▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

 雨上がりの焦げ茶色の地面には水溜まりができていた。長袖の臙脂色のシャツを腕まくりし、ちょっと長めのジーパンの裾を折り曲げ、木陰に入った。待ち合わせの公園なのに恵理華はいなかった。水溜まりから細い雑草の群落が生えていた。鳥の鳴き声と蝉の音が幾重にも重なり、ソロになり、また合唱する。恵理華だけでなく誰もいなかった。紺色の四輪駆動が静寂を破壊して止まった。静寂は粉々に破片となって散らばり、私はその静寂を拾い集めることも諦めた。また恵理華ったら私に断りもなく発情豚とガラガラ蛇を誘ったんだわ。車の中を見ると運転席に一人いるきりだ。どうしたのかしら。エンジン音が止まり運転席の人物はドアを開けて外に出てきた。車の向こう側に出てきたが上から覗く金髪の頭で発情豚だと分かった。発情豚は車の周りを回って私の方に、よお、と言ってやってきた。

 なに、あなた、と私はぶっきらぼうに答える。まあ、そんなに、無下にすんなんよ、恵理華たちは現地集合らしいぜ、迎えに来てやったんだよ、行こうぜ、発情豚は人差し指で手招きをする。わたし、帰る、と私は言って車と反対方向に向いたが、発情豚は、困るんだよ、と怒鳴って私の腕の付け根を掴んだ。行くぞ、と私を引きずる。私はバランスを崩した足を地面に固定しようとじたばたして発情豚の汗ばんだ手を引き離そうとする。発情豚は私がバランスを取り戻す前に引きずったまま車に乗り込んだ。発情豚が運転席に乗り込む。エンジンが掛かる。私は助手席から降りようとドアを開けた。下半身が車の外に出られたが、その瞬間腕が強く掴まれ私の体は発情豚の体に衝突するように引き寄せられた。おとなしくしろよ、ひっぱたくぞ、と発情豚が凄んだ。私の体の上を体を伸ばして発情豚はドアをしめロックしエンジン音が大きくなり車が動き出した。

 人通りが少ないのは公園の周辺だけで大通りには人が行き来していた。コンクリートの低い建物の町並みの歩道のアーケードの下で徒歩や自転車で大勢が行き交い青になった信号が直線道路に遠くまで続き樫かホルトの木とみられる街路樹が彼方まで一定の間隔で緑の涼しげな葉を茂らせ雀や椋鳥が一斉に飛び立ったり舞い降りたりする。人家が続くようになると赤い実をつけた庭木が目立つようになる。人家も疎らになり、かなり育った緑の田園が広がり道は狭く曲がりくねりキーキーと曲がる度に軋む音がして、田園には白鷺がゆったりと忍び足で歩き、街路樹はなくなりコンクリートの電柱が果てしなく続く。果てしなく続く先に山々がくっきりと緑の苔生したような姿を現す。山の緑は所々斑があり濃いところは照陽樹林で薄いのは竹林なのだろう。ほとんどが杉林らしく鱗取りの面のように尖っている。薄暗い葛折の登りに入り運転席側は山林で私の座る助手席側はガードレールの向こうが切り立った崖になる。崖の下は山林になり、川になる。クラクションを鳴らせの標識が目立つが発情豚は鳴らさずに飛ばし続ける。舗装道路から逸れ揺れが大きくなる。ますます暗くなる。

 強く背もたれに倒れ込んだ。エンジン音と振動が止まる。鳥の声が聞こえる。薄暗い狭い山道だった。道の先は、さらに細くなり車の通れる幅ではない。道に迷った、と思った。

 発情豚はロックを外し外に出た。前から回って助手席のドアを開け、私の腕を掴み引き摺りだした。落ち葉と枯れ枝が悲鳴のように鳴る。鳥の声が響く。腐葉土の匂いが立ちこめている。高い椎や樫の照陽樹林の群落だった。

 発情豚は黙ったまま私を引き摺り、枯れ枝が敷き詰められた腐葉土の上に投げ倒した。なによ、私は怒鳴り立ち上がろうとする上に躍りかかり、おとなしくしやがれと、と凄みをきかせた。発情豚が私に跨る、私のシャツの襟元を掴み引き千切ろうとしボタンが二、三弾き飛ぶ、私は豚の手を掴む、豚は右手を引き離し私の大腿部に手を掛け私の股に体を入れ、私のジーパンのベルトに手をかけた、私は両脚で豚の銅を挟み、腰を持ち上げ左右に我武者羅に体を振り、襟元に掛かった腕を両手で掴み必死で爪を立て手を引き離そうとする、ぶっ殺すぞ、豚が怒鳴る、怒鳴った拍子に私と豚の上下が入れ替わる、豚の手が離れた。私は立ち上がろうとする、隙もなく、また豚が上から被さる。私は豚を両足で挟んだままの腰に力を入れ、豚も私も横倒しになる、豚が直ぐに上になる、上に起きあがった逆に豚を倒し私が上になり、また反動を利用し豚が上になり、その方向に勢いが付き一緒になって何回転か転げ、背中や首に小枝が刺さり湿った土が体中に枯れ葉や土を貼り付かせる、私が上になる時に豚を両腕で突き飛ばし、私は跳ね上がって、駆け出した。

