の前を通る度に妙な好奇心に駆られていた。また誘うからと恵理華は帰っていった。

 

 駐車場の八つ手は私が除けたアスファルトの間から、もう逞しい色を見せていた。まだ歪曲した枝振りから天に向かって伸び始めていた。私は苛立たしくなって横にまだ置かれたままになっているアスファルトの薄汚れた破片をジグゾーパズルのように、はめた。八つ手は乗せたアスファルトを持ち上げ反抗している。えい、と言って破片の上に両足で飛び乗った。八つ手が折れる音がして足下がアスファルトと共に沈んだ。

 

   お前は誰だ、

   俺の前で平気で血を流し、

   俺の心臓から聞こえる呻き声に聞き耳を立てる

   ほらあのピアスをみろ

   あの黄金の蝶を見ろ

   きっと、金の蝶は銀の花にしか停まれない

   蜜の無い花にしか停まれない

   あの蝶は死んでいる

   羽ばたきもせず死んでいる

 

 日記を書いた後私はベッドで眠った、夜明けに偏頭痛で目が覚めるまで。

 

 

 図書館で勉強の後に家に帰ると私の部屋のドアの前に父からの伝言が書かれた紙が貼ってあった。今日、お母さんを病院に入院させるから、遅くなるという内容だった。何一つ相談も連絡もなかった。毎日今年の最高気温を記録している時期に母は入院した。いない間にいなくなっていた。家は研究室のように落ち着いた静寂に戻っていた。父も戻ったときにはいなかった。

 心地よい孤独の中で自分が本当に孤独であることを感じていた。雑踏の中のボヘミアンだ。

 誰もいない家の中を夕食を求めて冷蔵庫とか戸棚を探し回った。

 

     遺体と散歩すると

     死骸がこっそり話しかける

     きょうもいい、闇夜でございます

     遺体は死骸に返事する

     墓からでるのにいい天気

     月は満月、星は流れる

     誰も誰も生きてる人は出歩かない

     ほんとに、ほんとにいい天気

     ところで、ところで、一つお尋ね

     なんだね、死骸さん

     あなたの隣の相棒は

     生きているのじゃないですか

     私の隣の遺体は答える

     いえいえ、この方、生ける屍

     死んでいるのも同じでおじゃす

 

 

 待ち合わせの公園は夏の朝からは人もいなかった。どうしてこんなところで待ち合わせなのだろう。強い日差しは公園の縁取りをする高い針葉樹や照葉樹から何者も溶かすような木洩れ日を見せる。蝉の声と車の排気音が蒸し暑く響く。木の間からサーフボードを上に乗せた紺色の四輪駆動の車が止まっているのが見える。あの中に人がいたら熱射病で死んでしまうだろう。割と広い公園だが誰がやっているのか草は全て引き抜かれ露わになった土で数羽の鳩が砂浴びをしている。鳩の群は公園の日向や日陰に散らばって蹲っている。車のドアが開く音がして鳩が飛び立った。見ると金髪に染めた男が出てきて続いて恵理華が出てきた。

 「茜ちゃん、来てたんだ」と恵理華が甲高い声で呼びかけてきた。

 私は憮然とした声で「いつからいたの」と訊いた。

 「ついさっき来て、話しながら待ってたの」と恵理華は近づいてきた。

 隣まで歩いてきた恵理華に小声で「誰よ、あれ」と訊くと「友達よ、言わなかったっけ」と答えた。

 「女の子だとばかり思ってたわ」

 「あらそう、車の中にもう一人いるわよ」

 私は車の方を見たが車の中はよく見えなかった。「私行かないわよ」私は断言した。

 「ええっ、せっかく誘ったのに」 

 そのやりとりを聴いていたのか車の外にでていた金髪男が「どうした」と苛立った声を上げた。金髪男は身長はそれほどでもなかったが小太りで目が細く吊り上がっていて発情期の豚と密かに私は名付けた。両耳に銀色の輪のピアスを3っづつしている。発情期の豚は「どうしたんだよ、とっとと行こうぜ」と言いながら恵理華と私の間に体を入れ、私の背中に手を回し自動車の方に押し私の上半身は体勢を崩し転けそうになった。私は体制を立て直しながら発情豚を睨んだ。発情豚は笑いながら気が強そうだなといい恵理華の顔をみた。恵理華はいいから行こうと私の手を引いた。私は車の中に拉致された。恵理華は助手席に座り私の横には発情豚が腰掛けた。

 私の前の運転席の男が、じゃ行くよといいエンジン音が小刻みの振動と共に響いた。窓を下げると風が髪にじゃれつく。鬱陶しくなって窓を途中まであげた。コンクリートの建物が続く。コンクリートの隙間に生える木々が途轍もないスピードで後方に吸い込まれていく。発情豚が陽気にプライベートについて訊いてきたり、サーフィンについて説明したりする。おまえも風に乗ってフィリピンあたりに飛ばされてしまえ。運転席の男はバックミラーで見たところ身長は普通に思えたがとても痩せて見えた。手足が長くて顔がこけているせいだろう。ガラガラ蛇と命名してやろう。

 ガラガラ蛇と恵理華はずっと無口だった。発情豚はガラガラ蛇に、なにいつまで拗ねてんだよ、ときっと私が話しに取り合わないから怒鳴るように言った。なあ、こいつ、中学生の保護者やるのを、どうして俺がって思ってんだよ、いいじゃねえか、中学生でも女は女なんだから、ずっと不機嫌なんだ。発情豚の話に誰も答えなかった。発情豚は暫く黙って、また私にお喋りを始めた。

 聞きもしない話をするのを発情豚が止めた頃に私の側の窓の風景が海岸線に変わった。覗き込むと波がテトラボッドにぶつかっては白濁した泡となり収まっていく。波は白い縞となり蛇のようにのた打ちながらテトラボッドに向かう。水平線は仄かに白い雲の中に消えた。

 

 水平線から細い波がゆっくりと進み徐々に太くなり動く壁になりながら足下に崩れ落ちる。どうして海というとみんなビーチバレーやりたがるのだろう。ビーチバレーはこの芋の子だか鴨の子だかに例えられるほどの人混みの中でかなり面積を取り人格を疑われる。恵理華が波を撥ねる。ボールが外れて波に上下する。私は溜め息を吐きながらボールを拾う。昔だったらもっと燥いでいることだろう。ビーチボールにも飽きて発情豚はもう一人の男を誘ってサーフィンを沖で始めた。ガラガラ蛇と発情豚を見ながら私たちは砂浜に仰向けに寝続けた。日焼けするのがいやだったし蛸焼きの他にアメリカンドッグにマスタードをたっぷりかけて食べて眠くなったので顔にタオルをかけて本格的に寝ることにした。

 私は自室で詩を書いていて内容は分からないが楽しい詩を書いていて窓ガラスがノックされ窓を開けると彼女が喚きながら入ってきたので窓までは梯子が掛けられているのが見えたがその梯子を登ってきたのだろうと思い彼女は部屋の物を全て窓の外に放り始め甲高い私の心臓を爪を立てて掴むような声で、ここはあたしの家よ、出て行ってよ、と彼女は叫びエチオピアが彼女に擦り寄り彼女はエチオピアの尻尾を掴み上げ窓から放り出し私は何をするのよ、と言いながらエチオピアを見つけるために窓から首を出すとエチオピアは直ぐ前の屋根の上で私を呼ぶように鳴いているのが目に映り私も右足を掴みあげられ窓から放り出され私はサッシにどうにか手を掛けてぶら下がったがエチオピアが私の頭に飛び乗った。

 起こされ、タオルを顔からとったときには陽は穏やかになっていた。目を細めて上半身を起こした。発情豚が斜め後ろで足を投げ出して座っており、なにせっかく海まで来たのに不貞寝してんだよ、と笑い、まったく、こんなガキどものお守りすんじゃなかったよ、と醜悪な表情をした。ガラガラ蛇は発情豚の私を挟んだ向かい側で片膝をついてそうした声に無関心に海を眺め続けた。恵理華は私の横で俯せに寝ている。

 「茜ちゃん、起きたの」恵理華が俯せのまま声を出した。「うん」私は座ったままタオルを被った。「退屈?」「別に」波に腰まで埋めた小学校低学年ぐらいの男の子がビーチバレーとかしている中を一人で走り回っている。「怒ってる?」「何を」「怒ってるでしょ」私は黙った。発情豚が、俺たちじゃ不足かよ、と不機嫌に言った。まったく、ガキのお守りして感謝してほしいぜ、と吐き捨て、まったく最近の若いもんは礼儀っちゅうものを知らん、と老人の真似をして自分で高笑いした。走り回っていた男の子はビキニのビーチバレーのグループに捕まり一緒に暫く遊んでいたがビーチバレーのビニールボールを奪って走り出した、ビキニの集団は行方を目で追いながら、寄り添い何か話している。ボールを抱えた男の子は海水浴場の端まで波打ち際を走って人混みの砂浜を目隠しで障害物を避ける蝙蝠のように駆け寄ってきた。私は立ち上がり、近くまで走ってくるのを待って、ほら、捕まえた、と言いながら細くて柔らかい腕を握った。ずっと目で追っていたビキニの集団の一人が歩いてやってきた。すいませーん、その子のボール、私たちのなんです、と鮮やかな愛想笑いをした。大人になると、こんな笑顔も覚えなければならない。発情豚は、急に立ち上がり、ねえ、女の子ばかりなの、と訊いた。そうよ、あそこにいるでしょ、と仲間を指差した。おっ、ラッキー、一緒に遊ぼうぜ、おい、タカヤ、おまえもいいだろ、とガラガラ蛇に呼びかけた。ガラガラ蛇は、ああ、いいよ、と素っ気なく答えた。ええっ、連れがいるんでしょ、悪いわ、と科を作った。いいんだよ、中学生だぜ、保護者代わりにとっ捕まえられてるだけだぜ。じゃあ、と私と恵理華をビキニが見下ろしたので私は小さく頷いた。ちょっとみんなと相談してくるわ、と海に向き直った。発情豚はガラガラ蛇に目で合図して二人でビキニに付いていった。

