キリスト教

キリスト教
教派早わかり
教派はなぜ存在するのか。各教派の特長は?


イスラエルにある教会堂。イエスが
「山上の垂訓」を語られた丘にある。

 キリスト教は、信徒数からみて、世界最大の宗教です。キリスト教徒の数は世界人口の三三%を占めており、イスラム教の一八%、ヒンズー教の一三%、仏教の六%、その他を大きく引き離しています(一九八九年度国連統計による)
 キリスト教界には、三つの大きな流れがあります。それらは、プロテスタントローマ・カトリック正教会です。


キリスト教界の三大区分

 プロテスタントは西欧や北米で優勢であり、ローマ・カトリックは南欧や南米で優勢であり、またギリシャ正教会は東欧や南東欧で優勢です。
 これら三つの流れは、教会史における二大分裂の結果生じました。教会は、九世紀に最初の分裂を経験し、東西二つの教会――東方教会と西方教会とに分裂しました。
 東方教会は今日「正教会」(オーソドックス、ギリシャ正教会)と呼ばれ、一方、西方教会は「ローマ・カトリック」と呼ばれています。
 二番目の分裂は、一六世紀の時でした。ローマ・カトリックの腐敗に対抗する形で、宗教改革者ルーテルやカルヴァンらのもと、「プロテスタント」が生まれたのです。
 こうして、キリスト教界の三つの大きな流れが生まれました。プロテスタントは、さらにその中で多くの「教派」に分かれています。
 とはいえ、これらのキリスト教の流れは、すべてただ一冊の教典――『聖書』に依拠しているということで、基本的な一致を保っています。
 これは仏教などと比べると、大きな違いです。仏教は宗派ごとに、依拠する経典が異なります。
 たとえば浄土宗の依拠する経典は『浄土三部経』等、日蓮宗は『法華経』、真言宗は『大日経』と『金剛頂経』・・・・というように、宗派ごとに依拠する経典が全部違います。
 そのため各宗派の教えも、同じ仏教とは思えないほどに、異なっているのです。これに対しキリスト教は、多くの教派に分かれているとはいえ、同じ聖書を土台にしているという点で、みな基本的な一致を保っています。
 もっとも、「キリスト教」と名乗るグループの中に、聖書以外の教典を持つものがないわけではありません。
 しかし聖書以外に、聖書と同等あるいはそれ以上の権威を与えられた教典を持つ教派は、キリスト教では正統とはみなされず、「異端」とみなされます。
 たとえば「ものみの塔」(エホバの証人)、統一協会(原理運動)、「モルモン教」などは、キリスト教を標榜していますが、聖書以外に、聖書と同等、あるいはそれ以上の価値を与えられた教典を持っています。
 そのために彼らは「異端」と呼ばれています。それらは正統的なキリスト教会ではないのです。
 ところで、みなさんは、
 「なぜキリスト教会は多くの教派に分かれているのですか」
 とお聞きになるかも知れません。
 私たちは、キリスト教の各教派の違いについて調べてみましょう。読者は、それを調べていく過程で、教派が分かれたのはある程度やむを得なかったことであり、むしろ現時点では、必要なことでもあったと気づかれるでしょう。
 まず、ローマ・カトリックから見てみましょう。