 走りながら、顔を這う馬陸を払う、羊歯を蹴る、幼木を掻き分ける、地面はかなり急な斜面で、柔らかいく泥濘み、太い枯れ枝や木の根に躓きながらも、体制を立て直し、転ばずに、細い枝や、蔓に、顔を打たれながら疾走を続けた。山林は茂った幼木が視界を暗がりに消し枯れて倒れた古木が枯れ葉を付けたままの枝を伸ばし行く手を遮る。幾本もの、幹を、掴んでは、体を前に引き上げ、徐々に高い場所に向かう、大きな葉が、顔にへばりつく、首を振る、剥がれる、細く堅いものが腕を叩く、目に汗か虫かが入る、目を拭う、右目が痛い、涙で視界が滲む、喉が炎症を起こしたように痛む、息が苦しい。

 ずいぶん長い間走った気がした。荒い息の音をたてながら私は太い幹にしがみつくように凭れ掛け、聞き耳を立てた。自分の息と鳥の声や虫の音が蝉の騒音の中で木霊している。足音は聞こえない。枝を折り葉を踏む音はどんなに耳を澄ませても聞こえなかった。私は柔らかな腐葉土の黒い絨毯の上を、周りを見回し、道路の方向を見当をつけて等高線に沿って歩いた。踏み折る枝の音、崩れる落ち葉の音が森に響いた。汗が眉間を伝わるのが分かる。所々、枯れた杉が聳えているのが見えた。下草や幼木が目線の高さの視界を悪くしている。

 森を何者かが走る音がした。

 振り向く。木立の中を激しい音は遠ざかる。見えるのは鬱蒼とした森だけで音の正体が何か見えなかった。狸か鼬だろう。また歩き出す。頭上は濃く何重にも重なった葉が生い茂り木洩れ日もない。

 突然、肩を掴まれた。豚が目を吊り上げ殺気だった表情で私を引き寄せる。私は構わず走る。掴まれた手は離されず、私は向き直り、体で振り解こうとする、両手で突きながら振り解いた、腹を蹴飛ばした、当たり所が良かったのか豚は蹲った。足先に脂肪の感触が残っている。

 私は山林の中を走り下る、転げて滑り落ち、足首が痛む、全身が濡れ泥だらけになった、幹にぶつかり、立ち上がり、走る、後ろで大きな物音が私を追いかけてくる、土が飛び、小さな崖を飛び降りる、足首に痛みが走る、蔓が脚に絡まる、絡まった蔓は、引き千切られ、千切られた蔓は、脚にしがみつく、大きな茂った木が幾本も密集している、通る隙間がない、物音は近づいてくるのが分かる。

 躊躇わず木に登った、頂上まで、だんだん明るくなる、振り返らずに登った。下を見る、木の枝葉の間から。離れたところを豚が走ってきた。豚は近くで立ち止まった。耳を澄ませているのだろう。息も止める。この木は高く密集した樹木の茂みで下からは私の姿は見えないはずだ。顔に貼り付いた葉が剥がれ落ちる。上から近くで枝が大きな音を立てる、鳥が飛び立った。声を上げそうになる。見下ろす。豚は音の方向を見上げていたが、ゆっくりと奥に歩き出した。

