キリスト

イエスの倫理の教え
心の貧しい人々、悲しんでいる人々、柔和な人々、
義に飢えかわいている人々は、さいわいである。

  

イエスは山上から
「八福の教え」を説かれた

N.レイ『キング・オブ・キングス』


 イエスは、山に登り、ついてきた大勢の群衆を前に、次のように語られました。
 「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイの福音書5:3-10)
 これは、有名なイエスの「八福の教え」と言われるものです。イエスは8回「・・・の人たちはさいわいである」を繰り返し、これら8種類の人たちを祝福されました。
 つまりこれらの人々は、イエスが好ましいとお考えになった人々です。
 イエスはどのような人々を、神の前に好ましい人物とお考えになったのでしょうか。それを見てみましょう。


「こころの貧しい人々」とは神の前に身を低くする謙虚な人々

 イエスははじめに、
 「こころの貧しい人たちは、さいわいである」
 と言われました。
 私たちはふつう、「心の豊かな人」になることを目指します。寛大で、愛情に富み、正義感に燃え、つねに新しいことにチャレンジし、平安と喜びを失わない心の人になることを目指します。
 それなのにイエスは、
 「こころの豊かな人はさいわいである」
 とは言わず、
 「こころの貧しい人たちはさいわいである」
 と言われたのです。「心が豊かな人」も、確かにさいわいなことではあります。しかし「こころの貧しい人たち」は、それ以上にさいわいだ、とイエスは言われるのです。
 イエスはあるとき、「パリサイ人の祈りと取税人の祈り」と一般に呼ばれている、次のような話をされました。この話の中の取税人の心は、まさにイエスの言われる「心の貧しい人」の意味を、最も的確に表しています
 イエスはこう言われました。
 「ふたりの人が、祈るために宮(神殿)に上った。そのひとりはパリサイ人(ユダヤ教パリサイ派の信者)であり、もうひとりは取税人(税金徴収人)であった。
 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。
 『神よ、私はほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、またこの取税人のような人間でもないことを、感謝します。私は1週に2度断食しており、全収入の10分の1をささげています』。 
 ところが取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った。
 『神様、罪人の私を、おゆるしください』
 と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は、高くされるであろう」(ルカ18:9-14)。 
 イエスがなされたこの話の中で、ふたりの人が出てきます。「パリサイ人」と「取税人」です。
 「パリサイ人」と呼ばれるユダヤ教パリサイ派信者は、当時、多くの場合自分を「義人」だと自任して、他人を見下げていました。
 この話の中のパリサイ人も、いかに自分が道徳的に正しい人間であるかを、神の前に感謝しています。


パリサイ人と取税人の祈り
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 パリサイ人たちは当時、他の人たちと比べれば、実際にきわめて品行方正な人たちでした。彼らの道徳水準は、きわめて高いものでした。
 神殿で祈ったこのパリサイ人も、口からデマカセを祈ったわけではなく、自分について思っている通りのことを祈ったのです。
 一方そのかたわらで取税人が、目を天に向けようともせずに祈りました。「取税人」は当時ユダヤの支配者であったローマ帝国の手先となって、人々からしばしば規定以上の税金をまきあげ、私腹をこやしていた人々でした。
 神殿のかたすみで祈った取税人の心は、先のパリサイ人と比べて、なんと貧しかったことでしょう。彼は胸を打ちながら、祈りました。
 「神様、罪人の私をおゆるしください」。
 取税人の心は、罪責感で一杯でした。彼は自分がひどく汚れた人間であることを自覚し、神の前に自分を無にしたのです。
 彼は自分を低くし、ただ神の憐れみにすがりました。こうした貧しい謙虚な心こそ、神の良しとされるものなのです。
 むなしい空の心でなければ、神が入って住まわれることはできません。この取税人は、自分に何も誇るものがないことを認め、謙虚な空の心になって、神の前に出たのです。
 神の前に義とされて家に帰ったのは、この取税人のほうでした。パリサイ人のほうが道徳的に、はるかに高かったにもかかわらず、神はこの取税人の貧しい心を祝福されたのです
 まことに天国は、こうした心の貧しい人々に与えられます。