 「ねえ、茜ちゃん」

 「なあに」

 「佐上純子って合ったことある」

 「出てきてもないのに、あるわけないじゃない」

 「どうして、休んでるか知ってる」

 「登校拒否だって聞いたわ」

 「それが、違うの」

 「佐上さんの母親は病気だって言ってた」

 「病気ね、病気とは普通言わないわね」

 「どういうこと」

 「妊娠したのよ、産むみたいよ」

 「嘘、中学生よ」

 「ほんとみたいよ」

 「すごいね」

 「まあ、それも人生よね」

 「相手は」

 「いろいろ噂があって分からないわ」

 「どんな噂」

 「うちの学校の教師だとか、アルバイトで知り合った高校生だとか、野球部の誰かだとか」

 「つらいよね」

 「幸せなのかもよ」

 「そうね、どんな子、だったの」

 「明るくて、元気、病気なくらい陽気、ちょっとお調子者かな」

 「陽気に子供産むんだ」と私は答えた。子供を産むなんて簡単なんだ、と思った。子供を産んだ詩人が、子供なんて排泄物と一緒だと言っていた。そんなものだろう。人間は誰も汚らしく世界に捨てられる。ぞんざいに育ち見窄らしく死ぬ。神様が日本の神様のような悩み苦しむ神様ではなく、唯一神、全知全能のキリスト教のような神様がいるのなら、人間は次々に産まれるのか、未来も知り、現在も知る神様がなぜ私たちに苦悩を与えるのか。もし誰かが言うように悩みの中での人間の成長を企んでいるのだったら最初から成長した人間を作ればいい。もし、作れないのなら神様は全知全能ではなく他の宇宙を支配する法則の中で動いているだけだ。仏様の手の平の上の猿と同じだ。全知全能の神様が人間を作ったのなら、それは退屈しのぎにすぎない。退屈しのぎに葛藤や啀み合いを作り見物している、ヴァーチャルペットを育てるのを楽しむように。神様の残酷な慰み者にならないためには退屈に生活することだ。なにも悩まず、どんな感情も捨てて。神様は存在自体が最大に呪われている。

 海の果ては大陸に続いているのではなく空に繋がっている。濃い青が薄い青になるとき、雲が生まれる。カモメらしき鳥が空を回っている。私たちの周りを何千人かもしかすると何万人の水着姿の人々が取り囲んでいた。

 

 ドアの前ではエチオピアが一匹で私を待っていた。美声を一声あげた。それで父が今日も病院に行ってまだ帰ってきていないことを知った。エチオピアは北狐のような豊かな尻尾を真っ直ぐに立てて私の足に擦り寄り、次にもう片方のカナダの山猫のように毛の長い頬や肩を擦り寄せる。私はエチオピアを抱き上げて鍵を開けた。薄暗い部屋の中は誰か隠れていそうで薄気味悪い。 

 エチオピアがやってきたのは彼女が狂気に至るずっと前だった。彼女とデパートのペットショップで暇を潰していたら気取った茶色の猫が恋する少女のような瞳で見ていた。優雅で野性味があり、そして心は純真なのだろうと思った。私は彼女と一月の交渉のうえ、私が面倒を見ることでこの高価な友人の購入権を獲得した。

 エチオピアはソマリという品種の猫だ。もともとアビシニアンの長毛種を最近になって固めて作ったものらしい。アビシニアンはアフリカのアビシニア高原からイギリスに連れ帰られたためつけられた名前で、その長毛種ということで近くのソマリアの国名から付けられたらしい。ソマリアだったらわかる。内戦があって日本軍を平和維持にだす出さないとか揉めた国だ。なんで別な国のために人を出さなくちゃいけないのだろう。金も人も外国には恵んでやる必要はない。自分で働け。自分で守れ。勝手に飢え死にでも内戦でもしてろ。エチオピアという名前は、だったらアフリカの国名をつけねばなるまいと覚悟して思いつく数少ない国名から一番美しいものを選んでつけた。候補には他に南アフリカ共和国とかタンザニアがあがっていた。エチオピアという名前は緑色の宝石の印象を思い起こさせる。照明の光を乱反射し無数の緑の色を複雑に彩る、透明で濃い緑が複雑な光彩を創造する、それがエチオピアの名前から思い起こされる。エチオピアがどのような国か知らない。エチオピアの住人も日本がどんな国か知らないだろう。アフリカなのだから密林で覆われ、その密林の中でエチオピアが悠々と薄暗い木の間を歩き、腐った木と花々の匂いの中で突然身を伏せそろそろと羊歯や枯れ木の隙間を進み、無防備な鼠に襲いかかる、それがエチオピアだ。エチオピアが昔のアビシニアと知ったのは名前を付けた暫く後だった。

 数年前、エチオピアが妊娠した。父猫が誰かわからない私生児を6匹産んだ。正直には本当にエチオピアの子供かわからない。あの晩ドアの外でエチオピアが鳴いていた。いつもより大きく切ない声だ。私が丁度、何をそんな遅くまでしていたのか覚えていないが気がついてドアを開けると、エチオピアが鎮座していた。ドアが開けられたのに直ぐに反応して立ち上がり後ろに戻って子猫を一匹銜えてきた。エチオピアは子猫を銜えたまま台所や応接間を彷徨き、二階に上がっていった。一段一段軽々と階段を跳ね上がっていく。私の部屋の前でエチオピアは子猫を降ろし私の顔を振り向いて鳴いた。私は部屋のドアを開けた。エチオピアは子猫を銜えて部屋の中を探索し、ついにベットの下に潜り込み、子猫を銜えずに出てきた。げっと思ったが私はエチオピアに付いてまた階段を下りた。エチオピアがドアの前でまた鳴いた。今日はよく鳴く。私は面倒だったし、眠くもあったので、ドアを開けエチオピアを外に出した後、チェーンをかけて、猫が通れるぐらいの隙間をドアストップで開け、自分の部屋もドアを半開きにしてノートで押さえて寝た。

 目が覚めて、ベットの下をベットの上から首を逆さにして覗くと何匹もの子猫が寝そべったエチオピアの張った乳首に食いついていた。

 私は断固とした決意でこの小汚い雑種の猫どもを追い出すことにした。私もベットの下に潜り込みエチオピアの首根っこを掴みベットの下から引きずり出した。白黒やトラの子猫はふーっと威喝音を吐き部屋中に駆けずり逃げた。一匹ずつ追いかけ捕まえタンスから引き抜いた引き出しに入れた。子猫を入れた引き出しに上からハーフコートをかけ蓋代わりにした。中で暴れていた。一匹は部屋の外まで逃げた。物陰で身を潜め私が近づくやジェットエンジンの付いたゴキブリのように半開きのドアから逃げ出した。父も、彼女もこの捕り物劇に加わった。

 全部で6匹、段ボール箱を横にし中に果物用の平たいバスケットを入れそこを住処として裏玄関の靴箱の中に入れた。子猫たちは狭い裏庭を遊び場とした。

 子猫たちは私の顔を見る度、威嚇音を低くあげながらあちこちに散った。二階から覗いていると喧嘩を子猫同士でしているとしか見えない。目をみんな怪我していた。体型は母猫に似て、普通の野良猫より頭が小さく、尾は長かった。しかし毛の長さも毛色もいかにも雑種の猫だった。目の怪我はいつのまにか治った。彼女が病院に連れていったのかもしれない。

 暫くして一番未熟児だった焦げ茶色の一匹が死んだ。彼女が裏庭に死骸を埋めたらしい。二匹目も死んだ。茶色のトラだった。これも私が知らないうちに裏庭に埋められた。後の4匹は死んだ2匹と違って蹴飛ばしたいぐらい元気だった。3匹目の死骸は私が見つけた。家の前の道路の端で無防備に寝るように死んでいた。死んでいることは直ぐに分かった。私は塵取りで拾い裏庭に埋めた。白黒の元気な猫だった。残った子猫は白黒が二匹に、トラが一匹だった。白黒はどちらも鼻の周りと脚と腹が白く胴部と尻尾が長く黒かった。トラは殆ど焦げ茶色で覆われ僅かに濃淡でトラだと分かった。

 残った子猫たちを私は全て友人に配った。エチオピアは去勢された。エチオピアの去勢の後、彼女は発狂した。

 

      ガラス職人はガラスを固めて海を造る

      溶けだした真っ青なガラスが

      白く泡立ち波となる

 

      ガラス職人の決定的な失敗

      ガラス職人の真っ赤に焼けたガラス

      ガラス職人は叩き割ろうとする

 

      ガラスは割れない

      ぐにゃりと堅い床にへばりついた

      捨てられたガムみたいに

 

      床にへばりついたガラスの

      白い波はますます白濁し

      真っ青な海をますます青くする

 

      ガラスの海には魚はいません

      ガラスの海ではみんな固まり泳げません

      ガラスの海は叩けば割れます

 

 

 三階にある病院の窓に飾られた花もベットの横に置かれた棚も日光で白く光っていた。彼女は寝ていた。前より彼女が若くなったように見えた。若くなったというより幼くなった、いや、あどけないといったほうが正確かもしれない。静かな寝息を薄い布団をゆっくりと波打たせて規則正しく行っている。私と父はベットの横に丸椅子を置き腰掛けて黙ったまま彼女の寝顔を見守った。ここは神経科ではなかった。彼女は何の理由でここに閉じ込められているのだろう。私の目線と水平の高さまで茂った高木の樹冠が陽光を真正面に受け波のように煌めいている。鳩が何羽かサーカスの始まりのように空から滑り降り樹冠の中に消えた。消毒薬の甘酸っぱい香りがする。

 彼女の首が動いた。目は閉じられたままだ。彼女の顔を見ていると不快な甲高い声を思い出す。私にはそれは言葉ではなく動物の攻撃音に感じる。言葉の内容などもう聞こえない。神経は引きちぎられ、破片となり、血管や体液の中に遭難する。彼女の声は甲高い声は彼女を思い出す度に頭蓋骨の中を反響し別の箇所で共鳴しいつまでも神経を切り刻む。自分の鼓膜を引き千切りたくなるような不快。

 彼女の首がまた動いた。大きくまた反対に動き、モーターのような音を立てた。機械仕掛けのように彼女は急に上半身を起こした。彼女はゆっくりと寝ぼけた幼い表情で父と私を見た。童女のような笑顔を見せた。

 「あら、お母さん」と彼女は私の顔を見ながらうれしそうに話しかけてきた。お母さん、鴨野さんの金魚、貰えるって、鴨野さんのお婆ちゃん言ってたから、貰っていいでしょ、そう、今日の晩御飯のお野菜、いつものところで買ってきていいのでしょ、菠薐草と、大根と、柿と、苺を買ってきましょう、金魚は大きくて立派で、美しいのよ、と次々と延々と話しかけ続けてくる。鴨野さんて誰、いつものところって何処、私は彼女の話に聞き入っていた。