ローマ・カトリック

 ローマ・カトリックはいつ始まったのか、と聞けば、ローマ・カトリックの指導者は初代教会の時代、と答えることでしょう。
 しかし、実際にローマ・カトリックが始まったのは、三九二年のローマ帝国におけるキリスト教国教化の年、あるいはその頃と見るべきです。
 なぜならその頃から、ローマ・カトリックの特徴である「教皇(法王)を頂点としたピラミッド型の組織が、出来上がっていったからです。
 それ以前の教会は、絶対的権力者としての教皇を持っていませんでした。三九二年以前は、各地に「監督」と呼ばれるキリスト教リーダーたちはいても、ピラミッド型の組織や、世俗的権威を持つ絶対的権力者は存在しませんでした。
 ローマ・カトリックは、使徒ペテロを"最初の教皇"としています。しかしこれは、作り事にすぎません。ペテロは模範的な指導者でしたが、彼自身は、教皇に代表されるような支配権を主張したことはないのです。
 キリスト教国教化以前の教会は、全くローマ・カトリック的ではありませんでした。しかしキリスト教国教化とともに、教会は世俗権力と手を組みました。そして教皇が生まれ、ローマ・カトリックが生まれたのです。
 教会は本来、人々の前にキリストを示し続けるための機関です。ところが世俗権力と手を組んだローマ教会は、キリストの名や教えをこの世に強いるための機関、と化しました。
 以後、ローマ・カトリックの歴史が目をおおうような腐敗にまみれていったのは、当然のなりゆきです。
 それは「教皇」という、聖書の教えにない者を神の代弁者とし、絶対的権威者に仕立て上げたことに伴う結果でした。
 その後一六世紀になって、ローマ・カトリックの腐敗に耐えきれなくなった人々の中から、宗教改革が起こされ、プロテスタントが生まれました。
 ローマ・カトリック内でも、それに刺激されて、ローマ・カトリックの自己改革をすすめる人々が現われました。
 その結果、今日ではローマ・カトリックの教皇(法王)は、中世のような世俗権力を持たない者となりました。悪名高い「免罪符」が発行される、ということもなくなりました。
 また、ローマ・カトリック内の改革の結果、「イエズス会」のように世界宣教に命をかける人々も現われました。日本に宣教に来たあのフランシスコ・ザビエルも、イエズス会のメンバーでした。
 今日では、マザーテレサのように、尊い働きをなしているカトリック信者もいます。そのような意味で、今日のローマ・カトリックは、中世のあの腐敗時代のイメージからは、かなり遠ざかりつつあります。
 しかし今日のローマ・カトリックが、初代教会のような純粋なキリスト教であるかというと、そうは言えないでしょう。
 ローマ・カトリックは、一八七〇年のヴァチカン会議において、教皇は「無謬」である(間違いがない)、との宣言を行ないました。
 「教皇の資格において」「信仰および道徳についての教理を決定する時は無謬」であり、さらに「それらの定義は変更が許されない」というのです。
 この教皇無謬説は、今日も捨てられていません。それはプロテスタント、およびギリシャ正教会によって、神への冒涜と考えられています。


教皇ピウス4世(19世紀)。ローマの最初の鉄道の駅で、
特別に飾られた客車の中に立っている。1854年に彼は、
処女マリヤの無原罪懐胎説を布告した。
またヴァチカン総会議において、教皇無謬
(むびゅう)説を唱えた。

 また、ローマ・カトリックの教理や風習の中には、かなり異教的なものが含まれています。とくにマリヤ崇拝や、マリヤの無原罪懐胎説、聖人崇拝、聖像崇拝、煉獄説などは、その代表でしょう。有名な神学者ハルナックは、
 「ローマ・カトリック教会は、原始キリスト教に、ギリシャおよびローマの異教的要素を加えたものである
 と言っています。
 なお、「聖公会」は、カトリックとプロテスタントの中間的なものです。聖公会は、ローマ教皇の教権と統治に逆らった点ではプロテスタントですが、カトリック伝来の信仰と伝承を護持する点でカトリックなのです。


正教会

 正教会(ギリシャ正教、オーソドックス)については、どうでしょうか。
 東方教会である正教会は、その方式の大半は、ローマ・カトリック教会に極めて似ています。神学者ハルナックは
 「正教会は、原始キリスト教に、ギリシャおよび東洋の異教的要素を加えたものである
 と言っています。
 しかし正教会は、ローマ・カトリックのような教職の独身を要求しません。また教皇もいません。
 そのため、正教会は最も古い伝統を誇りながら、ローマ・カトリックほどの腐敗は経験しませんでした。
 正教会は今日、東南ヨーロッパと旧ソ連邦内にあり、全キリスト教徒のほぼ一〇分の一を占めています。
 正教会は、ギリシャ正教会とも呼ばれますが、ロシア正教会・ルーマニア正教会・ブルガリア正教会・グルジア正教会など、国名・地域名を冠した正教会に分かれています。


