摂理論

キリスト教徒が
なぜ宗教戦争をするのですか





 あなたはおそらく、キリスト教国が中世の時代に聖地奪回を目指して行なった十字軍遠征や、現代のアイルランドにおけるカトリック教徒とプロテスタント教徒との対立、またとかく宗教がらみの中東戦争などをさして、言っているのでしょう。
 問題は、これらの争いが本当に「宗教戦争」だったか、ということです。
 たとえば、ある人がキリスト教の教典である『聖書』を持っている、としましょう。彼は聖書を読んでいるでしょうか。
 読んでいるとは限らないでしょう。読まないで聖書を「積ん読」するだけの人は、たくさんいますから。
 では、ある人が聖書を読んでいる、としましょう。彼ははたしてクリスチャンでしょうか。
 いや世の中には、クリスチャンでなくても聖書を読んでいる人は、たくさんいます。
 またある人が、教会に毎週通っているとしましょう。彼は、聖書の教える原理につねに従って生きているクリスチャンでしょうか。
 そうとは限りません。欧米などでは、単に社交的に教会に通う人や、教会通いが単なる慣習になってしまっている人々も、少なくないのです。
 同様に、ある人が自分を「キリスト教徒」「クリスチャン」だと自称していたとしても、その人が必ずしも神と聖書を信じている人であるとは、限りません。
 単に「先祖代々の宗教がキリスト教だから」という理由で、自分を「キリスト教徒」と呼ぶ人々は、とくに欧米などではひじょうに多いのです。
 このように、「聖書を持っている」「聖書を読んでいる」「教会に通っている」また「キリスト教徒と自称している」からと言って、その人が必ずしも聖書の教えに生きようとしている真のクリ





     礼拝するフセイン大統領
スチャンであるとは、限りません
 また、キリスト教徒の多い、いわゆる「キリスト教国」に生きているからと言って、その人が「キリスト教徒」であるとも言えません。
 「キリスト教徒」であるか否かは、ひとえに、その人が聖書の教えに従って生きようとしているか否か、にかかっているのです。
 聖書の教えは、あくまで、
 「殺すなかれ(申命5:17)
 であり、
 「自分で復讐をしないで、神の怒りに任せなさい」 (ロマ12:19)
 です。
 欧米などの歴史において、「キリスト教徒」や「キリスト教国」の名のもとに行なわれてきた悲惨な争いは、本来、聖書の教えに全く逆行したものなのです。
 彼らが真に聖書の教えに生きていたなら、あのようなことは、決して起きなかったで
しょう。
 あなたは、昨年イラクがクウェートに侵攻した際に、フセイン大統領がアッラーの神に礼拝している光景を、きっとテレビで見たことがあるでしょう。フセイン大統領は、「イスラム教徒」を自称しているのです。
 では彼は、イスラム教の教典『コーラン』の教えに真に従って生きているかというと、そうではないでしょう。
 クウェート侵攻や、クウェート人に対する虐殺行為は、『コーラン』の教えに全く逆行するものでした。





 戦争は、宗教の産物ではなく、すべて人間の罪深い性質に基づいている(写真・真珠湾攻撃)。
 フセイン大統領は、真のイスラム教徒ではなく、自分の行為を正当化するために「イスラム教」を持ち出してきただけなのです。
 ある日本人が、アメリカ人に、「キリスト教国であるアメリカが、なぜ日本に原爆を落としたのですか」と聞いたところ、そのアメリカ人は、「では、なぜ仏教国である日本が、真珠湾を攻撃したのですか」と聞き返したとのことです。
 あなたは、これに何と答えますか。
 「日本は仏教国だといっても、日本人全員が仏教の教えに忠実に従って生きていたわけではない」と答えるのではないでしょうか。
 日本国民は太平洋戦争の時、ほぼ全員が、日本政府の戦争行為を支援しました。戦場に行った兵士の中には、仏教の影響を受けた人々や仏教の信者も、数多くいました。
 しかしアメリカに対して、また中国大陸、朝鮮半島、東南アジア諸国等に対して日本軍が行なった侵略や虐殺行為は、たしかに仏教の教えに逆行するものでした。
 このように、すべての戦争は、本質的に人間の罪深い性質に基づいたものであって、決して宗教自体の産物ではないのです。

久保有政

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