 彼女は父の方を向いて「政ちゃんも、一緒に買い物にくる、そう、お母さん、政ちゃん連れていってもいい」とまた私の方を向いた。

 彼女は私たちの沈黙に関わらず喋り続けた。隣の町にね、大きなスーパーが建ったの、パンの値段てどんどん騰がっていくじゃない、スーパーも一緒かしら、ジャムパンも値段騰がっていくのかしら、建ってる途中はジャングルジムみたいだったよ、政ちゃん、あんなに、高いところまで沢山の人が登って、ジャングルジムで遊んでるみたいだったよ、みよちゃんと高い高い木に登ったんだ、きっと、あのジャングルジムより高い高い木でずっと向こうの広い広い空き地の端っこにでんと立ってるんだよ、小鳥が沢山、凄い声でぎゃーぎゃー喚いてるんだよ、動物園の檻のようなんだよ、お母さん、お母さんは藤谷までバスで行くの、何時に戻るの。彼女のお喋りは、楽しげに続く。私は、一言も発することなく、彼女の柔らかい唇を、見つめていた。

 父の視線は彼女の上を動き回り、表情はなく、感情は分からなかった。医者と相談してくる、と病室から出ていった。

 お母さん、政ちゃんが、また我が儘言って、みよちゃんと遊ぶのに付いてくるんだよ、みよちゃんとままごとして、砂場で遊ぶのに付いてくるんだよ、政ちゃんは男の子なんだから男の子と怪獣ごっこして遊ばなきゃ、ねえ、お母さん、お母さん、いつ戻ってくるの、藤谷って遠いの、バスでどのくらいかかるの、戻ってこないの、政ちゃんの面倒は誰が見るの、みよちゃんと遊びに行ってもいい、ねえ、お母さん。あの高い木の近くに、大きな水溜まりがあるの、そこにね、ちっちゃなお玉杓子が沢山いるの、ゲンゴロウもいるの、ミズスマシもいるの、ヤゴも沢山いるの、イモリもいたのよ、蜻蛉が上で沢山飛んでるの、イモリって何処から来たのかしら、自分で歩いてきたのかしら、だったら凄いでしょ、だってあんなに小さいのがずっと歩いてくるんだよ、ねえ、お母さん、水溜まりは一番大きいのの周りも沢山あるの、一番ちっちゃいのは、お天気が続くとだんだんなくなって、お玉杓子たちが押しくら饅頭で、可哀想だから、みよちゃんと両手で掬っておっきなほうに移してあげたの、ミズカマキリって言うかっこいいのもみつけたの、タガメだっていたの、みよちゃんはタイコウチだよって言うんだけどタガメだったの、

 樹冠の見える高木は何本かあり、どれも繁茂し、隣の樹木とは重ならないほどに離れて立っていた。それぞれの葉が緑と白の濃い光を反射し瞬いている。色が薄く感じられるほどの日光。日光はいつか地上の全てを消滅させるような野心を持っている。日光の下では諸々の物体が影だけになる、この日光の下では。違うのかもしれない。日光によって生い茂った高木も、優雅に滑空する鳩たちも存在を確固たるものにしているのかもしれない。遠くの屋根に陽炎が立っている。あの家は今日は留守なのだろう。

 振り返って見ると彼女はまた横になって眠っていた、静かに行儀よく深い森林の奥の湖畔の茂みであるかのように。消毒薬の香りがここが病院であることを私に教えてくれる。

 私は安堵の深い溜め息を吐いた。私は解放された。私は彼女と共に狂気のどす黒い沼に引きずり込まれるのを逃れることができた。私は、あの声をもう聞かなくて済む。私の体から白い鳩が飛び立つ。これまで、幾度、彼女の口が永久に閉ざされるのを望んだだろう。彼女の悪夢に何度、真夜中に起こされただろう。昼もなく夜もなく彼女の幻想が私を襲い続けた日々は消えた。猫の神様、私の願いは叶えられましたか、私は本当に悪夢を見らずに生きていけますか、猫の神様、猫の神様。

 窓を開けると蝉時雨が横殴りに降り注いだ。蒸し暑い風が私を汗ばませる。溶けた粘液の溝に全身が落ち込んだみたいだ。下着が肌に貼り付く。彼女は目覚めなかった。静かに寝息を立て続ける。樹冠しか見えなかった樹木は立派な枝振りで茂みの内部を覆い隠している。樹木の端の丸いコンクリートの池の真ん中に噴水があるが、あれは永い間使われていないのだろう。病院に入るときに見たが噴水口は錆び付き苔が噴水口の溝や周りに生えていた。水は透明だった。この暑さの中では直ぐに緑変するだろうに毎日のように水は換えられているのだろう。何も生命らしきものは無かった。日光に照らされ白く瞬く縞が消えてはまた瞬く。水を貯めるのなら魚も泳がせればいいのに、あの池は死んだままだ。あの池は純粋な鉱物だ。あの水には毒薬が溶け込んでいる。透明な水はしばしば有毒であるものだ、純粋な子供が純粋に残虐であるように。風で水面が激しく瞬いた。

 

     一本の木が枯れた

     私が小さな頃に私と私の好きな子の

     名前を彫刻刀で彫った木が

     木が大きくなると

     名前も大きくなるかなって

     毎日楽しみに見に行った

     幹は太くなったけど

     枝は高く張ったけど

     名前は樹皮に覆われて

     枯れた木にはありません

     私とあの子の名前さえ

     あの木にとっては

     ただの傷

 

 

 雨上がりの焦げ茶色の地面には水溜まりができていた。長袖の臙脂色のシャツを腕まくりし、ちょっと長めのジーパンの裾を折り曲げ、木陰に入った。待ち合わせの公園なのに恵理華はいなかった。水溜まりから細い雑草の群落が生えていた。鳥の鳴き声と蝉の音が幾重にも重なり、ソロになり、また合唱する。恵理華だけでなく誰もいなかった。紺色の四輪駆動が静寂を破壊して止まった。静寂は粉々に破片となって散らばり、私はその静寂を拾い集めることも諦めた。また恵理華ったら私に断りもなく発情豚とガラガラ蛇を誘ったんだわ。車の中を見ると運転席に一人いるきりだ。どうしたのかしら。エンジン音が止まり運転席の人物はドアを開けて外に出てきた。車の向こう側に出てきたが上から覗く金髪の頭で発情豚だと分かった。発情豚は車の周りを回って私の方に、よお、と言ってやってきた。

 なに、あなた、と私はぶっきらぼうに答える。まあ、そんなに、無下にすんなんよ、恵理華たちは現地集合らしいぜ、迎えに来てやったんだよ、行こうぜ、発情豚は人差し指で手招きをする。わたし、帰る、と私は言って車と反対方向に向いたが、発情豚は、困るんだよ、と怒鳴って私の腕の付け根を掴んだ。行くぞ、と私を引きずる。私はバランスを崩した足を地面に固定しようとじたばたして発情豚の汗ばんだ手を引き離そうとする。発情豚は私がバランスを取り戻す前に引きずったまま車に乗り込んだ。発情豚が運転席に乗り込む。エンジンが掛かる。私は助手席から降りようとドアを開けた。下半身が車の外に出られたが、その瞬間腕が強く掴まれ私の体は発情豚の体に衝突するように引き寄せられた。おとなしくしろよ、ひっぱたくぞ、と発情豚が凄んだ。私の体の上を体を伸ばして発情豚はドアをしめロックしエンジン音が大きくなり車が動き出した。

 人通りが少ないのは公園の周辺だけで大通りには人が行き来していた。コンクリートの低い建物の町並みの歩道のアーケードの下で徒歩や自転車で大勢が行き交い青になった信号が直線道路に遠くまで続き樫かホルトの木とみられる街路樹が彼方まで一定の間隔で緑の涼しげな葉を茂らせ雀や椋鳥が一斉に飛び立ったり舞い降りたりする。人家が続くようになると赤い実をつけた庭木が目立つようになる。人家も疎らになり、かなり育った緑の田園が広がり道は狭く曲がりくねりキーキーと曲がる度に軋む音がして、田園には白鷺がゆったりと忍び足で歩き、街路樹はなくなりコンクリートの電柱が果てしなく続く。果てしなく続く先に山々がくっきりと緑の苔生したような姿を現す。山の緑は所々斑があり濃いところは照陽樹林で薄いのは竹林なのだろう。ほとんどが杉林らしく鱗取りの面のように尖っている。薄暗い葛折の登りに入り運転席側は山林で私の座る助手席側はガードレールの向こうが切り立った崖になる。崖の下は山林になり、川になる。クラクションを鳴らせの標識が目立つが発情豚は鳴らさずに飛ばし続ける。舗装道路から逸れ揺れが大きくなる。ますます暗くなる。

 強く背もたれに倒れ込んだ。エンジン音と振動が止まる。鳥の声が聞こえる。薄暗い狭い山道だった。道の先は、さらに細くなり車の通れる幅ではない。道に迷った、と思った。

 発情豚はロックを外し外に出た。前から回って助手席のドアを開け、私の腕を掴み引き摺りだした。落ち葉と枯れ枝が悲鳴のように鳴る。鳥の声が響く。腐葉土の匂いが立ちこめている。高い椎や樫の照陽樹林の群落だった。

 発情豚は黙ったまま私を引き摺り、枯れ枝が敷き詰められた腐葉土の上に投げ倒した。なによ、私は怒鳴り立ち上がろうとする上に躍りかかり、おとなしくしやがれと、と凄みをきかせた。発情豚が私に跨る、私のシャツの襟元を掴み引き千切ろうとしボタンが二、三弾き飛ぶ、私は豚の手を掴む、豚は右手を引き離し私の大腿部に手を掛け私の股に体を入れ、私のジーパンのベルトに手をかけた、私は両脚で豚の銅を挟み、腰を持ち上げ左右に我武者羅に体を振り、襟元に掛かった腕を両手で掴み必死で爪を立て手を引き離そうとする、ぶっ殺すぞ、豚が怒鳴る、怒鳴った拍子に私と豚の上下が入れ替わる、豚の手が離れた。私は立ち上がろうとする、隙もなく、また豚が上から被さる。私は豚を両足で挟んだままの腰に力を入れ、豚も私も横倒しになる、豚が直ぐに上になる、上に起きあがった逆に豚を倒し私が上になり、また反動を利用し豚が上になり、その方向に勢いが付き一緒になって何回転か転げ、背中や首に小枝が刺さり湿った土が体中に枯れ葉や土を貼り付かせる、私が上になる時に豚を両腕で突き飛ばし、私は跳ね上がって、駆け出した。

