キリスト教入門 

聖書の神以外に神なし
私たちはどの神様を信じたらよいのか


日本人として生まれると、
      みな神道信者ということになってしまう
(写真・伊勢神宮)

 日本の神道(しんとう)には数々の神々、仏教には様々の仏、イスラム教には「アッラー」という神、キリスト教には「ヤーウェ」の神・・・。一体、私たちはどの神様を信じたらよいのでしょうか。
 いろいろな神様がおられるのでしょうか。それとも、やはり真の神様は唯一で、おひとりしかおられないのでしょうか。


神道の神々

 まず、神社の宗教である「神道」について調べてみましょう。
 神道は、日本古来の「民族宗教」です。民族宗教とは、特定の民族や国民だけが信奉している宗教で、血縁的・地縁的なつながりが大きな要素となっている宗教です。
 みなさんは、神道の信者はどれくらいいるか、知っていますか。
 各都道府県知事に届け出のあった神道系宗教法人の信者数は、総計でじつに約1億2千万人もいるそうです。
 じつは、これは神道では、すべての日本人を神道の信者とみなしているからなのです。つまり、
 「私は今日から神道の信者になります」
 という"信仰告白"をしなくても、だれでも日本人として生まれると、その日から神道信者にされてしまうのです。
 実際、神社はその土地の住人を、みな「氏子(うじこ)」――神道信者とみなしています。日本人であれば、本人の意思とは全く無関係に、神道信者にされてしまうのです。
 反対に、日本人でなければ、だれも神道信者になることができません。外人は神道信者になれないのです。そのような意味で神道は「日本人の宗教」であり、「日本人だけの宗教」である、といえます。
 神道は、典型的な"多神教"です。古代の日本人は、神秘と畏敬の念を起こさせるものを、みな「神」と呼びました。本居宣長(もとおりのりなが) (18世紀) は、・・「神」とは「尋常(じんじょう)ではない、すぐれた徳のある、可畏(かしこ)きもの」と定義しています。
 神道には、山の神、海の神、水の神、火の神など、自然と結びついた神々がいます。古代には、樹木や水、大地、動植物等には精霊(せいれい)が宿るという信仰があって、その精霊が「神」と呼ばれたのです。
 神道では、古代の偉人や英雄も神々とされました。「大国主神(おおくにぬしのかみ)」などは、もとは実在の英雄だったと想像されています。
 さらに、様々な神話によって生まれた神々がいます。事物の生成や創造に働く産霊(むすび)の二神(高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)) や、生殖力の表現とみられる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)など。
 そのほか思慮を司る神、腕力を表現する神、吉運の神、凶運の神など、いろいろな神々がいます。神道の神々の世界では、かなり分業が進んでいるようです。
 神道ではこれらの神々を、まとめて「八百万(やおよろず)の神」と呼び、その数約800万としています。しかし実際には、人は祭られれば誰でも神にされてしまうので、その数はもっと多いでしょう。
 神道の神々のうち、もっとも有名なものは、やはり「天照大神(あまてらすおおみかみ)」でしょう。古代では、各氏族がそれぞれ自分たちの「氏神(うじがみ)」(守護神)を信奉していましたが、天照大神は、皇室の氏神だったのです。
 そして、日本という統一国家ができあがったとき、皇室の守護神であったこの神が、一般民衆にも信奉されるようになりました。のちには、
 「天照大神の子孫が天皇である
 とまで説かれるようになり、天皇も神格化されました。とくに第2次大戦中は、天皇は「現人神(あらひとがみ)」と教えられ、"人であり神である者"として尊崇することが強要されました。
 そして日本は、この現人神のもとで世界に"理想の道"を行うとして、戦争を起こしました。もっとも、天皇は軍部に利用されたに過ぎなかったのですが。
 日本が戦争に負けたとき、天皇は、有名な「人間宣言」を行いました。
 「私は神ではなく、一人の人間です」
 と宣言したわけです。やっと肩の荷がおろせた、というところでしょう。このように神道では、人間が神に祭り上げられたり、神が人間に戻ったり、ということがあります。
 また神道の神は、死んだり、生まれたり、結婚したり、で、その生活や能力は人間とたいして変わりありません。


天皇は戦時中「現人神」と呼ばれたが、戦後「人間宣言」をした
                                        (人間宣言後の昭和天皇)



仏教の仏たち

 つぎに仏教を見てみましょう。
 仏教でいう「仏」は、もともと、「(真理に)目覚めた人」という意味です。映画などで、よく刑事が死人のことを"ホトケ"と言っていますが、これは「仏」の元来の意味ではありません。
 仏教では最初、仏は創始者のシャカ一人でした。しかし後世になると、数々の仏がいると考えられるようになり、"多仏思想"になりました。