 高い木だ。鳥の囀りも聞こえる。幾重にも絡まった囀りは木洩れ日に溶ける。曇天の隙間から陽光が雲を掠め光線となり降り注ぎ雲はガラスの破片のように輝く。彼女と動物園に行った記憶がある、随分前の記憶。猿山が雲のように光っていたのは陽光のせいだったのかしら。私はポップコーンのカップを持っていた。彼女がポップコーンに上から手を出す度、私は拗ねた。彼女は、なに変な顔してるの、せっかくの動物園なんだから、ほら、縫い包みショーやってるわよ、見に行きましょ、茜ちゃん好きでしょ、と笑いながらまたポップコーンに手を出した。地面は暗く、黒く、太い幹の間を細い樹木が細々と伸びている。動くものは地上には何もなかった。全ての生命は私のいる高さに集まり、生命の源を全て吸い尽くす。地上はここでは深海のようだ。騒めき蠢くものはこの樹冠の波の中にしかない。彼女の絶叫が、また体中の神経繊維を走り回り、寸断する。私は喚きそうな感情を抑え樹皮にしがみつく。何もかも叩き壊したい、何もかも消滅させたい、私の下腹部の肝臓の辺りから黒煙のような息苦しい猛毒を含んだ感情が渦を巻き脳を侵す。いつ、私は忘れられる。どれだけ待てば私の記憶は感情を伴わなくなる。このおぞましい感情は無意識の深海に沈み込むのに幾度の白昼夢を引き起こすのか。目が覚めても思い出さない夢に隠れるのに何度夜中に目を覚まさなければならないのか。猫の神様、猫の神様、私を記憶喪失にしてください、私を一つの石ころに変えてください、そうすれば、私は地獄から抜け出せるのです。地上から誘うような虫の音が聞こえる。

 私は用心深く、辺りの音に注意して木を降り始める。

 地上にそろりと降りた。

 葉が踏まれる音が後ろからした。

 振り向く。何もない。降りた拍子に枝でも落ちたのだろう。

 豚が降りていった方向と逆に歩いていくが辺りに動くものはなく物音は蝉と鳥で静かに虫の音が伴奏をしている。

 頭上でけたたましい何百の枝葉が揺れる音がした。

 僅かに煌めく樹冠の木洩れ日に一斉に鳥が飛び立つ。鳥か。私の目の前に豚が上から飛び降りてきた。私はそのまま体中に強い衝撃を感じ倒れた。豚は私に馬乗りになっている、このやろう、あの木の上に隠れてたことは知ってたんだよ、馬鹿め、私の首を片手で掴む、片手で私の乳房を掴む。

 息ができない。

 両手で爪を立て豚の顔を押す、豚は顔を歪ませ乳房から手を離す、頬が引っ叩かれ鈍い痛みが顎に響く、両手にもっと力を入れる、全ての指に全力を込める、また引っ叩かれる、何度か引っ叩かれる、息が苦しい、突然に左手の中指に湿った熱い脂肪質の感触と脆いプラスチックの感触に挟まれるように突っ込んだ感覚が被い、その感触の気色悪さに私は叫喚して、左手を引くように振り回し、重い生肉のような手応えを感じた。絞め殺される駝鳥のような悲鳴をあげ豚が後方に飛び下がり転げ回る、手の平の中に粘着質に包まれた堅い何か掴まれている。

 握られた手の平を開いた。

 手の平は血液と粘液で濡れ滴っていた。手の平の中には血に染まった丸いものが濁った色の血管か神経の千切れた房を引き摺って、あった。眼球だった。

 座り込んだままに甲走った絶叫をあげながら投げ捨て眼球と血飛沫が闇に散った。豚が低く大きい唸り声で飛びかかる、豚の右目からは溢れる涙のように血液が流れ頬を真っ赤に染めていた。喚きながら逃げる、枝が地面から跳ね、顔に当たる、泥に足を取られて、顔から前のめりに倒れ滑り落ち羊歯や幼木が頬を叩き泥や枯れ葉が顔を擦る、口の中で朽ちた葉や土の味と感覚を何度も吐き出しながら走り始める。

 後ろに倒れた、右半面が血と土で染まった豚の顔、空洞になった右目、土で汚れた手が目の前に迫る。豚は猛り拳で殴りつけようとし私は手元で掴めた腕ほどの長さで手首ぐらいの太さの木を豚に振り下ろすが豚は首を後ろに下げ棒は肩口に当たり手応えもなく砕け散った。なんのダメージもなく豚は私の顔を鷲掴みにする。覆う手に噛みつく、豚が力任せに振り解こうとする、血が飛び散る、口の中から豚の肉片を吐き出す。殺される、と思った。

 跳ね上がり起きる。走れ、逃げろ、逃げ延びろ、鼓動が脳髄に命令する、走れ、走れ、走れ、黒い幹が過ぎる、緑の葉が飛ぶ、血の色の枝が疾走する。横に張った葉が枝が消えて、出現する、消える、林立した赤黒い幹どもが、後方に、次々に、吹きすぎる、生きろ、生きろ、お前は生き延びろ、魂が叫ぶ、心臓が喚く、腹筋が怒鳴る、土が飛ぶ、羊歯を蹴る、葉が散る、枝が折れる、風が鳴る、鼓動が叫ぶ、蔓が絡む、幼木が叩く、土が掴む、前方が明るく光の柱に輝いている、走れ、足が縺れる、肺が破れる、心臓が壊れる、筋肉繊維が全て遊離していく。全身が切り裂かれても、血を滲ませながらでも、走れ。枝は首を叩き、葉は腕を切り、蔓は顔を掴む、同じ風景が飛び過ぎる、光の柱を潜り、闇の洞窟を抜け、走った。腕や首の露わになっている場所から痛みが響く、枯れ木を跳び、蔓を引き裂き、幼木を蹴り折り、走った。

