神は予知して予定される
神の予知と予定について
神は予知に基づいて計画し、それを実行するために予定される。

 聖書に、次のように記されています。
 「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」(ペテロの手紙第一 1章2節)。
 ここに、「神の予知に従い・・・・選ばれた」という言葉があります。この御言葉から、三つのことをお話しましょう。


神の意志100% 人の意志100%

 この御言葉は、私たちに何を示しているでしょうか。第一に、歴史や人生は、神のご意志100%、人間の意志100%だということです。
 「予知」という言葉は、神があらかじめすべてを知っておられる、ということです。神は私たちの性質や、私たちが人生においてどんな行動をするか、また世界の歴史がどう進んで行くか、などのことをみな知っておられます。
 つまり、そこには人間の意志が100%認められていることが、わかります。神は人間個人の意志を100%認め、その上で人間の行動を探って、予知しておられるのです。
 私たち人間は、未来のことについては「予想」することしかできません。たとえばある人が、
 「あすは晴れるだろう」
 と言い、別の人が、
 「あすは雨になるだろう」
 と言ったとしましょう。それは「予想」です。それは自分の知識や経験から、未来のことを推測しているにすぎません。当たることもあれば、当たらないこともあります。
 しかし「予知」は、神が全時代を見渡して、すべてを知っておられるということです。単なる推測ではなく、「知って」おられるのです。
 私たちは時間の中に生きているので、「予想」しかできませんが、神は時間の外におられるので、全時代を一度に見渡すことがおできになります。
 神は人間に、100%自由な意志をお与えになりました。その上で、各人の意志がもたらすそれぞれの結果について、すべて、予知しておられるのです。
 反対に、「選び」という言葉は、神のご意志が100%であることを示しています。神は、ご自身の主権により、人をお選びになるのです。
 たとえば、小学校のあるクラスで先生が質問をして、子どもの誰かに答えさせるような場合、どの子を指すかは100%先生の自由です。それは先生の意志次第です。
 「この問は、この子に答えさせるといいかな」
 「次の問は、あの子がいいだろう」
 などと考えるのは先生の自由です。あるときは、
 「この子が答えたがっているから、この子に答えさせよう」
 と思うこともあるでしょう。しかしそういう場合でも、その子を指すか、指さないかは――つまり誰を選ぶかは、先生の自由です。「選び」は、選ぶ側の意志一〇〇%なのです。
 同様に神は、ご自身の全き主権で、人をお選びになります。たとえば、神はキリストの使徒としてパウロをお選びになったとき、こう言われました。
 「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」(使徒9:15)。
 神は予知によって、パウロという人物を熟知しておられました。彼がパリサイ派ユダヤ人として成長すること、やがてクリスチャンに対する迫害者となること、しかし目が開かれれば謙虚に真理の前にひざまずく人物であること、また回心すればキリストの使徒として豊かな働きをなすことを、予知しておられました。
 パウロの自由意志は、100%認められていました。人の心を探り窮める神は、彼の行動と性質を予知しておられたのです。
 神はその予知により、ご自身の主権に基づいて、彼をキリストの使徒としてお選びになりました。予知があって、選びがあったのです。
 聖書は言っています。
 「(神)の目はあまねく全地を行きめぐり、ご自身に向かって心を全うする者のために、力を現わされる」(II歴代16:9)。
 この聖句には、人間の意志が100%認められていること、また神がご自身の主権によって「選び」をなさることが、はっきりと述べられています。
 人が神に向かって「心を全うする」か否かは、100%その人の自由意志です。一方、誰を選び誰に「力を現わす」かは、100%神のご主権によるものです。
 神の選びは、気まぐれなものではありません。神は、ご自身の義・愛などのご性質に基づき、聖なるご目的のために人をお選びになるのです。
 神のご意志は100%であり、人間の意志も100%です。私たちはとかく、神の意志が100%なら人間の意志は0%、と考えがちです。しかしそうではありません。
 「神は歴史の支配者」とよく言われますが、みなさんは誤解してはいけないのです。聖書は、神が人間の意志を、100%認めておられることを語っています。そしてまた神も、100%の主権をもって、ご意志を貫かれるのです。


