▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

 朝はまだ晴れていたが中学の下校時間には窓の外は霧雨が煙っていた。私は鞄に教科書とかを詰め込みながら置き傘はあったかしらと考えていた。三階の窓から色とりどりの傘が連なって校門に向かって増殖していくのを、私はぼんやりみていた。私の肩を後ろから叩いて恵理華が、傘もってきたの?と、穏やかな微笑を浮かべて聞いてきた。

 「ええ、大丈夫よ」私は腰掛けたまま体を大きく捻って彼女の方を向いた。「靴箱に、置いてたと思うわ」

 「そう」恵理華は含み笑いをした。「実は、私持って来てないの、途中まで送ってくれない」菩薩のような優しく美しい声だった。きっと、この声だけでこれからの人生渡っていける。

 「いいわよ」私は愛想良く答え「恵理華にしては珍しいんじゃない?」と軽い調子で尋ねた。

 「そう、どうして?」

 「だって、なんだか、いつもきちんとしていそうだもの。落ち度がなさそう」

 「そんなことないわよ」恵理華は悪戯っぽく笑った。

 「ふうん」私は帰る用意が終わったので、鞄をもって立ち上がった。

 恵理華は自分の席に戻り自分の鞄を取ってきた。恵理華と私は教室をでて靴箱のある場所に向かった。靴箱についた。

 私は自分の靴箱を開けた。

 「あっ」私は短く高い声をたてた。

 「どうしたの?」恵理華が横の方で靴を履き替えながら尋ねる。

 「傘がないの」私は情けない声で答えた。「御免なさい。持ってると思ったの」

 恵理華は小さく笑った。「いいわよ。私、今思いだしたんだけど、鞄に傘を入れてたの、忘れてたわ」とまた悪戯っぽく笑って、ほら、と鞄を開けて赤い折り畳み傘を手で差し上げた。一緒に帰りましょ、ね、と恵理華は唇に柔らかな菩薩のような笑みを浮かべた。

 花蟷螂に誘われる蜜蜂のような感覚に陥りそうだった。「ええ」私の声は微かに震えていたかもしれない。

 埃のような霧雨の中を私たちは小さな折り畳み傘の下で寄り添って歩いた。運動場を校門まで色とりどりの傘の細長い群れが続いている。その群れの中に私たちはいた。恵理華は腕を私の腰の後ろに置いた。小さな傘では二人は入りきれないからだとは思ったがいい気分ではなかった。それでも私はそのまま校門を出て、ガードレールで仕切られたアスファルトの狭い道路を歩き始めた。道路の幅は一車線だが結構広く車の通りも多い。私たちの直ぐ横をアスファルトを削るような音をたてて鮮やかな色の自動車が滑り過ぎていく。けっこう水が撥ねる。このまま両手で私が横に突けば恵理華はあのタイヤの下でキロ三〇〇円の肉の塊になってしまうかもしれない。

 「ねえ、震えてるわよ、寒いの?」恵理華が聞いてくる。「それとも、怖いの?」悪戯ぽい笑み。「私、別にあちらの気はないわよ、そんなのじゃないのよ」

 「あちらの気? レズのこと?」

 「そう」

 「そんなこと思ってないわよ」

 「分かってるわ」恵理華は世界中の知識を占有しているような平然とした口調でいった。「ちょっと、鬱陶しい雨だわ」天候に命令するように呟いたあと、私を向いて「よっていかない」と、道路の向かい側のファーストフード店を指差した。「茜ちゃんは、真面目だから寄り道とかしないか?」

 「ばか」と言い返して、思わず挑発的な台詞にのってしまった自分に瞬間に後悔した。恵理華のあの菩薩の微笑がまた浮かんだからだ。もう、仕方がないと考え「あんまりお金持ってないのよ」と答えた。