 走りながら、顔を這う馬陸を払う、羊歯を蹴る、幼木を掻き分ける、地面はかなり急な斜面で、柔らかいく泥濘み、太い枯れ枝や木の根に躓きながらも、体制を立て直し、転ばずに、細い枝や、蔓に、顔を打たれながら疾走を続けた。山林は茂った幼木が視界を暗がりに消し枯れて倒れた古木が枯れ葉を付けたままの枝を伸ばし行く手を遮る。幾本もの、幹を、掴んでは、体を前に引き上げ、徐々に高い場所に向かう、大きな葉が、顔にへばりつく、首を振る、剥がれる、細く堅いものが腕を叩く、目に汗か虫かが入る、目を拭う、右目が痛い、涙で視界が滲む、喉が炎症を起こしたように痛む、息が苦しい。

 ずいぶん長い間走った気がした。荒い息の音をたてながら私は太い幹にしがみつくように凭れ掛け、聞き耳を立てた。自分の息と鳥の声や虫の音が蝉の騒音の中で木霊している。足音は聞こえない。枝を折り葉を踏む音はどんなに耳を澄ませても聞こえなかった。私は柔らかな腐葉土の黒い絨毯の上を、周りを見回し、道路の方向を見当をつけて等高線に沿って歩いた。踏み折る枝の音、崩れる落ち葉の音が森に響いた。汗が眉間を伝わるのが分かる。所々、枯れた杉が聳えているのが見えた。下草や幼木が目線の高さの視界を悪くしている。

 森を何者かが走る音がした。

 振り向く。木立の中を激しい音は遠ざかる。見えるのは鬱蒼とした森だけで音の正体が何か見えなかった。狸か鼬だろう。また歩き出す。頭上は濃く何重にも重なった葉が生い茂り木洩れ日もない。

 突然、肩を掴まれた。豚が目を吊り上げ殺気だった表情で私を引き寄せる。私は構わず走る。掴まれた手は離されず、私は向き直り、体で振り解こうとする、両手で突きながら振り解いた、腹を蹴飛ばした、当たり所が良かったのか豚は蹲った。足先に脂肪の感触が残っている。

 私は山林の中を走り下る、転げて滑り落ち、足首が痛む、全身が濡れ泥だらけになった、幹にぶつかり、立ち上がり、走る、後ろで大きな物音が私を追いかけてくる、土が飛び、小さな崖を飛び降りる、足首に痛みが走る、蔓が脚に絡まる、絡まった蔓は、引き千切られ、千切られた蔓は、脚にしがみつく、大きな茂った木が幾本も密集している、通る隙間がない、物音は近づいてくるのが分かる。

 躊躇わず木に登った、頂上まで、だんだん明るくなる、振り返らずに登った。下を見る、木の枝葉の間から。離れたところを豚が走ってきた。豚は近くで立ち止まった。耳を澄ませているのだろう。息も止める。この木は高く密集した樹木の茂みで下からは私の姿は見えないはずだ。顔に貼り付いた葉が剥がれ落ちる。上から近くで枝が大きな音を立てる、鳥が飛び立った。声を上げそうになる。見下ろす。豚は音の方向を見上げていたが、ゆっくりと奥に歩き出した。

 高い木だ。鳥の囀りも聞こえる。幾重にも絡まった囀りは木洩れ日に溶ける。曇天の隙間から陽光が雲を掠め光線となり降り注ぎ雲はガラスの破片のように輝く。彼女と動物園に行った記憶がある、随分前の記憶。猿山が雲のように光っていたのは陽光のせいだったのかしら。私はポップコーンのカップを持っていた。彼女がポップコーンに上から手を出す度、私は拗ねた。彼女は、なに変な顔してるの、せっかくの動物園なんだから、ほら、縫い包みショーやってるわよ、見に行きましょ、茜ちゃん好きでしょ、と笑いながらまたポップコーンに手を出した。地面は暗く、黒く、太い幹の間を細い樹木が細々と伸びている。動くものは地上には何もなかった。全ての生命は私のいる高さに集まり、生命の源を全て吸い尽くす。地上はここでは深海のようだ。騒めき蠢くものはこの樹冠の波の中にしかない。彼女の絶叫が、また体中の神経繊維を走り回り、寸断する。私は喚きそうな感情を抑え樹皮にしがみつく。何もかも叩き壊したい、何もかも消滅させたい、私の下腹部の肝臓の辺りから黒煙のような息苦しい猛毒を含んだ感情が渦を巻き脳を侵す。いつ、私は忘れられる。どれだけ待てば私の記憶は感情を伴わなくなる。このおぞましい感情は無意識の深海に沈み込むのに幾度の白昼夢を引き起こすのか。目が覚めても思い出さない夢に隠れるのに何度夜中に目を覚まさなければならないのか。猫の神様、猫の神様、私を記憶喪失にしてください、私を一つの石ころに変えてください、そうすれば、私は地獄から抜け出せるのです。地上から誘うような虫の音が聞こえる。

 私は用心深く、辺りの音に注意して木を降り始める。

 地上にそろりと降りた。

 葉が踏まれる音が後ろからした。

 振り向く。何もない。降りた拍子に枝でも落ちたのだろう。

 豚が降りていった方向と逆に歩いていくが辺りに動くものはなく物音は蝉と鳥で静かに虫の音が伴奏をしている。

 頭上でけたたましい何百の枝葉が揺れる音がした。

 僅かに煌めく樹冠の木洩れ日に一斉に鳥が飛び立つ。鳥か。私の目の前に豚が上から飛び降りてきた。私はそのまま体中に強い衝撃を感じ倒れた。豚は私に馬乗りになっている、このやろう、あの木の上に隠れてたことは知ってたんだよ、馬鹿め、私の首を片手で掴む、片手で私の乳房を掴む。

 息ができない。

 両手で爪を立て豚の顔を押す、豚は顔を歪ませ乳房から手を離す、頬が引っ叩かれ鈍い痛みが顎に響く、両手にもっと力を入れる、全ての指に全力を込める、また引っ叩かれる、何度か引っ叩かれる、息が苦しい、突然に左手の中指に湿った熱い脂肪質の感触と脆いプラスチックの感触に挟まれるように突っ込んだ感覚が被い、その感触の気色悪さに私は叫喚して、左手を引くように振り回し、重い生肉のような手応えを感じた。絞め殺される駝鳥のような悲鳴をあげ豚が後方に飛び下がり転げ回る、手の平の中に粘着質に包まれた堅い何か掴まれている。

 握られた手の平を開いた。

 手の平は血液と粘液で濡れ滴っていた。手の平の中には血に染まった丸いものが濁った色の血管か神経の千切れた房を引き摺って、あった。眼球だった。

 座り込んだままに甲走った絶叫をあげながら投げ捨て眼球と血飛沫が闇に散った。豚が低く大きい唸り声で飛びかかる、豚の右目からは溢れる涙のように血液が流れ頬を真っ赤に染めていた。喚きながら逃げる、枝が地面から跳ね、顔に当たる、泥に足を取られて、顔から前のめりに倒れ滑り落ち羊歯や幼木が頬を叩き泥や枯れ葉が顔を擦る、口の中で朽ちた葉や土の味と感覚を何度も吐き出しながら走り始める。

 後ろに倒れた、右半面が血と土で染まった豚の顔、空洞になった右目、土で汚れた手が目の前に迫る。豚は猛り拳で殴りつけようとし私は手元で掴めた腕ほどの長さで手首ぐらいの太さの木を豚に振り下ろすが豚は首を後ろに下げ棒は肩口に当たり手応えもなく砕け散った。なんのダメージもなく豚は私の顔を鷲掴みにする。覆う手に噛みつく、豚が力任せに振り解こうとする、血が飛び散る、口の中から豚の肉片を吐き出す。殺される、と思った。

 跳ね上がり起きる。走れ、逃げろ、逃げ延びろ、鼓動が脳髄に命令する、走れ、走れ、走れ、黒い幹が過ぎる、緑の葉が飛ぶ、血の色の枝が疾走する。横に張った葉が枝が消えて、出現する、消える、林立した赤黒い幹どもが、後方に、次々に、吹きすぎる、生きろ、生きろ、お前は生き延びろ、魂が叫ぶ、心臓が喚く、腹筋が怒鳴る、土が飛ぶ、羊歯を蹴る、葉が散る、枝が折れる、風が鳴る、鼓動が叫ぶ、蔓が絡む、幼木が叩く、土が掴む、前方が明るく光の柱に輝いている、走れ、足が縺れる、肺が破れる、心臓が壊れる、筋肉繊維が全て遊離していく。全身が切り裂かれても、血を滲ませながらでも、走れ。枝は首を叩き、葉は腕を切り、蔓は顔を掴む、同じ風景が飛び過ぎる、光の柱を潜り、闇の洞窟を抜け、走った。腕や首の露わになっている場所から痛みが響く、枯れ木を跳び、蔓を引き裂き、幼木を蹴り折り、走った。

 光が私を覆った。

 舗装道路が崖に沿って曲がりくねっていた。錆の目立つガードレールが遠くの頂上まで続いているのが崖からの眺めで見える。崖の遙か下にも豊かな照葉樹林の森が広がる。広がる照葉樹林は杉林に大きく囲まれ杉林は山の頂上まで続く。誰もいない。人工の物音は何もない。舗装道路にも落ち葉が散らばり、道路の中心には轍のように車の跡が葉を押しのけている。手の平は土と血で汚れ、前からあった傷跡をなぞり血で固められた土が人差し指の付け根から斜めに線を造る。これだと手相の鑑定人も虫眼鏡を使わなくていいだろう。

 ゆっくりと歩く。これからずっと下り坂だろう。ほら、鳥の囀りを聞こう、虫の音を楽しもう。足取りはだんだん軽くなる。

 エンジン音が何処からかした。山林から紺の四輪駆動が飛び出してきた、私は悲鳴をあげ避ける、道路を塞ぐように車が止まり豚が降りた、言葉にならない呻き声をあげながら、襲いかかる、両肩を掴まれ押し倒されようとする、ずるずると後ろに押しまくられガードレールに押しつけられた。何時間も走り続けた両脚は遂に力が脚から抜けていき、地面に崩れた。生きたい。甲高い叫び声をあげ血と泥の右半面を一瞬見せながら私の上を突っ込み豚の膝が顔面にあたりガードレールに上半身から飛び込むような格好になり私が顔面に当たっている豚の膝を上に突き上げると、豚がその刹那、消えた。振り返っても目の前にはガードレールしかなかった。息を整え立ち上がり、崖を覗いたが、落ち葉を集めたような柔らかな森が広がるだけだった。車のエンジン音が低く鳴り続けた。

 交通の邪魔だと思い、車のドアを開け外から手でアクセルを押した。車は私を横に跳ね飛ばし尻餅を付かせガードレールに突進し衝突しガードレールを捻じ曲げながら宙を前転し崖の下に落ちていった。