プロテスタント

 つぎに、プロテスタントを見てみましょう。
 「プロテスタント」とは、"抗議する者"の意味で、ローマ・カトリックの腐敗に抗議することから始まった、一六世紀以来の新しいキリスト教の流れです。聖書学者ヘンリー・H・ハーレイは、プロテスタントについてこう言っています。
 「プロテスタントは、すべての異教主義から解放された原始キリスト教を回復しようとするものである」。
 それは、純粋なキリスト教を回復しようという努力であり、その一連の運動のことなのです。
 ですからプロテスタントは、一つの組織や、特定の機構によって成り立っているわけではありません。それは純粋なキリスト教の回復を目指す諸グループ、諸運動の、総称なのです。


プロテスタント教会の礼拝(神奈川県・大和キリスト教会――旧・座間キリスト教会)

 プロテスタントの特長は、「聖書に帰れ」ということです。プロテスタントは、聖書だけを神からの啓示の書物とみとめ、他の書物には神的権威を与えません。そしてその純粋な教えに帰ろうとします。
 また、神と人との間の仲保者としてイエス・キリストのみを認め、教皇の存在を認めません。
 プロテスタントの代表的教派について、その幾つかを見てみましょう。


ルーテル派

 ルーテル派は、一六世紀ドイツの宗教改革者マルチン・ルーテルの流れを汲むものです。
 ルーテル(ルター)ははじめ、ローマ・カトリックの修道士でした。しかしやがて、カトリックの教義に対して深い疑いを持つようになりました。
 一五〇八年のある日、彼は新約聖書ローマ人への手紙を読んでいる時、「義人は信仰によって生きる(一・一七)という聖句に接しました。そして突如その意味を悟り、平安を得たのです。
 救いは、キリストを通して神を信じることによって得られるのであって、教会の儀式の執行や秘跡(礼典)や戒律の遵守によって得られるものではないことを、ルーテルは発見しました。
 それは「信仰義認」という言葉で表されます。信仰義認の発見は、彼の全生涯を変え、またその後のキリスト教史をも変えました。
 ルーテルは、一五一七年に、ローマ・カトリック教会に対する「九五か条の質問状」を、ヴィッテンベルク教会の扉にはりつけました。
 その大部分は、免罪符によっては罪は消えないことを主張するものでしたが、本質的に教皇の権威にも迫る内容でした。
 その印刷された写しは、全ドイツの多くの人々から求められ、熱狂的支持を受けました。
 ルーテルは、教皇からの圧迫を受けましたが屈せず、一五一九年ライプチヒ討論で教皇の権威を否定しました。また二〇年には、カトリックからの破門状を公衆の面前で焼却して、決意を示しました。


マルチン・ルーテル

 こうしてルーテルの起こした宗教改革の炎は、やがてヨーロッパ全体を燃え上がらせる宗教改革の火となっていったのです。
 ルーテルの流れを汲むルーテル教会は、プロテスタントにおける最古の教会と言えるでしょう。それはスカンジナビア諸国では、国民教会となっています。
 ルーテルの業績は、プロテスタントのあらゆる教派から、偉大なものとして賞賛されています。しかし、彼にも欠点がなかったわけではありません。
 ルーテルは残念なことに、熱烈な反ユダヤ主義者でした。彼はユダヤ人を誤解していたのです。しかし今日、ルーテル教会は、彼の反ユダヤ主義を継承していません。
 世界ルーテル連盟は一九八四年に、ルーテル生誕五〇〇周年を記念する大会において、ルーテルの反ユダヤ主義について言及しました。
 そして彼の反ユダヤ主義を拒否し、教会において決して使用しないことを宣言したのです。
 このように、ルーテル派だからといって、ルーテルの思想のすべてを継承するわけではありません。ルーテルの残した遺産の最も大きなものは、プロテスト(抗議)の精神です。
 自己にプロテストし、自己批判することを忘れない者こそ、真のプロテスタント信者です。自己の間違いを改めるのに躊躇しない者こそ、ルーテルの精神の継承者なのです。
 なお、一八世紀の有名な宣教団体「モラヴィア兄弟団」の創始者ツィンツェンドルフ伯は、ルーテル教会の一員でした。また、反ヒトラーのレジスタンス運動で知られるデートリッヒ・ボンヘッファーも、ルーテル教会の牧師でした。