予知→予定の順

 第二に私たちは、「神の予知に従い・・・・選ばれた」という聖句によって、予知が選びに先行すること、また予知が予定に先行することを知ります。
 「予定」とは、神があらかじめ歴史における様々な出来事を定められること、すなわち万物に対する神の広大な摂理的支配です。
 まず予知があって、次に予定があるのであって、その逆の“予定→予知”ではありません。しかしこのことは、しばしば誤解されてきました。
 私たちは、たとえば「○○をしよう」という時、自分がこれからしようとしていることを、あらかじめ知っています。この場合"しようという決心"が、未来の"予知"に先行しているわけです。
 そこで、神においても予定が予知に先行するのだ、とある人々は考えました。定めてから、それを予知している、というわけです。
 なるほど、すでに定めているのですから、予知しているのは当然でしょう。しかし、これは人間の場合から類推するためにそうなるのであって、神の場合はそうではありません。
 人間は「予想」しかできませんが、神は「予知」されます。人間は時間の中に生きていますが、神は時間の外から、全時代を見渡すことがおできになります。
 神は決心する前に、予知することがおできになるのです。定めなくても、予知することがおできになるのです。
 神は人類の歴史を、もし放任すれば、どのような方向に行ってしまうかを予知されました。そのために、神は人類の歴史に、介入することを決意されたのです。
 また様々な準備段階を経て、御子イエス・キリストを世に遣わされることを、予定されました。神は、ご自身の予知に基づき、予定されたのです。
 かつて使徒ペテロは、ペンテコステの日に、集まってきたユダヤ人たちにこう述べました。
 「神が定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこのかた(キリスト)を、あなたがたは不法な者の手によって十字架にかけて殺しました」(使徒2:23)。
 ここに、「神が定めた計画と神の予知とによって」との言葉が見えます。これは、予定→予知ということでしょうか。
 そうではありません。もし予定が先立ったのなら、キリストを十字架にかけて殺すための殺意を人々の内に計画したのは神ご自身ということになってしまいます。それは神を罪の作者にすることです。
 これはそうではなく、次のような意味なのです。
 神はあらかじめ、もし御子キリストを人々の中に遣わせば、人々が彼を十字架に追いやるであろうことを、予知しておられました。そこで、その十字架の死によって人々のあがないをなす、という計画を神はお立てになりました。
 そしてキリストを遣わす日時や、場所、またその行動などをみな定め、歴史のうちに予定されたのです。それが「神の定めた計画と神の予知とによって」の意味です。神は予知に基づいて、救いのご計画をお立てになり、それを予定されたのです。
 同様に、「神の予知に従い・・・・選ばれた」という冒頭の聖句は、次のような意味であることがわかります。
 神はあらかじめ、人類の歴史において現われるすべての人の、行動と性質を予知しておられました。そして、キリストが降誕されて福音伝道がなされていくとき、どの人がどのような反応を示すかについても、すべて予知しておられました。
 それで神は、伝道を受けて信じるであろうすべての人々を、愛のうちに選ばれました。つまり神を選ぶ人々を、神は選ばれたのです。そして彼らを、救いの中に定められました。
 まず予知があり、つぎに選びと、聖定がありました。ここには100%自由な人間の意志と、神の100%の主権があります。
 このように私たちは、順序は予知→予定であることを知ります。神は予知に基づき、ご自身のご計画を実行に移すために、物事を予定されるのです。


伝道を否定するものではない

 第三に、私たちが注意しなければならないことは、「神の予知に従い・・・・選ばれた」との聖句は、伝道を否定するものではないということです。
 私たちは、歴史や人生は神の意志100%であり、人間の意志も100%であることを見ました。「救い」も、神の意志100%、人間の意志100%なのです。聖書は言っています。
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」(エペ2:8)。
 「恵みのゆえに」――十字架の恵みが用意されたのは、100%神の自由なご意志です。また「信仰によって」――伝道を受けて信じるか信じないかは、100%個人の自由意志です。
 あなたが、たとえば見合いをしたと想像してしてみてください。相手の人と結婚するか否かは、あなたの意志もありますが、相手の人の意志もあります。
 あなたがいいと思っても、相手がウンと言ってくれなければ、結婚はできません。反対に相手がいいと言っても、あなた自身にその気がなければ結婚はできません。
 あなたの意志100%、相手の人の意志も100%なのです。
 「救い」は、これに似ています。人が神を信じるとは、ある意味では神と結婚するようなものなのです。
 人が神を信じるか否かは、100%その人の自由です。神の側にも、その人と関係を持つか否かに関して、100%の自由があります。人が神を選ぶ自由も、神が人を選ぶ自由もあるのです。
 しかし、神の側には、すべての人を救いに入れたいとの御思いがあります。問題は人の側の意志です。人がみな神を信じるとは、限らないからです。
 神は、人と"結婚"したいと思っておらます。すべての人を選びたいのです。ところが少なからぬ人々が、それを断っています。人が神を選んでくれない限り、神も、人を選べません。
 ですから、私たちは伝道することによって、人々に神の愛を伝えなければなりません。
 「すべてが定められているのだから、伝道しなくてもよいのだ」
 という考えは、よくありません。私たちの伝道をぬきにして、神の選びのご計画は成就しないのです。
 あの使徒パウロを、思い起こしてください。
 彼は神の「選び」について、「予定」について、語りました。しかし彼は、すべての人に対する熱烈な愛と涙とをもって、すべてを投げ打って伝道しました。それは私たちの伝道を通して、神のご計画が成就するからです。
 あなたは自分の周囲の、誰が信じて、誰が信じないかを知っていますか? いや、知らないはずです。
 だからこそ、相手が誰であれ、あなた自身が伝道することが求められているのです。それによって、神の愛が全うされるのです。
 神は、伝道を受けて信じる者を、輝かしい永遠の救いの中に定めておられます。神のご計画は、私たちの伝道ぬきには決して成就・実現しません。
 神は伝道を考慮した上で、救われる人々を、予知により、救いの中に定められました。伝道あっての聖定なのです。
 これは、私たちが伝道しなければならないことを示すとともに、伝道すれば必ず救われる人が起きることを、示しています。
 「神は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Uペテ三・九)
 と聖書は記しています。伝道とはこの神の御心と、同じ心を持つことです。私たちが伝道という神の愛を、心に燃え上がらせるとき、神のご計画が地上に実現していくのです。
                                          

久保有政(レムナント1993年5月号より)

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