古代日本とユダヤ・キリスト教

日本古来の風習と
古代イスラエルの風習

両者はなぜこんなにも似ているのか。


(左)神前に供え物をするときは塩を添える(手前左が塩、
右は米、中央は水、奥の2瓶は神酒(みき)、他に野菜、
果物、海産物などが添えられる)。
(右上)水を浴びる禊(みそ)ぎの行(ぎょう)の一つ「振魂」。
(右下)飲み屋や料亭の玄関に見られる「盛(も)り塩(じお)」。

禊ぎの水と塩

 古来、日本には「禊ぎ」という風習があります。
 禊ぎとは、身体に付着した穢れを落とし、清浄にすることをいいます。禊ぎには、一般にや、が用いられます。
 たとえば、古い神社はたいてい、清流のそばにあります。これは参拝する人がそこで穢れを洗い流し、心身を清めるためです。禊ぎのためだったのです。
 神社によっては、海辺で禊ぎを行ない、滝に打たれ、井戸水を浴びて身を清めるところもあります。水浴(水垢離)は、ふつう冷水で行ないますが、近ごろの神社は多くの場合、浴場でそれを行ない、大社では一日中お湯が沸かされています。
 神社の境内にはまた「手水舎」というものがあります。"水飲み場"と勘違いしている人もいるかも知れませんが、これは参拝の前に両手に水をかけて清め、口をすすぐためです。手と口の禊ぎの場所なのです。
 このような水で身を清める「禊ぎ」の風習は、日本古来のものです。仏教では、一般にこうしたことはしません。
 禊ぎには、水のほかに、塩も用いられます。
 古来、日本では葬儀の後などに、その場を清めるためにをまく風習があります。葬儀に参加した人は、帰宅した玄関前でをかけてもらわないと家には入れない習慣があります(塩祓い)。
 近ごろは、葬斎場から出た所で、お清め塩が配られます。これらも禊ぎの一種です。
 穢れたものや、嫌悪する人が出て行った際に、そこに塩をまく風習もあります。神社では清めの式において、塩を散布します。


葬儀のあとに配られる「お清め塩」は、
塩をふりかけて穢れを祓うためである。

 相撲の際に、力士が塩をまくのも、土俵を清めるためで、禊ぎに由来しています。
 神前に供え物をするときは、器に塩を盛って添える風習があります。料理店などでも、客を招く縁起として、入り口に少量の塩を盛る風習(盛り塩)があります。
 日本では、古くからこのようなことが行なわれてきました。このような風習は欧米諸国にはありません。
 ところが、私たちは聖書を読むとき、この風習が今から三〇〇〇年以上も前に、古代イスラエルで行なわれていたものと同じであることを知り、驚きます。水についても、塩についても、これは古代イスラエルの風習そのままなのです。
 水については、たとえば旧約聖書・民数記八・六〜七にこう記されています。
 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。・・・・」。
 神殿で祭司の役にあたるレビ人は、礼拝の奉仕にあたる前に、きよめの水をかけて禊ぎをしなければならなかったのです。また、
 「祭司は、その衣服を洗いその体に水を浴びよ。そののち、宿営に入ることができる」(民数一九・七)
 等とも記されています。古代イスラエルにおいても、水が禊ぎのために用いられました。
 古代イスラエルではまた、日本神道と同じく、死体にふれた者は「けがれた」者と呼ばれていました。そして、その穢れを祓うために、水が用いられました。
 「身の清い人が、ヒソプを取ってこの水に浸し、それを・・・・死人や墓に触れた者の上に振りかける(民数一九・一八)
 こうすることにより、死人に触れて穢れた人は清められる、とされたのです。
 ちょうど、日本で神主が榊の枝でお祓いをするように、古代イスラエルでは穢れを祓うために「ヒソプ」という植物の枝が用いられました。
 また、日本では神主はお祓いをするとき、、または塩の入った水塩湯という)を注ぐことがあります。ちょうどそのように、古代イスラエルでは、ヒソプに水を浸して振りかけたのです。
 禊ぎのための塩について、日本と同様、神前の供え物に塩を添える風習が、旧約聖書・レビ記二・一三に記されています。
 「あなたの穀物の捧げ物に、あなたの神の契約のを欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」。
 古代イスラエルにおいても、日本と同様に、人々は神前の供え物に必ず塩を添えたのです。また彼らは、土地を清めようとするようなときも、その禊ぎのために塩をまきました。士師記九・四五に、
 「アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた
 と記されています。
 また、わが国では明治維新前に、新たに誕生した赤児の産湯に、少量の塩を入れる習慣がありました。古代イスラエルでも、新たに生まれた赤児を塩でやわらかくこすり、水で洗い清める風習がありました。エゼキエル書一六・四に、こういう記述があります。
 「あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗って清める者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった」。
 古代イスラエルでも、日本でも、赤児の禊ぎのために水と塩が用いられたのです。
 このように、古代イスラエルと日本に共通して、「禊ぎ」という考え方がありました。そしてその禊ぎのために、古代イスラエルでも日本でも、同様に水と塩が用いられたのです。


