キリストの血は語る
それは「のろいからの解放」「刑罰からの解放」
「罪の力からの解放」「死からの解放」を告げ知らせている。
キリストが十字架におかかりになった
ゴルゴダの丘と言われる場所(ゴードンのカルバリ)
〔聖書テキスト〕
「あなたがたが近づいているのは・・・新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」。
(ヘブル人への手紙12:22-24)
今日は、聖書に「アベルの血よりも力強く語る」と述べられているキリストの血潮について、お話ししたいと思います。
ここに述べられている「アベル」とは、アダムとエバの間に生まれた子の一人です。アベルにはカインという名の兄がいましたが、兄カインはある日、アベルを殺害してしまいました。
そのとき神は、兄カインに言われました。
「弟アベルはどこにいますか」。
カインは、
「知りません。私が弟の番人でしょうか」
と答えました。しかし神は、カインに言われました。
「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が、土の中からわたしに叫んでいます。・・・」
と。アベルの血は、正しい者が悪い者によって殺されたことを、告げ知らせていました。
けれども聖書は、「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」があると言います。それは、イエス・キリストによって十字架上で流された血潮のことなのです。
キリストの血潮は、何を語っているのでしょうか。それは私たちに、のろいからの解放、罪の刑罰からの解放、罪の力からの解放、死からの解放を、告げ知らせています。
キリストは十字架上で、4つの血を流されました。それらは「いばらによる血」「釘による血」「鞭の傷による血」「やりによる血」です。
これら4つの血潮が、私たちに大きな「解放」を告げ知らせているのです。それを見てみましょう。
いばらによる血は「のろいからの解放」を告げ知らせる
第1に、キリストの「いばらによる血」は、私たちに「のろいからの解放」を告げ知らせています。
キリストは十字架におかかりになった時、「いばらの冠」をかぶせられていました。ローマ兵たちが、いばらで冠を編み、キリストの頭にかぶせたのです。
そのとげはキリストの頭皮を刺し、そこからキリストの御血が流れ出ました。この「いばらによる血」は、キリストが私たちの身代わりに、世界ののろいを受けられたことを、示しているのです。
キリストの「いばらによる血」は、
”のろいからの解放”を語っている。
カール・ブロック画
いばらは聖書では、「のろい」の象徴です。アダムとエバが罪を犯して、世界に罪と死と、のろいとが入ったとき、神はこう言われました。
「あなた(アダム)が妻の言葉を聞いて、『食べるな』とわたしが命じておいた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう」(創世3:17-18)。
いばらは、あざみと共に、世界がのろいのもとに置かれたことの象徴として地に生えるようになりました。
キリストはこのいばらで編まれた冠をかむり、人々にふりかかった「のろい」を、身代わりに十字架上で一手に引き受けて下さったのです。
「キリストは、私たちのためにのろいとなって、私たちを律法ののろいから贖(あがな)い出してくださった」(ガラ3:13)
と聖書は言っています。
「のろい」は「神の祝福」の反対語で、神の祝福が取り去られた状態のことです。私たちは神の律法――神の教えを守って生きなかったので、神の祝福を得ることができず、反対にのろいの状態のもとに置かれてしまいました。
しかし、キリストは私たちの人生ののろいを、すべて代わりに受けて下さいました。ですから、このキリストと共にあゆむことにより、私たちは人生のすべてののろいから解放され、神の祝福のもとに生きることができるのです。
私はある女性から、次のような話を聞いたことがあります。彼女は、今はクリスチャンになっていますが、10代の時にはまだ求道中で、しかも肺浸潤の病に苦しんでいました。
その肺に開いた穴は、レントゲンでも確認されていました。ある日クリスチャンの友人が、彼女の肺浸潤の病のいやしのために、祈ってくれました。
その翌日、彼女は自分の体がずいぶん楽になったと感じたので、医者の所へ行き、もう一度レントゲンを撮ってもらいました。
すると、なんと肺に開いていたはずの穴が見つからなかったのです。医者は、「全く不思議だ」と言いました。
しかし彼女は、自分がなぜ治ったのか、わかっていました。これは聖書の次の言葉を思い起こさせるものです。
「夕暮れになると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスは御言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
