▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

 風が庭先の立ち木を揺らし嘲笑うような音を立てる。夕暮れの蒸し暑い陽射しが風で揺れる立ち木に当たり夕日の赤い色がその何十も揺らめく葉の上で点滅する。私は玄関の戸の鍵を開けて中に入った。私は無言で靴を脱ぎスリッパを履く。足音を忍ばせ二階に上がる。階段を登りながらどこかの部屋で叫び声がするのが聞こえた。彼女の声だ。彼女が二階に上がっているのならこれ以上登るのは止めなければならない。立ち竦み耳を澄ます。貴方、貴方はどこにいるの、父がどこかに出掛けているらしい。台所の方向から声が聞こえる気がする。音の発生源は二階ではないと判断できた。

 二階に上がり部屋の鍵をかけた。鞄をベッドに投げ出し、CDケースから「POISON」とタイトルの書かれたCDを取り出しコンポにセットした。女性シンガーの神経にまで響きそうな甲高い声が流れてくる。同じソプラノでも大違いだ、不快感がない。私は制服のまま鞄の横に俯せになる。このグループはまだ続いているのだろうか、とっくに解散してしまった気もする。いいボーカリストだわ、なにかくだらない映画にも出ていたっけ、でも誰かあの映画はいいって言ってたっけ、そうだわ私、あの映画は見てないんだわ、レンタルしてこようかしら。しばらく私はそのままでいた。このまま溶けてベッドの染みになりたいと思った。永久にこのままでいたい、そう思った。その望みは適いそうもなかったので私はベッドから跳ね起き、Tシャツとジーンズに着替えた。机の中から日記にしているノートを取り出し、椅子に座って思い付くままに詩を書いた。

 

       風は夏に死に絶える

       蝉の声に殺される

       だから、あの蝶は孤独なのだ

 

       あの黄色と橙色とメタリックブルーの

       あの蝶は風がないから

       あれほど幸せそうに孤独なのだ

 

       ああ、しかし風は夏に蘇る

       夕暮れのあの次々に変わる空の青さ赤さと共に

       蝶はきっと風に吹かれて死亡する

 

 書き終えて自分でもよく意味が解らない。馬鹿みたいと私は呟いた。ノートを閉じた。立ち上がってベッドの上の鞄の中から数学の教科書とノートを取りだし机の上に投げた。ノートは机の上のブックラックにぶつかり跳ね返り絨毯の上に落ちた。教科書の方は捩じれながら机の上に止まった。私はまたベッドの上に俯せに飛び乗った。皆くたばっちまえ、私は目を閉じて呟く。彼女の喚き声が不意に近くで聞こえた。私は慌てて飛び起き、部屋の鍵を確かめた。くたばっちまえ、ドアの前で頭をドアに押し付けながら、また呟く。これは呪いの呪文なのかもしれない。

 あ、電話が鳴っている。耳を澄ませていたせいでそのことに気付いた。部屋の外に出る気はまったくなかった。電話は鳴っている。誰が出るのだろう。私は石だ、私は彫刻だ、私は大理石だ、私はマネキン人形だ。突然、電話の音が大きくなり私の体はバネ仕掛けのように、びくりと直立した。鼓動が、感じられるほど、高まっている。電話の音は、この部屋からしている、ああ、そうだ、この部屋にも子機を付けたのだった、暫く親機に誰も出ないとここの電話に回ってくるのだった、はは、と笑ってベッドの端の電話機のところへ行き、ベッドに座って受話器を取った。

 「はい、どちら様でしょうか?」と言った。悪戯電話を用心して名前は先に言わないようにしている。

 ”あら、茜ちゃん、元気してる”恵理華の透明な声がした。

 「あ、恵理華? 元気してるって学校であったでしょ」

 ”挨拶よ、挨拶、ねえ、今から会わない?”