改革派・長老派

 改革派教会、および長老派教会は、一六世紀のフランス人宗教改革者ジャン・カルヴァンの流れを汲むものです。
 改革派および長老派は、同じルーツに発したもので、大きな違いはありません。「改革派」は、カルヴァンが発展させた神学体系からつけた名称であり、「長老派」は、カルヴァンが発展させた教会行政組織からつけた名称なのです。
 カルヴァンは、はじめローマ・カトリックの聖職者でした。しかし、ルーテルの著書を読んで影響を受け、一五三四年にカトリックの聖職を捨てました。
 カルヴァンはカトリックに追われたため、スイスにのがれ、そこで宗教改革を押し進めました。彼は一五三六年に、プロテスタント初の体系的神学書『キリスト教網要』を著しました。
 またジュネーブで、プロテスタントの信仰に立って、厳格な清い生活態度を市民に説きました。
 その頃のジュネーブは、初代教会以来もっとも純粋な信仰が人々の間に見られる社会であった、と言われました。
 カルヴァンはまた、ジュネーブ大学を創設。商工業にも深い関心を持ち、市民の間に絹織物工業や時計製造を広めました。
 人がまじめに働くならば金をもうけても良く、また金を貸して利子を取るのも良い、と説きました。


ジャン・カルヴァン

 これは、金もうけを「卑しい」と考えたローマ・カトリックとは異なる考えでした。カルヴァンの職業観や金銭観は、その後の資本主義の成立期の、市民の倫理となりました。
 カルヴァンは驚くほど多くの著述をなし、聖書の講解書も、聖書全巻にわたって著しました。いや、「全巻」というのは誤りです。彼は「ヨハネの黙示録」に関する講解だけは書きませんでした。
 これは、彼の時代にはまだ、終末論が熟していなかったことを示しています。終末論や、聖霊に関するより深い理解、いやしのみわざなどの福音は、その後の時代に展開していくのです。
 宗教改革者カルヴァンやルーテルは、「信仰義認」の教えを回復し、キリスト教の福音の回復に偉大な功績を残しました。しかし、彼らによって福音の全体が回復したわけではありません。
 宗教改革者たちが回復したものは、福音の基本的部分でした。ですから、一六世紀の宗教改革以後も、多くの改革者が現われ、福音の全体像の回復に向けて、教会は発展する必要がありました。