 

 崖の下に髭鯨の体長ほどの幅の川が音を出して流れていた。曲がり角ごとにある大きな凸面鏡に顔を映すと顔は泥塗れだった(美貌がだいなしだわ)。私は川に降りられる場所を探しながら歩いた。川はブロックの堤防で囲まれその片側が私の歩く舗装道路になる。階段があった。急で長い階段を四つん這いに近い格好で下りた。川岸に屈み流れを掬い顔を洗った。程良く冷たかった。魚が流れを向いて群れて泳いでいる。流れに押されては上流に戻る。これだけ下流になれば刺すような冷たさはない。内蔵を包む堅く冷たい白いものが罅割れから破片となり剥がれ生々しい弾力のある赤黒い筋肉繊維が露わになっていく。憎悪より強く悲しみより痛く愛情より熱い生命の誕生を感じた。顔と髪を洗い、手と手の爪を泥と血が流れ去るまで洗った。千鳥が緩やかな上下の曲線を描き水面のすぐ上を滑るように飛び向こう岸に止まった。生々しいまだ陶器の欠片の付いた内蔵に脳髄に死神の鎌のような彼女の怒号が響く。私は、思い切り水面に向かって意味のない怒鳴り声を叫んだ。辺りを振り返り誰もいないことに安心した。私の記憶がただの昔話になるのはいつだろう。このまま、何度、彼女の声を思い出すのだろう。何度の白昼夢と幾夜の悪夢が続くのだろう。靴と靴下を脱いだ。ジーパンを捲り上げ両足を水につけて座った。冷たい感触。水が脚を撫でて渦を巻き擦り抜けていく。服は顔や手や首を洗い濡れていた。私は服が乾くまで川岸に座っていた。彼女の声は響き続け神経が細切れになっていく。猫の神様、猫の神様、私の痛覚神経を麻痺させてください。聴覚神経を取り去ってください。

 坂は緩やかになり平野が広がり人家も見え始めた。人家の庭先や石垣の上に赤や白の花が咲いている。人家を取り囲む畑では葱や薩摩芋が植えられている。畑と道路を分ける用水路の水は透明だった。魚を探したが見つからなかった。用水路はコンクリートで底も両側も固められ水草も生えていなかった。二車線道路に突きあたり、車の往来が多くなり排気ガスがその度に舞い生暖かさに咽せた。道は左右に続き、後ろポケットから財布をとり、コインを取り出して親指で上に弾き落ちてくるコインを掴んだ。左だ。

 背丈より高いブロック塀の上から庭木が覗く。自転車や日傘の婦人が行き交うようになる。歩道は線一本で車道と仕切られ狭い。二車線道路と一車線道路の四つ角で小学生低学年ぐらいの男の子が二人でキャッチボールをしている横で塀よりに日傘の婦人が話をしている。婦人の高く大きい話し声が聞こえる。ほらほら、困ったものよね、あそこの猫の神様、猫の神様のお陰で猫が夜中の間ずっとギャーギャー騒いじゃって、この時間よね、猫の神様のご登場は、そうそう、この時間よ、この辺の野良猫は全部、猫の神様の子分ですもの、まったく、自分の家で飼えばいいのよね、だいたい、ああいう偽善者面した人にかぎって、自分が世界で一番優しいって思ってるものよね、そう、マザーテレサさんとかより、立派で親切って思っているのよ、人の迷惑とか、隣の気持ちとか鈍感で、文句でも言うなら世界一の悪党にしちゃうに決まってるわ、猫の神様は人間の何様なんでしょう。門の柵から犬が吠え出し反射的に飛び下がった。ブロック塀の上から百日紅の淡い紫が緑の葉の間に乱れ咲いている。道沿いに臑ほどの高さの雑草の茂った空き地があり『ニコニコ不動産 建設予定地』の看板が中央に大きく立てられ(なんていかがわしい名前)猫が看板を中心に7匹寝そべっていた。もしかしたら数え漏れでもっと隠れていたかもしれない。猫は私を見たがすぐに顔を下ろす。これが噂に聞く猫の集会かしら、でも夜中にするものではないかしら。猫が立ち上がり、ゆっくりと空き地の向こうの角に歩き始めた。日傘を差し地味な洋服の老女が屈み込みながら手提げ鞄からなにか出している。ウインナーだった。猫は地面に置かれたウインナーを食べ始める。あれが猫の神様か、と私は笑った。猫の神様は強欲な微笑みで猫に餌を配り続ける。九尾の狐は尻尾で人に化けるというから猫の神様も化けられるかもしれないが、生活臭や嫌みのない、もっと上品な老女に化けるのではないかしら。バス停だ。バス停はだんだん近づいてくる。見ると『藤谷行き』とあった。私は舌打ちをした。駅に行かないのかしら。『藤谷』って彼女が言っていたあの『藤谷』かしら。ここか、ここではないかもしれないけれどこの路線に彼女は子供の頃に住んでいたのかしら。探せば彼女が登った大木があるのかもしれない、子供の頃のことだから本当は低い木なのかもしれない。タガメのいた水溜まりはなくなっているだろう。バスの経路も張ってあった。途中に北松吉駅があった。

 

      だるるるるるるるる

      るるるるるるるるば

      ばりりりりりりりり

 

      大地を揺すれ

      白象の大群

      その愛しい牙で

 

      りりりりりりりりぞ

      ぞぞぞぞぞぞぞぞす

      すがががががががが

 

      天空を破れ

      白い獅子ども

      あのしなやかな爪で

 

      炎の欲望

      氷の決心

      光の憎悪

 

      がふふふふふふふふ

      ふふふふふふふふど

      どらららららららら

 

      大海を裂け

      白鯨の集団

      この厳かな渦で

 

 

 数ページ読まれたままの『城』はまだ机の本棚に栞を挟んで立てられたままだった。感想文は前に読んだ作品について書こうと考えるようになっていた。恵理華ともあれからあってない。部屋の電話から恵理華に掛けた。

 

      暗い森の先には静かな湖はありません

      静かな湖の底には龍は眠りません

      龍が眠る峡谷には鬼は歩きません

      鬼が歩く岩山には雷鳥は隠れません

      雷鳥が隠れる雪には花は咲きません

      花が咲く草原には蝶は彷徨いません

      蝶が彷徨う野原には小川は流れません

      小川の流れる故郷には祖母は住みません

      祖母の住む家には柴犬は鳴きません

      柴犬の鳴く庭には小鳥は飛びません

      小鳥の飛ぶ公園には蟋蟀は跳ねません

      蟋蟀の撥ねる山には

        ただ暗い森が深く深く続きます

 

 

 団地に挟まれた道路には枝振りの悪い細々とした街路樹が規則正しく煉瓦を真似た歩道に並んでいる。キャップを深く被り直す。スーパーの看板は洒落たワインレッドに黄色でアルファベットの店名が書かれている。昼時で婦人の買い物客が頻繁に出入りしている。スーパーの入り口を過ぎると花屋があった。店の名が『花水木』なのが気に入った。日本全国でこの名前の花屋は何件あるのだろう。入り交じった花の香りが強くなり、薄くなる。

 焦げ茶色に塗られた壁に暗いガラスが大きく付けられ、黒い看板に白い文字で『珈琲・あかしあ』とあった。焦げ茶色のアンティックな木製のドアを押すとベルが鳴った。涼しい風を感じた。静かにボーカルのないジャズソングとコーヒーの香りが流れる。コーヒーの香りが唾液腺を刺激する。いらっしゃい、と低い男の声がした。床もテーブルも焦げ茶色に塗られた木製で統一されている。明るすぎず店全体が重厚な雰囲気だ。満席でカウンターしか空いていない。カウンターには白いシャツに黒いエプロンをつけたマスターがコーヒーを注いでいる。一番奥のテーブルで手を振られた。恵理華は先に来ていた。年輩の背広の集団、Tシャツとボディコンのアベックは大学生かしら、婦人の集まり、背広の一人客が書類を見ている、また、チェックの汚れたシャツとノースリーブの番、初老の背広が煙草を吹かしている、スーツのアベック、テーブルは二人用で恵理華は窓際に座っていた。窓の向かいに腰掛けた。暗かったガラス窓は中からは外の高温まで伝わってくるほど明るく見える。

 「まだ、注文は待って貰ってるわ」恵理華は無表情に真っ直ぐに見て「話したいことがあるんでしょ」と恵理華は目を伏せた。いらっしゃいませ、と不意に呼びかけられた。マスターと同じ服装のウエイトレスが私の斜め前に割り込み盆から水の入った透明なガラスコップを恵理華の前に置き、私の前に置いた。脇に挟んでいたメニューをテーブルの真ん中に置き何も言わず去っていった。

 「智則のこと、何か知ってるの」と恵理華はコップを手に取りながら訊いてきた。「智則?」私はそれが誰のことか見当がついたが訊き返した。恵理華の視線が周囲を回り潜めた声で、死んだのよ、ニュースで見たでしょ、と私を上目遣いで睨んだ。知らないわ、ニュースなんて見ないもの。新聞にも出てたわ、新聞は読むでしょ。読まないわ、なにがあったの。恵理華はメニューに手を伸ばし取った。メニューを広げながら、崖から車ごと落ちて死んでいたのよ、と私をメニューの上から目を覗かせて見た。恵理華の目は大きく映画で見た金髪の女の子みたいだ。そう、と私は頷く。茜ちゃん何か知っているんでしょ、恵理華はメニューをテーブルに置く。知らないわ。知らないはずないのよ、貴女は知ってるのよ、恵理華は私を正視した。どうして私が知ってるのよ。智則はあの日貴女とあの山に行ったんだから。恵理華が最後に誘った日のことかしら。そうよ、私は行かなかった、智則一人だった、とテーブルに視線を落とした。

 ご注文はおきまりですか。振り向くとウエイトレスが立っていた。私はキリマンと答えた。恵理華はアイスと私を正視したまま言った。畏まりました、キリマンとアイスですね、ウエイトレスは伝票に書き込みテーブルに伏せておき行った。恵理華は再び話し始めた。私はときおり、自殺の方法を考えているわ、首吊りは死体が見苦しい、服毒は入手が難しい、入水は捜索に費用が掛かり家族の迷惑だ、とかね、智則は貴女を生意気で強姦してやると言ってたわ、私は智則の命令するままに貴女を誘った、そう、それを私は鏡貼りのラブホテルのベットで聞かされて、智則のペニスを舐めているベットの上から貴女に電話を掛けた、私も、智則に強姦されたの、羊歯と落ち葉と枯れ枝に塗れ樫と椎に囲まれながら、体力も体格も違う彼に襲われて、私は無抵抗にするしかなかった・・・、手首を切るのは失敗するかもしれない、自殺の失敗って恥ずかしいでしょ、私は彼の唾液を啜り、彼の精液を飲み続けたわ、私の膣は彼のトイレ代わりとなり・・・。恵理華は黙り込み遠くに視線を移した。正面のポプラが見窄らしく見える。よく見るとかなり多くの枝が切られた痕がある。見えるよりもっと多くの細かな枝打ちがされているのだろう。