 「ええ、私もダイエット中だから」と言って、恵理華は横断歩道の前で止まった、全ては決定しているかのように。

 横断歩道を渡って私たちは店の中に入った。入り口のドアと店内に入るドアに挟まれた傘置き場で恵理華は優雅な手付きで傘を閉じ雨水を払い畳んだ。もう一つ奥の部屋に私たちは入った。店内に散らばった白い楕円のテーブルでアベックたちが話し込んでいる。流行の歌が部屋中に然り気なく降り注いでいた。様々な音声が交錯し山林の奥深くに迷い込んだ気分になる。カウンターの上に並んであるメニューの写真を私たちは、しばらく眺めた。私はチーズバーガーに決めた。私が恵理華をみると恵理華も見上げるのを止めて振り向き笑ってカウンターに向かって歩いていった。

 「照り焼きと、」と店員の女の子に唐突に告げ私の方を振り返り「茜ちゃんは?」と聞いてきた。「チーズバーガー」と私は答え「だそうよ」と恵理華は店員に告げた。お飲み物はと店員がマニュアル通りの笑顔で聞いてくる。マニュアル通りというのはいいものだ。日本人もアメリカ人の真似をして恋愛から自殺の方法まで全国共通のテキストを作成すべきだ。

 「私は、苺シェイク、茜ちゃんは?」また、私に尋ねる。

 「オレンジジュース」

 「あら、渋いのね」

 「なにが」その自分の口調が向きになってるようで嫌悪した。

 ポテトはいかがですか?の店員の声に恵理華は「いらない」と答えた。注文は直ぐにきた。私たちはそれを、盆に乗せて、開いてるテーブルに運んだ。席は店の真ん中付近で辺りのアベックの話し声が四方から聞こえてくる。私たちは向かい合わせに座り、いつものような他愛ない話を始めた。

 「ねえ、みんな、どうしてこんなもの食べると思う」と恵理華が照り焼きバーガーを口にする。

 「美味しいからでしょ」私が打っ切ら棒に答える。

 「美味しい? そうかしら、味だけなら他にも美味しいものはあるだろうし、美味しくたって、結局、意味はない訳だし、栄養はあまりないし、健康には悪いはずだし、あれだけダイエットが流行ってるのに、みんな太るために食べるようなものじゃない?」

 「人間て太るものよ、それに栄養とかってゆうのより、ずっと昔からキロジュールの方が重要だったんじゃない」

 「そういうことは言ってないわ、今、こんなものをみんなが食べる合理的な理由がないってことよ」

 「合理的ときたか」

 「知的でしょ」

 「ま、理由とかじゃなくてね、本能みたいなもの」

 「本能ときたか」

 「うん、人間が太るのは、本能なのよ、遺伝子の命令に従ってるだけなのよ」そう言って私はコップのオレンジジュースのストローを咥え一口飲んだ。甘ったるい香りを感じた。 茜ちゃんて面白いね、と窓が軋むような声で恵理華は笑った。

 「なにが?」私は恵理華が私を怒らせようとしているのではないかとさえ思った。

 別に怒らせようとしてるわけじゃないのよ、と恵理華はまだ笑いを含んだまま言った。

 「怒ってなんかないわ」

 「だったらいいんだけど、でもね、私って本能に勝ってるわよ」

 「え?」

 「食欲にも、なんでも、私は肉体の欲求を押さえ込めるの、理性というか、大脳皮質でね」

 「そのまま、死ぬまで走れといわれたら走れる?」

 「ええ」恵理華はあの笑みになった。そして続けて言った、茜ちゃんて、あんまりこんなところ来ないんじゃない。

 そうね、でもどうして、とできるかぎり平静に尋ねた。この店は意外と狭いことに気付いた。後ろのアベックのしている同級生らしい女性の噂話の内容がはっきり聞こえてしまう。外とはガラスの壁で隔たれている。外をゆっくりと次々に歩き過ぎていく人々。恵理華が何か話している。私に対して話してくれているんだ。誰も構わないでほしいと、突然思った。恵理華が黙った。彼女と真正面で視線が合い続ける。後ろの会話は、なんだかくだらない映画の話しになってた。

