聖書

男と女の神学
聖書が明かす「男と女」の存在意義


 人類の半分は男で、半分は女である。男と女は恋愛し、やがて結婚する。なぜ人間は、男と女から成っているのか――あらゆる宗教書や哲学書、科学書の中で、ただ聖書だけがその意義を明らかにしている。聖書は、人間が「男と女」に造られたことには、奥義があると述べているのである。


 人間は、聖書によれば、深い意味があって「男と女」に造られました。男と女は、ある大きな目的のもとに創造されたのです。
 聖書は、人間が「男と女」に造られたことに、神の世界の事実に関する深遠な真理が反映している、と述べています。
 その真理とは何でしょうか。また男と女の創造目的は何でしょうか。男と女は、どのように生きるべきでしょうか。それを聖書に学んでみることにしましょう。


人は「神のかたち」に造られた故に男と女である

 聖書は、人間の創造に関して次のように述べています。
 「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世二・二七)
 この聖句は、まず人間が「神のかたち」に造られたと述べ、次に、
 「神のかたちに(人)を創造し、男と女とに彼らを創造された」
 と、それを言い直しています。前半では「彼を」といい、後半では「彼らを」と言っています。
 人を「神のかたちに創造する」ことは、すなわち人を「男と女とに創造する」ことでもあったのです。これは何を意味するのでしょうか。
 それは、人間が男と女に創造されたことに「神のかたち」が関係している、ということです。
 「人間は神のかたちに造られた」という聖書の教えは、たいていの場合、人間の持つ知・情・意の精神構造が、神のそれに似せて造られたという意味である、と説明されてきました。
 親と子が対話をしたり、心情的に交わることができるのは、親子がともに同じような人格的・精神的存在だからです。
 同様に、人間は「神のかたち」に似せて人格的・精神的存在に造られたので、神と交わることができるのだ、と言われてきたわけです。これは基本的に正しい考えです。
 しかし、この考えが「神のかたち」の意味のすべてを説明している、というわけではありません。「神のかたち」は、単に人間の"精神構造"に関するだけではないのです。
 それはもっと一般的に、神に関する事柄が人間の世界にも反映してくる、ということなのです。
 つまり神の世界の事柄や、神の人間に対する関係(かたち)が、人間の世界に象徴的にあらわれてくるのです。
 人間が「男と女」に造られたことは、神に関するある事実を反映しています。どういうことでしょうか。
 そのことをみる前に、男と女がどのように創造されたかを見ておきましょう。


男と女の創造

 聖書によれば、はじめに造られたのは「男」でした。聖書は男の創造に関して、
 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世二・七)
 と述べています。「人」とあるのは、ここでは男(アダム)のことです。この時点で、「人」はまだ「男」でしかなかったわけです。
 アダムの創造は、まず肉体を形造ることから始まりました。ここで、「土」から人体を造ったという聖書の記述は、人体を構成する元素がすべて地殻(地球の一番外側の層、大地)中の土に見出されるという事実を考えれば、少しも奇妙ではありません。
 しかし肉体が形成されただけでは、アダムはまだ"でくの坊"でしたから、神はそこに命の息(霊)を吹き入れられました。こうしてアダムは生命と自由意志を与えられ、活動を始めたのです。
 そののち神は、「人がひとりでいるのは良くない」とお考えになり、彼のために「ふさわしい助け手」として、(エバ)を創造されました。
 そのときのことで大切なのは、神は他の動物や鳥などをやはり「土」からお造りになったのに、女の創造はそうでなかったということです。神は男の体の一部(あばら骨)を取り、それを一人の女に造り上げられました。
 「神である主が、深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ・・・・」(創世二・二一〜二二)


