宇宙は絶妙な知恵によって
創造された
存在する宇宙と存在しない宇宙
「宇宙」という言葉が初めて出てくるのは、中国・漢の時代に書かれた『淮南子(えなんじ)』という書物ですが、そこには「宇」とは空間であり、「宙」は時間であると説明されています。「宇宙」とは時間と空間のすべてである、というわけです。
今日物理学では、アインシュタイン博士以来、時間と空間を一つのものとして扱うようになりました。いわゆる「時空(じくう)」ですが、まさに宇宙は、時間と空間が一つになった連続体であるわけです。
さて、私たちはふつう「宇宙」というとき、時空、およびその中にある銀河、星、太陽や地球など、すべてのものをさして言っています。「宇宙
」とは、存在するもののすべてです。
ですから「宇宙」は、一つしかありません。しかし最近の科学者は、宇宙はじつは一つではなく、いくつもあるのではないか、という議論をして
います。
私たちの宇宙のほかに、「他の宇宙」があるのではないか、というわけです。もちろん仮に「他の宇宙」があったとしても、私たちの宇宙から「他の宇宙」に行くことが簡単にできるわけではないし、「他の宇宙」の様子を知ることができるわけでもありません。
また「他の宇宙」というものが本当に存在する、と言っているわけでもありません。しかしここで、私たちが住む宇宙は一体どんな宇宙なのか、を知るために、ちょっとここで次のようなことを考えてみましょう。
2つの宇宙がある、と頭の中で想像してみてください。一方の宇宙は、銀河も太陽も惑星もみなありますが、人間がどこにもいません。生命もいません。物質だけの世界です。
もう一方の宇宙は、私たちが今住んでいる宇宙です。そこには人間という、知的生命が存在しています。
さて、これら2つの宇宙は、どちらも「宇宙」には違いありません。しかしその存在意義は、全く違っています。
私たちの住んでいる宇宙において、人間は様々な知的探究により、宇宙の存在や様子を認識しています。天文学者は星を探究し、理論物理学者は宇宙の起源を考え、工学者は星に探査ロケットを送っています。
人間は宇宙と、様々なかかわり合いを持っているのです。
ところが知的生命の全くいない宇宙では、その宇宙は誰によっても認識されません。認識されない、ということは、その宇宙は"無きに等しい"ということです。
いかに広大で美しい宇宙であろうと、誰によってもその存在や様子が認識されなければ、そのような宇宙は"存在しないに等しい"のです。"あってもない"のです。
「認識」ということを基準にすると、知的生命のいない宇宙は、たとえ存在しても"存在しない宇宙"です。一方、知的生命のいる私たちの宇宙は、"存在する宇宙"ということになります。
宇宙は絶妙なバランスの上に存在している
じつはこうしたことが、今、科学者の間で盛んに論議されるようになっているのです。
こうしたことを、みなさんも考えてみたことがあるでしょうか。私たちの住む宇宙は、なぜ知的生命のいる宇宙であって、なぜ物質だけの宇宙にならなかったのか。
これについて多くの科学者は最近、宇宙は知的生命の生まれる宇宙となるように、あらかじめ誕生の際に"プログラム"されていた、と考えるようになってきています。
どういうことかというと、これは京都大学の松田卓也(たくや)・助教授が『これからの宇宙論』(講談社ブルーバックス)の中に書いていることですが、たとえば「自然定数」というものに着目するとよくわかります。
私たちの宇宙には、たとえば光速、電子の質量、重力定数、プランク定数といった、ある"決まった値"があります。
これがなぜ"その値"なのかを考えると、それはあたかも"知的生命を誕生させるべくその値をとった"としか考えられないほど絶妙にコントロールされている、というのです。
たとえば、私たちは、光速が秒速30万キロメートルであることを知っています。しかし、その速さがほんのちょっとだけ、違ったとしましょう。そうすると、それだけでもう人間はできないのです。
光速と知的生命とは、一見何の関係もないよう ・・ですが、大いに関係しているのです。
人間の肉体は大部分がたんぱく質であり、たんぱく質の大部分は、炭素でできています。そして炭素原子がたんぱく質のような高分子化合物をうまくつくれるのは、炭素の「エネルギー準位」というものが、ちょうどよい値をとっているからです。