 目の前に温い湯気が立った。見ると白いコーヒーカップで黒い液体が優美な湯気を漂わせていた。恵理華の前にもアイスコーヒーの入ったグラスとが置かれた。真ん中にミルクポットとシュガーポットを置きウエイトレスは会釈をして帰った。ストローで恵理華がアイスコーヒーをゆっくりと掻き回し氷がぶつかりあう堅い音がした。カップを持つ右手が熱い。苦くて香ばしい液体が唇と舌を熱しコーヒーの味が舌と喉を刺激する。カップ皿とカップが当たり音がする。コーヒーの味が口の中に残っている。

 そうよ、と恵理華がミルクを入れたアイスコーヒーをストローでぼんやりと回しながら語り始めた。そうよ、私は、家畜だったし実験動物だったしペットだったわ、でも、そんなものよね人間て、人間の自由意志なんて最近できたものよ、民主主義とかいうのが発明されてね、人間て、ずっと昔から自分の意志で行動できるひとは限られていたわ、王様だって貴族だって、慣習とか世襲とか親族とかの桎梏に従って生きていくしかなかったのよ、運命に従って生きていくしか、決められた人と結婚し性交し、子供を産んで、その子供を自分の境遇と同じように嫁がせて、自由なんて、藤原氏とか平家とか、他の人を動物のように思い、自分だけが人間と思えて、そして、本当にそう扱える権力を持った人たちだけのものよ、全員に与えられた自由なんて、意味がないわ、二重螺旋構造の中には、そんな対応マニュアルは載ってないのよ、載っているのは、長い物には巻かれろ、と、郷に入れば郷に従え、ぐらいよ、私はそれに従って本能に従って生きているのよ、私は普通よ、普通すぎるぐらい普通よ、舌を噛み切ったって死なないというわ、喉に手を突っ込んで舌が喉に巻き込まれるのを防げば大丈夫って、人間は簡単に死ねないようにできているのよ、私は彼の奴隷だったわ、飲んだ精液で私の血液は白く濁って、血液検査でもしたら医者が医学事典を何冊もひっくり返すぐらい、でも、そうできてるのよ、人間はみんな、生まれ付き奴隷として生まれてきたのよ。

 恵理華、氷が溶けちゃうよ、と言って私はコーヒーカップを口に運んだ。恵理華のアイスコーヒーの氷は溶けかかり、恵理華が渦を立て続けても音がしなくなっていた。枝打ちされた見窄らしいポプラの葉は萎れかけ陽光に枯れ落ちそうに思えた。恵理華はグラスに挿されたストローに口を付ける。ストローを茶色が昇っていく。

 恵理華は一口飲んでストローを口から離した。茜ちゃん、彼は貴女と会うずっと前に貴女を知っていたわ、彼がクラスメイトを写した写真を見たのよ、彼は紹介しろと私に命令したわ、貴女のきつい目と強く結んだ唇が気に入ったって、言ってた、気が強い女を犯すのって男の夢だろって、でも、彼が愛していたのは、きっと、隆也よ、隆也と、彼は、肉体関係があったの、彼と、隆也と、私で、3人でするの、隆也は、女役専門で、男は彼一人、明かりを明々と点け、排泄物の付いたペニスを銜え、膣口も、肛門も、口腔も、彼のペニスが差し込まれ、穴の中でペニスは踊り回るのよ、彼は、きっと正常に恋愛ができないの、男や、女子中学生と、精液と唾液と糞尿に塗れてしか、勃起もできないのよ、臆病なのか異常なのか卑怯なのかわからないけれど、きっと。

 茶店でする話しではないと思いながら放心したような恵理華をみてコーヒーを飲んだ。コーヒーは温くなっていて吐き出したくなった。左手を私は広げ傷を見た。その傷を恵理華の前に顔を掴むかのように出した。恵理華、斜めに傷があるでしょ、深く。恵理華は目を大きくし私の手の平を見つめた。

 春先で急に寒さがぶり返した日だったのを覚えている。決心して彼女のいる応接間に行った。このままでは私も気が狂う。彼女は衣類やスナック菓子が散らかった毛の短い緑色の絨毯にソファーの横にに凭れて座り込んで眠そうな目つきで陶器でできた人形のように静止していた。ソファーにもソファーの前にあるテーブルにもソファーの向かいにある椅子にも服やスナック菓子の袋が散乱しソファーと反対側の壁の棚はセーター、クッション、時計、スカート、木彫りの置物、ネッカチーフ、その他様々な雑貨が乱雑に押し込まれていた。陶器人形は花柄のフレアースカートを蓮華畑にいるかのように広げて落ちているスナック菓子をときおり摘んで食る。食べるために口に当てた手がそのまま止まる。止まって固まる。私がドアを開けて入ってきたのにも全く気が付かない。私はゆっくり彼女に近づく。彼女は動かない。目線も絨毯に向いたままだ。私が傍らから見下ろし続けるのに何の反応もない。私はしゃがみ彼女の耳元で「お母さん」と話しかけた。彼女はゆっくりと私に顔を向け見つめていたが「どなたですか」と口にした。「茜よ、貴女の、娘の茜よ」私は哀切を込めた声で答える。貴女誰よ、と声を張り上げた。私の顔に爪を立ててくる。私が跳ね上がると彼女も飛びかかり私の服を掴む。私は壁の棚に押し詰められ押し返す。棚を背に押し合いが始まった。私は彼女を絨毯に突き倒し彼女は歯を見せて吠えた。私は棚にあった本を投げつけた。彼女は絨毯に散らばる服や菓子を倒れて這いながら投げてぶつけてきた。私は棚のものを目覚まし時計や置物を手当たり次第に投げつけ続けた。棚のものが全て無くなる頃、彼女が泣き喚き始めた。彼女の腕の切り傷から血が出ていた。血は上腕の外側を一面に染めた。私は応接間から飛び出した。二階の自室に駆け上がった。鍵を掛けた。開けた窓の枠にエチオピアが寝ていたが私を見て擦り寄ってきた。私は抱き上げてベットに腰掛け膝の上に置いた。ベットの端の棚に手を伸ばしてブラシを取りエチオピアのブラッシングを始めた。ブラシに毛が溜まる。溜まった毛を毛玉にして塵箱に放る。何度も繰り返す、毛が取れなくなるまで。ノックがした。ああ、父だと思った。私は立ち上がり机の引き出しを開け鋏を取り出し逆手に持って左の手の平に刺し斜めに強く引き裂いた。血が溢れるのをポケットから出したハンカチで押さえ鼓動が手の平で聞こえた。これは私の神経の痛みだ、と思った。鍵を開けドアを引いた。ハンカチが血で湿り赤い液体は滴り落ちた。

 「そうやって、この傷はできたのよ」私は温くなり不快なコーヒーを飲み干した。その傷を母のせいにして、私は父に抗議したわ、でも、父は私が母を怪我させたことを責めたのよ、それで、終わり、小学生の頃よ、と言い、私はコーヒーカップをとり空なのに気が付きカップをおいた。恵理華のグラスは殆ど残っていたが、もう氷は消えていた。

 歩道を日傘を差した婦人が通る。ポプラの影が差す。婦人の顔に日が当たり通り過ぎた。「ねえ、自殺、しようか」と私は恵理華の顔をみらずに言った。いいわよ、と恵理華が答えた。

 私たちは伝票をとりアベックや背広の後ろを歩きカウンターの端で勘定をすませた。ベルの音が鳴り熱風が立ちこめた。ドアを締めるとコーヒーの香りは排気ガスになりジャズは蝉が代わりをつとめた。眩しかった。焦げるような日光に私はキャップの鍔を深く下げた。道沿いに延々と続く街路樹は日光に葉が萎れるように垂れている。道路の左右に団地が立ち並ぶ。団地のベランダには一揆の筵旗のように洗濯物が干され布団が掛けられている。鍔広の帽子を被った白いTシャツの私と同い年ぐらいの少女が背骨の線を見せながら自転車で追い越す。学校の屋上からでいい、と訊いた。恵理華は頷いた。 

 私はゲーム理論の『囚人のジレンマ』をもとにした生物学者くずれの創った童話を思い出していた。

 

 青い青い大きな湖にペリカンさんたちが住んでいました。浅い湖ですがとても透明な水とたくさんの生き物がすんでいます。すいすい泳ぐすばしっこいお魚、蓮の上をとっととあるく水鳥たち、水面をゆらゆらとぶ蜻蛉のむれ、水の底の鯰が砂をたててにげていきます。ペリカンさんたちもその中の住人です。ペリカンさんたちには悪いペリカンもいます。優しいペリカンさんもいます。気が強いペリカンさんだっています。みんな、お魚を食べて生きていました。

 ところが、悪いペリカンは自分でお魚を捕りません。他のペリカンが捕まえたお魚を盗んでしまいます。

 ほら、気の強いペリカンさんがちょうどお魚を捕まえました。ペリカンさんの嘴でぴちぴち動いています。悪いペリカンがさっそく盗りにいきました。気の強いペリカンさんが銜えているのを横からかんで嘴から抜き取ってしまいました。

 気の強いペリカンさんは怒っていいました。なにするんだ、かえせよ。いやだよ、もう、ぼくのものだ、悪いペリカンがいいかえします。

 気の強いペリカンさんと悪いペリカンのお魚のぴっぱりっこがはじまりました。気の強いペリカンさんが優勢です。あっ、悪いペリカンさんが巻きかえしました。どっちもどっちです。とうとうお魚をおっことしてしまいました。

 お魚は水面をぴしゃりとはねて逃げていきます。

 気の強いペリカンさんはおこります。なにするんだよ。気の強いペリカンさんと悪いペリカンは大喧嘩をしました。どちらも羽はぼろぼろ怪我だらけです。悪いペリカンと気の強いペリカンさんは何度もおなじように喧嘩をしました。

 喜んだのはお魚だけです。気の強いペリカンさんは偶には悪いペリカンに見つかる前にお魚をのみこめますが、悪いペリカンは自分でお魚をとらないので全然お魚をたべられません。ぺこぺこです。