まず男が、「土のちり」から造られた。
つぎに男の一部(わき)から、女が造られた。

 今日の遺伝子工学では、生物の体から細胞を一つ取って、それを細胞分裂によって増殖させ、ふたたび母体と同じような生命体に成長させるという研究が進められていますが、神のなさったことは、もっと素晴らしいことでした。
 神は男の一部から、男に似た、しかも男とは別の存在を創造されたのです。
 アダムはそのとき深い眠りに置かれていたので、エバが造り上げられていく光景を見ることはできませんでした。しかし彼の前に彼女が連れて来られたとき、彼は彼女を見て、
 「これこそ、ついにわたしの骨からの骨、わたしの肉からの肉(創世二・二三)
 と叫びました。彼は直観的に、彼女が自分の骨肉であり、強い血縁関係にあることを感じ取ったのでしょう。
 このように、まず男が造られ、次にその男をもとに、女が創造されました。英語のmanが「人」と「男」の両方を意味するように、聖書によれば人間の主体は男であって、女は男の「助け手」(創世二・一八)、また協力者として創造されました。
 これは、封建制度下のいわゆる「男尊女卑」的な考えとは無関係です。聖書は決して、女性を卑しんではいません。男と女は、人間として平等です(一コリ一一・一一〜一二)
 聖書は、男と女の創造目的の違いを述べているのです。両者は、違う役割のために造られました。男と女の肉体的・精神的相違は、それぞれの役割のためにあるのです。
 四世紀の有名なクリスチャンであるアウグスチヌスは、神が女を、男の"足"からでも"頭"からでもなく、"わき腹"から造られたことに意味を見ています。
 彼が言うように、女が男の足の裏から造られなかったのは、男に卑しめられないためであったに違いありません。
 また、女が男の頭から造られなかったのは、男の頭となって不当に支配しないためであったのでしょう。
 さらに、女が男の心臓に近いわき腹から造られたのは、男と女が互いに求め合うために違いありません。
 では、こうして人間が男と女に創造されたことが、神の世界に関するどのような事柄を反映しているというのでしょうか。


神は父、天国は母

 聖書では、神は「天の父」と呼ばれ、一般に父性的なかたとして記されています。では、「天の父」はおられて、「母」はいないのでしょうか。
 聖書は、天国のことを、クリスチャンたちの「母」と呼んでいます
 「上にあるエルサレムは――私たちのです」(ガラ四・二六)
 この「上にあるエルサレム」は、「天にあるエルサレム」(ヘブ一二・二二)のことです。将来世が改まったときには、それは「新しいエルサレム」として天から下ってきて、地上に神の国を出現させるのです(黙示二一・二)
 「天にあるエルサレム」は、いわゆる「天国」を"都市国家"的なイメージで表したもので、「天国」の別名です(古代では、都市が国家だった)。天国は「私たちの母」であり、私たちは「御国(天国)の子どもたち」(マタ一三・三八)なのです。
 ですから、聖書のヨハネの黙示録一二章に記されている象徴的な預言的幻の中でも、天国は「女」として登場します。
 そして、キリストおよびキリスト者たちは、この「女」の子どもたちと言い表されているのです。こう記されています。
 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである(キリスト)。・・・・竜(サタン)は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち(キリスト者たち)と戦おうとして出て行った」(黙示一二・五、一七)
 このように、「天国」はクリスチャンたちの母であり、クリスチャンは「御国の子どもたち」です。彼らにとって天国は、生命の母体なのです。
 実際、クリスチャンの天国に対する関係は、胎児の母に対する関係に似ています。
人はだれでも、はじめ母の胎内に生を受け、しばらくは胎内での生活を送ります。
 そして出産後は、母の温かい腕に抱かれつつ、新しい世界を見、新しい世界に生きることを始めるのです。
 同様に、人は信仰心を起こしたときに、「永遠のいのち」の新しい生を受けます。人は神とキリストを信じる信仰を持ったその時に、神からの新しい朽ちない生命を与えられるのです。
 聖書は、クリスチャンに与えられたこの「永遠のいのち」は、今は自分自身の内にあるというよりも、キリストとともに天国に隠されている、と述べています。
 「あなたがたは・・・・天にあるものを思いなさい。・・・・あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(コロ三・二〜三)
 クリスチャンの(永遠の)いのちは、ちょうど母の胎内に宿った生命と同様に、今は母なる天国にあるのです。
 人は、信仰心を起こしたその時に、母なる天国の言わば"胎内"に新しい生を受けるわけです。
 神の民は、「永遠の生命」の基準から見ると、現在は言わば"胎児"の段階です。
 胎児が「へその緒」を通して母体から生命を受けているように、私たちクリスチャンは、信仰を通して天国の生命につながれているのです。
 その"胎児"が新しい世界に出るのは、いつでしょうか。聖書は言っています。
 「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロ三・四)
 キリストの出現(再来)の際、私たちの「永遠のいのち」も共に現れ、輝かしく開花するでしょう。
 そのとき地上にいるクリスチャンは変えられ、世を去っていたクリスチャンは復活するでしょう。
 それは、天にあった「永遠のいのち」が現れ、彼らが「(キリストの)栄光のからだと同じ姿に」生まれ変わるからです。
 そして彼らは、母なる天国の温かい腕に抱かれつつ新しい世界を見、新しい世界に生きることを始めるのです。