 恵理華は最高の無邪気な笑顔をみせ、「茜ちゃんて、とっても素敵よ」と言った。

 え、と声を出し私は自分の鼓動に聞き入った。

 貴女は人を引き付ける残酷な魅力があるわ、と言った恵理華の声は今から戦場に出掛けるかと思うほど落ち着いていた。

 「残酷? 残酷ってなによ」私は恵理華に早口に言い返した。

 「懐いてる猫を蹴飛ばすような感じがあるわ」

 「はあ?」

 「いいのよ」そう言って恵理華は残りを食べ始めた。それ以上は私も話を止めて食事を続けた。チーズバーガーは意外に美味しかった。食べ終わって恵理華のゆっくりした食事を観察していた。恵理華は私の方をちらちらと見ながらも決してその速度を早めようとはしなかった。私が彼女を見ることが、彼女にとって圧力にならないことは、私にとって居心地を随分良く感じさせた。満腹感と恵理華の落ち着きが、精神を安らかにしてくれる。恵理華は、途中で食べるのを止め立ち上がりながら「帰ろうか」と言った。

 「最後まで食べないの」

 「飽食の時代の少女だから」恵理華はそう言って笑った。私も立ち上がり、一緒に店を出た。辺りは雨上がりの風景だった。アスファルトは群青色に濡れ、道路の端に濁った水溜まりが続いていた。道路の両端の家屋を網のように結ぶ電線の至る所から滴が不規則に落ち続けている。私たちは舗装道路の水溜まりを避けながら歩く。一台の乗用車が水を撥ねながら行き過ぎていった。

 

     ほらほら満月

     あらあら月光

     ちらちら何かが動いてる

 

     くるくる鼬か

     ぴんぴん兎か

     ぽんぽん狸がばかしたか

 

     かんかん太陽

     どんどん照って

     はきはき色々走ってる

 

     わんわん子犬が燥いでる

     きりきり小鳥が騒いでる

     さんさん太陽照りつけて

 

 夏休みが近付く頃、父は会社を辞めた。これからは自宅でできる仕事を貰ってくるそうだ。いざとなれば家を売ろう、そう父は笑って言った。今はお母さんと少しでも近くにいてあげたい、そうとも言った。私は別にどうでもよかったので、「お父さんの好きにしていいわ」と答えた。父は深刻そうな表情で「茜にも苦労を掛けるね」と時代劇に出てきそうな台詞を言った。私は何日間かその言葉をときおり思い出し、そのたび不快な気分に覆われた。

 

 忘れられない言葉がある。誰もが、なんて、決め付けないけれど色んな人が、色んな言葉を、一生、胸の鼓動の鳴る近くの横隔膜の陰にでも隠し持っている。素敵な台詞か、残酷な文句か、だけど、平凡でも忘れられない言葉もある。理由もなく忘れない言葉もある。彼女が、私の名前を最後に呼んだ日、窓の外はきっと、小雨が降っていた。茜ちゃん、傘、持っていきなさい。きっと、あれが、最後の言葉、母親として彼女の。きっと彼女は、私の名前をそれ以来、呼んだことがない。

 彼女はもともと小学生の娘がいるにしては無邪気な言い換えれば幼い印象さえうけるような穏やかな容貌の持ち主だったし年齢並みの老け方はしていたが、おっとりしていて世の中の繁雑な出来事と無関係の異次元に住んでいるようだった。毎日、夫と娘のために手を抜いた朝食を造り、車庫を作ったため殆どなくなり玄関先に辛うじて残っている庭を季節毎の花で飾るのを彼女は唯一の趣味にし、その生活を退屈だとも壊したいとも変化をつけたいとも考えたことが一度でもあるとは私には思えないほど静かに朗らかに彼女は生きていた。