リバイバルは奇跡ではない
チャールズ・フィニーによる聖書講義
〔チャールズ・フィニー 1792〜1875年〕
19世紀にアメリカで起こった「リバイバル」の中心的人物。リバイバルとは信仰復興のことで、大衆の中に大規模な信仰的覚醒(かくせい)と、高揚(こうよう)が起こることをさす。
彼は、もとは弁護士であった。救われる以前に、きわめてかたくなだった彼は、教会に出席し始めてからも、長い間回心しなかった。人々は、
「ほかの人が回心しても、彼だけは回心しないだろう」
と言った。しかし29歳のある日、制しきれない思いを抱いて、ひとり林の中へ行き、神の前にひざまずいて回心する。
以後彼は伝道者になり、各地をまわって、聖書の真理を力強く語った。真理をまっすぐ、かつ、おごそかに語る彼の説教を通して、多くの人々が深い認罪(にんざい)に導かれ、回心した。
彼が説教してまわった所には、どこも数千人規模の新しい教会が誕生した。
リバイバルは奇跡ではない
一般に「奇跡」とは、"自然法則を退け、あるいはとどめて、神が介入されること"と定義されています。
この意味では、リバイバルは奇跡ではありません。
リバイバルの中で、物理的・心理的な法則は、通常と何ら変わりありません。リバイバルにおいて、自然法則が退けられたり、とどめられたりすることはありません。
また、「奇跡」にはもう一つ、"自然の力以上のもの"という定義があります。しかしこの意味でも、リバイバルは奇跡ではありません。
信仰は本質的には、自然の力を正しく用いることです。信仰そのものに、自然の力以上のものはありません。
信仰を得たからと言って、それまで持っていなかった力を持つようになるわけではありません。
ただ以前から持っていた力を、神の栄光のために、新しい方法で用いるようになるのです。
このようにリバイバルは、いかなる意味においても「奇跡」ではありません。また、「奇跡によるもの」でもありません。何事でも、方法を正しく用いるならそれなりの結果が出るように、リバイバルも、定められた方法を適切に用いるなら、当然起こります。
もちろん、リバイバルに先立って、きっかけとなる奇跡があるかも知れないし、ないかも知れません。
かつて使徒たちは、人々の注意をメッセージに引きつけるために、奇跡を用いました。彼らは、それによって神の権威を明らかにしたのです。
しかし、それらの奇跡がリバイバルだったわけではありません。奇跡と、それに続いて起こったリバイバルとは、別のものです。
使徒の時代には、奇跡がきっかけとなって、リバイバルが起きました。しかしリバイバルそのものは、奇跡ではなかったのです。
リバイバルは正しい方法を適切に用いるなら当然起こる
"リバイバルは、正しい方法を適切に用いるなら当然起こる"と述べましたが、実際神が定めておられる方法は、明らかにリバイバルを生み出す素地を持っています。そうでなかったら、神はその方法をお定めにはならなかったでしょう。
ただし、神の祝福がなければ、方法だけでリバイバルを起こすことはできません。
麦を蒔(ま)いても、神の祝福がなければ、収穫を生み出すことはできません。同様に、リバイバルを生み出すためには、神の直接的な介入が必要です。
麦を実らせる際の自然法則は、神が働かれるときの原則を私たちに教えてくれます。聖書は神のみことばを「麦」に、説教を「種まき」に、結果を「麦の発芽と生長」にたとえています。
麦の収穫が正しい労働の結果であるのと同様にリバイバルは、正しい手段を用いれば必ず起きるのです。このことを、私は強調しておきたいのです。
というのも、信仰の前進は、何か特別なもので、通常の因果関係では計り知れない、という考えが長い間支配的だったからです。
働きは結果に関係がなく、用いる手段が結果を生むのではない、というのです。教会の成長のために、これほど危険で愚かな考えはありません。
だれかが農夫のもとに行って、麦の種まきについて次のように説教したとしたら、どうでしょうか。
「神は主権者ですから、神の気の向いたときだけ、収穫が与えられます。ですから収穫を待ち望んで耕したり、種まきをするのは間違いです。
それは神の御手から働きを取り上げることであって、神の主権を侵すことです。あなたの働きは、結果と何の関係もありません」。
農夫がこんな言葉を信じたら、世界中が餓死してしまうでしょう。教会も、"信仰の前進は神秘的な神の主権によるもので、働きと結果は何の関係もない"と思いこんでしまったら、それと同じ結果になるのです。
麦の収穫が正しい労働の結果であるのと同様に、
リバイバルは、正しい手段を適切に用いれば必ず起きる。
創元社『聖書物語』より
実際、これまでの結果はどうだったでしょうか。
何世代にもわたって、教会は、人々が失われていくのを見ながら、何の手段も講じず、神が彼らを救ってくださることを夢見ていました。これこそ、サタンが魂を滅ぼすのに用いる、最も効果的な手段です。
神のご支配のもとで、だれもが覚えておくべき、一つの事実があります。