神は主体天国は神の栄光の現われ

 このように神の世界は、私たちの父なる神と、母なる天国とから成っています。
 天国は、神の本質が具現化した世界であって、そこには神の愛と祝福が豊かに開花しています。天国は、神の本質と栄光の現われなのです。
 神の世界は、主体である神ご自身と、神の栄光の現われである天国とから成っているわけです。
 ですから神が人間を創造されたとき、神はまず男を造って人の主体となし、次に女を造って、女を「男の栄光の現われ」と呼ばれました。
 「女は男の栄光の現われです。なぜなら・・・・女が男をもとにして造られたのであり、また・・・・女が男のために造られたのだからです」(一コリ一一・七〜九)
 と記されています。神は、ご自身と天国の関係(かたち)を、人間の世界の男女の関係に反映させられたのです。
 神の世界は、主体である「神」と、神の本質をもとにした「天国」とから成っているので、神は人間の世界にまず主体である「男」を造り、次に男の本質をもとに「女」を創造されました。
 つまり男と女が創造されたことは、神と天国の関係(かたち)の「影」(ヘブ一〇・一)です。
 しかし、それだけではありません。男と女の創造は、もう一つの重要な事柄の「影」でもあります。次にそれを見てみましょう。


キリストは花婿教会は花嫁

 聖書は、キリストを「花婿(マタ二五・六、二コリ一一・二)と呼び、教会(クリスチャンたちのこと)を「花嫁(黙示一九・八)と呼んでいます。
 キリストと教会の関係を、花婿と花嫁の関係になぞらえる表現は、聖書の随所にあります。ですから、聖書は夫婦のあり方について教えるときにも、次のように言っています。
 「妻たちよ・・・・教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペ五・二二〜二五)
 ここでは、キリストと教会の関係は、夫婦のあり方のお手本だと述べられています。聖書はなぜこのように、キリストと教会の関係を夫婦、または花婿・花嫁の関係になぞらえるのでしょうか。
 これは「たとえ」でしょうか。聖書はキリストと教会の関係を、花婿と花嫁の関係に「たとえている」のでしょうか。
 いいえ、たとえではありません。地上に見られる男女の婚姻(結婚) は、キリストと教会が一心同体化することの「影」なのです。「本体」はむこうで、こちらが「影」です。
 聖書は言っています。
 「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる』(創世記二・二四の引用)。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会をさして言っているのです」(エペ五・三一〜三二)
 つまり、人が結婚して男女が一心同体になるという事柄に、キリストと教会に関する深遠な奥義が隠されているというのです。
 それは、こういうことです。
