その他

聖書に基づいて
エホバの証人と論ずる(3)
十字架、輸血、死後の世界について


罪状書きは、頭の上?手の上?

 本シリーズでは、エホバの証人(ものみの塔)の教理を、聖書的キリスト教の教理と比べながら論じてきました。
 第一回は「救いについて」、第二回は「神、キリスト、聖霊について」でしたが、今月は第三回「十字架、輸血、死後の世界について」です。


一本の杭か十字架か

 ものみの塔は、キリストの死について次のように教えています。

 "キリストは、一本のまっすぐなの上で処刑された"(『論じる』二一八ページ)

 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えます。

 "キリストは、十字架の上で処刑された"

 ものみの塔は、キリストはまっすぐな一本の杭に磔となり、両手を頭上で一本の釘により打ち抜かれ、両足も釘で打ち抜かれたとしていますが、これについて聖書を調べてみましょう。
 「トマスは彼らに、『私は、その手にの跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』と言った」(ヨハネ二〇・二五)
 ここに記された「釘」という言葉は、単数でしょうか。それとも、複数でしょうか。
 原語のギリシャ語を調べてみると、それは複数です。キリストは、複数の釘によって磔にされたのであり、そのことは、キリストが磔になったのは杭と横棒からなる十字架であったことを、示しています。
 また、キリストの処刑の際、
 「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた」(マタイ二七・三七)
 と記されています。もし、ものみの塔の言うように一本のまっすぐな杭であったなら、罪状書きはキリストの"手の上に"掲げられた、と記されたはずです。
 しかし、キリストは横棒のある十字架に磔になったので、罪状書きは「頭の上に」掲げられたのです。


ものみの塔ベテル指導者たちの共同墓地の碑銘。
アメリカ・ピッツバーグ。十字架が明確に刻まれていることに注意。

 十字架は、神の愛と恵みがあらわされた場所です。私たちは、その十字架を誇りとすることができます。
 「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません(ガラテヤ六・一四)
 十字架は、偶像崇拝の対象ではなく、クリスチャンが誇りにしてよいものなのです。


輸血は是か否か

 ものみの塔は、輸血について、次のように教えています。

 "「血を食べてはならない」(申命一五・二三)は、体内に血を取り入れてはならないということであり、これには輸血も含まれる"(『論じる』三〇八ページ)

 これに対し、聖書的キリスト教は次のように教えています。

 "「血を食べてはならない」には、輸血は含まれない。律法の精神は人を生かすことであり、輸血も、医療的に適切な場合は行なってよい"

 旧約時代、動物の血は、贖罪の儀式のために祭壇で用いられました。ですから、それを人が食べることは、不適切とされました。
 聖書が禁じているのは、動物の血を食べることです。しかし、輸血で用いられるのは、人間の血です。
 また、食用にすることと、人を救う医療に用いることとは、全く異なった事柄です。口から入れることと、注射を通して入れることも、やはり異なっています。
 輸血はまた、何かの汚れた血を体内に取り入れることではなく、生命存続という善なることを目的とし、清浄な血をもって行なわれるものです。
 さらに輸血は、死んだものから得た血を体内に取り入れることではありません。生きている人々が愛の精神のもとに分け与えてくれた血を、取り入れることです。
 いったい律法は、人を殺すために与えられたのでしょうか。それとも人を生かすために与えられたのでしょうか。聖書にこう記されています。
 「(キリストは)彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し・・・・」(マルコ三・四)
 そして、手のなえた人をいやされました。キリストは、人の生命を優先させ、律法は人を生かすためのものであることを、示されました。
 キリストは律法の真の精神を忘れた律法学者たちを、批判されたのです。
 人の生命を無為に短くすることを求める律法は、どこにもありません。輸血に関しても、もしそれが人の生命の存続に効果的と判断されるなら、私たちは躊躇することなく、それを行なってよいのです。
 もし私たちが、「血を食べてはならない」を拡大解釈し、それを守ることを生命存続に優先させるなら、私たちは律法学者たちと同じ間違いを犯すことになります。それは福音からかけ離れた、単なる律法主義なのです。
 私たちは、食物に関する旧約聖書の律法を読む際に、次のことを注意しなければなりません。食物に関する律法は、キリストと使徒の時代に大きく変更されたのです。
 「イエスはこのように、すべての食物をきよいとされた」(マルコ七・一九)
 「『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』という声が聞こえた。しかしペテロは言った。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や、汚れた物を食べたことはありません』。
 すると再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』」(使徒一〇・一三〜一五)
 このように、食物に関するそれまでの律法は、大きく変更されました。
 それは、モーセの律法は人々をキリストに導くための「養育係」(ガラテヤ三・二四)だったからであって、キリストが到来した今は、律法は部分的に修正される必要があったのです。
 ですから今日、血の問題については、私たちは新約の光のもとで考えなければなりません。
 神の教えは、人が無為に生命を短くすることを求めるものではなく、与えられた寿命を全うすることを求めるものです。もし輸血がそれに役立つならば、私たちは躊躇することなく、輸血を行なってよいのです。