 光が私を覆った。

 舗装道路が崖に沿って曲がりくねっていた。錆の目立つガードレールが遠くの頂上まで続いているのが崖からの眺めで見える。崖の遙か下にも豊かな照葉樹林の森が広がる。広がる照葉樹林は杉林に大きく囲まれ杉林は山の頂上まで続く。誰もいない。人工の物音は何もない。舗装道路にも落ち葉が散らばり、道路の中心には轍のように車の跡が葉を押しのけている。手の平は土と血で汚れ、前からあった傷跡をなぞり血で固められた土が人差し指の付け根から斜めに線を造る。これだと手相の鑑定人も虫眼鏡を使わなくていいだろう。

 ゆっくりと歩く。これからずっと下り坂だろう。ほら、鳥の囀りを聞こう、虫の音を楽しもう。足取りはだんだん軽くなる。

 エンジン音が何処からかした。山林から紺の四輪駆動が飛び出してきた、私は悲鳴をあげ避ける、道路を塞ぐように車が止まり豚が降りた、言葉にならない呻き声をあげながら、襲いかかる、両肩を掴まれ押し倒されようとする、ずるずると後ろに押しまくられガードレールに押しつけられた。何時間も走り続けた両脚は遂に力が脚から抜けていき、地面に崩れた。生きたい。甲高い叫び声をあげ血と泥の右半面を一瞬見せながら私の上を突っ込み豚の膝が顔面にあたりガードレールに上半身から飛び込むような格好になり私が顔面に当たっている豚の膝を上に突き上げると、豚がその刹那、消えた。振り返っても目の前にはガードレールしかなかった。息を整え立ち上がり、崖を覗いたが、落ち葉を集めたような柔らかな森が広がるだけだった。車のエンジン音が低く鳴り続けた。

 交通の邪魔だと思い、車のドアを開け外から手でアクセルを押した。車は私を横に跳ね飛ばし尻餅を付かせガードレールに突進し衝突しガードレールを捻じ曲げながら宙を前転し崖の下に落ちていった。

 

 崖の下に髭鯨の体長ほどの幅の川が音を出して流れていた。曲がり角ごとにある大きな凸面鏡に顔を映すと顔は泥塗れだった(美貌がだいなしだわ)。私は川に降りられる場所を探しながら歩いた。川はブロックの堤防で囲まれその片側が私の歩く舗装道路になる。階段があった。急で長い階段を四つん這いに近い格好で下りた。川岸に屈み流れを掬い顔を洗った。程良く冷たかった。魚が流れを向いて群れて泳いでいる。流れに押されては上流に戻る。これだけ下流になれば刺すような冷たさはない。内蔵を包む堅く冷たい白いものが罅割れから破片となり剥がれ生々しい弾力のある赤黒い筋肉繊維が露わになっていく。憎悪より強く悲しみより痛く愛情より熱い生命の誕生を感じた。顔と髪を洗い、手と手の爪を泥と血が流れ去るまで洗った。千鳥が緩やかな上下の曲線を描き水面のすぐ上を滑るように飛び向こう岸に止まった。生々しいまだ陶器の欠片の付いた内蔵に脳髄に死神の鎌のような彼女の怒号が響く。私は、思い切り水面に向かって意味のない怒鳴り声を叫んだ。辺りを振り返り誰もいないことに安心した。私の記憶がただの昔話になるのはいつだろう。このまま、何度、彼女の声を思い出すのだろう。何度の白昼夢と幾夜の悪夢が続くのだろう。靴と靴下を脱いだ。ジーパンを捲り上げ両足を水につけて座った。冷たい感触。水が脚を撫でて渦を巻き擦り抜けていく。服は顔や手や首を洗い濡れていた。私は服が乾くまで川岸に座っていた。彼女の声は響き続け神経が細切れになっていく。猫の神様、猫の神様、私の痛覚神経を麻痺させてください。聴覚神経を取り去ってください。