 「会わないって、今からじゃ無理でしょ、何言ってるのよ」

 ”やっぱり真面目ね、茜ちゃんて”

 「真面目って、貴女が不良なんでしょ、今取り込んでいるんだから」

 ”ま、私、不良って呼ばれるの好きよ、何だかわくわくする言葉よね、で、取り込んでるから、そこ出たいんじゃない、ね”

 「そんなこと、ないわよ、不良、不良、不良、お気に入りの言葉なのなら何度でも言ってあげるわよ、これ、切るわよ」

 ”なに、怒ってるのよ”

 「怒ってるわけじゃないわよ」

 ”じゃ、また誘うわ”

 電話は切れた。ベッドに仰向けになり手を伸ばして鞄を取り学校の図書室から借りてきた本を取って読み始めた。この作者は短編しか書かなかったので未だに読み継がれている。『くたばってしまえ!』と主人公はロシア人の書いた本を『力いっぱい』放りつける。この主人公は、憂欝らしい、不機嫌らしい、私はその言葉が気に入った。そうだ、くたばってしまえ、とっとと、くたばってしまえ。読み進めていく。

   けれども偶然僕の読んだ一行はたちまち僕を打ちのめした。

    「いちばん偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません」

 この一節にとても感謝し俯せになり読み続ける。この作品は彼の最高傑作に違いない。主人公は気に入らないが、私は主人公が子供向けの『ギリシャ神話』から見付けたこの一行でこの作品は読まれる価値があると感じた。しばらく読み進んでいく。ふとノックの音に気付く。その紳士的なノックの音で、彼女の立てているものではないことが分かる。本をベッドの上に伏せ、ベッドから降り、ドアの前に行った。

 「お父さん?」

 「ああ、食事にしないか」

 「お母さんは?」

 「食事が終わって落ち着いてる」

 「そう」と言ってドアの鍵を外しドアを開けた。父のなんだか情けない顔がある。父と階段を降りる。あの主人公はどうして、あんな素敵な言葉に『打ちのめ』されたのだろう。『復讐の神にはかないません』なんて素晴らしい言葉、どこかの詩人のふりをして祝福の詩でも作ろうかしら、ああ、なんと素晴らしき詩、なんと心打つ言葉、我はそなたに千本の薔薇と百を越える賞賛の接吻を与えよう、だがしかし、そなたは死んでいる、なんてね。ダイニングルームのテーブルの上にはいつもの定食屋の黒い弁当箱が二つ並んでいた。蓋をとると、唐揚げ弁当だった。私たちは向かい合ってテーブルの前の椅子に座った。

 食べながら私が聞く、「ギリシャ神話の一番偉い神ってなにかしら」

 父は「それは、ゼウスだろう」と答えた。

 「やっぱりゼウスよね、じゃツォイスの神ってゼウスのことかしら」

 「なんの話しだい?」

 「小説の一節にあったのよ、一番偉いツォイスの神より復讐の神の方が強いって」

 「いったい何の小説だい」

 私は笑って答えなかった。答えたくなかった。そう、私の世界は誰にも犯させない、そういった決意が私の中にあった。それこそが私の孤独を保証するものだ。

 「お父さんは、どんな小説を読んでたの?」

 「あんまり、小説は読んでないな、歴史物とかかな」

 「まったくの、サラリーマンだね」

 「うん、まったく、普通のサラリーマンだ」そういう、父の笑顔は随分哀しく、情けない表情に思えた。疲れている、と思った。

 「ちょっとは、文学って顔してるの読まなくっちゃ」

 「そうかも、しれないな、今頃になって思うよ」

 私は優しく微笑んで食事を続ける。「明日は店屋物じゃなくて、私が作ってあげるね」 「茜は、そんなこと気にしなくていいから、しっかり勉強しなさい」

 「こんな食事ばかりじゃ、私の健康に関わるわ、老い先短い老人はともかく、私は一八五センチを越えてスーパーモデルになるつもりなんだから」

 「なれないよ、お母さんは、そう身長は高くないからね」と父は小さく声を上げて笑った。その言葉は私をとても不愉快にした。私の気分が分かったのか父もそれ以上なにも言わなかった。

 父の方が先に食事を終えた。私は黙って食事を続ける。エチオピアが現れ私の脚に擦り寄る。立ち上がり戸棚から缶詰を取り出し開けて猫用の皿に出しカーペットの上においた。あの主人公はどうして、あの台詞を気にいらなかったんだろう。ゼウスでさえ復讐の神にはかなわない。どうして私はこの台詞に惹かれるのだろう。まるで私を称え励ましているようだ。食事を終えて私は、御馳走さまと言って椅子を立った。エチオピアも食べ終わっている。エチオピアの皿を片づけた。部屋に戻る。ドアの鍵を掛けベッドに寝そべる。伏せてあった小説を取り続きを読む。この作品は『誰か僕の眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか?』で終わる。私が締め殺してやろうか。こんなことを思うような主人公だから、あの台詞が不服なんだ。ああ、誰か彼女が眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか? 本を机の上に軽く投げる。うまく乗った。ベッドの上に大の字になっていると段々と眠くなる。ゼウスよ、私に復讐の神を紹介してくれ。