 こんどは優しいペリカンさんがお魚をとりました。悪いペリカンが見つけます。よし、こんどこそ、と悪いペリカンは優しいペリカンさんのお魚をとってしまいました。優しいペリカンさんは考えます。またお魚は捕まえればいいや、悪いペリカンさんもお腹がすいていたんだよ。

 優しいペリカンさんはまたお魚をつかまえます。また悪いペリカンが横取りします。優しいペリカンさんはそれでも、またお魚を捕まえます。とられます。つかまえます。とられます。なんどお魚を捕まえても優しいペリカンさんはお魚を食べられません。もう、ぺこぺこのふらふらです。お魚をつかまえるのもやっとのことです。

 またお魚が悪いペリカンに盗られました。優しいペリカンさんも怒りました。このままでは優しいペリカンさんはお腹がすいてたおれてしまいます。悪いペリカンが盗ったお魚をとりかえそうとします。でも優しいペリカンさんはぺこぺこで速くおよげません。悪いペリカンさんはもうたくさんお魚をたべていますから早くおよげます。優しいペリカンさんはまたお魚をつかまえようとします。ぺこぺこで目の前がぐるぐるまわります。お魚はすいすいおよいでおいつけません。とうとう優しいペリカンさんは泳げなくなりました。

 優しいペリカンさんは次の日の朝には痩せ細ってしんでしまいました。

 悪いペリカンは優しいペリカンさんがいなくなりましたのでお魚がたべられません。お腹がぺこぺこになりました。

 また気の強いペリカンさんのお魚をとろうとします。でも気の強いペリカンさんは元気です。悪いペリカンはなかなかおいつけません。気の強いペリカンさんは悪いペリカンがおいつくまえにお魚をのみこむこともあります。

 悪いペリカンが気の強いペリカンさんのお魚をとることができることもあります。でも気の強いペリカンさんは取り返そうとしてまた大喧嘩です。いつものようにお魚はにげてきます。悪いペリカンは、しかたがないや、と諦めて気の強いペリカンさんから離れていきます。でも、どうにも我慢ができないのが気の強いペリカンさんです。気の強いペリカンさんは悪いペリカンを追いかけて、つつきまわして怒ります。悪いペリカンも気の強いペリカンさんをつつきかえします。ペリカンのピンク色のきれいな羽もすりきれたり、おれたり、ちであかくそまったりしています。

 悪いペリカンはだんだん痩せておよげなくなります。もう気の強いペリカンさんが近くでお魚をつかまえても盗ることができません。

 ぺこぺこのふらふらのぼろぼろです。とうとう悪いペリカンもしんでしまいました。

 青い青い大きな湖には気の強いペリカンさんだけがのこりました。

 

 運動場では汗塗れでサッカーの試合が行われているのに夏休みで人が少ないからか端の日向で鳩が砂浴びや羽を無防備に崩して日向ぼっこをしていた。茂った桜の木陰を選びながら私たちは横を通り過ぎていく。一本の楠からけたたましい無数の鳥の叫び声が響く。たぶん椋鳥だろう。楠の真下から見上げると茂みの全ての梢に黒い鳥が犇めいていた。椋鳥はその木だけに集まり他の木にはいなかった。椋鳥の糞が地面に散らばっている。今日だけでの量ではないように思えた。毎日、他の木には見向きもせずこの木に止まっていることになる。堅く平らな地面には夏休みの間に背の低い草が所々生えている。笛の音が響く。水に飛び込む音がして金網の向こうのプールではタイムを取っている。校舎の入り口に鍵はかかっていなかった。土足でいいよ、と私は恵理華に言った。裏校舎と呼ばれている文化系クラブと理科室などの特殊教室になっている建物には正面の校舎を通り抜けると近い。裏校舎もコンクリート造りの3階建てで文化系のクラブは夏休みにはあまり出てこず殆ど無人になっている。入り口の扉の鍵は開いていたが電灯は点けられていないので薄暗く奥に進むごとに暗さは増し月夜のような闇になる。北窓から薄日が射す廊下の端に階段はあり二人のスニーカーの足音が暗いコンクリートの階段に響く。屋上に入る錆び付き始めた鉄のドアは鍵が壊れており針金を巻いて固定されている。針金は太く素手で外そうとすれば力がいり手の平に食い込んで痛みが走る。ハンカチで巻いて二人がかりで解くのも汗ばむ。Tシャツは背中で皮膚に貼り付きますます蒸し暑さを増幅する。錆び付いたドアは蛙の悲鳴のような音をたてて開いた。光と風が吹き込み目を細めて涼しさを感じた。屋上では囲んでいる胸ほどの高さの金網を蜃気楼が揺らめかしていた。南側では別の校舎が視界を塞ぎ遠くの山が校舎の上に青く煙っている。北側は蔓性植物に完全に覆われた学校を囲む高い金網の向こうに瓦屋根だけが広がる。屋根以外の何も見えない。遙かに続く屋根の向こうは山々が地変線を隠している。恵理華は、私の名前と同じエリカという花を茜ちゃんは知ってる、と訊きながら屋上に出た。昔、ヨーロッパで牛とか羊とか飼いすぎて、全ての植物が無くなって、ヒースの荒野になったとき、ヒースと一緒に生き残ったのが乾燥に強くて食べにくいエリカだったのよ、花言葉は孤独。

 「ほら、金網を越えて」と恵理華に言った。恵理華は広がる瓦屋根を見てから、金網を乗り越え手の平の幅の縁に立った。下を暫く見つめた後に体を私に向け、茜ちゃんは、と訊いてきた。

 「『しかえしするペリカン』って知ってるかしら」と恵理華に答えた。恵理華の目は大きく瞳は濃い茶色で綺麗だ、と思った。私の青銅で覆われた心臓が青銅を押し割ろうと鼓動を高まらせる。私は生命と生命の証である内蔵からの叫びを聴いていた。内蔵を通る血液がその呪詛の叫びを赤血球に乗せ全身に運ぶ。心臓は錆びた青銅に亀裂を走らせ血液を巡らせる。私は両手で恵理華の肩を突き、恵理華は悲鳴を上げ咄嗟に伸ばした手が私の足下の金網を掴んだ。悲鳴をあげ続け片手でぶら下がる恵理華は一方の手ぶらの手を切れそうなくらい上に伸ばして金網を鷲掴みにした。恵理華の悲鳴が鳴り響き続ける。私は「死にたいのでしょ、さっさと手を離しなさいよ、簡単よ、死ぬことなんて」と金網を鷲掴みにする指を蹴った。二度三度と蹴った。指の爪の間から血が滲んだ。指は剥がれた。恵理華は今、片手だけで金網にぶら下がっている。恵理華は剥がれた手を金網の外にある屋上の縁に掛けた。私はもう一方の手の指も蹴った。指は直ぐに離され金網越しに恵理華は屋上の縁にぶら下がっている。恵理華の悲鳴が響き続ける。私は恵理華をそのままにして屋上のドアにゆっくりと歩いていった。

 

      桜吹雪の金さんは

         正義の味方じゃありません

      証拠も揃えず金さんは

      反論訊かずに金さんは

      弁護士付けずに金さんは

      言い訳させずに金さんは

      異論も集めず金さんは

      磔獄門引き回し

       買い付け穀物皿回し

        浅漬けホルモン猿回し

 

 

 エチオピアが朝っぱらからトイレ用の砂を蹴倒し海が割れ天が裂けたように大慌てで掃除をしているときに電話が鳴った。父が取り私に回した。恵理華の声がした。「私、生き残ったから」と言って電話は切られた。エチオピアは私が電話と掃除でパニックを起こしている間もソファーの新しい主となって寝そべっていた。

 

     美しい琴の音を聴かせておくれ

     私が粗末な笛を奏でるから

     

     お前の名前を教えておくれ

     お前のために祈りができないから

 

     なにもいらないからそばにいておくれ

     ひとりきりにあきたから

 

 

 寝る前に、ガラガラ蛇が自殺した、と恵理華から電話があった。自宅の近くのマンションの屋上から真っ裸で飛び降りたそうだ。恵理華が突き落としたのかもしれない。眠かったので直ぐ切って寝た。

 

     花を摘む乙女がいます

     私は花の名前を知りません

     白い花です

     緑の野原に咲いています

     花を摘む乙女に

     花の名前を訊いたなら

     教えてくれるかもしれません

     私は名前を訊きません

     白くて可愛い花びらで

     恋占いができなくなるから

 

 

 夏休みの終わりに彼女の病院に行った。相変わらず、私に、お母さん、と言って話しかけてくる。

 

     昔書いた恋文は

     早めに焼くのがいいものです

 

     いらなくなった恋文は

     嫉妬や未練をささやくよ

 

     昔書いた恋文は

     あした燃やしちゃいけません

 

     だせなくなった恋文は

     あしたもきっと生き残る

 

 

 広く高い体育館の板張りの床に犇めいて軍人のように整然と両膝を立ててみんな座っている。教師たちは左端に二列に並んで立っていた。台上には校長が立ち物分かりが良いのか悪いのか分からない演説をした。生徒会長やら教頭やら生活指導担当やら頼みもしないのに(少なくとも私は頼んでいないのに)次々にでてくる。誰が真面目に聴いているというのだろう。学校は軍隊に似ている。整然と並ぶことで士気と忠誠を確認する。軍隊と違うのは誰も使命感も愛校心も持たないこと。斜め前の一団が明るくなり室内の照明をはるかに凌駕する陽光が射し体育館の高い場所にある窓から光の道が空中に映った。光の道の先に青空に絵を描くように鳶が輪を画いていた(鴎とか鳶とか輪を画くのはなぜかしら)。講壇から響く声が辺りから漏れる密やかな話し声と絡む。辺り中から笑い声が鳴り響いた。講壇の教師がジョークを言ったのが受けたらしい。始業式の終わりの宣言に途端に騒がしくなり一斉に立ちあがった。騒がしさが列を作りスリッパの音と絡みながらパレードか行軍のように順序よく前と後ろにある眩しい光が射す出口から出ていく。体育館から校舎へはコンクリートで通路が造られ通路には黄色い線で平行線が引かれ『土足厳禁』と書かれている。校舎に入ると水に落とした牛乳が拡散するように騒めきも無秩序に広がる。緩やかな階段を騒音の軍団は上がっていく。

