▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

ドアの前ではエチオピアが一匹で私を待っていた。美声を一声あげた。それで父が今日も病院に行ってまだ帰ってきていないことを知った。エチオピアは北狐のような豊かな尻尾を真っ直ぐに立てて私の足に擦り寄り、次にもう片方のカナダの山猫のように毛の長い頬や肩を擦り寄せる。私はエチオピアを抱き上げて鍵を開けた。薄暗い部屋の中は誰か隠れていそうで薄気味悪い。

エチオピアがやってきたのは彼女が狂気に至るずっと前だった。彼女とデパートのペットショップで暇を潰していたら気取った茶色の猫が恋する少女のような瞳で見ていた。優雅で野性味があり、そして心は純真なのだろうと思った。私は彼女と一月の交渉のうえ、私が面倒を見ることでこの高価な友人の購入権を獲得した。

エチオピアはソマリという品種の猫だ。もともとアビシニアンの長毛種を最近になって固めて作ったものらしい。アビシニアンはアフリカのアビシニア高原からイギリスに連れ帰られたためつけられた名前で、その長毛種ということで近くのソマリアの国名から付けられたらしい。ソマリアだったらわかる。内戦があって日本軍を平和維持にだす出さないとか揉めた国だ。なんで別な国のために人を出さなくちゃいけないのだろう。金も人も外国には恵んでやる必要はない。自分で働け。自分で守れ。勝手に飢え死にでも内戦でもしてろ。エチオピアという名前は、だったらアフリカの国名をつけねばなるまいと覚悟して思いつく数少ない国名から一番美しいものを選んでつけた。候補には他に南アフリカ共和国とかタンザニアがあがっていた。エチオピアという名前は緑色の宝石の印象を思い起こさせる。照明の光を乱反射し無数の緑の色を複雑に彩る、透明で濃い緑が複雑な光彩を創造する、それがエチオピアの名前から思い起こされる。エチオピアがどのような国か知らない。エチオピアの住人も日本がどんな国か知らないだろう。アフリカなのだから密林で覆われ、その密林の中でエチオピアが悠々と薄暗い木の間を歩き、腐った木と花々の匂いの中で突然身を伏せそろそろと羊歯や枯れ木の隙間を進み、無防備な鼠に襲いかかる、それがエチオピアだ。エチオピアが昔のアビシニアと知ったのは名前を付けた暫く後だった。

数年前、エチオピアが妊娠した。父猫が誰かわからない私生児を6匹産んだ。正直には本当にエチオピアの子供かわからない。あの晩ドアの外でエチオピアが鳴いていた。いつもより大きく切ない声だ。私が丁度、何をそんな遅くまでしていたのか覚えていないが気がついてドアを開けると、エチオピアが鎮座していた。ドアが開けられたのに直ぐに反応して立ち上がり後ろに戻って子猫を一匹銜えてきた。エチオピアは子猫を銜えたまま台所や応接間を彷徨き、二階に上がっていった。一段一段軽々と階段を跳ね上がっていく。私の部屋の前でエチオピアは子猫を降ろし私の顔を振り向いて鳴いた。私は部屋のドアを開けた。エチオピアは子猫を銜えて部屋の中を探索し、ついにベットの下に潜り込み、子猫を銜えずに出てきた。げっと思ったが私はエチオピアに付いてまた階段を下りた。エチオピアがドアの前でまた鳴いた。今日はよく鳴く。私は面倒だったし、眠くもあったので、ドアを開けエチオピアを外に出した後、チェーンをかけて、猫が通れるぐらいの隙間をドアストップで開け、自分の部屋もドアを半開きにしてノートで押さえて寝た。

目が覚めて、ベットの下をベットの上から首を逆さにして覗くと何匹もの子猫が寝そべったエチオピアの張った乳首に食いついていた。

私は断固とした決意でこの小汚い雑種の猫どもを追い出すことにした。私もベットの下に潜り込みエチオピアの首根っこを掴みベットの下から引きずり出した。白黒やトラの子猫はふーっと威喝音を吐き部屋中に駆けずり逃げた。一匹ずつ追いかけ捕まえタンスから引き抜いた引き出しに入れた。子猫を入れた引き出しに上からハーフコートをかけ蓋代わりにした。中で暴れていた。一匹は部屋の外まで逃げた。物陰で身を潜め私が近づくやジェットエンジンの付いたゴキブリのように半開きのドアから逃げ出した。父も、彼女もこの捕り物劇に加わった。