 とても眠い。瞼を開けると電気が付けっぱなしで眩しいし、パジャマにも着替えてない。でも気が遠くなるように眠かった。私はやっと立ち上がり電気だけ消して、またベッドに倒れ込んで寝た。

 

 

 終業式が終わって蝉時雨が降る欅並木道の正午の木洩れ日の歩道を恵理華と並んで歩いていった。陽光に当たり晴れた空に両手を広げたように真っ直ぐに竹箒形に広がっていく茂った緑の枝が濃淡に翻る。光に翻った木々はこの通りを遠くまで薄い日陰としながら続いている。広めの歩道の空を覆い木洩れ日を散らす。この通りは美しい並木のために人気が高いそうだ。ニュース番組で言っていた。

 恵理華は私に「ねえ今日は帰ってからどこかで待ち合わせしない?」と話し掛けてきた。木洩れ日にときおり恵理華の顔に光がさす。

 「別にいいわよ、なにするの?」と私は恵理華の顔を覗く。

 「ショッピングでもしょうか」と恵理華は意味もなく笑った。

 「街へ繰り出すわけね」

 「そう、ぱあっと、辛いことを忘れてね」

 「なにか、辛いことがあるの?」と私は笑いながら言った。

 「熊本弁でね、ひゅんごつ、とか舞うごつ、だごんごつ、山んごつとか言うぐらい」 「なにそれ、熊本に住んでたの?」

 私の質問には答えずに恵理華は話し出した、「ひゅんごつ、というのはね、ひゅんて蠅のことらしいの、蠅みたいにいっぱいっていう意味、舞うごつ、というのはあんまり沢山で空を舞ってしまうぐらい、という意味なの、そしてね、だごんごつというのは団子、皿に山盛りに盛った団子のようにいっぱい、という意味、山んごつは山のように沢山という意味なの」

 「山のようには使うわよね」

 「宿題のように、小言のように、校則のように」

 「みんな沢山あるわよね、ねえ知ってる? 生徒手帳の校則にね、いつもお金は持っていることっていうのがあるの」

 「そう、現金はなるべく持ち歩かないようにって、いつも言ってるのにね」

 「きっと、ずっと前にできた規則なのね」

 恵理華は微笑みを浮かべて答える、「日本の国って、自分の昔の間違いを認めたがらないの、言い訳もしなくて自分の意見を変えちゃうなんて…、自分の言動に責任を持たないのは、この国の特徴だわ、あの教師たちだって親だってきっと、みんな同じよ、他人には責任とかなんとか言っておきながら、ほら、全共闘とか知ってる、昔、大学生たちが学校を封鎖したり、角材振り回したりして、馬鹿騒ぎしたのを」

 「ああ、あの『赤頭巾ちゃん気をつけて』にでてた東大が封鎖されたりしたのでしょう、主人公がそれで大学いくの諦めるんだ」

 「まったく、今の大学を間抜けにしたのは、きっと彼らだわ」

 「楽になってよかったじゃない、そんな正義感じゃ世の中、渡っていけないよ、あと何年かしたら私たちも行くかもしれないんだから」

 「茜ちゃんて理想家だと思ってたけど、そうでもないんだ」

 「どうして、理想家だなんて思ったの?」

 「妥協が嫌いでしょ」

 「妥協の塊よ」

 そうかしら、と恵理華は微笑んだ。

 信号に引っ掛かって私たちは立ち止まった。私は日光を避けるため街路樹の影に下がった。街路樹の幹には蝉の殻が二つ低い場所の近い位置についてた。殻の背の割れ目はまだ瑞々しく今朝羽化したばかりだろう。この蝉はコンクリートとアスファルトで固められた町中の僅かな街路樹の回りの土の下に眠り続けていた。きっとまだ朝早いうちに蝉は何年もの暗闇から金色の光の取り巻く世界に登ってきた。よく見るとまだ足の一本一本まで生々しく背中の割れ目さえ気が付かなければまだこれから羽化しようかとするところに思える。羽化するときの蝉の色は人工でも自然の中でもあまり見ることができないほど新鮮で淡く混じりのないパステルグリーンをしている。あの色を生で見たときには自転車から降りてしばらく見入っていた。コンクリートのブロック塀に止まり薄茶色の蛹の殻の背から体半分ほど抜け出てその朝焼けのように一時的な色を、何十分かじっと見ていたが、なかなか進展しそうになく(そう暇な身分でもないので(それでも何十分も見ていられるぐらいの暇人ではあったが))私はまた自転車に乗って去っていった。あの色がつい何時間かまえにここで産まれ消えていっただろう。