「悲しんでいる人たち」とは不幸に悲しむ人々

 イエスはまた、
 「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」
 と言われました。事実イエスは、つねに不幸に悲しんでいる人々の所に行っては、彼らを慰め、また祝福されました。
 イエスはしばしば、当時の社会において「はみ出し者」とされていた人々の所に行き、共に会話を持たれ、また食事をされました。
 福音書はこう記しています。
 「イエスが、家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共に、その席についていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った。
 『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか』。
 イエスはこれを聞いて言われた。
 『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。「わたし (神) が好むのは、あわれみであって、いけにえではない」(旧約聖書・ホセ6:6)
 とはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」 (マタ9:10-13)
 ここでいうイエスが共に食事をされた「罪人たち」とは、とくに売春婦や、離婚した者、荒らくれ者、不良少年、そのほか社会の「はみ出し者」とされた人々のことでした。
 パリサイ人は、こうした人々とは決して食事を共にしなかったのです。しかしイエスは、彼らと堂々と食事をし、親しく声をかけ、また会話を持たれました。
 「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人である」。
 まさにイエスは、不幸な人々の所に積極的に出向かれたのです。また、病人の所にも、積極的に出向かれました。こう書かれています。
 「イエスはペテロの家に入って行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。そこでその手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがって、イエスをもてなした。
 夕暮れになると、人々は悪霊につかれた者を大勢、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。これは預言者イザヤ (B.C.8世紀) によって、
 『彼は、私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた(イザ53:4)
 と言われた言葉が成就するためである」(マタ8:14-17)
 イエスは積極的に病人をいやし、悪霊を追い出されました。これは旧約聖書イザヤ書の預言の成就である、と聖書は言っています。
 イエスは「私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた」のです。
 永遠の生命の具現者であられるイエスは、人々の病気をもご自分に負い、人々の悲しみを、かわりに担ってくださいました。私たちの悲しみは、すべてイエスが担ってくださるのです。
 イエスは、こののち数年後には、十字架にかかられることになります。十字架は私たちの罪を担い、身代わりに神の審判を受け、私たちに罪の赦しを与えるためなのです。
 あらゆる不幸、病気も罪も、イエスが担われました。ですから不幸に悲しんでいる人々は、さいわいです。
 イエスがすでに私たちのもとに来られたからです。あなたはイエスを心に迎えさえすれば、苦しみは喜びに、悲しみは尽きない平安に変えられるでしょう。


「柔和な人たち」とは神の前に素直で人に対し温和な人々

 イエスはまた、
 「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう」
 と言われました。「柔和な人」として思い起こされる人物の一人に、モーセがいます。
 イスラエル民族の出エジプトの際の指導者モーセについて、ある人々は、「こわい人」というイメージを持っているようです。しかし彼は、じつはきわめて柔和な人でした。
 「モーセは、その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた(民数12:3)
 と聖書は記しています。彼は神の前にきわめて謙虚な人であり、また人々への優しさに富み、温かみのある人物だったのです。
 モーセは、強情なパロ (エジプト王) に対してイスラエル人解放を迫る剛毅さを持つ一方、人となりはきわめて柔和で、人々に対しては限りない優しさを持っていました。
 彼の内では、剛毅さと柔和さという、反対のものが合一していたのです。この「反対の合一」ということは、ひじょうに重要なことです。本当の柔和さは、内なる強さから来ます。真に強い人物は、きわめて柔和なのです。
 イエスご自身も、ひじょうに柔和なかたでした。預言者たちは、イエスについてこう語りました。
 「見よ。あなたの王がおいでになる。柔和なおかたで、ろばに乗って」 (マタ21:5)
 イエスの人となりがきわめて柔和であったことは、幼な子たちがごぞってイエスのもとに集まってきたことにも、よくあらわれています。
 「イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた。
 『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしの所に来るのを止めてはならない。天国は、このような者の国である』」 (マタ19:13)
 このようにイエスは、決して近寄りがたい人物ではありませんでした。主はつねに、優しさと温かさを、人々に感じさせるおかただったのです。