バプテスト派

 「バプテスト」という言葉は、バプテスマ(洗礼)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。
 バプテスマには一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼」方式の、二種類があります。バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼だけを認めるのです。
 バプテストは最初、一六世紀のスイスに、アナバプテスト(再洗礼派)として誕生しました。彼らは、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を実施したのです。
 バプテストには、ルーテルやカルヴァンのような、特定の有名な創始者がいません。それは不特定多数の改革者たちによって始められた運動なのです。
 バプテストの人々の主たる関心は、バプテスマ自体よりも、むしろ「真にキリストの弟子であること」にありました。
 キリスト者としての「生活」が重視されたのです。初期のあるバプテスト指導者は、こう語りました。
 「誰でも、生活においてキリストに従わなければ、キリストを知ることはできない」。
 またバプテストは、愛の倫理と、非戦主義を説きました。彼らは戦争へ行かず、迫害者から身を守ることもせず、国家による弾圧に参加することもしませんでした。
 バプテストは、初代教会の活力と信仰を再興しようと腐心しました。彼らは、教会は、富や権力による制度ではなく、信仰に基づく兄弟姉妹、また神の家族の集まりであると言いました。
 また教会は、人の作った組織に認められるものではなく、神が人々の中に働いておられるところに認められる、とも主張しました。
 バプテストはまた、教会と国家の分離を主張しました。彼らは、たとえ社会がキリスト者によって構成されている場合でも、教会は社会と分離しているべきである、と説きました。これは、カトリック教会への批判でもあります。
 バプテストはその後、何度かの分裂や統合を繰り返して今日に至っています。
 いわゆるメノナイト派(メノー派)も、バプテストの流れを汲んでいます(フレンド派の影響も受けている)。メノナイト派は、アメリカではとくに「良心的反戦論者」として知られています。
 一九世紀の有名な伝道者C・H・スポルジョンは、バプテスト派(ただしカルヴァン主義バプテスト)でした。また、インドに伝道した偉大なイギリス人宣教師ウィリアム・ケアリや、非暴力によって黒人の公民権運動を展開したアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師も、バプテスト派でした。


C・H・スポルジョン


フレンド派

 フレンド派は、一七世紀イギリスの改革者ジョージ・フォックスの流れを汲むもので、「クェーカー」とも呼ばれています。
 フレンド派(基督友会)の名称は、
 「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしのです」(ヨハ一五・一四)
 のキリストの御言葉によっています。また、彼らが「クェーカー」とも呼ばれるのは、彼らが体をふるわせながら祈ったからです。
 彼らの祈りは全身全霊をこめたものであり、ある時は顔を輝かせ、ある時は神の威光にふるえながら祈りました。それで人々は、彼らを「ふるえる者たち」(クェーカー)と呼んだのです。


初期のクェーカーの集会

 それはもともと嘲笑的な言葉でしたが、信者たちはそれを喜んで受け、やがて自分たちでもそう呼ぶようになったのです。
 当時一七世紀のイギリスの教会は、ローマ・カトリックもプロテスタントもありましたが、いつも国家の支配下に置かれていました。
 礼拝は形式的で、教会は国家による保護と引き換えに、霊性を放棄してしまったかのように思われました。
 教会は、国家公務員に管理された公的礼拝場のようになっていました。ジョージ・フォックスはそうした中で、真実の宗教を探り求めたのです。
 フォックスは、直接的なキリスト体験を重視し、それを人々に説きました。彼は言いました。
 「キリストは長い間、ミサと書物の中に閉じこめられていた。キリストをあなたがたの預言者、祭司、また王とあがめ、彼に従いなさい」。
 フォックスは、キリスト者は聖書を持つだけでは足らず、生活の中でキリストの義に従って生きなければならないと説きました。
 フォックスに最初に従ったのは、農夫たちでした。「勇敢な六〇人」として知られる彼らは、イギリス中どこにでも行って伝道しました。
 フレンド派は、迫害を受けましたが、それでも急成長し、その運動は文化的障壁を越えました。女中の少女たちが、ロバート・バークレーのような貴族階級と一緒に礼拝を行ないました。
 フレンド派は、アメリカ・インディアンにも伝道し、信者を獲得しました。今日では、アラスカのエスキモーからボリビアのアイマラ族にいたるまで、土着民の中にも多くのクェーカーがいます。
 一八世紀にフレンド派のジョン・ウールマンは、アメリカの奴隷制について、聖書の証言から奴隷制が悪であると確信し、他のクェーカーたちと最初の奴隷解放運動をなしました。これは、やがてリンカーンの奴隷解放宣言によって、実を結ぶことになります。
 日本では、明治・大正期の教育家・新渡戸稲造が、フレンド派でした。