 「なに、そんな抜け殻見てるの」恵理華が不意に話し掛けてくる。

 「あと、一週間足らずの命なんだなって、命の儚なさを思っていたわけよ」

 「儚ないわけじゃないわ、きっと、ただ比較的に短いだけ、私たちの人生も短いものよ、学生の頃を過ぎてきっとそう感じる時がくるの、人間て山を登るときは長い時間にかんじるものだけど、下り坂は、あっ、と言う間よ、蝉が地上にでて短いように」

 「私たちはまだ、地下二階にいるの?」と私は笑って続けて言った、「今が一番日の当たる季節じゃない」

 信号が変わって私たちはまた歩き始める。横断歩道を渡って欅並木は終り、カナリアポプラの街路樹が続く。街の端を掠めたあと、住宅地に向かって道は徐々に上り坂になっていく。歩道と車道の境は一本の白い線だけになる。緩やかな坂は何度か大小に勾配を変えながら住宅地に続いていく。

 「あ」と私は小さく声を上げた。

 「どうしたの?」

 「ううん」急に思い出した。ゼウスさえも復讐の神には敵わない、どうして、この言葉にあの主人公が『打ちのめされ』たのか、彼は復讐される者だったんだ。なにかしらないが、彼には酷い加害者意識があった。そして、私には、私の肋骨の内側には、凄まじい被害者意識がある。私は復讐を誓う者だ。『毒虫』になろうが、理由も分からない裁判で『犬のように』処刑されようが、結局、不快感と反発だけで充分な抵抗ができなかった主人公を描いた作品をかいた人がいたが彼のテーマにも復讐はなかった。主人公は反抗はできないし、そういう被害者の立場になった理由は分からない、興味もない、そう、なるべくして、なった、この本の解説に哲学者が唱える実存も不条理もたいした意味はない、そんなことは白亜紀から分かっていたことだ、人は理由もなく産まれ、きっと理由を造り生きていく。その中で偶然に悲劇が降り懸かろうが、どういう因果があるのか、雨は降りたい時に降る、土砂降りに濡れるのは本人の責任ではない、責任は傘を持っていなかったことだ。

 彼女が私の顔を見るなり、目を見開いて悲鳴を上げるのも、私の責任ではない、私はその時まで、彼女に姿を見せてはならないことを学習してはいなかったのだから。

 あの日、私はいつものように、小学校から帰りただいまと声を上げて家に入った。誰もいないのか、と私は思った。玄関から真っ直ぐ廊下を歩けば二階に上がる階段がある。そこまで彼女に見付からなければいい、そう私は思っていた。しかし一方できっとまた笑顔で母子の会話をできるときがすぐにくると私は信じていた。偶然に出会うことを私は希望していた。きっと、彼女はもとに戻ると私は疑わなかった。もとの母親に彼女は帰ってくる。

 私は靴を脱いで玄関から家に上がった。廊下を足早に私は歩く。誰、と声が響いて廊下の横のドアが激しく開き、彼女が飛び出してきて振り返り真っ直ぐに私を見た。震える微かな声で彼女は、どなた様ですか、と私に聞いてきた。血液だけではなく、筋肉も内臓も、皮膚も、皮下脂肪までが凍り付く気が私はした。あのとき私の皮膚をちょっと突いただけで、きっと薄氷のように蜘蛛の巣状に罅割れていっただろう。ぱらぱらと皮膚は剥がれ落ち凍り付いた筋肉繊維が露わになる。彼女は随分若くなったように私には見えた。誰よ、貴女、誰よ、彼女の声が次第に高く大きくなる。私は彼女が変わってから始めて声を掛けた、お母さん、と落ち着いて静かに言ったつもりだったが震え声になった、お母さん、私よ、茜よ、お母さん、静かに、とても静かに震え声は響いた。彼女は悲鳴を上げた。首を絞められた鵞鳥のように彼女の悲鳴が甲高く不愉快な音声で、あう、あ、あ、と口籠もり吃りながら、出てきたばかりのドアの中に逃げるように彼女は戻っていった。