幼い子たちとイエス
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 イエスは、神殿で商売人たちを追い出す剛毅さを持つ一方、限りない優しさを人々に感じさせるおかたでした。イエスの内では、やはり剛毅さと柔和さという反対のものが、合一していたのです。
 私たちは悪に対しては剛毅さを、人々に対しては柔和さを持つべきなのです。柔和は人に対する優しさであり、また神の前における素直さです。私たちは神の前に、強情であってはなりません。
 イスラエル民族は旧約時代、幾度も神の教えを忘れ、神の教えを踏みにじりました。
 そのため彼らは、なかなか悔い改めないその強情さのゆえに、やがて神から退けられ、「バビロン捕囚」の憂き目にあってしまいました。
 しかし柔和な者は、「地を継ぐ」でしょう。彼らは神に受け入れられ、この世で、また来たるべき世で、神の祝福を継ぐ者となるのです。


「義に飢えかわいている人たち」とは神の義を求める人々

 イエスはまた、
 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」
 と言われました。聖書でいう「義」とは、神の前に正しい、また良いと認められることです。しかし、イエスは、
 「義人はさいわいである」
 とは言わず、
 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」
 と言われました。これは神の前に完全に「義なる人」と認められるような人は、この世にいないからです。聖書は、
 「義人はいない、ひとりもいない。・・・すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっており・・・」 (ロマ3:10,23)
 と言っています。私たちはみな、「罪人」なのです。「クリスチャンが義人で、未信者は罪人だ」というのではありません。すべての人は罪人なのです。
 クリスチャンと未信者と、何が違うのかと言えば、クリスチャンは義に対して飢えかわきを覚え、キリストにある罪の赦しを信じた者たちだ、ということです。
 そして今もクリスチャンは、来たるべき義の全うされる時に至るまで、つねに義に飢えかわいています。こうして義に飢えかわいている人たちはやがて、義に満たされるであろう、とイエスは語られました。
 ところが、多くの人は義に飢えかわいているどころか、義を追い求めることすらありません。人々は罪の結末の恐ろしさを、知らないのです。また神の前に義とされることの祝福と、平安を知りません。
 それはちょうど、ガンの病に身をおかされた人々のようです。末期症状が現われ、死期が近づくまで、その人は自分の内に巣食っている病の恐ろしさを知りません。
 また義を求めず、罪の中にとどまっている人々は、ちょうど川を舟で下っている人々のようです。その先には大きな滝があります。自分がひじょうに危険な状態にあることに、気づかないのです。
 神の前に義とされる生活は、次の3つの生活です。
 第1に、聖書の教えを、つねに学ぶ生活です。
 素直な心で神の教えに聞き、それを学び、心に蓄えることです。イエスは、
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で、心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい(マタ11:28-29)
 と言われました。イエスに学び、イエスに聞く生活です。
 第2に神の前に義とされる生活は、その教えに従う生活です。
 教えを「聞いても行なわない人」ではなく、「聞いて行なう人」になれ、とイエスは説かれました(マタ7:24) 。私たちは力の及ぶかぎり、み教えに従う者とならなければなりません。
 第3に、イエス・キリストの救いに信頼する生活です。
 私たちはこの世では、決して完全な者ではありません。時に罪を犯すこともあるでしょう。
 しかしその時も、すぐに悔い改め、イエスのもとに行くことです。また、つらい試練の時もあるでしょう。
 しかし生きている時も、死ぬ時も、イエスの救いに信頼することです。イエスは、
 「信じる者には、永遠のいのちがある」 (ヨハ6:47)
 と言われました。イエスに信頼する者には、天国と、永遠の命と、豊かな報いが約束されているのです。
 イエスはまた、どんな時も私たちと共におられると、約束してくださいました。
 「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」 (マタ28:20)
 私たちは主イエスに信頼してあゆむ限り、義の生活を全うすることができるのです。