 「分かったわよ」の耳元の声に階段から転げ落ちそうになりながら振り向いた。恵理華は笑顔で「『しかえしするペリカン』の意味が分かったわよ」と言った。「あのペリカンって歯医者さんをしてるんでしょ」と立ち止まった私を置き去りにして階段を上り去った。私は恵理華の言葉を菩提樹の下の釈迦如来のように真剣に考えながら雑踏の流れに復活していった(その意味に気付いたのは数ヶ月後にテレビでバレーの『世界の創造』を観ていたときだった)。騒音は止み説教じみた教師の声に併せてまだ窓からは蝉の声がした。教師は佐上純子が転校したことを伝えた。どよめきは起こらなかった。近くから鳩の洞窟から籠もって響くような鳴き声がした。空には雲はなかった。運動場を取り巻く茂った桜の木が大きく揺らめきヨットの帆のように舞立った砂埃が横切っていく。砂埃は離合を繰り返しながら時には竜巻のように渦になる。砂埃の切れ端がどんどん近づき椅子にぼんやり座っていた私たちを襲った。教室中に悲鳴が湧き教師の窓を閉めろの怒鳴り声が響き砂埃の中を誰かが立ち上がりガラス窓を閉めた。音が幻術のようになくなった。窓からの風景は映像に変わった。目の痛み。砂の味と感触が口の中に残っている。ハンカチで涙を拭っているクラスメイトもいた。滲んだ窓からの風景は何もかもが動きを止めていた。

 

 

 外に出ると身震いがおこり鳥肌が首筋に立った。夜明け前の薄明かりに粉雪が舞い降りていた。粉雪はアスファルトに融け続けアスファルトを黒く染める。ワゴン車のライトがアスファルトに消える粉雪を宝石に変えて轟音を残して過ぎる。初雪じゃないかしら。アスファルトの泡のように丸く雪が積もっている場所があった。ハーフコートに手袋をした両手を突っ込んで側まで歩いていき踏んだ。足形がつき雪の下の氷が割れ水がスニーカーの底を濡らした。雪は水が染み込み半透明の氷になっていく。息を吐いてみた。白かった。

 車が私の前に止まり窓が開き、父が「早く乗れ」と言った。私は回り込み助手席のドアを開け乗った。「鍵は掛けたか」に私は、掛けた、と答える。車は動き出した。暖房の風が顔に当たり息苦しさと暖かさが感じられた。住宅街が徐々に明るくなる。父はラジオを掛けた。父の好きな曲が流れた。父は苛立たしげにラジオを切った。父はこの歌を聴くといつも低い声で合わせて歌っていたのに。車の交通量は少なく通行人は誰一人無かった。車の中は暖かくなり私は手袋を外しコートのポケットに入れコートを脱ぎ後部座席に放った。個人商店の前で白い息を煙るほど吐きながら木箱を軽トラックから降ろしている夫婦(もちろん夫婦ではないのかもしれない、親子かも、雇い人と雇われ人かも、たまたま通りがかりが手伝っているだけかもしれない)。車の中は暖房からの空気で咽せるようだ。

 車は病院の駐車場に止められた。コートを抱えて降りた。手が凍り付きそうだった。コートを着て手袋をはめた。もう充分に明るくなっていた。駐車場を取り囲む陶器のような裸の木には筵が巻かれ縄で縛られている。父は直ぐにエンジンを止めて降りロックをかけた。枯れた芝生が覆う病院の庭の中央の古びたコンクリート造りの池には薄氷が張り鋭く細かく乱反射していた。病院の中に入り暖かくなった。コートを脱いだ。看護婦が廊下を慌ただしく行き交いスペイン語のような声が交錯する。消毒の香りが充満している。エレベーターで彼女の病室の階に上がった。

 病室は明るく窓からの光と天井にあるいくつかの電灯の明かりで四方に自分の影が薄く差す。彼女は酸素マスクを付けて静かに眠っていた。呼吸する胸のしめやかな海の波が生命がまだあることを教えてくれた。一人看護婦が入ってきた。軽く会釈をした。顰めっ面なのは神妙な表情のつもりなのかもしれない。彼女が眠るベッドの枕元にある貧弱なブザーを看護婦は押した。いま、先生を呼びますから、と父に向かって言った。父は悲しげな表情で頷いただけだった。父と看護婦の表情を演技だとは思いたくなかった。私は自分の醜さに改めて気付いた。私の今までの感情が身勝手だったとは思わないが絶対的な事実の前に後悔に似た悲しみに似た魂の収縮を感じていた。私の心が押し縮められていく。僅かな感情が魂の存在を保っていると思った。憎悪、それだけが私自身だった、今までは。その憎悪がいまは罪悪感と溶け合い私を消え去ろうとしていた。私は彼女を見た。彼女は幼くなった。無垢ですらない、幼児の顔だった。もし無垢という言葉を使うなら無垢とは、残酷がなにかも知らない無垢だからこそ持つ残虐さをもふくむだろう。神経質そうな医者がドアを開けて入ってきた。医者は父に礼をしながら近づき「今は小康状態と呼べるでしょう、が、安静が必要です。昏睡は続くでしょう。危険な状態であることは変わりありません。今日、明日が一番危険ともいえます」と医者は唐突に事務的に伝えた。私にはその声の優しさと寂しさを感じることができた。冷静さと口惜しさが抑揚と戦う声に現れていた。父は黙って頷き、医者に言った、起こすことはできますか、と。医者は本来の感情を表に出した。父は続けて、彼女には母親としての義務があります、できるのなら、起こして、言葉を出させてください、と決意に満ちた声で言った。医者は僅かに開かれた口を閉じ、黙って頷いた。医者はベットに近づき酸素マスクを外し彼女の背に手を当てて上半身を起こした。医者が暫く背中を揺すると彼女は眠そうにしか見えない表情で目を開けた。父は真っ直ぐに彼女の横に来て彼女と同じ高さに屈み、彼女に言った、ほら、茜も来てるよ、と私に視線を向け彼女も合わせて私を見た。茜だよ、茜だよ、と父は繰り返して私に手招きをした。私は息を飲んだ。彼女に一歩一歩近づいた。呼吸ができない、心臓がぎこちなく鳴る、内蔵が萎縮する、肝臓も、膵臓も、肺臓も、心臓も、何者かに鷲掴みにされ握り潰されていく。窓はブラインドが降ろされたままで外が見えない。

 私は彼女の傍らに立ち見下ろした。彼女は私をぼんやりと見上げた。彼女は童女であり無垢だった。彼女の唇は僅かに開かれ白いものが見える。笑った、懐かしいものを見たように、無邪気に彼女は微笑んだ。私を見詰めながらゆっくりと、甘えた声で、私に向かって「お母さん」と言った。私の空洞の頭蓋骨の中で密やかに響きわたった。私は自分が、空洞の頭と萎縮した内臓を持つ、母親だと思った。私は、我が子に黙って微笑み頷いた。我が子は笑ってまた、目を閉じた。父は顔を伏せていて何を思っているか分からなかった。医者は無表情に母をまたベッドに寝かした。私は誰も振り向かず病室を出た。消毒の香り、看護婦たちの鳴らす金属音、階段におこるゆっくりとした自分の足音、高く鳴る鼓動、息苦しかった、病院の外に出たかった、自分が黄泉の世界にいる気がした。きっと、私はこれから何年も彼女の甲高い怪鳥のような罵声に付き纏われ幾度も狂気に陥るだろう。いま、頭の中を切り裂かれ続けているように、私は呪われ続けるだろう。私は狂気よりも地獄に生きているのかもしれない。空虚より孤独なのかもしれない。あと、何年の月日が私の今の思いを馬鹿げたことだと、幼かったと思わせてくれるだろう。でも、私は生きている。動いている。病院を出ながら大きく息をした。鳥肌が立つ寒さだった。息が白くなった。

 コンクリートの池は、まだ氷が張っていた。氷はコンクリートの底を歪ませ岩肌のように見せていた。コンクリートの底から泡が立ち氷の下に気泡を創った。気泡は大きくなっていく。泡は底の割れ目から出ていた。割れ目は氷の底で盛り上がっていく。割れ目の周りに罅割れが起こり、罅は盛り上がりに合わせて広がる。罅の中央のコンクリートが一欠片崩れ落ち土肌を見せ黄緑の新芽が出てきた。新芽はその茎をしなやかにくねらせながら根本から幾本も枝分かれをし水面に向かって伸びていく。伸びながら葉は巻き込んだ形に成長していき氷にぶつかる。氷は脆く罅割れ水面に出た巻き込まれた葉が広がった。広がり割れた氷の間に浮かんだ。蓮の葉だった。蓮の葉は氷を割りながら次々に水面を覆っていった。水面を覆う蓮の間から蕾が出てきた。蕾は大きくなり、水滴を真珠のように飛び散らし弾けるように大きく紫色の花を開いた。コンクリートの池の水面は、もう蓮の葉と白い花、赤い花、茜色の花、藤色の花、紫の花に覆われていた。氷は溶け、蓮の葉の間にメダカが泳いでいた。白鷺が降りてきた。もう1羽降り蓮の葉の上に立った。水面から細い葉が伸びてきて菖蒲の青い花を開いた。池は様々な植物が茂り、蓮の葉の周りにお玉杓子が尾を振って止まっている。生命で溢れた池から雨蛙の声がショパンのように響きだした。また、雪が降るんだ、と思った。空はまだ曇っていた。コンクリートの池は、厚い氷を張ったままで、もう動くものは何もなかった。どんな植物もなく、どんな生命も生まれない。静かだった。静寂な氷の奥の骸のような灰色のコンクリートの底は全ての生きるものを頑強に阻み続けていた。なにもない屍のコンクリートに包まれた病院の庭の池に戻りきっていた。私は正気なのか、狂気の中に埋もれているのか。風が吹き、常緑樹が騒めいた。正気であること、それだけが私の望み。私は地球上でただ一人正常でありたい。騒めきの中でも厚い氷に覆われた池は冬の陽光を虹のように反射するだけだった。常緑樹の高木は夏と変わらずにその逞しい枝に葉を茂らしている。何羽もの鳥の絡まった高く細い笑い声が聞こえる。

 

 昔々、一匹の虫だったこともある

 中国の山奥の山裾の畑の横の草原で

 露だけ飲んで、りんりんと鳴く

 昔々、一個の細菌だったこともある

 昔々、獰猛な人食い虎だったこともある

 昔々…

 巡り続ける輪廻が包む

 巡り続ける輪廻の中で、私は業を償う機会を捕らえる

 私は、輪廻を信じよう

 輪廻の果てを信じよう

 遠い遠い輪廻の先に、優しい優しい解脱があって

 私は、いつか、宇宙の意思に同化する。

 昔々、アフリカの奥地の酋長だったこともある

 昔々、砂漠に佇むサボテンだったこともある

 昔々…