これは預言者イザヤ(B.C.8世紀)によって、
『彼(キリスト)は、私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた』(イザ53:4)
と言われた言葉が、成就(実現)するためである」(マタ8:16-17)
ここに、「彼は私たちの病を負うた」と言われています。キリストは彼女の病をも負い、ご自身が担って下さったのです。
これは病ののろいに限ったことではありません。キリストは、私たちのあらゆる不幸を負い、担ってくださいました。
あなたには、なにか自分の過去の出来事にまつわる不幸が、いま身の上に続いていないでしょうか。あるいは、人があなたになした何かの行為が、今もあなたの人生に、暗い影を落としていることはないでしょうか。
もしそうなら、どうぞイエス・キリスト様のもとへ、おいでになって下さい。あなたが担っている荷を、そこでおろすのです。
その荷は、すでにキリストが負って下さったのです。いつまでも自分でかついでいてはいけません。キリストにおまかせすることです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)
とキリストは言われています。キリストがあなたの重荷を担い、すべてののろいから解放してくださるのです。あなたはただ、キリストと共に歩いていけばよいのです。
釘による血は「刑罰からの解放」を告げ知らせる
第2に、キリストの「釘による血」についてです。
イエス様は十字架にかかられたとき、手足を大きな太い釘で打ち抜かれ、十字架の木に打ちつけられました。その釘によって流された血潮は、私たちに罪の刑罰からの解放を告げ知らせています。
聖書は言っています。
「(神は)私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責めたてている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」(コロ2:13-14)。
天には、私たちの罪状を記し、私たちに有罪宣告をくだすことのできる、一種の「記録書」あるいは「証書」があるのです。聖書はそれを、「債務証書」にたとえています。
私たちは自分の罪のゆえに、神に対するある「債務」を負っています。滅びという代価を支払わなければならないのです。
しかし神は、その債務証書に大きく「×」(バツ)と書いて、それを無効にし、「十字架に釘づけにされました」。
キリストの十字架の十字は、まさにその債務証書に書かれた、神の大きな「×」印なのです。
神は、私たちを責めたてている
罪の債務証書を無効にし、
十字架に釘づけにされた。
たとえばここに、毎日のように放蕩三昧を繰り返していた人がいたとしましょう。彼は仕事もろくにせず、クレジットカードを使っては、飲んだり、買ったり、賭けたりと、遊び暮らしていました。
しかしついに、クレジットカードの使用限度額まで使ってしまい、お金が一銭もなくなってしまいました。今まで豪勢な暮らしをしていた彼は、とうとうその日の食べ物にも、こと欠くようになってしまいました。
そうこうするうちに、莫大な請求書の山がやって来ました。彼は初めて、自分がいかに愚かだったかに気づきました。
彼は深く反省し、自分の愚かさを悔いました。その姿を見た彼の父は、ある一つのことを条件に、すべての借金を代わりに支払ってあげようと考えたのです。
じつは父の教え子には、教師をしている人がいました。それで父は、その教師のもとで彼が住み込みで1年間生活を共にすることを条件に、彼の借金をすべて肩代わりしようと言ったのです。
彼はその条件をのみました。父は借金をすべて払い、そして払い終わったしるしとして、請求書にすべてバツ印を書いて、彼に渡しました。
彼は深く感謝し、すぐさま、教師のもとでの生活を始めました。彼はやがて精神的に大きく成長し、もはや以前のような放蕩生活にふけることはなくなりました。
神様が私たちのためになさったことは、これに似ています。
私たちは、自分勝手で自己中心な罪の生活を、神の前に積み上げてきました。私たちはいわば、天に対して罪の債務を積み上げてきたのです。
しかし神は、キリストの十字架の犠牲によって、この「債務証書」を無効にされました。それに大きくバツ印を書いて、十字架に釘づけにされたのです。
そして、もし私たちがある一つの条件を果たすなら、私たちの罪をすべて赦す、と神はおっしゃっています。
その条件とは、神のひとり子なるイエス・キリストを、自分の救い主として認め、彼に信頼し、彼を人生の主、また教師として従っていくことです。
イエス様のもとで、生活を共にせよ、とおっしゃっているのです。私たちがこの地上にある限り、イエス様と共に歩む決心をするなら、罪の赦しがあなたのものとなります。
私たちは信仰に入ったばかりのとき、すぐさま清い完全なものとなることは、できないでしょう。
しかしイエス様と共に歩んでいるなら、しだいに、信仰において大人になっていくことができるのです。