仏教は"多仏思想"になった。

 仏教は、「輪廻(りんね)」説に立っていますから、世界は永遠の昔から存在している、と考えています。何兆年も何千兆年も前、いやもっともっと前から、宇宙も地球も存在し、人間も存在していた、と考えているのです。
 ですから、シャカは真理を説いた初めての人ではない。彼以前にも、同様に真理を悟り、説いた人がいたはずだ、と次第に考えられるようになりました。これを"過去仏"の思想といいます。
 よく"歴史は繰り返す"と言いますが、その繰り返された歴史において、シャカは第何番目かの仏に違いない、というわけです。初期の頃は、シャカは第7番目の仏であると説かれましたが、時代とともに、次第にその数が増えていきました。
 同じことは、未来についても考えられました。
 仏教徒は、未来においてもやはり仏が現われるに違いない、と考えました。その仏の代表が「弥勒仏(みろくぶつ)」です。
 弥勒は、いまは天界(六道輪廻でいう天)にあって、修行をしているが(修行中の身を菩薩(ぼさつ)という)、やがて「56億7千万年後」に、仏として人々に真理を説くために現われる、というのです。
 こうして、過去から未来にわたる時間軸上には多くの仏がいる、と想像されました。
 さらに、同じことは空間的にも言われ出しました。あらゆる空間に仏が存在している、と想定されたのです。
 それらの仏のうち、代表的なものを3つあげるとすれば、やはり「阿弥陀(あみだ)」「薬師(やくし)」「大ビルシャナ仏」でしょう。
 阿弥陀仏は、はるか西のかなたにある"極楽(ごくらく)世界"という浄土に、薬師仏は、東のかなたにある"浄瑠璃(じょうるり)世界"という浄土に住んでいる、と言われました。また大ビルシャナ仏(別名・大日如来)は、宇宙の中心に住んでいる、とされています。
 しかしこれら3つの仏、3つの浄土だけがあるのではありません。仏教では、仏の数はガンジス河の砂の数よりも多いと言われており、仏ごとに浄土がある、としています。浄土は、仏の数と同じだけあるのです。
 「浄土」は、輪廻の世界を離れた永遠の世界を意味しますから、キリスト教でいえば天国のことです。しかし、キリスト教の天国が一つであるのに対し、仏教の浄土は数限りなくあります。
 ですから、たとえば阿弥陀仏の浄土で仏になった人は、他の浄土で仏になった人と、別れ別れになってしまうわけです。
 仏教はこのように、きわめて"多神教"的です。
 仏教は、数々の「仏」を生み出しました。しかも仏教は、それにとどまらず、古代インド神話の「神々」さえも、仏教中に取り入れました。
 「梵天(ぼんてん)」「帝釈天(たいしゃくてん)」「四天王(してんのう)」「吉祥天(きょしょうてん)」「弁財天」・・・。これらはみな、インド神話出身の神々です。
 さらに仏教は、日本にあっては「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、神道の神々とも手を結びました。インド神話の神々にしても、神道の神々にしても、みな仏教の仏を守る「守護神」と考えればいいではないか、というわけで、日本神道の神々まで取り入れたのです。


仏教は、インド神話出身の神々も取り入れた。

 こうして、"数々の仏もいれば数々の神もいる"ということになり、仏の世界は随分にぎやかになりました。仏教の教理の大部分は、他宗教との混合によるものなのです。
 では、このような変化は、仏教の"発展"と見るべきでしょうか。
 いいえ、"多神教"というものは、宗教の堕落した形態以外の何ものでもありません。
 たとえば古代エジプトでは、文化の始めの頃の宗教は「一神教」でした。古代バビロニアでも最初の宗教は、「一神教」だったことが考古学的に知られています。
 しかし時代をへるにつれ、彼らの宗教は多神教と偶像崇拝、また道徳的な頽廃(たいはい)へと堕落していきました。
 決して、多くの神々、多くの仏がいるのではないのです。人間の素朴な想像の産物としての神仏はたくさんあっても、それらは本当に存在しているわけではありません。
 真実まことの神様は、世界を創造された神様であって、ただおひとりです。ただ一つの太陽が全世界を照らしているように、真の神もおひとりなのです。
 私たちは、多くのニセモノが出回っているからといって、本当のおかたを見失ってはなりません。