白を尊ぶこと

 日本では古来、純白の衣が非常に尊ばれます。伊勢神宮などでは、すべての神官が白ずくめの装束を着ていますし、日本の皇室でも、最も神聖な行事の際には服装に必ず白装束が用いられます
 たとえば天皇が即位したときに、天皇がただ独り部屋に閉じ込もり、神(天照大御神)の前に出て交わる儀式があります。このとき、彼は真っ白な衣に身を包みます。天皇が亡くなったようなときも、その葬儀において神官はみな、白無垢の衣に身を包みます。
 仏教の高い地位にある僧侶は、金銀や鮮やかな色の糸を使って華麗な模様を織りだした服(錦襴)を着ます。しかし、古来日本では、白無垢が最も神聖な色とされたのです。
 これは、古代イスラエルの風習と全く同じです。たとえばダビデ王は、神聖な儀式をするとき、白い祭服に身を包みました。
 「ダビデと、イスラエルの長老たち、千人隊の長たちは・・・・主の契約の箱をオベデ・エドムの家から運び上ろうとした。・・・・ダビデは、白亜麻布の衣を身にまとっていた(一歴代一五・二五〜二七)
 また、ソロモン王のもとに神殿が完成し、そこに契約の箱が運び入れられる祭儀が行なわれたときも、それを司る人々はみな白い服を身につけました。
 「歌うたいであるレビ人全員も、すなわちアサフもヘマンもエドトンも彼らの子らも彼らの兄弟たちも、白亜麻布を身にまとい・・・・主を讃美し、ほめたたえた」(二歴代五・一二〜一三)
 このようにイスラエルでも日本でも、古来、神聖な行事には必ず白無垢の衣が用いられたのです(ただし、この感覚は韓国やギリシャにもあります)


日本神道の神官は、神聖な儀式のとき、白い服に
身を包む。古代イスラエルでも、神聖な儀式のとき、
祭司たちは白い服に身を包んだ
(T歴代15:27)

 さらに、聖書によれば神のみそばに仕える天使たちも、白い服を着ています。
 「(イエスが復活された墓において)ふたりの御使いが・・・・白い衣をまとってすわっているのが見えた」(ヨハ二〇・一二)
 天国のクリスチャンたちも、白い服を身にまとっています。
 「天にある軍勢は、真っ白な清い麻布を着て、白い馬に乗って彼(キリスト)に従った」(黙示一九・一四)


正月の餅と七草粥

 日本には古来、正月を盛大に祝い、また七月一五日、あるいは八月一五日にお盆を国民的行事として行なう風習があります。
 忙しいことを「盆と正月がいっぺんに来たようだ」と表現する言葉もあり、これら二つは日本人にとって、二大行事と言ってよいでしょう。
 まず正月ですが、正月には一家団らんして餅を食べ、七日たつと、餅の代わりに七種の菜を入れた七草粥を食べる風習があります。
 太陽暦の現在では、「元旦」は一月一日とされ、七草粥は一月七日とされています。
 しかし、太陰太陽暦だった旧暦の時代に、「元旦」は一月一日ではなく、一月一五日でした。それは一月一五日が、その年の初めての満月の日だったからです。「元旦」は、昔は一月の満月の日を言ったのです。
 今日でも、一月一五日を旧暦の元旦として祝う習慣があるのは、それに由来します。旧暦の時代に、一月一五日は元旦として公休日とされていました。
 七草粥も、平安朝以前は、一月一五日に行なわれていました。そして人々は、それに続く日々に、新年の豊饒を祈念する催しを行ないました。
 この風習は、古代イスラエルにあった風習によく似ています。古代イスラエルでは、ユダヤ暦の一月一五日から七日間は「種を入れないパンの祭り」と呼ばれ、人々は「種を入れないパン」を食べました。
 これは、「パン種」(今日ではイースト菌や酵母が用いられる)を入れず、発酵させないでこねて作ったパンのことで、その製法は餅と同様です。イスラエルではこれを毎年、元旦(一月一五日)から七日間食べたのです。
 「第一月の一五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない」(レビ二三・六)
 と律法に記されています。
 「種を入れないパン」は、ヘブル語でマツァといい、「種を入れないパンの祭り」は、マツァの祭りといいます。マツァとモチ――発音まで似通っているのは、偶然にしては出来すぎていると言えるでしょう。それは"モチの祭り"だったのです。
 またイスラエル人は、一月一五日には特に苦菜を添えて食べました。
 「その夜(一月一五日)・・・・苦菜を添えて食べなければならない」(出エ一二・八)
 と律法にあります。「苦菜」にする草は、チサヤ、チコリ、コショウグサ、ヘビノネ、タンポポなどだったようですが、ちょうど昔の日本人が正月一五日に七草粥を食べたように、イスラエル人はそれらの苦菜を正月一五日に食べたのです。
 イスラエルの祭りの最初の日、すなわち一月一五日は満月であり、安息日でもありました(レビ二三・七)。またイスラエル人は、この安息日の翌日、初穂を神の前に捧げ、豊饒を祈ったのです(レビ二三・一一)