それは、有益で大切なものは、適切な手段によればたやすく、確実に手に入れることができる、ということです。たとえば私たちは、日常の生活必需品を、すべて簡単な方法によって得ています。
反対に、ぜいたく品を手に入れるのは、たいてい困難です。ぜいたく品を手に入れる方法は、複雑なことが多く、うまく手に入るかどうかもわかりません。
また有害なものを入手するような場合は、自然に反するような方法でしか入手できないことが多いものです。
このことは、魂の問題にも当てはまります。霊的な祝福は、最も必要な事柄です。だからこそ、適正な方法を用いれば容易に与えられる、と期待してよいのです。
また、定められた方法を正しく用いるなら、霊的な祝福は永続的な効果を生み出すと、私は固く信じています。
リバイバルとは何か
現実の教会は、後退した状態にあります。リバイバルとは、教会をその状態から引き戻すことであり、罪人(つみびと)を回心させることです。
リバイバルの際には、つねに、まず教会内に罪の自覚が伴います。
信仰の後退したクリスチャンは、深く心を探られなければ、目覚めてもすぐに奉仕につくことはできません。罪の泉は、滅ぼされなければなりません。
そこで、真のリバイリバルにおいては、まずクリスチャンが深い罪の自覚に導かれます。強い光のもとで罪が明らかにされ、しばしば、神に受け入れていただく望みさえ失いそうになります。
いつもこれほどの認罪が起こるとは限りませんが、純粋のリバイバルにおいては、いつも深い罪の自覚が伴うのです。
リバイバルの時にはまた、後退していたクリスチャンが、悔改めに導かれます。
リバイバルとは結局、神に対する服従が新たにされることです。人々は、罪人が回心する時のように、深い悔改めに導かれ、心が砕かれて、神の御前でちりに伏し、罪を振り捨てます。
またリバイバルは、クリスチャンの信仰を新しくします。
信仰の後退したままでは、信者は罪人の状態に対して盲目で、心は大理石のように固くなっています。聖書の真理は、夢のようにしか思えません。
良心と理性が、聖書の言葉を真理だと認めても、それが救いの絶対的な道を示している、との実感を持てないのです。しかし、いったんリバイバルに導かれると、クリスチャンはもはや、人をぼんやりとは見なくなります。
神に対する新たな愛で心が満たされ、その光において物事を見るようになります。また熱心に、人々を神に導こうとします。
神を深く愛するあまり、他の人が神を愛していないことに痛みを覚え、心を神にゆだねるように懇願(こんがん)します。人々に対する愛は新たにされ、優しい、燃える愛で満たされます。
その魂は、全世界の救いを待ち望むようになります。さらに友人、親族、敵対している人などの救いのために、苦悩します。
また、彼らの心を神にゆだねるよう勧めるだけでなく、信仰をもって神の前に連れていき、神があわれんで救ってくださるように、大きな叫びと涙とをもってとりなすのです。
リバイバルはまた、クリスチャンを縛っている罪の力と、世の力とを破り去ります。
恵みの高きに引き上げられたクリスチャンは、天的なものに新しい期待を持つようになります。
天国のすばらしさを垣間見(かいまみ)て、神と一つにされることを願い始めます。
世の魅力は失われ、罪の力は克服されるのです。
そして、教会がこのように覚醒され、改革されると、罪人が救われるようになります。
人々の心は砕かれ、変えられて、しばしば最も不道徳な者でさえ救いに導かれます。売春婦、酔いどれ、邪教にとらわれていた者など、また荒れすさんだ生活に落ち込んでいた人々が、目覚めて救われます。
どんな邪悪な人でも、柔和にされ神の子とされて、聖なる麗しさを備えた人に変えられるのです。
真理が、神と人とを出会わせる
一般に、罪人を回心に導く働きには、3者がかかわっています。また1つの手段が、その働きのために用いられます。
3者とは、神・真理を伝える人・罪人、そして用いられる1つの手段とは、真理です。
真の回心においては、つねに神と罪人との出会いがあります。
第1に、神ご自身の働きを見てみましょう。
神はまず"摂理(せつり)"によって、罪人が真理に触れるようにされます。耳や目によって、真理を知ることのできる環境に、罪人を導かれます。
神がどのようにそれをされるのか、一連の出来事を考えてみるのは、興味深いことです。
たとえば、ときにすべてが、リバイバルに都合よく見えることがあります。真理が力強く広まるために、天候、疫病(えきびょう)などの環境が、絶好の条件をつくり出すことがあります。
そしてまさにそうした絶好機に、必要な説教者が与えられ、人々に聞く耳があるときに、最も適切な真理が語られます。
神はまた、"聖霊の特別な介入"によって働かれます。
聖霊は、罪人の心をじかに探り、その過去と現在の有り様を完全に知っておられます。そのため、その人に最も適した真理を示してくださいます。
神が真理を、生き生きしたかたちで力強く示されると、罪人はうなだれ、反抗をやめて神に立ち返ります。聖霊の働きのもとでは、真理は、その進む道を火のように焼きます。
真理が圧倒的に迫ると、どんな高慢な人でも、山のような重荷によって砕かれます。人が神に心を開くなら、真理は聖書によって明らかにされます。