「あわれみ深い人たち」とは人間の不幸を思いやることのできる人々

 イエスはまた、
 「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう」(マタ5:7)
 と言われました。
 不幸と、不幸な人々は、つねに私たちの身近なところにあります。貧乏、病気、精神的苦痛・・・不幸はいつの時代にも存在しています。
 そして人間にとって最も大きな不幸――それが人間の持つ「罪の心」です。私たちは自分に対して罪を犯す人々に対しても、大きなあわれみの心を持つべきである、とイエスは言われます。
 イエスはあるとき、次のようなたとえ話をされました。ある王のもとに、1万タラントの負債のある僕が、連れて来られました。
 1万タラントとは、王の身代金にも匹敵する大金です。ところが負債のあったこの僕は、それを王に返せませんでした。
 王は彼に、自分や家族また財産全部を売って返すように命じました。しかし彼は涙を流して哀願したので、ついに王は彼の負債を免除し、ゆるしてあげました。
 僕は、王宮から出ていくと、百デナリを貸している仲間に出会いました。百デナリは一般労働者の3か月分程度の給料に相当する額で、1万タラントに比べれば、わずかな額です。
 ところがこの僕は、仲間の首根っこをつかまえ、首をしめて「金を返せ」と迫りました。仲間は哀願しましたが、彼は承知せず、引っぱって行って獄に入れてしまいました。
 その一部始終を見ていた人が、ひじょうに心を痛め、行って、そのことを残らず王に報告しました。王は僕を呼びつけて言いました。
 「悪い僕だ。わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。
 こうして王は立腹し、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引き渡しました。イエスはこのたとえ話をなされたあと、こう言われました。
 「あなたがためいめいも、もし心から兄弟人々をゆるさないならば、わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるであろう(マタ18:23-35)
 イエスはここで、人々が私たちに対して負っている「罪の負債」を、借金にたとえて言っておられるのです。
 たとえば、あなたの周囲にいる人が、あなたを傷つける何かの行為、または言葉を発したとしましょう。その人は、あなたに対して罪を犯し、罪の負債を負ったのです。
 しかしイエスは、そのような罪の負債は、あわれみをもってゆるしてあげるべきだ、とお教えになります。
 ゆるすとは、忘れることです。それは天の父が、すでにあなたの罪の負債を、ゆるしてくださったからです。
 私たちは大きな罪の負債を、天の父にゆるしていただきました。それなら周囲の人々が私たちに犯したわずかな罪の負債に対して、私たちはいつまでも憤慨しているべきではありません。
 いわゆるイエスの「敵への愛」の教えも、この延長線上にあります。
 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。・・・あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか」 (マタ5:44-46)
 私たちは、私たちに対して危害を加える者に関して、彼らは私たちに対して「罪の負債」を負っているのだ、と考えることができます。
 私たちはそうした人々に対して、あわれみ深くなければなりません。
 この「敵への愛」の頂点が、十字架上のイエスの発せられたあの有名な御言葉でしょう。
 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」 (ルカ23:34)
 弟子のステパノも、自分を殺そうとする人々の投石を受けながら、
 「主よ、どうぞこの罪を、彼らに負わせないでください」 (使徒7:60)
 と叫んで死に就きました。
 じつはこのとき、聖書によれば天国ではイエス・キリストが、「神の右に立っておられ」(使徒7:56) ました。


 ステパノは祈って言った。「主よ、どうぞこの罪を、
彼らに負わせないで下さい」

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 ふつうなら、キリストは「神の右に座しておられる」のです。ところがこのときは、ステパノの殉教の光景を見ながら、いてもたってもいられなかったのでしょう。キリストは「立っておられ」ました。
 神、および救い主イエスは、あわれみ深い人々に対して、深い共感をおぼえられるのです。まことに、あわれみ深い人たちはさいわいです。彼らはあわれみを受けるからです。