神は唯一

 聖書は言っています。
 「だけが神であって、ほかに神はない」 (申命4:35)
 「は私たちの神。主はただひとりである」(同6:4)
 聖書は、本当に存在しておられる神はおひとりしかいない、それは「」と呼ばれるかたである、と述べています。
 この太文字の「」は、原語では「ヤハウェ(エホバ) という言葉です。『新改約聖書』(日本聖書刊行会訳)は「ヤハウェ」を、「」という言葉に置き換えて訳しているのです。
 「ヤハウェ」は、聖書の示す唯一の神様のお名前――固有名詞です。聖書の神には、お名前があるのです。
 私たち人間にはみな、名前があります。「太郎」とか「花子」とか。これらは"固有名詞"です。そのひと個人につけられた名前です。
 同様に真の神様には、お名前があります。しかし、
 「名前なら、イスラム教の神様も、アッラーという名前を持っていますね」
 という人もいるでしょう。けれども「アッラー」は、じつは固有名詞ではありません。「アッラー」は、定冠詞「アル」+神を意味する「イッラー」で、英語でいえば "the God" (その神、至高の神) というような言葉なのです。
 「アッラー」は固有名詞ではなく、もとは普通名詞です。日本語の「神」を英語でいうと「ゴッド」、アラビア語でいうと「アッラー」なのです。ちなみに「神」という普通名詞は、新約聖書の原語ギリシャ語では「セオス」、旧約聖書の原語ヘブル語では「エロヒム」といいます。
 ところで名前には、"意味"があるものです。
 神の御名「ヤハウェ」には、「彼はある」または「彼は存在する」という意味があります。神は、かつてイスラエルの大預言者モーセに対して、こう語られました。
 「わたしは『わたしはある』という者である。・・・これが永遠にわたしの名。これが代々にわたってわたしの呼び名である」(出エ3:14-15)
 「ヤハウェ」は、この「わたしはある」 (わたしは存在する) という言葉に由来するお名前なのです。
 このお名前には、さらに深遠な意味があります。
 聖書学者によると、「ある」の原語 (ヘブル語でハーヤー)は、未完了態というものだそうです。古代ヘブル語には定まった時制はなくて、未完了態は、ある事柄の継続状態を表すものです。
 それは過去・現在・未来のどの状態にも用いることができます。したがって「ヤハウェ」は、
 「彼は存在した」
 「彼は存在している」
 「彼は存在し続けるであろう」
 のすべての意味を含んでいます
。「ヤハウェ」はまことに、「永遠の実在者」である真の神にふさわしいお名前といえるでしょう。
 「ヤハウェ」と呼ばれるかた以外に、真の神はいないのです。
 クリスチャンはふつう、「主の御名をみだりに唱えてはならない」 (申命5:11)
 のご命令に従って、必要な時以外は、このお名前をほとんど口にしません。しかし真の神にはお名前があること、そしてそのお名前には以上のような深遠な意味があることを知っておくことは、大切です。
 真に実在する神は、『聖書』中にご自身の名と、ご性質を啓示された神ヤハウェ以外にはおられないのです。


聖書は真の神からの書物

 世界を創造し、現在もその無限の力によって世界を保たれている神は、私たちのために『聖書』をお与えになりました。神は聖書の中に、ご自分を"啓示"されたのです。
 神はご自分を、おもに3つのものを通して、啓示されました。
 第1に、神は宇宙・自然を通して、ご自分を啓示しておられます
 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物(ひぞうぶつ)によって知られ、はっきりと認められるのであって、(神の存在について)彼らに弁解の余地はない」(ロマ1:20)
 と聖書は述べています。風にゆれる野の花や、高原に流れる小川を見て美しいと思い、また夜空に輝く星を見上げたり、山頂から壮大な雲海のながめを見て、大自然の荘厳さ、崇高さに胸を打たれたことのある人は少なくないでしょう。
 また、胎児が母の胎内で成長する有り様をテレビで見て、生命の神秘に胸を打たれたことのある人も、きっと多いことでしょう。神の偉大な創造の力、また美と崇高さに満ちたその神性とは、被造物である大自然の中に、明らかにあらわされているのです。
 私たちは大自然の中に、創造者の神性を"読む"ことができます。じつに「自然は"第2の聖書"である」と言われるゆえんも、ここにあります。