そのエネルギー準位を規定しているものの一つが、光速です。あるいは重力定数や、プランク定数です。
つまり、光速が秒速30万キロでなければ、炭素原子はちょっどよいエネルギー準位を持てず、そのためたんぱく質のような有機化合物はできず、生命は発生できません。そして知性も誕生できなかった、ということになります。
たとえ、光速が秒速3万キロだとか3千キロの宇宙が他にあったとしても、そうした宇宙は「知的生命のいる宇宙」とはならなかっただろう、というのです。
ところが私たちの宇宙では、光速はちょうどよい値を持っています。それで私たちの宇宙は「知的生命のいる宇宙」となり、私たちは今「宇宙は
なぜあるのか」を考えているわけです。
また、京都大学の佐藤文隆(さとうふみたか)教授によると、たとえば電子の質量が1%違っただけでも、人間はできないとのことです。重さが1%くらい違ったっていいじゃないか、と思いたくなりますが、たった1%でもダメなのです。
それほどこの宇宙は、絶妙にコントロールされて、「知的生命のいる宇宙」となっているのです。
私たちの宇宙は、絶妙なコントロールのもとに、
「知的生命のいる宇宙」となっている。
宇宙ははじめから「知的生命のいる宇宙」となるようプログラムされていた
アメリカのカーター博士はまた、生命だけでなく、星や銀河ができたのも、自然定数がちょうどよい値をとっていたからだ、と言っています。"
車椅子の天才科学者"ホーキング博士も、私たちの宇宙が現在のような形態の宇宙であるのも、自然定数がちょうどよい値だからだ、と言っています。
もし自然定数が違えば、宇宙は誕生してまもなくグチャグチャにつぶれてしまったかも知れませんし、逆にものすごい速さで膨張する宇宙だった
かもしれません。
自然定数の違う宇宙があってもよいのです。しかしそのような宇宙は、「知的生命のいる宇宙」とはならなかったでしょう。
ところが現実の私たちの宇宙は、「知的生命のいる宇宙」となっている――つまり「知的生命のいる宇宙」となるよう、あらかじめ内部にプログラムされていた、と言って過言ではありません。
たとえば、ある技術者が、テレビをつくるとしましょう。
彼はブラウン管の電圧を何ボルトにするか、値を決めます。また音声出力を何ワットにするか、値を決めます。彼はテレビの各部品にかかるいろいろな電圧や電流の数値を定めて、テレビをつくりあげるのです。
それらの数値をもし間違えてつくったりすると、テレビは用をたしません。画面が映らなかったり、ギーギー、ガーガーいうだけでしょう。あるい
は、ただの粗大ゴミになるだけでしょう。
同様に、この宇宙が見事なかたちで「知的生命のいる宇宙」となっているのは、神が物質界の様々な数値を最も適切な値に定められたからです。様々な自然定数を、最も都合のよいように定められたのです。
1台のテレビをつくるときでさえ、多くの優れた人々の知性と、長年の研究、また努力が必要でした。そうであれば人間という最も複雑で高度な生命体、またこの偉大な宇宙をお造りになったかたは、一体どんなに優れた知性を持ったかたでしょうか。
1台のテレビをつくるのでさえ、多くの人々の
優れた知性と長年の研究が必要だった。
そうであれば、人間や宇宙をお造りになったかたは、
一体どんなに優れた知性を持っておられることか。
かつてイスラエルの王ダビデは、こううたいました。
「主(神)よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたはそれらをみな、知恵をもって造っておられます。地は、あなたの造られたもので満ちています」(詩篇104:24) 。
また、こうもうたいました。
「英知をもって天を造られたかたに感謝せよ。そのいつくしみは、とこしえに絶えることがない」(詩篇136:5)
宇宙が絶妙なバランスのもとに造られていることを考えると、私たちもダビデと共に、創造者なる神の英知をほめたたえずにはいられません。
神は、人知をこえる偉大な知性をもって、「知的生命のいる宇宙」を創造されたのです。
久保有政著
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