 取り残された私はまた歩き始めた。開けっ放しのドアの前を通る前に少し立ち止まりまた横を振り向かず歩こうと私は思った。やはり私が彼女に会うのは間違いだった、きっとまだ早すぎた。

 私がドアの横を過ぎる時に濁った叫び声とともに固い物が肩口に飛んできて、当たり、痛み、床に落ちた。私は当たったものが何か、落ちた音がした床を見た。床に転がっているものは目覚まし時計だった。貴女は誰よ、なぜ来たの、なんのために来たの、私の邪魔をしないで私はただあのひとと慎ましく生活していきたいだけなのだから、そっとしといてよ、段々と彼女の泣き叫ぶ声が激しくなる、私たちの邪魔をしないでよ、あの人を取らないでよ、あの人は私の大事な人なの、あの人を奪わないでよ、私の方を目を見開いて見詰めながら彼女は黒光りする鎌のような声で泣き叫ぶ。彼女は両腕は駄々っ子のように振り回し、ときおり偶然に手に触れる物を、その部屋はもともと彼女の部屋で、テーブル掛け、鏡台の上の化粧品、口紅や化粧水の瓶とか、昔の婦人雑誌とかを私に投げ付ける。その殆どが床に当たったり、見当違いの壁にぶっかったりした。私は、直ぐに正気になり、そのまま走り出し、階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込み、鍵を掛けた。彼女は私の知らない女性だ、私とは無関係の女性だ。呼吸が乱れていたのは、階段を駆け上ってきたせいだと私は思った。私の心臓は憎悪という陶器に固められ鼓動をしなくなった。心臓から憎悪は血液になり全身に流れ私の全身は憎悪で創られていく。私は全身の皮膚から滲み出る血液で血塗れに立ち竦む。

 「じゃ、忘れないでね」恵理華の声が響く。

 「え、何を?」

 「帰ってから、待ち合わせするっていったでしょ」

 「あ、そうね、で、どこで」

 「じゃ、いいわ、私が迎えに行く」

 「でも、私の家、知らないでしょ」

 「知ってるわ、大丈夫よ」

 「そう」

 恵理華と私はバイバイ、またね、と挨拶をして別れた。

 

 別れた後、家に来られたらまずいな、と思った。失敗した。それからあと僅かの家路が重くなった。太陽があまりに強かったので立ち並ぶ住宅の影を選んで歩くことにした。日向にでると内部から溶けて干涸らびてしまいそうだった。自宅につき、鍵を回しドアを開ける。何も言わずそっと玄関を上がった。いつものように足音を忍ばせる。この家には悪霊が取り付いてる。どっかの霊媒士にお払いを頼んだ方がいい。空気が澱んで重すぎる。頼む時は金は払ってはいけない。金を取る霊媒にはまともな霊は近寄らない、また悪霊が一匹、増えるだけだ。通っている廊下の横のドアが開いた。ぎくりとして立ち止まった。凍った皮膚がぼろぼろと禿げ落ちる気がした。出てきたのは父の方だった。

 「ああ、茜か、泥棒でも入ったのかと思ったよ、帰った時には、ちゃんとただいまって言わなきゃ」

 それを説明するのも鬱陶しく父親の鈍感さに不愉快になった。父の言葉には答えず「あとで友達がくるから、お母さん、ちゃんとさせといてよね」と言い捨てて、そのまま通り過ぎた。自室に入り鍵を掛けた。イージーパンツと大きめのTシャツに着替えた。Tシャツにはアメリカアニメの犬の絵がプリントされている。別に好きなキャラクターでない。そのアニメは私の嫌いな方だったし、ただあるから着ているだけ。ノートを取りだし机に広げる。

 

     私は復讐の女神

     憎悪に心臓を焦がす君に

     祝福の接吻を与えよう

 

     私は復讐の女神

     ああ、重なる恨みに肺臓を詰まらせる君に

     親愛の抱擁を与えよう

 

     ああ、私こそが復讐の女神だ

     誰かあまりの殺意に涙する者はないか

     汝とともに泣き暮れよう

 

     私が復讐の女神

     漆黒の谷底にて復讐を誓え

     汝とともに私が寄り添おう

 

     憎悪にまさる情熱はない

     復讐にまさる思想はない

     殺意にまさる感情がどこにある

 

     私が、ああ、私こそが復讐の女神

     私に敵う神はなく

     ただ、ただ私と視線を逸らせよ

 