死後霊魂は消滅するか存続するか

 ものみの塔は、死後の世界について、次のように教えています。

 "人間の霊魂は、肉体の死とともに消滅する。死の瞬間から復活の時に至るまで、生き続ける何かが存在するわけではない。死後、人々は無に帰し、無意識である"(『論じる』三〇二、四三四ページ

 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "人間の霊魂は、肉体の死後も存続する。肉体を離れた霊魂は、意識を持つ"

 聖書を調べてみましょう。
 ルカ一六章の「ラザロと金持ち」の話には、死後ハデス(よみ)に行った金持ちと、ラザロという貧乏人のことが出てきます。
 その死後の世界において、死人の間に会話が持たれており、彼らに意識があることが示されています。
 ものみの塔は、この「ラザロと金持ち」は、単なる"たとえ話"にすぎない、とします。
 しかし、キリストはたとえ話を語るようなときにも、現実には決してあり得ないような話は語られませんでした。"死後には本当は意識がないのに、あるように語る"というようなことを、キリストがなさることはなかったのです。
 キリストが「ラザロと金持ち」の話の中で、死後に意識があるように語られたことは、現実に死後に意識があるからだ、と考えるのが最も理にかなっています。
 また、キリストはたとえ話を語るとき、必ず「ある人」と言って、具体名をあげることはなさいませんでした。しかし、この話に限っては「ラザロ」というように、具体的人名をあげておられます。
 これは、この話がたとえ話ではなく、むしろ"実話"だということを示しているように思われます。
 霊魂は肉体を離れた後も存続し、意識も持っていることは、次の聖句も示しています。
 「あなたがたの父アブラハムは、わたし(キリスト)の日を見ることを思って、大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(ヨハネ八・五六)
 また、使徒ヨハネは、天国にいる殉教者たちの魂を見たと語っています。
 「また私は、イエスのあかしと神の言葉のゆえに首をはねられた人たちの・・・・を見た。彼らは生き返って・・・・」(黙示二〇・四)
 使徒ヨハネはまた、天国にいる魂が神と会話した光景も記しています。
 「殺された人々の魂が、(天国の)祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの復讐をなさらないのですか』。
 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された」。
 また、殉教したステパノは、死のうとするとき、
 「主イエスよ。私の霊をお受けください」(使徒七・五九)
 と言いました。ステパノは、「私の霊を消してください」と言ったのではありません。「お受けください」と言ったのです。
 使徒パウロは、天国の希望を次のように語りました。
 「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(二コリント五・八)
 このように、死後も霊魂は存続し、意識も持っていることがわかります。


黙示録には、殉教者たちの魂が、神と会話している
光景が記されている。魂は死後消滅することなく、
霊の世界で存続するのである

 ものみの塔は、死後霊魂は無に帰するという根拠として、伝道者の書九・五〜一〇をあげます。そこには、
 「死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく・・・・」(新世界訳では「死んだ者には何の意識もなく、彼らはもはや報いを受けることもない」)
 と記されています。しかし、これは前後関係を見ると、「日の下」(九・六)、つまり地上でのことを言っていることがわかります。
 人は死ぬと、地上ではちりとなり、もはや彼らが地上で愛したり憎んだりすることはありません。また、地上で彼らが報いを受けることもないのです。
 この伝道者の書が、人の霊魂は死後無に帰すると言っているのではないことは、同じ伝道者の書一二・七の次の言葉から明らかです。
 「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」。
 霊は神に帰って、存在し続けているのです。
 では、次のことはどうでしょうか。聖書には、死ぬことがしばしば「眠る」ことと表現されています(一テサロニケ四・一三)。これは、死後霊魂が無意識になる、ということでしょうか。
 そうではありません。「眠る」というのは、体について言っているのであって、霊魂について言っているわけではありません。
 霊魂は眠ることなく、意識を持ち続けるのです。聖書には、先に見たように、天国へ行ったクリスチャンたちの会話が記されています(黙示六・一〇)


死後の天的祝福や、ハデス、ゲヘナは存在するか

 ものみの塔は、次のように教えています。

 "死後の天的祝福や、ハデス・ゲヘナにおける責め苦というものは存在しない"(『論じる』一八八)
 "人の魂は死によって消滅するが、人の生前の姿や特徴は、すべて神のご記憶の中にとどめておかれる"(『論じる』三〇二ページ)