神の存在と、そのご性質とは、
大自然のうちに啓示されている。

 第2に、神はご自分を、『聖書』の中に啓示しておられます
 神が私たちに『聖書』をお与えになったのは、ご自身の愛を私たちに示すためです。聖書は、神が私たち人間のためにどのような救いのご計画をたてられ、どのようにそれを実現されたかを知らせるために、下さった書物なのです。
 聖書は私たち人間について、人間は神のかたちに似せて造られた者である、と述べています。神が完全に自由な"人格"(神格と言ったほうがよいでしょうが)を持つかたであるように、人間も自由な人格を持つ者として造られたのです。
 それが"神は人をご自身のかたちに似せて造られた"という聖書の教えの最も中心的な意味です。人間は、自分が歩む人生を自分で決める者として、造られたのです。
 たとえば、親が子どもを産みます。親の人格と、子の人格は、全く別のものです。子は、親の感化や教育を受けることはあっても、自分の人生は自分自身が決めなければなりません。
 同様に、神は親のようなかたであり、人間はその子どもなのです。神は、子である人間に教育と訓戒はお与えになりますが、人の人生は人自身が決めなければなりません。
 ところが人間は、神の御教えを忘れ、堕落し、罪の道に入ってしまいました。その道は、滅びの道でもありました。
 それで神は、私たちを「いのちの道」に引き戻すために、私たちに『聖書』をお与えになったのです。聖書は、神が私たちにお与えになった"親書(しんしょ)"であり"手紙"なのです。
 そこには、私たちの救いのために神がなしてこられた事柄が、記されています。神は何千年も前から、私たちを救いに導くための出来事を、着々と歴史上に起こしてこられたのです。
 また、私たちがなぜ信仰によってのみ救われるか、という理由もそこに記されています。私たちは、善行や、知識の豊さによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われるのです。
 神は、救いのご計画と、私たちに対する愛を、『聖書』の中に啓示されたのです。


神はご自身の御心を、聖書の中に啓示された。



神はご自身をイエス・キリストによって啓示された

 第3に、神はご自身を、イエス・キリストによって啓示されました
 神は、イエス・キリストのご人格と活動を通して、ご自身を私たちにより身近なものとされたのです。
 神ご自身は、私たちの目には見えないかたです。神はあまりにも偉大なかたであって、私たちの想像をはるかに越えています。
 そこで神は、御子イエス・キリストをつかわされ、ご自身の本質を御子を通してあらわされました。御子キリストは、永遠において神から生まれ出たかたであって、ヤハウェの神から来られたかたなのです。
 御子キリストは、万物の創造以前から神と共におられたかたであり、神と「一つ霊」であるかたでした。そのかたが、神を私たちに啓示するために、肉体をとられ、人間となって地上に来られたのです。
 創造者なる神は、かつて人を「神のかたち」に似せて創造されました。しかし今度は人間を救うために、ご自身の御子に「人のかたち」を与え、人間とならせて、地上につかわされたのです。
 つまり御子キリストは、神性と人性の両方を持たれたのです。キリストは、神のご性質と人間としての性質の双方を、ともに持っておられます。
 罪を持たないきよいかたであるという点では、キリストと私たちは異なっていますが、他のすべての点では、私たちと同じになられました。キリストは神のすぐ近くにおられたのに、私たちのすぐ近くに来られて、神を私たちに身近なかたとされたのです。
 聖書は言っています。
 「御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われである(ヘブ1:3)
 神は御子キリストによって、ご自身の本質を、完全なかたちで啓示されました。私たちは、キリストを見ることにより、神のご本質を見ることができます。


キリストは、神のご本質の完全な現われである。

 キリストはこう言われました。
 「わたしと父(父なる神)とは一つです(ヨハ10:30)
 キリストと父なる神とは、一体なのです。
 この聖句中の「一つ」という言葉は、単に思いや目的を「一つ」にしている、ということではありません。原語には「同一の本質」という意味があります。
 キリストと父なる神とは、同一の本質を持ち、存在を一つにしているのです。これを「神とキリストの一体性」と呼んでいます。
 「一体」とは、決して"両者が同じ者である"ということではありません。神とキリストの間に"区別"はあるのです。
 たとえば夫と妻は「一心同体」である、と聖書は述べています(エペ5:31)。しかし、夫と妻は互いに別の人格を持っていて、個人としては別の者です。
 同様に父なる神と御子キリストは、「一つ霊」であり一体なのですが、その間に区別はあるのです。この区別を、キリスト教では「位格」と呼んでいます。
 ヤハウェの神は「父なる神」としての位格を、イエス・キリストは「御子」または「子なる神」としての位格を、持っておられるのです。父なる神ヤハウェと御子イエス・キリストは、決して"同じかたの別名"ではありません。
 御子キリストは、父なる神から「生まれ出た」かたです。御子キリストから父なる神が「生まれ出る」ことはありません。両者の間には"区別"があるのです。
 しかし御子キリストは、存在と本質において神と一体であるので、彼により、神は私たちにきわめて身近なかたになりました。私たちは御子キリストを通して、神のみもとに近づくことができるのです。
 神はこのように、大自然・聖書・キリストの3つを通して、ご自身を私たちに啓示されました。大自然・聖書・キリストの3つが指し示している神こそが、本当に存在される神様なのです。

                                                                                               久保有政著  

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