 ベッドの上に寝転んで、学校の図書室から借りてきたばかりの『城』を開く。彼の作品は2冊しか知らないが。一冊目は主人公が『毒虫』になって家族から迷惑がられるのだったと記憶を辿る。ゆっくりと読み進める。この人は味のない文章を書く。もう少し綾とか技とかなければ退屈になってしまう(きっと翻訳者が下手なんだわ)。私はとっとと本をベッドに伏せて立ち上がった。父がいるのだったら彼女も大人しいだろうから、一階に降りて恵理華を待ってようかしら、別にあの彼女と顔を会わせるような事態にはならないだろうし。でも父が無神経に対面させてしまったら最悪だ。私は彼女に合わせて今度こそ暴れてやる。あの、『奇跡の人』のヘレン・ケラーの役者のように椅子を床に叩き付け、テーブルを蹴倒してやる。

 いまさら母親に戻れなんて赤ん坊みたいなことは願わない。迷惑になるな生活を叩き壊すな関わり合うな。もう貴女とは他人なのだから。今日は静かだ。遠くで蝉が漏電したコンセントのような音でけたたましく騒いでいる。窓を開けると意外と近くで例えば窓の横の壁とかで鳴き騒いでいるのかもしれない。クーラーの音が耳障りだった。父親と会うのも気怠い気がした。でも、恵理華を彼女と会わせるわけにはいかない。『城』は夏休み中に読みおえればいいだろう。宿題の読書感想文もこの本のことをしおらしく『被害者意識』とか『不思議な』とかという表現でごまかしておけばいい。思った通りに、『馬鹿だ』『違う』『甘い』『復讐しろ』などと書くほど正直には育てられていない。今日貰った通知表を眺めていたが、親の判の欄を見付け鬱陶しい気分になった。父親にどう話してなにを聞くことがあるのだろう。彼はただの養育係にすぎない。私の人生は私にしか決定できない。

 退屈だ、これからの何十日の夏休みをこの退屈が覆う。鞄から今日貰った宿題とかを取り出す。

 「馬鹿みたい」と声に出す。たかだか地方公務員の端くれ平凡なサラリーマンがそんな苦労をして宿題用の問題など作らなくてもよさそうだ。教師なんて、みんな馬鹿な管理主義者だ。髪形を揃えようがスカートの丈を守らせようがピアスを禁じようが、万引きも苛めも自殺者も減ることはない、増えることはあるかもしれないが。

 ベッドに腰掛けぼんやりとカレンダーの蓮の邦画を凝視する。絵の水面は泥で濁り、白鷺が斜め上を見上げている。花は咲いていない。所々、泥水は白く波が光っている。このまま時間が絵のように固まってしまえばいい。

 しばらく何も考えずに静かにいた。

 彼女はときおり父がいなくなると暴れる。父が側にいるときには猫のように体を擦り寄せて恍惚とした半目の表情で他になにも感覚器官に受け入れない。しかし父がずっと家にいるわけにはいかない、彼女が眠り込んだりしたときに、彼女は一日の半分以上を浅い眠りに費やしている、そのときにそっと外に出ていく。買い物とか、仕事の打ち合わせ、仕事は決定したら自宅でずっと行えるのだが、そんなことで父は外出をすることがある。目を覚ましたときに傍らに父が居なかったら、彼女は弱々しく泣き始める。立ち上がり探すことさえ彼女は考え付かない。物音に敏感でなにかの拍子に泣き喚きながら、家中を探し回る。

 私が一階に降りて行ったときに彼女に出会ったことがある。危険物に遭遇したと私は思った。私は父親の気配を私は探ったが、それより先に彼女は私に掴み掛かってきた。貴女誰よ、どうしてここにいるのよ、神経に直接触れるような不快な甲高い彼女の声。危険ということよりも、今、父親は外出なんだとしか私は思わなかった。彼女の私への攻撃方法は単純だった。彼女は両手を不器用に振り回すだけだった。ただ、妙に酷く私は苛立たしかった。どうして、あの人は私の大事な人なの、私から奪わないで、盗まないで、その玩具をデパートでねだる子供のような不快な彼女の表情を、殺人鬼のナイフのような血塗れた彼女の声を私は嫌悪した。般若の顔になった彼女が恐ろしく深く暗い憎悪を私に沸き起こさせる。両手で彼女の手を私は避けながら、くたばっちまえ、と頭蓋骨の中で、くたばっちまえ、と私は叫び続けていた。なんだ、私の前で喚き立てているのは、いったいどこからきた旅人なのか、さっさとどこかへ、この家の他ならどこでもいい、消えてしまえ、二度と私の前に現れるな。どこまでも哀しみに似た憎悪が私の下腹部の内臓から癌細胞のように増殖し様々な内蔵に転移していく。この人の前にいることは私には一人よりも孤独、孤独よりも寂しい。私は、ふと、気付くとベッドの上に腰掛けたまま、両手を合わせ、忌まわしい記憶に憎悪を叩き付けていた。

