▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

外に出ると身震いがおこり鳥肌が首筋に立った。夜明け前の薄明かりに粉雪が舞い降りていた。粉雪はアスファルトに融け続けアスファルトを黒く染める。ワゴン車のライトがアスファルトに消える粉雪を宝石に変えて轟音を残して過ぎる。初雪じゃないかしら。アスファルトの泡のように丸く雪が積もっている場所があった。ハーフコートに手袋をした両手を突っ込んで側まで歩いていき踏んだ。足形がつき雪の下の氷が割れ水がスニーカーの底を濡らした。雪は水が染み込み半透明の氷になっていく。息を吐いてみた。白かった。

車が私の前に止まり窓が開き、父が「早く乗れ」と言った。私は回り込み助手席のドアを開け乗った。「鍵は掛けたか」に私は、掛けた、と答える。車は動き出した。暖房の風が顔に当たり息苦しさと暖かさが感じられた。住宅街が徐々に明るくなる。父はラジオを掛けた。父の好きな曲が流れた。父は苛立たしげにラジオを切った。父はこの歌を聴くといつも低い声で合わせて歌っていたのに。車の交通量は少なく通行人は誰一人無かった。車の中は暖かくなり私は手袋を外しコートのポケットに入れコートを脱ぎ後部座席に放った。個人商店の前で白い息を煙るほど吐きながら木箱を軽トラックから降ろしている夫婦(もちろん夫婦ではないのかもしれない、親子かも、雇い人と雇われ人かも、たまたま通りがかりが手伝っているだけかもしれない)。車の中は暖房からの空気で咽せるようだ。

車は病院の駐車場に止められた。コートを抱えて降りた。手が凍り付きそうだった。コートを着て手袋をはめた。もう充分に明るくなっていた。駐車場を取り囲む陶器のような裸の木には筵が巻かれ縄で縛られている。父は直ぐにエンジンを止めて降りロックをかけた。枯れた芝生が覆う病院の庭の中央の古びたコンクリート造りの池には薄氷が張り鋭く細かく乱反射していた。病院の中に入り暖かくなった。コートを脱いだ。看護婦が廊下を慌ただしく行き交いスペイン語のような声が交錯する。消毒の香りが充満している。エレベーターで彼女の病室の階に上がった。

病室は明るく窓からの光と天井にあるいくつかの電灯の明かりで四方に自分の影が薄く差す。彼女は酸素マスクを付けて静かに眠っていた。呼吸する胸のしめやかな海の波が生命がまだあることを教えてくれた。一人看護婦が入ってきた。軽く会釈をした。顰めっ面なのは神妙な表情のつもりなのかもしれない。彼女が眠るベッドの枕元にある貧弱なブザーを看護婦は押した。いま、先生を呼びますから、と父に向かって言った。父は悲しげな表情で頷いただけだった。父と看護婦の表情を演技だとは思いたくなかった。私は自分の醜さに改めて気付いた。私の今までの感情が身勝手だったとは思わないが絶対的な事実の前に後悔に似た悲しみに似た魂の収縮を感じていた。私の心が押し縮められていく。僅かな感情が魂の存在を保っていると思った。憎悪、それだけが私自身だった、今までは。その憎悪がいまは罪悪感と溶け合い私を消え去ろうとしていた。私は彼女を見た。彼女は幼くなった。無垢ですらない、幼児の顔だった。もし無垢という言葉を使うなら無垢とは、残酷がなにかも知らない無垢だからこそ持つ残虐さをもふくむだろう。神経質そうな医者がドアを開けて入ってきた。医者は父に礼をしながら近づき「今は小康状態と呼べるでしょう、が、安静が必要です。昏睡は続くでしょう。危険な状態であることは変わりありません。今日、明日が一番危険ともいえます」と医者は唐突に事務的に伝えた。私にはその声の優しさと寂しさを感じることができた。冷静さと口惜しさが抑揚と戦う声に現れていた。父は黙って頷き、医者に言った、起こすことはできますか、と。医者は本来の感情を表に出した。父は続けて、彼女には母親としての義務があります、できるのなら、起こして、言葉を出させてください、と決意に満ちた声で言った。医者は僅かに開かれた口を閉じ、黙って頷いた。医者はベットに近づき酸素マスクを外し彼女の背に手を当てて上半身を起こした。医者が暫く背中を揺すると彼女は眠そうにしか見えない表情で目を開けた。父は真っ直ぐに彼女の横に来て彼女と同じ高さに屈み、彼女に言った、ほら、茜も来てるよ、と私に視線を向け彼女も合わせて私を見た。茜だよ、茜だよ、と父は繰り返して私に手招きをした。私は息を飲んだ。彼女に一歩一歩近づいた。呼吸ができない、心臓がぎこちなく鳴る、内蔵が萎縮する、肝臓も、膵臓も、肺臓も、心臓も、何者かに鷲掴みにされ握り潰されていく。窓はブラインドが降ろされたままで外が見えない。