キリストは、あの十字架にかかって、あなたを罪と滅びから救うために、その尊い血潮を流されました。聖書に、
「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」(ヘブ9:22)
と記されています。キリストがすでに、宝血を流し、代価を払って下さったのですから、私たちはもうそれを払う必要がありません。
私たちのすべきことは、ただ神とキリストの救いに感謝し、その教えに従って生きていくことです。
キリストの救いに信頼する者は、もはや死後の裁きの座において裁かれることは、ありません。罪の刑罰は、取り除かれたのです。
むちの傷による血は「罪の力からの解放」を告げ知らせる
キリストの十字架はまた、罪の「刑罰」からの解放だけでなく、罪の「力」からの解放も告げています。
罪の結果である罰を私たちから取り去るだけでなく、罪そのものの力を殺してしまう働きを持っているのが、十字架なのです。
十字架にかかられたキリストの、背中から流れ出た「鞭の傷による血」について、見てみましょう。
キリストは十字架の前夜、39回にわたって鞭打たれました。これは「40に1つ足りない鞭」と呼ばれたもので、当時、40回打てば死んでしまうと言われました。
それで1つ足りない数までキリストは鞭打たれ、そののち十字架につけられたのです。十字架につけられたのちも、その背中の傷からは、血がジワジワと流れ出たことでしょう。
この血は、私たちの「古き人」――古い自我が、しだいに力を失い、死んでいくことを象徴するものです。聖書にこう書かれています。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、様々の情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24) 。
「肉」とは、自分の「古き人」――古い自我のことです。神に背を向けていた自分のことです。
キリストにつく者は、この「古き人」を、様々の罪の思いと共に十字架につけてしまったのです。この「古き人」は、鞭打たれて弱っており、日々十字架につけられて、死んでいかねばなりません。
それは、私たちがキリストの命により、「新しい人」に生きるためです。つまり、新しい人間性・新しい生命に生きるためです。
聖書は、十字架につけられたのはキリストだけでない、あなたの「古き人」も共にあの十字架に磔になったのだ、と言っています。
キリストの十字架は、私たちの「身代わり」であり、私たちを救い出すための「代価」であったと述べましたが、それだけではないのです。
キリストは私たちの存在を、引き込み、巻き込んで十字架上で死なれました。これは、「私も共につけられた十字架」です。この十字架により、私たちは古い自我に死に、新しい命に生きるのです。
これは私たちの知性や、理解を越えたことであるかも知れません。しかしここにこそ、十字架信仰の奥義があります。使徒パウロは、こう書きました。
「私は、キリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ2:20) 。
自分は、キリストと共に十字架につけられて死んだ。自分の「古き人」は、血を流して死んだのだ。
いま生きているのは、私ではない。復活されたキリストが私の内で生きておられるのであり、それによって私は今や新しい生命に生きているのだ、という信仰です。
このことがわかるとき、私たちは罪の力から解放され、キリストの力に生きることができます。
キリストの十字架はまた、罪からの解放を告げる。
――バックはエルサレム。
あなたが自分に死に、自分をキリストに明け渡すなら、キリストはますます私たちの内に生きてくださるのです。
この「キリストの内住」の境涯こそ、力ある信仰生活の秘訣です。それは、信仰のアドバンスド・コース
advanced course (高等科・上級者コース)
なのです。
「外なる人」(肉体)は古びても、「内なる人」(霊)は、栄光から栄光へと変えられ新しくされていきます。これは私たちの内に住んでくださる、霊なるキリストのお働きによるものなのです。
やりによる血は「死からの解放」を告げ知らせる
最後に、キリストの「やりによる血」は、私たちに「死からの解放」を告げ知らせています。
キリストは十字架上で死なれたあと、ローマ兵に、やりでわき腹を突かれました。こう記されています。
「(兵士たちは)イエスのところに来ると、イエスが死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし兵士のひとりが、イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水とが出てきた」(ヨハ19:33-34)。
ローマ兵はイエス様にとどめをさそうと、わき腹から心臓に向けて、やりを突き刺したのです。