 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えます。

 "死後、クリスチャンは天国へ行き、そうでない人はハデス(よみ)の慰めの場所、または苦しみの場所へ行く。これらはいずれも、現実に存在する場所である"
 "ハデスの人々の最終的な行き先は、世の終わりの最後の審判の法廷において決定される"

 聖書を調べてみましょう。聖書は、「最後の審判」すなわち「死後のさばき」についてこう記しています。
 「(最後の審判において)死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々は、おのおの自分の行ないに応じてさばかれた。・・・・いのちの書に記されていない人々は、みな火の池に投げ込まれた」(黙示二〇・一三〜一五)
 この聖句から、私たちは次のことを知ります。

(1) 最後の審判、すなわち、いわゆる「死後のさばき」は、死の直後ではなく、世の終わりに一斉に行なわれる。千年王国の後、万物更新の時に行なわれるのである。それは文の前後関係から明らかである。
(2) 最後の審判は、ハデス(よみ)にいた人々の最終的な行き先を決定するために、持たれる。死後クリスチャンは天国へ行き、そうでない人はハデスへ行っているが、最後の審判は、そのハデスに行った人々の最終的な行き先を決定するためである。
(3) 最後の審判の時までに「いのちの書」に名を記されず、天国へ入る資格がないと認められた者は、「火の池」に投げ込まれる。「火の池」とは、いわゆる地獄(ゲヘナ)である(黙示二〇・一〇)
(4) 地獄すなわち「火の池」は、死の直後の場所ではなく、世の終わりの最後の審判以後のために用意された場所である。

 このように、人は死後、天国かハデス(よみ)に行っています。
 クリスチャンは死後、すぐに天国へ行き、霊魂の状態で神の祝福のもとにあり、世の終わりになって永遠の命の体に復活し、千年王国および新天新地で、霊肉共に至福の生命に生きます。
 一方、クリスチャンにならずに死んだ人は、死後ハデスへ行っています。ハデスには、かつてキリストも、十字架の死後復活までの三日間下られました(使徒二・二七)。第一ペテロ三・一九によると、キリストはそこで死者に、
 「みことばを宣べられました」。
 「みことばを宣べた」というからには、そこは現実の場所でなければなりません。
 ハデスの人々は、世の終わりの最後の審判の時になって、神からの最終的評定を受け、最終的な行き先が決定されます。
 ハデスは、最後の審判までの一時的・中間的な場所です。なぜならハデスは、最後の審判が終わったあと、地獄に捨てられるのです(二〇・一四)
 最後の審判において、なおも天国に値しないとされた人々は、「火の池」=地獄に引き渡されます。聖書を忠実に解釈する限り、地獄も、最後の審判以後のための現実の場所です。


天国か地獄かが決まるのは、死の直後ではなく、
世の終わりの最後の審判の法廷においてである。
それまでは、人は天国か、よみ(ハデス)に行っている。
天国・よみ・地獄は、いずれも現実の場所である。

 ものみの塔は、マタイ一〇・二八の「地獄で滅ぼすことのできるかた」という言葉から、地獄へ行った人は「滅ぼされ」消滅するのであって、無に帰するから、責め苦というものは存在しない、と言っています。
 しかし、「滅ぼす」と訳された原語アポルミーは、ルカ一五・二四、一九・一〇などで「失う」と訳されています。
 「この息子は・・・・失われていたのに見つかった」
 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
 というようにです。つまりアポルミーは"消滅する"の意味ではなく、あるべき状態から離れていることを意味します。
 「地獄で滅びる」は、消滅するの意味ではなく、神の祝福から切り離された状態をさすのです。魂は存在しているが、神の祝福から切り離されているのです。
 多くの人々は、神が刑罰として人を地獄に送るのだ、と思っています。しかし、じつは地獄という場所は、人が自分で選んでいるのです。
 生きている時、神と共に歩んだ人は死後神に近い天国へ行き、一方神に背を向けて歩んだ人は、死後神から遠いハデス(よみ)に行きます。
 またハデスの人々は、やがて最後の審判で、神からの最終的な評定を受けます。神に従おうとしない人々はそのとき、神の祝福の全くない地獄(ゲヘナ)に引き渡されます。
 このように人々は、単に、本人が好んだ境遇に導かれているにすぎません。
 肉体の死によって霊魂は消滅することなく、以後もずっと存続します。そして、クリスチャンに備えられた天国の祝福も、クリスチャン以外の死者の世界であるハデスも、また最後の審判以後のために備えられたゲヘナも、同様に現実に存在する場所なのです。

 ものみの塔の方々が、真実をつかめるよう祈ります。  (つづく)

                                 久保有政(レムナント1994年4月号より)

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