メソジスト派

 メソジスト派は、一八世紀にイギリスに生まれた派であり、ジョン・ウェスレーの流れを汲むものです。
 当時のイギリスには、英国国教会がありましたが、貴族主義的で、生気のないものとなっていました。そこで聖書的キリスト教を取り戻すために、ジョン・ウェスレーが立ち上がったのです。


18世紀の英国教会の状態を描いた、ウィリアム・ホーガスの風刺画。
生気のなさをよく描いている。

 ウェスレーは、一七七四年八月二四日、聖バルトロマイ日の説教において、当時の国教会の在り方を批判し、「聖書的キリスト教へ帰れ」と叫びました。彼はこう言いました。
 「真に聖書的なキリスト教が今、どこに存在しているのか。このようなキリスト者が、どこに生きているのか。住民全体がこのように聖霊に満たされている国が、どこにあるのか。
 ここに述べられたことと合致しない国を、キリスト教国と呼ぶことが本当に妥当であろうか。だからわれわれは、まだこの地上ではキリスト教国というものを、一つも見たことがないと告白しようではないか」。
 ウェスレーは、聖書的キリスト教を回復するために、様々な方法を考え、実践し、それを人々に説きました。
 彼に従う人々の几帳面で厳格な生活を見た人々は、「方法論者」(メソジスト)というあだ名を彼らにつけました。
 メソジストというあだ名は、以後そのまま彼らの派の呼び名となりました。ウェスレーは、
 「森羅万象の中に神を見いだし、すべてを神のために行ないなさい」
 「手段を尽くし、方法を尽くし、あらゆる場所で、あらゆる人々に、いのちのある限り、あらゆる善を尽くしなさい」
 と説きました。
 ウェスレーは、説教を許してくれるところなら、どこへでも出かけて説教しました。説教のために彼は馬で移動しましたが、その距離は、総計四〇万キロにも及びました。これは月にまでも生ける距離です。
 ウェスレーは説教の中で、聖書の聖句を生き生きと、縦横無尽に用いました。聖書に精通していた彼は、「一書の人」と呼ばれましたが、科学や哲学、またあらゆる思想と教養にも通じていました。
 ウェスレーの説教は、決してセンチメンタルなものではなく、非常に論理的で、真理を単刀直入に、明確に人々の前に描き出すものでした。
 彼は人々に、聖書的で高度な倫理を説き、人々の良心をめざめさせ、自分の罪に気づかせるようにしました。そして、
 「来たらんとする御怒りからのがれよ
 と説きました。彼の説教を聞いた人々の中には、卒倒して倒れる者もいました。倒れた者は、起きあがったときには、神の愛により頼む熱心な信者となっていました。
 ウェスレーは、信仰義認だけでなく、「キリスト者の完全」について説き、聖潔(聖化)の福音に関しても説きました。
 彼はこの地上において、ある者たちは"キリスト者としての完全"に到達できると信じました。


ジョン・ウェスレー

 こうして生まれたメソジスト派は、その後全世界に広がりました。社会事業や慈善事業の分野で大きな功績を持つ「救世軍」の創始者ウィリアム・ブースは、その働きを始める前は、メソジスト派の牧師でした。
 日本では、日本ホーリネス教団、日本フリーメソジスト教団、イムマヌエル総合伝道団、基督兄弟団、基督聖協団、その他がメソジストの流れを汲んでいます。


ブレザレン派

 ブレザレン派は、一九世紀はじめにJ・N・ダービ、その他の人々によって起こされた信仰復興運動の流れです。
 この運動は、万人祭司の立場を明確にし、教会内における教職と信徒というような階級的区別を一切否定しました。礼拝と聖餐式は、特定の牧師が行なうのではなく、教会員が交代でなしました。
 特定の牧師は置かず、すべての信徒は伝道者であるとみなされました。彼らは互いに、キリストにある「兄弟(ブレザレン)と呼んだので、その名で呼ばれるようになりました。
 ブレザレン派は、地域の各教会を越える教会政治を持たず、中央集権的組織も持ちませんでした。
 ブレザレンはまた、キリストの再臨が近いとの期待を表明しました。彼らはキリストの再臨を待ち望んで、世から聖別された人々として行動することを欲しました。
 ブレザレンの運動は、イギリスや、スイス、ドイツ、その他のヨーロッパ諸国で起こりましたが、その後、世界のほとんどの地域に存在しています。
 家のない子を救う施設を建設したトマス・バーナード(一九世紀)や、ジョージ・ミュラー(一九世紀)などの人々は、ブレザレンに属していました。