イエス様の両隣の盗賊は、足のすねが折られた一方で、わき腹へ槍を突かれることはありませんでした。しかしイエス様は、足のすねは折られなかったかわりに、わき腹を槍で突かれたのです。
これはじつは、何百年も前に語られた旧約聖書の預言の成就でした。旧約聖書には、イエス様の骨が折られないこと、そして槍で突かれることが預言されていたのです〔出エ12:46(過越の小羊はキリストの予型であった)、ゼカ12:10(予言)〕。
イエス様が槍でつかれた時、福音書の記録によると、そのわき腹からは、
「血と水とが出てきた」(ヨハ19:34)
と記されています。
血液というものは、静かな状態に長時間置かれると、やがて透明な血清部分と、赤血球等を含んだ赤い部分とに分離します。「血」はその赤い部分、「水」は透明な血清部分のことでしょう。
つまりこのときのイエス様は、心臓が停止してから数時間たち、血液の分離も起こっていたのでしょう。そして兵士が槍で突いたとき、それが流れ出たのです。
こうしてイエス様は、体中の血液のほとんどを失われたでしょう。主は完全に死なれたのです。私たちの贖いのために、主はその血を注ぎ出されました。
槍によるイエス様の完全な死は、その3日後のイエス様の復活を、より劇的なものにしました。完全に死なれたかたが、墓より、よみがえられたのです。
イエス様の復活を他の弟子から聞いただけでは信じられなかった弟子トマスに対し、イエス様は言われました。
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
トマスは、崩れるようにひれ伏して、
「わが主よ、わが神よ」
と叫びました(ヨハ20:27-28)
。
槍の跡や、槍による血は、イエス様がじつは死んでいなかったのだ、とは言わせないのです。それは完全な死からの復活を、告げ知らせています。
槍による血は、私たちに「死からの解放」を告げ知らせているのです。
聖書はイエス様の復活を、「初穂」(Tコリ15:20)と呼んでいます。麦の初穂が実れば、大収穫は間近です。
イエスのわき腹からの血潮は、死からの解放を告げる。
――復活後のイエスと弟子トマス。 カール・ブロック画伯
イエス様は、世の終わりに復活するすべての人々の先駆けとして、復活されました。イエス様の復活は、私たちクリスチャンが世の終わりに復活して永遠の生命の体を与えられることの、保証なのです。
私は、病院伝道をしているある牧師先生から、次のような質問を受けたことがあります。そのかたは、末期ガン患者や死期の近い人々に、熱心に伝道しているかたでした。
「残された日々の少ないこうした人々に、最も大きな希望を与えている福音は、何だと思いますか」
私は一瞬、わかりませんでした。先生は、こう答えました。
「復活の福音ですよ」
と。
また、私があるクリスチャンの兄弟の家で持たれた、記念会に出たときのことでした。それは、1年前になくなられた息子さんをおぼえる記念会でした。
そのご家庭は、ご主人も奥さんもクリスチャンで、子どもたちもみなクリスチャンとなっています。
しかし1年前に世を去ったその息子さんは、死の間際になって、ようやくクリスチャンとなった子でした。ご夫妻は、その子の救いのために日々祈っていました。
ある日突然、息子さんが事故を起こした、との知らせが入ってきました。オートバイで走行中、大型トラックに激突したのです。
夫妻が行ってみると、オートバイはメチャクチャ。それに乗っていた息子さんも、意識不明の重体でした。頭蓋骨が割れていたのです。頭蓋骨が割れていると、ほとんどの場合、もう意識が戻ることはありません。
しかし、日々の祈りが通じたのでしょう。たった5分でしたが、それで充分でした――息子さんの意識が戻り、福音を語ることができたのです。
そして、やさしく、
「信じるか?」
というと、はっきりと彼は信仰を告白しました。そして、天に召されていったのです。その1年後の記念会で、ご主人は
「聖書を開きましょう」
と言いました。
私はどの聖書箇所を開くかと思い、注視しました。彼が開く聖書箇所を見れば、神が今その人にどのような慰めと励ましを与えておられるかを知ることができる、と思ったからです。
ご主人は、新約聖書テサロニケ人への手紙第二・4章13〜18節を開きました。キリストの再臨(再来)について述べられた箇所です。そこにはこう言われています。
「私たちは、イエスが死んで復活されたことを、信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々を、イエスと一緒に連れて来られるはずです」(4:14)。
これは、キリスト者の復活を述べたものです。ご主人は、明確な復活信仰を持っていました。私たちの復活信仰の根拠は、イエス様の「完全な死からの復活」という出来事にあるのです。
久保有政著(レムナント1993年1月号より)
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