全部で6匹、段ボール箱を横にし中に果物用の平たいバスケットを入れそこを住処として裏玄関の靴箱の中に入れた。子猫たちは狭い裏庭を遊び場とした。

子猫たちは私の顔を見る度、威嚇音を低くあげながらあちこちに散った。二階から覗いていると喧嘩を子猫同士でしているとしか見えない。目をみんな怪我していた。体型は母猫に似て、普通の野良猫より頭が小さく、尾は長かった。しかし毛の長さも毛色もいかにも雑種の猫だった。目の怪我はいつのまにか治った。彼女が病院に連れていったのかもしれない。

暫くして一番未熟児だった焦げ茶色の一匹が死んだ。彼女が裏庭に死骸を埋めたらしい。二匹目も死んだ。茶色のトラだった。これも私が知らないうちに裏庭に埋められた。後の4匹は死んだ2匹と違って蹴飛ばしたいぐらい元気だった。3匹目の死骸は私が見つけた。家の前の道路の端で無防備に寝るように死んでいた。死んでいることは直ぐに分かった。私は塵取りで拾い裏庭に埋めた。白黒の元気な猫だった。残った子猫は白黒が二匹に、トラが一匹だった。白黒はどちらも鼻の周りと脚と腹が白く胴部と尻尾が長く黒かった。トラは殆ど焦げ茶色で覆われ僅かに濃淡でトラだと分かった。

残った子猫たちを私は全て友人に配った。エチオピアは去勢された。エチオピアの去勢の後、彼女は発狂した。

ガラス職人はガラスを固めて海を造る

溶けだした真っ青なガラスが

白く泡立ち波となる

ガラス職人の決定的な失敗

ガラス職人の真っ赤に焼けたガラス

ガラス職人は叩き割ろうとする

ガラスは割れない

ぐにゃりと堅い床にへばりついた

捨てられたガムみたいに

床にへばりついたガラスの

白い波はますます白濁し

真っ青な海をますます青くする

ガラスの海には魚はいません

ガラスの海ではみんな固まり泳げません

ガラスの海は叩けば割れます

三階にある病院の窓に飾られた花もベットの横に置かれた棚も日光で白く光っていた。彼女は寝ていた。前より彼女が若くなったように見えた。若くなったというより幼くなった、いや、あどけないといったほうが正確かもしれない。静かな寝息を薄い布団をゆっくりと波打たせて規則正しく行っている。私と父はベットの横に丸椅子を置き腰掛けて黙ったまま彼女の寝顔を見守った。ここは神経科ではなかった。彼女は何の理由でここに閉じ込められているのだろう。私の目線と水平の高さまで茂った高木の樹冠が陽光を真正面に受け波のように煌めいている。鳩が何羽かサーカスの始まりのように空から滑り降り樹冠の中に消えた。消毒薬の甘酸っぱい香りがする。

彼女の首が動いた。目は閉じられたままだ。彼女の顔を見ていると不快な甲高い声を思い出す。私にはそれは言葉ではなく動物の攻撃音に感じる。言葉の内容などもう聞こえない。神経は引きちぎられ、破片となり、血管や体液の中に遭難する。彼女の声は甲高い声は彼女を思い出す度に頭蓋骨の中を反響し別の箇所で共鳴しいつまでも神経を切り刻む。自分の鼓膜を引き千切りたくなるような不快。

彼女の首がまた動いた。大きくまた反対に動き、モーターのような音を立てた。機械仕掛けのように彼女は急に上半身を起こした。彼女はゆっくりと寝ぼけた幼い表情で父と私を見た。童女のような笑顔を見せた。

「あら、お母さん」と彼女は私の顔を見ながらうれしそうに話しかけてきた。お母さん、鴨野さんの金魚、貰えるって、鴨野さんのお婆ちゃん言ってたから、貰っていいでしょ、そう、今日の晩御飯のお野菜、いつものところで買ってきていいのでしょ、菠薐草と、大根と、柿と、苺を買ってきましょう、金魚は大きくて立派で、美しいのよ、と次々と延々と話しかけ続けてくる。鴨野さんて誰、いつものところって何処、私は彼女の話に聞き入っていた。

彼女は父の方を向いて「政ちゃんも、一緒に買い物にくる、そう、お母さん、政ちゃん連れていってもいい」とまた私の方を向いた。

彼女は私たちの沈黙に関わらず喋り続けた。隣の町にね、大きなスーパーが建ったの、パンの値段てどんどん騰がっていくじゃない、スーパーも一緒かしら、ジャムパンも値段騰がっていくのかしら、建ってる途中はジャングルジムみたいだったよ、政ちゃん、あんなに、高いところまで沢山の人が登って、ジャングルジムで遊んでるみたいだったよ、みよちゃんと高い高い木に登ったんだ、きっと、あのジャングルジムより高い高い木でずっと向こうの広い広い空き地の端っこにでんと立ってるんだよ、小鳥が沢山、凄い声でぎゃーぎゃー喚いてるんだよ、動物園の檻のようなんだよ、お母さん、お母さんは藤谷までバスで行くの、何時に戻るの。彼女のお喋りは、楽しげに続く。私は、一言も発することなく、彼女の柔らかい唇を、見つめていた。