家のない空腹の子どもたちに
給食をしているトマス・バーナード。
彼はブレザレンに属していた。


ペンテコステ派

 ペンテコステ派は、二〇世紀になって起こった信仰復興運動で、聖霊の賜物、とくに「異言」を強調するものです。
 「異言」とは、人がそれまで知らなかった言葉を聖霊によって話すこと、と一般的には理解されています。
 今世紀のはじめ米国のカンザス州で、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた最初のしるしであるという教理が、はじめて形成され、やがて諸州で支持を得るようになりました。
 一九〇六年には、ロサンゼルスのアズーサ通りで、人々に異言を伴うリバイバル(信仰復興)が起き、その集会は約三年にわたって続きました。
 人々は、北アメリカの各地から、ついでヨーロッパや第三世界からそこを訪れ、そのメッセージを持ち帰りました。
 火はまたたく間に広がり、世界中に多くの新しい教会が形成されました。また、病気のいやしや、悪霊追放を行なう伝道者は、ペンテコステ派の成長において重要な役割を果たしました。
 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、日本ペンテコステ教団、日本フォースクェア教団、日本チャーチ・オブ・ゴッド教団、日本オープンバイブル教団、日本ユナイト・ペンテコステ教団等は、ペンテコステ派の流れを汲んだものです。
 しかし、これをペンテコステ「派」と呼ぶのは正しくなく、むしろペンテコステ「運動」と呼んだほうがよい、という意見もあります。
 それはその影響が、ただ一派にとどまらず、プロテスタント諸教派をはじめ、ローマ・カトリック内にさえ及んでいるからです。
 この超教派的ペンテコステ運動は、のちに「カリスマ運動(カリスマ刷新運動)とも呼ばれるようになりました。
 しかし今日、ペンテコステ運動とカリスマ運動とは、区別して用いられています。ペンテコステ運動は、異言を聖霊のバプテスマに伴う必須の要素とみなすのに対し、カリスマ運動は、それを必須の要素とみなさない人々をも認めるようになっているのです。
 ペンテコステ派、およびカリスマ運動の特長は、聖霊体験による非常な活力、全員が思いのままに参加できる自由形式の礼拝、教職や司祭の階級制がないこと、全員が自分の信仰を他の人々と分かち合うべきことの強調などです。


若い世代に大きな影響を与えた
ジーザス・ピープル
(1960年代)
その独特の合図として、天を
指さしているところ
(ペンテコステ系)

 ペンテコステ派やカリスマ運動の驚くべき発展は、一八世紀のメソジスト派、一九世紀の救世軍が与えたような衝撃を、キリスト教会に与えました。
 一九五〇年代には、世界教会協議会(WCC)の指導者たちは、ペンテコステ派およびカリスマ運動を、純粋なキリスト教として、じつにキリスト教内の「第三勢力」として認めるようになりました。