私は彼女の傍らに立ち見下ろした。彼女は私をぼんやりと見上げた。彼女は童女であり無垢だった。彼女の唇は僅かに開かれ白いものが見える。笑った、懐かしいものを見たように、無邪気に彼女は微笑んだ。私を見詰めながらゆっくりと、甘えた声で、私に向かって「お母さん」と言った。私の空洞の頭蓋骨の中で密やかに響きわたった。私は自分が、空洞の頭と萎縮した内臓を持つ、母親だと思った。私は、我が子に黙って微笑み頷いた。我が子は笑ってまた、目を閉じた。父は顔を伏せていて何を思っているか分からなかった。医者は無表情に母をまたベッドに寝かした。私は誰も振り向かず病室を出た。消毒の香り、看護婦たちの鳴らす金属音、階段におこるゆっくりとした自分の足音、高く鳴る鼓動、息苦しかった、病院の外に出たかった、自分が黄泉の世界にいる気がした。きっと、私はこれから何年も彼女の甲高い怪鳥のような罵声に付き纏われ幾度も狂気に陥るだろう。いま、頭の中を切り裂かれ続けているように、私は呪われ続けるだろう。私は狂気よりも地獄に生きているのかもしれない。空虚より孤独なのかもしれない。あと、何年の月日が私の今の思いを馬鹿げたことだと、幼かったと思わせてくれるだろう。でも、私は生きている。動いている。病院を出ながら大きく息をした。鳥肌が立つ寒さだった。息が白くなった。

コンクリートの池は、まだ氷が張っていた。氷はコンクリートの底を歪ませ岩肌のように見せていた。コンクリートの底から泡が立ち氷の下に気泡を創った。気泡は大きくなっていく。泡は底の割れ目から出ていた。割れ目は氷の底で盛り上がっていく。割れ目の周りに罅割れが起こり、罅は盛り上がりに合わせて広がる。罅の中央のコンクリートが一欠片崩れ落ち土肌を見せ黄緑の新芽が出てきた。新芽はその茎をしなやかにくねらせながら根本から幾本も枝分かれをし水面に向かって伸びていく。伸びながら葉は巻き込んだ形に成長していき氷にぶつかる。氷は脆く罅割れ水面に出た巻き込まれた葉が広がった。広がり割れた氷の間に浮かんだ。蓮の葉だった。蓮の葉は氷を割りながら次々に水面を覆っていった。水面を覆う蓮の間から蕾が出てきた。蕾は大きくなり、水滴を真珠のように飛び散らし弾けるように大きく紫色の花を開いた。コンクリートの池の水面は、もう蓮の葉と白い花、赤い花、茜色の花、藤色の花、紫の花に覆われていた。氷は溶け、蓮の葉の間にメダカが泳いでいた。白鷺が降りてきた。もう1羽降り蓮の葉の上に立った。水面から細い葉が伸びてきて菖蒲の青い花を開いた。池は様々な植物が茂り、蓮の葉の周りにお玉杓子が尾を振って止まっている。生命で溢れた池から雨蛙の声がショパンのように響きだした。また、雪が降るんだ、と思った。空はまだ曇っていた。コンクリートの池は、厚い氷を張ったままで、もう動くものは何もなかった。どんな植物もなく、どんな生命も生まれない。静かだった。静寂な氷の奥の骸のような灰色のコンクリートの底は全ての生きるものを頑強に阻み続けていた。なにもない屍のコンクリートに包まれた病院の庭の池に戻りきっていた。私は正気なのか、狂気の中に埋もれているのか。風が吹き、常緑樹が騒めいた。正気であること、それだけが私の望み。私は地球上でただ一人正常でありたい。騒めきの中でも厚い氷に覆われた池は冬の陽光を虹のように反射するだけだった。常緑樹の高木は夏と変わらずにその逞しい枝に葉を茂らしている。何羽もの鳥の絡まった高く細い笑い声が聞こえる。

昔々、一匹の虫だったこともある

中国の山奥の山裾の畑の横の草原で

露だけ飲んで、りんりんと鳴く

昔々、一個の細菌だったこともある

昔々、獰猛な人食い虎だったこともある

昔々…

巡り続ける輪廻が包む

巡り続ける輪廻の中で、私は業を償う機会を捕らえる

私は、輪廻を信じよう

輪廻の果てを信じよう

遠い遠い輪廻の先に、優しい優しい解脱があって

私は、いつか、宇宙の意思に同化する。

昔々、アフリカの奥地の酋長だったこともある

昔々、砂漠に佇むサボテンだったこともある

昔々…