父の視線は彼女の上を動き回り、表情はなく、感情は分からなかった。医者と相談してくる、と病室から出ていった。

お母さん、政ちゃんが、また我が儘言って、みよちゃんと遊ぶのに付いてくるんだよ、みよちゃんとままごとして、砂場で遊ぶのに付いてくるんだよ、政ちゃんは男の子なんだから男の子と怪獣ごっこして遊ばなきゃ、ねえ、お母さん、お母さん、いつ戻ってくるの、藤谷って遠いの、バスでどのくらいかかるの、戻ってこないの、政ちゃんの面倒は誰が見るの、みよちゃんと遊びに行ってもいい、ねえ、お母さん。あの高い木の近くに、大きな水溜まりがあるの、そこにね、ちっちゃなお玉杓子が沢山いるの、ゲンゴロウもいるの、ミズスマシもいるの、ヤゴも沢山いるの、イモリもいたのよ、蜻蛉が上で沢山飛んでるの、イモリって何処から来たのかしら、自分で歩いてきたのかしら、だったら凄いでしょ、だってあんなに小さいのがずっと歩いてくるんだよ、ねえ、お母さん、水溜まりは一番大きいのの周りも沢山あるの、一番ちっちゃいのは、お天気が続くとだんだんなくなって、お玉杓子たちが押しくら饅頭で、可哀想だから、みよちゃんと両手で掬っておっきなほうに移してあげたの、ミズカマキリって言うかっこいいのもみつけたの、タガメだっていたの、みよちゃんはタイコウチだよって言うんだけどタガメだったの、

樹冠の見える高木は何本かあり、どれも繁茂し、隣の樹木とは重ならないほどに離れて立っていた。それぞれの葉が緑と白の濃い光を反射し瞬いている。色が薄く感じられるほどの日光。日光はいつか地上の全てを消滅させるような野心を持っている。日光の下では諸々の物体が影だけになる、この日光の下では。違うのかもしれない。日光によって生い茂った高木も、優雅に滑空する鳩たちも存在を確固たるものにしているのかもしれない。遠くの屋根に陽炎が立っている。あの家は今日は留守なのだろう。

振り返って見ると彼女はまた横になって眠っていた、静かに行儀よく深い森林の奥の湖畔の茂みであるかのように。消毒薬の香りがここが病院であることを私に教えてくれる。

私は安堵の深い溜め息を吐いた。私は解放された。私は彼女と共に狂気のどす黒い沼に引きずり込まれるのを逃れることができた。私は、あの声をもう聞かなくて済む。私の体から白い鳩が飛び立つ。これまで、幾度、彼女の口が永久に閉ざされるのを望んだだろう。彼女の悪夢に何度、真夜中に起こされただろう。昼もなく夜もなく彼女の幻想が私を襲い続けた日々は消えた。猫の神様、私の願いは叶えられましたか、私は本当に悪夢を見らずに生きていけますか、猫の神様、猫の神様。

窓を開けると蝉時雨が横殴りに降り注いだ。蒸し暑い風が私を汗ばませる。溶けた粘液の溝に全身が落ち込んだみたいだ。下着が肌に貼り付く。彼女は目覚めなかった。静かに寝息を立て続ける。樹冠しか見えなかった樹木は立派な枝振りで茂みの内部を覆い隠している。樹木の端の丸いコンクリートの池の真ん中に噴水があるが、あれは永い間使われていないのだろう。病院に入るときに見たが噴水口は錆び付き苔が噴水口の溝や周りに生えていた。水は透明だった。この暑さの中では直ぐに緑変するだろうに毎日のように水は換えられているのだろう。何も生命らしきものは無かった。日光に照らされ白く瞬く縞が消えてはまた瞬く。水を貯めるのなら魚も泳がせればいいのに、あの池は死んだままだ。あの池は純粋な鉱物だ。あの水には毒薬が溶け込んでいる。透明な水はしばしば有毒であるものだ、純粋な子供が純粋に残虐であるように。風で水面が激しく瞬いた。

一本の木が枯れた

私が小さな頃に私と私の好きな子の

名前を彫刻刀で彫った木が

木が大きくなると

名前も大きくなるかなって

毎日楽しみに見に行った

幹は太くなったけど

枝は高く張ったけど

名前は樹皮に覆われて

枯れた木にはありません

私とあの子の名前さえ

あの木にとっては

ただの傷