キリスト教界のこれから

 以上、キリスト教界のおもな教派を幾つか見てきました。
 キリスト教界の最も注目すべき特色の一つは、周期的に信仰を改革し、回復させる驚くべき力です。
 旧来の宗教を改革するかたちで、ドイツにはルーテル派、スイスには改革派やバプテスト派、イギリスにはフレンド派やメソジスト派・・・・というように、世界のあちこちに信仰回復運動が起きました。
 その時代、その場所に必要な信仰復興運動が起きたのです。それらはやがて教派を形成しました。
 しかし、二〇世紀になって信仰復興運動は、特定の指導者や地域に限定されるものではなく、むしろ不特定多数の指導者と、全世界的な広がりをもって起こるようになってきています。
 こうして見てみると、キリスト教というものは、非常にダイナミックな活力にあふれていることがわかります。
 プロテスタントの教派は、もともと旧来のものを改革し、教会に新たな生気を吹き込むために生まれました。
 もっとも、プロテスタントのすべての教派が、現在も創設時の活力を保っている、というわけではありません。なかには、創設時の活力と理念を失ってしまったものもあります。そうした教派は、再び改革を必要としています。
 プロテスタントは、現在多くの教派教団に分かれているという点で、弱点を持ち、混乱もかかえています。そうした意味では、完成にはほど遠い状態にあります。
 にもかかわらずプロテスタントは、時代とともに大きな発展をしており、初代教会により近い状態に回復しつつあります。聖書学者ヘンリー・H・ハーレィ博士はこう言っています。
 「プロテスタント教会は、完成にほど遠く、またその混乱と弱さとにもかかわらず、疑いもなく、現代世界においてキリスト教の最も純粋な形態を代表している。おそらく三世紀以来知られている中で、最も純粋な教会であろう。現代世界において、プロテスタントの牧師たちより高貴な人々を考えることはできない」。
 プロテスタントは、これからどのような方向に向かっていくのでしょうか。
 今日、プロテスタントの教派は、不必要な分裂をしている場合も少なくありません。合流しようと思えばできるのに、まだ体制が整わないばかりにできないでいるのです。
 しかし、各教派の交わりが盛んになるなかで、そうしたものも次第に解消されていくでしょう。
 プロテスタントの教派というものは、ある意味では、長野県軽井沢にある「白糸の滝」に似ています。
 普通の滝は、そこに流れ込む川があって、水が崖に達して落ちて滝となります。しかし軽井沢の白糸の滝は、そこに流れ込む川がありません。
 垂直に立つ地層の無数の箇所から、水がわき出ていて、それが"白い糸"のような幾千もの水のすじをつくり、美しい滝を形成しているのです。


長野県軽井沢にある白糸の滝。そこに流れ入る
川がなく、地層のあちこちから湧き出る無数の
水の白糸が大きな滝を形成し、川を形成している。

 水の"白糸"は、落ちる間に他の白糸と合流し、さらに他の白糸と合流し、ついには一つの大きな流れとなって、流れ出る川となっています。
 プロテスタントの各教派も、それに似ています。
 プロテスタントの教派は、ちょうど地層のあちこちにわき出る水のように、世界のあちこちで生まれ出ました。しかし、それらの流れは、いつまでも分離したままではありません。
 各教派は、やがて他の教派と合流し、一つの大きな流れになっていく必然性のもとにあります。
 幾千もの水の白糸が、やがて一つの大きな流れを形成するように、それらはやがて一つの大きな流れを形成しなければなりません。
 プロテスタント諸教派の合流は、これからさらに、活発になっていくことでしょう。なかには分裂するものもあるでしょうが、全体的に見れば、合流・合体の傾向が強まっていくに違いありません。


ビリー・グラハム。彼は、諸教派の力を
結集することに成功し、大きな働きをなしている。

 そうして福音自体も、その全体像が回復していくでしょう。教会は今、回復の途上にあるのです。
 教会は、こののちさらに回復し、やがて究極の回復の時に至るでしょう。究極の回復の時とは、イエス・キリストの再臨の時です。
 その日には、教派も、またプロテスタントもカトリックもなく、全地はただ一つの教えになるでしょう。こう預言されています。
 「(その日)主を知る知識が、海をおおう水のように地を満たす(イザ一一・九)
 キリストを通して神の支配が全地におよぶその時、教派は消え失せ、また他の宗教も消えてなくなり、全地はただ"真のキリスト教"だけになるのです。

                                 久保有政(レムナント1994年5月号より)

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