 教会は、キリストが十字架上で流された血潮によって誕生しました。主は十字架の苦難を忍ばれ、「あがないの死」を全うされましたが、そのときローマ兵がやりで主の「わき腹」を突き刺すと、血が流れ出た、と聖書は記しています。
 教会は言わば、主のわき腹から誕生したのです。これは、かつて女エバが、男アダムのわき腹から造られたのと同様です。
 ですから聖書では、教会は「キリストのからだ」(単数)と呼ばれ、キリストの骨肉的存在とされています。教会は、キリストの「骨の骨、肉の肉」なのです。
 神は、この教会をキリストと一心同体にすることによって、その救いを全うしようとされました。やがてキリストは、終末の日に天より現われ、ちょうど花嫁を迎えに来る花婿のように、ご自身の民を迎えに来られるのです。
 ヨハネの黙示録は、キリストの再臨についてそれをキリストの「婚姻の時」と呼び、こう記しています。
 「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊(キリスト)の婚姻の時が来て、花嫁(教会=クリスチャンたち)はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」(黙示一九・七〜八)
 つまり、教会は現在キリストに対して言わば「婚約」(二コリ一一・二)した仲であり、やがて「結婚」して一心同体になる、とされているのです。
 「婚約」中も、両者が心情的に一つであることに変わりはありません。しかし「結婚」の時が来ると、両者はもっと深い意味で一心同体になります。
 そのとき、キリストの「永遠のいのち」がキリスト者たちの生命に流れ込み、両者は心情的のみならず、真に生命的に一つになるのです。
 「一つになる」というのは、両者が「同じになる」ということではありません。ちょうど夫婦が、一心同体になっても互いに区別があるように、キリストとクリスチャンとはどこまでも区別があります。
 「一つになる」というのは、そこに深い交わりがもたれるということなのです。
 神は御子と教会の間に深い生命的交わりをもたせ、両者を一心同体にすることによって、人々に「永遠のいのち」を与えようとされました。「(永遠の)いのちは御子のうちにある」(一ヨハ五・一一)ので、キリストとの生命の交わりが人々に「永遠のいのち」を与えるのです。
 「永遠のいのち」は、私たちの全存在を変えるでしょう。
 キリストが出現すると、私たちは「(キリストの)栄光のからだと同じ姿に」(ピリ三・二一)変えられる、と聖書は述べています。
 キリストの「永遠のいのち」が私たちに現われるので、私たちの「卑しいからだ」は、キリストと同じ朽ちない「栄光のからだ」に変えられるのです。
 人間の世界に結婚の制度があるのは、このキリストと教会の一心同体化の「影」です。
 結婚は世界のすべての民族に見られるものですが、これはキリストと教会の一心同体化を予表するために、神がお始めになったものなのです。
 夫婦の交わりは、キリストと教会の生命の交わりの「影」です。聖書が、性の乱れを罪深いものとし、婚姻を神聖視する理由も、まさにここにあります。