人は説教を聞いて、いろいろなことを知ることができます。ところが知識は増しても、なかなか従うことができません。
そこで御霊は、その心に強い輝きをもって、圧倒的な真理を注がれるのです。こうして初めて、心が砕かれ、救いを受け入れることができます。
第2に、回心のためには、真理を伝える人間の働きも重要です。
真理が、回心のために用いられる手段であるのに対し、働き人は、単なる受け身の手段ではありません。人間は道徳的行為者であって、自ら行動する者です。
それゆえ働き人は、罪人を導くために、自由意志をもって積極的に行動しなければなりません。
そして第3に、罪人自身の働きがあります。
回心とは、罪人が真理に従うようになることです。したがってその人が真理を自分で受け入れなければ、回心はあり得ません。
しかし、そこまでその人を導くのは、やはり神と、働き人の仕事なのです。
回心において働き人の役割は決定的に重要である
人は言葉だけでなく、姿、涙、ふるまいによっても、接する人に影響を与えます。
たとえば、敬虔な妻を持ちながら心がかたくなな、夫を例にとってみましょう。妻の姿、優しさ、おごそかで同情に満ちた品性が、キリストの標準にまで練られていれば、それ自体が夫にとって"説教"となります。
夫は心に強いとがめを感じて、顔をそむけますが、耳の中では1日中説教が鳴り響いているように感じるのです。
人は、隣人の表情を読むことができます。罪人はしばしば、クリスチャンの目を見て、その心の状態を読み取ります。心がうわついているか、世のわずらいで一杯になっているか、神の霊に満ちているかは、目を見ればわかるのです。
実際、クリスチャンの目を見ただけで、罪人が認罪に導かれることがよくあります。
ある人が、紡績工場を見学に訪れました。彼はリバイバルのある所から来たので、心がおごそかな思いで満ちていました。
工場で働いていた人はみな、彼がどのような人か知っていました。そこに働いていた娘が、彼を見て、何か言って笑いました。
すると彼は立ち止まって、悲しそうに見つめました。彼女は笑うのをやめました。娘の扱っていた糸が切れましたが、彼女は動揺していたので、つなぐことができませんでした。
彼女は、気持ちを静めようとして窓の外に目をやりました。それからもう一度やってみました。
何度も何度もやってみましたが、感情を抑えきれず、ついに座りこんでしまいました。
その時、彼が近づいて来て話しかけると、娘はすぐに深い罪の意識を告白しました。
その感情は、火のように作業場に広まりました。2、3時間のうちに、従業員のほとんどが、認罪に導かれました。
彼女の深い感情は、火のように工場全体に広まった。
工場主は世的な人でしたが、あまりのことに驚いて、仕事を中止して集会を開くように依頼しました。彼は仕事を続けるよりは、この人々が回心するほうが、よほど大切だと言いました。
数日のうちに、工場主をはじめ従業員のほとんどが回心しました。その人の目、厳粛な顔、そのあわれみに満ちた心が、この娘の軽薄さを刺し、その罪を自覚させたのです。
この出来事に続いて、その地域には、大きなリバイバルが起きました。
注: 工場を訪れたこの人は、フィニー自身である。 フィニーは前の晩、近くの学校で集会を開いていた。集会には、工場からも多くの若い人々が出席していた。そういうわけで、翌朝フィニーが工場にやってきた時、彼らはわずかな言葉で、ただちにキリストに導かれたのである。なおこの工場の出来事に続いて、その町にリバイバルが起きたが、回心者の数は3千名にも及んだ。
クリスチャンが、信仰の問題について深い感情を持っていれば、行く所どこにおいても、深い感情を生み出すのです。
反対に、冷たかったり軽薄だったりふざけたりしていれば、覚醒された罪人の深い感情さえも、破壊していまいます。
ひとりの婦人が、ある時強い求道心を持ちました。ところが悲しいことに、ある日彼女の罪の自覚が、まったく失われてしまいました。
それまで何をしていたのか尋ねてみると、その日の午後、ある所で信者たちと交わっていた、というのです。私は、信者たちと交わることが罪の自覚をかき消すとは、思いもよりませんでした。
しかし、実際にそこの信者たちが軽薄で、独善的であったので、彼女の罪の自覚が消えてしまったのです。信者たちの愚かさが、ひとりの魂を滅ぼしました。
彼女は、2度と戻ってきませんでした。
教会は、あらゆる努力をして、罪人を回心に導かねばなりません。回心するために何かせよ、と罪人に言うことはできません。教会が、何かをすべきなのです。
罪人は、真理に従うか拒むかを、選択するだけです。罪人が、回心のために自分で手段を講ずべきであるかのように考えるのは、誤りです。
リバイバルが起こると、真理が、力をもって心に迫ります。人々は、真理に対してはっきりと、態度を決めなければならなくなるのです。
〔「リバイバルに関する講演集」より〕
久保有政著
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