「心の清い人たち」とは心に濁りのない人々

 イエスはまた、
 「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」
 と言われました。
 心が清く、心に濁りのない人々は、神の光を見るでしょう。濁りのない青空に光が満ちるように、濁りのない心には、神の光が満ちるのです。
 清い心とは、まず第1に、神のまえに素直な心です。自分の悪いところを神によって指摘されたら、それを素直に受けとめ、正す心です。
 また第2に清い心とは、人々に対して悪い思いを抱かないことです。人々への悪い思いこそが、あなたを汚すものなのです。イエスは言われました。
 「すべて外から人の中にはいって、人を汚しうるものはない。かえって人の中から出てくるものが、人を汚すのである。・・・
 すなわち内部から、人の心の中から、悪いものが出てくる。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、あざむき、好色、ねたみ、そしり、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである(マコ7:15-23)
 このように「外から人の中に入って人を汚しうるものは」ありません。
 たとえ、人があなたに対して侮辱行為をなしたとしても、それはあなたを汚すものではありません。外から来るものが、あなたを汚すことはありません。
 あなたの腹に入る何かの食べ物が、あなたを汚すこともありません。人からの侮辱行為でも、食べ物でも、服でも、そのほかいかなる外部のものも、あなたを汚すことはありません。
 あなたを汚せるのは、あなたの内なる罪のみです。人の内側から出てくる罪の思い、罪の言葉、罪の行為のみが、人を汚せるのです。
 ですから、心の内からこうした汚れた罪の思いを取り除き、心を清くした人は、さいわいです。彼らは「神を見る」でしょう。
 雲が取り除かれれば自然に、夜には星が、昼には太陽が見えてきます。同様に心の汚れが取り除かれると、自然に神が見えてくるのです。
 また雑音が取り除かれれば、私たちは美しい音楽の調べに、耳を傾けることもできます。
 同様に心の内から罪の思いのざわめきが取り除かれれば、心の内に聞こえてくる神の静かな御声に、耳を傾けることもできるのです。
 どうしたら、私たちは清い心を持つことができるのでしょうか。
 単に心の内から汚れた思いを追い出そうと努力するなら、私たちはたいてい失敗します。私たちは、心の内から闇を追い出そうと努力するより、心の内に光を満たせばよいのです。


   清い心は神の光に満ちた心

 私たちは、部屋の中から暗闇を追い出そうと、掃除機で暗闇を吸い取ろうとしたりするでしょうか。暗闇を追い出したいなら、電灯のスイッチをひねるでしょう。そうすればすぐに光が満ちます。
 心の暗闇を追い出すときも、同じ方法を用いればよいのです。闇の心を追い出したいなら、神の光を、いっぱい心に受け入れればよいのです。
 イエス・キリストをあなたの心の王座に迎え入れれば、あなたの心には神の光が満ちるでしょう。そしてあなたの心の部屋は、美しく清い部屋へと変えられるのです。