 坂は緩やかになり平野が広がり人家も見え始めた。人家の庭先や石垣の上に赤や白の花が咲いている。人家を取り囲む畑では葱や薩摩芋が植えられている。畑と道路を分ける用水路の水は透明だった。魚を探したが見つからなかった。用水路はコンクリートで底も両側も固められ水草も生えていなかった。二車線道路に突きあたり、車の往来が多くなり排気ガスがその度に舞い生暖かさに咽せた。道は左右に続き、後ろポケットから財布をとり、コインを取り出して親指で上に弾き落ちてくるコインを掴んだ。左だ。

 背丈より高いブロック塀の上から庭木が覗く。自転車や日傘の婦人が行き交うようになる。歩道は線一本で車道と仕切られ狭い。二車線道路と一車線道路の四つ角で小学生低学年ぐらいの男の子が二人でキャッチボールをしている横で塀よりに日傘の婦人が話をしている。婦人の高く大きい話し声が聞こえる。ほらほら、困ったものよね、あそこの猫の神様、猫の神様のお陰で猫が夜中の間ずっとギャーギャー騒いじゃって、この時間よね、猫の神様のご登場は、そうそう、この時間よ、この辺の野良猫は全部、猫の神様の子分ですもの、まったく、自分の家で飼えばいいのよね、だいたい、ああいう偽善者面した人にかぎって、自分が世界で一番優しいって思ってるものよね、そう、マザーテレサさんとかより、立派で親切って思っているのよ、人の迷惑とか、隣の気持ちとか鈍感で、文句でも言うなら世界一の悪党にしちゃうに決まってるわ、猫の神様は人間の何様なんでしょう。門の柵から犬が吠え出し反射的に飛び下がった。ブロック塀の上から百日紅の淡い紫が緑の葉の間に乱れ咲いている。道沿いに臑ほどの高さの雑草の茂った空き地があり『ニコニコ不動産 建設予定地』の看板が中央に大きく立てられ(なんていかがわしい名前)猫が看板を中心に7匹寝そべっていた。もしかしたら数え漏れでもっと隠れていたかもしれない。猫は私を見たがすぐに顔を下ろす。これが噂に聞く猫の集会かしら、でも夜中にするものではないかしら。猫が立ち上がり、ゆっくりと空き地の向こうの角に歩き始めた。日傘を差し地味な洋服の老女が屈み込みながら手提げ鞄からなにか出している。ウインナーだった。猫は地面に置かれたウインナーを食べ始める。あれが猫の神様か、と私は笑った。猫の神様は強欲な微笑みで猫に餌を配り続ける。九尾の狐は尻尾で人に化けるというから猫の神様も化けられるかもしれないが、生活臭や嫌みのない、もっと上品な老女に化けるのではないかしら。バス停だ。バス停はだんだん近づいてくる。見ると『藤谷行き』とあった。私は舌打ちをした。駅に行かないのかしら。『藤谷』って彼女が言っていたあの『藤谷』かしら。ここか、ここではないかもしれないけれどこの路線に彼女は子供の頃に住んでいたのかしら。探せば彼女が登った大木があるのかもしれない、子供の頃のことだから本当は低い木なのかもしれない。タガメのいた水溜まりはなくなっているだろう。バスの経路も張ってあった。途中に北松吉駅があった。

 

      だるるるるるるるる

      るるるるるるるるば

      ばりりりりりりりり

 

      大地を揺すれ

      白象の大群

      その愛しい牙で

 

      りりりりりりりりぞ

      ぞぞぞぞぞぞぞぞす

      すがががががががが

 

      天空を破れ

      白い獅子ども

      あのしなやかな爪で

 

      炎の欲望

      氷の決心

      光の憎悪

 

      がふふふふふふふふ

      ふふふふふふふふど

      どらららららららら

 

      大海を裂け

      白鯨の集団

      この厳かな渦で

 

 

 数ページ読まれたままの『城』はまだ机の本棚に栞を挟んで立てられたままだった。感想文は前に読んだ作品について書こうと考えるようになっていた。恵理華ともあれからあってない。部屋の電話から恵理華に掛けた。

 

      暗い森の先には静かな湖はありません

      静かな湖の底には龍は眠りません

      龍が眠る峡谷には鬼は歩きません

      鬼が歩く岩山には雷鳥は隠れません

      雷鳥が隠れる雪には花は咲きません

      花が咲く草原には蝶は彷徨いません

      蝶が彷徨う野原には小川は流れません

      小川の流れる故郷には祖母は住みません

      祖母の住む家には柴犬は鳴きません

      柴犬の鳴く庭には小鳥は飛びません

      小鳥の飛ぶ公園には蟋蟀は跳ねません

      蟋蟀の撥ねる山には

        ただ暗い森が深く深く続きます