母の天幕での結婚

 最後に、キリストと教会の一心同体化の意味について、旧約聖書の記事に学んでおきましょう。
 旧約聖書には、いくつもの"予型"が記されています。予型とは、将来の事柄を予表するために起こった出来事や物事を言います。
 いわゆる「予言」が、言葉によって将来のことを指し示すのに対し、「予型」は、出来事や物事によって将来のことを指し示すのです。
 たとえば、ある日アブラハムは、神からの命令を受けて自分の「愛するひとり子イサク」を、全焼のいけにえとして捧げようとしたことがありました(創世二二章)
 この有名な出来事は、神がご自分の「愛するひとり子イエス」を、十字架の犠牲に捧げることの予型だったのです。
 アブラハムは、すべての人々の中でただひとり「神の友」(ヤコ二・二三)と呼ばれた人物であり、一方イサクは、キリストと同様に、予言(約束)によって生まれた子でした。
 アブラハムはイサクを捧げる決心をして出立ち、「三日間」(創世二二・四)の旅路ののち、「モリヤの地」に着きました。そこで彼が刀を振り上げた時、神は彼をお止めになったのでイサクは助かったわけですが、聖書はそのときのことについて、
 「彼は、いわば、イサクを生き返して渡されたわけである」(ヘブ一一・一九協会訳)
と記しています。つまり、アブラハムの心の中でイサクは、「三日間」死んでいたのです。これは、キリストの「三日間」の死を予表する「型」です。
 また、アブラハムがイサクを捧げようとした地「モリヤ」は、後のエルサレムであり、キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげられた、まさにその地でした(二歴代三・一)
 このように、アブラハムは神の立場に、イサクは御子イエスの立場に立たせられました。アブラハム―イサクの関係は、神―イエスの関係の型なのです。
 さらに、聖書はアブラハムの妻サラを「天にあるエルサレム」(天国)に対応する者と呼んでいます。
 「アブラハムにふたりの子があって、ひとり(イシマエル)は女奴隷(ハガル)から、ひとり(イサク)は自由の女(サラ)から生まれた、と書かれています。・・・・上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。・・・・兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」(ガラ四・二二〜三一)
 アブラハムの妻サラは、奴隷ではなく、「自由の女」でした。ちょうどそのように、天国は律法に縛られていない、自由の霊による国です。そしてクリスチャンは、その天国を母とする子どもたちです。
 このように、聖書はサラを、クリスチャンの母・天国に対応する予型として述べているのです。
 アブラハム―サラ―イサクの関係は、神―天国―イエスの関係の型です。
 さて、イサクは、神の不思議な摂理によって引き合わされた一人の美しい女性リベカと結婚しました。聖書は、彼の結婚についてこう記しています。
 「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった」(創世二四・六七新改訳)
 イサクが愛する花嫁を連れて行った場所は、「母サラの天幕」でした。同様にキリストも、花嫁である教会を、まず母である天国に連れて行かれることでしょう。


イサクはリベカを迎えた。そして母サラの天幕に連れていき、
彼女をめとった。これは、母なる天国にキリストがクリスチャン
たちを連れていって婚姻に入ることの、予型である。 
創元社『聖書物語』より

 キリストは再臨されると、クリスチャンたちを一斉に空中に携挙されます(一テサ四・一七)。そして天国で婚宴を開いて、彼らと一心同体になり、永遠のいのちを賦与されるのです。そののち、まもなく地上に下って来て、彼らと共に、地上に神の御国をもたらされます。
 キリストが私たちを天国に導き入れられるとき、キリストによって神―天国―人間は、最終的に一つになります。
 人間と神、また天国との間にあった障壁はすべて取り去られ、神と人間が住む場所は同一になります。
 聖書は、その光景について、次のように描写しています。
 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(黙示二一・三〜四)
 神の住まわれる所に人も住み、神―天国―人間は一体になるのです。この「一体になる」は、先に述べたように区別までなくなるということではなく、生命的に一つに結びつくの意味です。その結果、人間も神と同様に不死の者となります。
 あるいは、神―天国―人間と言うよりも、むしろここでは神―御国―人間と言った方が良いかも知れません。というのは、聖書によれば天国はそのとき地上に下って来るからです。
 「(天にある)エルサレムは、神のみもとを出て、天から下って」(黙示二一・一〇)
来ます。つまり、その日天国は、地上に存在して天と地を結ぶ神の御国となるのです。
 こうして御国において、天と地は出会い、一つになり、神と人は共に住むでしょう。
 この一体性を実現することこそ、神が世々にわたって追い求めてこられた目的です。そしてその仲介をなさるかたが、われらの主キリストなのです。聖書は言っています。
 「神は・・・・みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて・・・・天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
 このキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者ともなったのです」(エペ一・八〜一一)

                                 久保有政(レムナント1995年4月号より)

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