「平和をつくり出す人たち」とは隣人愛を実践する人々

 イエスはまた、
 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタ5:9)
 と言われました。
 「平和をつくり出す人たち」とは、隣人愛を実践する人々です。愛こそ、隣人との間に平和をつくり出す唯一の原動力なのです。
 そしてこの「隣人」とは、すべての人々を意味します。イエスはあるとき言われました。
 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いていたところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。
 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」 (マタ5:43-45)
 イエスによれば、「敵」もまた、私たちの「隣り人」なのです。相手が誰であれ愛すること、すなわち善を行なうこと、それが隣人愛です。
 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか」(マタ5:45-46)
 天の父が、どんな人をも愛しておられるように、私たちもすべての人を愛するべきである。それによって、私たちは天の父の子となるのだ――そうイエスは教えておられるのです。
 「愛する」とは、決して誰をも恨まないことです。また誰に対しても善を行なうことです。イエスはこうも教えられました。
 「あなたが祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟 (人々) が自分に対して何か恨みをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」 (マタ5:23-24)
 私たちが神の御前に出たいと思うなら、私たちはまず、人々との間に平和をつくらねばなりません。
 もし自分の罪が原因で人が自分を恨んでいるなら、行ってその人に謝罪し、和解しなければなりません。
 反対に人の罪が原因で、友情がこわれているなら、私たちはそこに平和をつくるよう努力すべきでしょう。
 人の罪を赦し、忘れ、まず自分の心に平和をつくることです。イエスは、
 「私たちに (罪の) 負債のある者をゆるしましたように、私たちの負債をもおゆるしください」 (マタ6:12)
 と祈れ、とお教えになりました。
 まず私たちの心の中で、人の罪をゆるさねばならない、とイエスはお教えになるのです。ゆるし、人の罪を忘れ、その人への愛にまで進むのです。
 自分のまわりに平和をつくるために、まず自分の心の中に平和をつくるべきなのです。


「義のために迫害されてきた人たち」とは信仰のゆえに迫害を受けた人々

 最後に、イエスはお教えになりました。
 「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」 (マタ5:10)
 主イエスは、信仰を持つ者はみな平穏無事な生活が送れる、とは決してお教えになりません。
 信仰者の中には平穏に生涯をすごせる人もいますが、場合によっては激しい迫害を受ける者もいる、とイエスは言われるのです。
 しかし、自分が迫害を受けるような境遇におかれたなら、それはむしろ「さいわい」なことです。
 福音宣教の前線に出された者は、それだけ主イエスの期待と信頼を寄せられた者だ、と言えるからです。
 「わたしのために、人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。
 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」 (マタ5:11-12)
 とイエスは言われました。
 あなたの信仰が確かなものなら、主イエスはあなたを、ときに人々の迫害のもとに置かれるかもしれません。
 あるいは、たとえあなたの信仰が未熟でも、あなたの信仰を強めるために、ときに迫害のもとに置かれることがあるかもしれません。
 しかしそうしたとき、私たちは喜ぶべきなのです。真理の福音のために働く者に対して、天での報いは大きいからです。
 また、迫害の中でしか現わされない神の恵み、というものもあります。迫害は決して、福音の前進をはばむものではありません。むしろ、神の恵みを拡大する良い機会ともなるのです。
 日本でもいわゆる「隠れキリシタン」の時代に、クリスチャンたちは多くの迫害を受けました。しかしその迫害によって、かえって福音の素晴らしさが、人々に知られるものとなったのです。
 長崎には、有名な「26聖人の殉教」の話が伝わっています。キリスト教が禁教となった時代に、26人のクリスチャンたちが、他のクリスチャンたちへの見せしめとして、丘の上で処刑されたのです。
 しかしその丘を取り囲んでいた群衆が見たものは、来世への希望と、救われた者としての平安に顔を輝かせた殉教者たちの姿でした。


長崎・26聖人殉教図

 十字架につけられた26人のすべてが、殉教者になり得た光栄に、喜々として死んでいったのです。それは群衆にとって、まことにショッキングな光景でした。
 殉教者たちの最期の姿に、天国の実在と、神の愛を見届けた群衆は、竹矢来をこぼち、役人の制止もきかずに処刑場へなだれ込みました。
 ある者は、殉教者の血潮を自分の着物にしみこませ、ある者は血のついた十字架を削りとり、ある者は殉教者の衣を切り取り、またある者は血潮に染まった土を持ち帰りました。
 こうして殉教者の最期を見た人々のほとんどが、キリシタンになったといいます。こののち日本のキリシタン人口は、爆発的に増えました。
 慶長15年 (1610年) には、キリシタンの人口は約70万人に達していたと言われます。当時の日本の総人口は推定約1千万とされるので、これは総人口の約7%に相当するものです。
 迫害は、福音の前進をはばむことはできません。迫害の中で、かえって福音が広まっていくことがあるのです。         

久保有政(レムナント1992年2月号、3月号より)



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