 いつからか彼女はだんだん無口になっていった。

 一日中応接間のソファーの横で彼女は座り込み続けるようになった。その焦げ茶色のソファーを彼女は毎日ゆっくりと撫でるように人差し指で掻き続ける。白いテーブルと焦げ茶色のソファーの間から眠そうな表情の彼女が私は観察できた。今でもあるそのソファーの横のその位置は次第に薄くなり一センチ程裂てしまった。その裂け目を彼女は延々となぞり擦り続けた。彼女は食事もとらなくなった。父は座り込んでいる彼女の横に行き自分で作った料理をスプーンで口に運んでやるようになった。差し出されたスプーンを彼女は死にかけた犬のように咥える。私はそれを無感情に眺め続けた、毎日、毎日。

 父がいないとき彼女はソファーの陰から追い詰められた猫のような視線を私に向けるようになった。怯えたような、それでいて挑戦的な視線を彼女は放ってくる。

 私は彼女が母親でなくなったことをまだ理解できていなかった。

 その朝に私は顔を洗って歯磨きを終えてダイニングルームにパジャマのまま行った。ダイニングルームの私をソファーの横の彼女が隣の応接間から睨んでいた。私は応接間の入り口のドアを閉めようかとも思ったが、面倒なので放っておいた。彼女は絨毯にべたっと座り込んだまま女狐のような視線を私に向けていた。私はテーブルの上のテレビのコントローラーを取りパワーをオンにしチャンネルを幾つか変えて決めた。私は棚の上の食パンと赤いオーブントースターを木製のテーブルの上に降ろし冷蔵庫からマーガリンとトマトを取り出した。その食パンを一枚取り出しマーガリンを塗りオーブントースターに入れスイッチを私は回した。冷蔵庫からトマトを出し、幾つかに切って白い皿の上におき私は食塩を振り掛けた。そのうちマーガリンを塗ったパンが焼ける香りがしてきた。

 椅子に腰掛けて私がパンを食べていると父が入ってきた。父は不規則で不格好な円模様の、ポロシャツを着ていた。もお起きてたのか?と父が気弱な笑みを浮かべる。いつもの時間よ、と無愛想に私が答える。そうかと父が頷く。父はパンを二枚、オーブンに入れスイッチを回した。オーブンのジーという音と私がパンを齧る乾いた音が絡み合う。

 そのとき、彼女は誰?と、彼女の甲高い叫びが、響いた。振り向くと見ると久し振りに彼女が立ち上がっているのが見えた。彼女のロングの花柄のスカートが部屋の中なのに微妙に舞っていた。目を見開いて怒っているのか驚いているのかはっきりしない彼女の表情。父に叫び続けている。父は立ち上がって彼女の方を向いていた。私の位置からは父の表情が見えない。その娘は誰なの、誰なのと、繰り返し喚き続ける彼女のソプラノ。彼女の声でテレビの音か聞こえなくなるのが私は不愉快だった。彼女はふらふらと砂漠を漂うように父の足元に倒れ来んできた。父は異国に一人取り残された船員。彼女は父の脚に縋り売られる遊女のように泣きながらテレビにでてくるような台詞を叫び続けた、父に私に。私はもう彼女にとってのただの恋敵だった。世界が憎悪に包まれ全てが呪われた。私が口にするものは全てが魔物の呪いがかかった憎悪の塊だった。憎悪の塊は私の中で消化され取り込まれ、私の全身の細胞を創る。私の皮膚も私の髪も私の爪も私の目も私の耳も全てが憎悪に変わっていった。憎悪は私の脳髄を浸食し私の神経も私の脳細胞も私の記憶物質も全ては憎悪で彩られる。見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの思い出すもの、全て私は呪わしかった。私は何も見たくも聞きたくも思い出したくなかった。