お盆

 日本にはまた、七月一五日あるいは八月一五日に、「お盆」と呼ばれる行事があります。お盆は「盂蘭盆」の略です。盆は、旧暦では七月一五日に行なわれました。
 盆は今日では、様々の食物などを祖先の霊に供えてその冥福を祈る、仏教行事の一つとされています。
 しかし、じつは仏教が日本に入るずっと以前から、日本では「祖霊祭り」というものが行なわれていました。
 日本に仏教が入ってきたとき、この祖霊祭りが仏教の行事に取り込まれて、お盆となったのです。
 夏の風物詩として有名な京都の「大文字焼き」も、「送り火」と呼ばれるお盆の行事の一部です。送り火は、この世に来た精霊を再びあの世に帰す、という考えから生まれたものです。
 じつは古代イスラエルでも、七月一五日に大きな祭りがありました。これは「収穫祭」または「仮庵の祭り」とも呼ばれるもので、非常に盛大に行なわれました。
 「あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の一五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である」(レビ二三・三九)
 古代イスラエルでも日本でも、七月一五日は盛大な祭りだったのです。 
 日本のお盆は、新暦になった今日では、八月一五日に行なわれる所も多いようです。
 お盆は、仏教行事の一つとして吸収されたこともあって異教的色彩の濃い祭りですが、じつは古代イスラエルでも、八月一五日に異教的な祭りが行なわれていました。旧約聖書にこう記されています。
 「(北王国の)ヤロブアムは、(南王国)ユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の一五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。」(一列王一二・三二)
 紀元前一〇世紀にソロモン王が死ぬと、イスラエル統一王国は北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂したのですが、「ヤロブアム」は北王国イスラエルの王となった人です。
 イスラエルでは古来、毎年七月一五日に収穫祭を行なっていましたが、ヤロブアム王はこの伝統に背き、この祭りをやめ、ひと月遅れの八月一五日に北王国で新しい祭りを始めました。
 ヤロブアムは、自分で勝手に考え出した八月一五日という日に、異教的な祭りを始めたのです。彼はその日に、偶像にいけにえをささげ、偶像に香をたきました。
 一方、このとき南王国ユダでは、伝統の通り、七月一五日に盛大な収穫祭(仮庵の祭り)を行なっていました。
 北王国イスラエルの八月一五日の祭りは、北王国がアッシリヤ帝国に捕囚となって滅亡するまで続きました。北王国イスラエルでは、八月一五日に異教的な祭りが行なわれていたのです。
 古代イスラエルでは、正月の祭り(種を入れないパンの祭り)と、収穫祭(七月一五日あるいは八月一五日)が、年間を通じて最も盛大な祭りでした。
 ほかにも祭りはありましたが、それらが一日だけの祭りであったのに対し、正月の祭りと夏の収穫祭は、一週間あるいは八日にわたって盛大に行なわれたのです。
 同様に、日本でも古来、この同じ時期に盛大な祭りが行なわれてきたことは興味深いことです。


盆踊り

 日本のお盆にはまた、もう一つ興味深い点があります。
 お盆のとき、日本人は「盆踊り」をします。これはじつは、仏教の踊りではなく、古代から日本で行なわれていた「歌垣」と呼ばれる踊りなのです。
 歌垣は、上代(大和時代)から行なわれていたもので、奈良朝時代に至って特に盛んになりました。これは全国の男女の間に流行し、男女はそこで歌い、踊り、見合いなどをして結婚を約束しました。
 踊りの仕方は、男女が交差し、円形の輪をつくり、一人の音頭取りの唄につれて拍子をとりながら踊り、人数の増加するに従って二重、三重の輪をつくる、というものでした。
 こうした風習は、古代イスラエルのものと全く同様です。古代イスラエルにおいては七月一五日の夏祭り(北王国では八月一五日)に、男女混合の踊り会があり、未婚の娘たちや男子たちは、その夜の踊りと出会いの時を楽しみにしていました。


盆踊りは、今は仏教の風習とされているが、
もとは「歌垣」と呼ばれる日本古来の風習である。
古代イスラエルの人々も、7月15日の夏祭りに踊りをして楽しんだ。

 盆踊りのときのかけスラエルのか声である「ヨーイ、ヨーイ、ヨイヤナア」などのかけ声も、古代イけ声によく似ています。
 またかつて日本では、盆踊りの時に、「略奪結婚」が行なわれる風習があったと聞きます。とくに九州の大分では、その夜大勢が踊り狂う間に、男子は自分の想う娘を山林に担ぎ去る習慣がありました。
 古代イスラエル人にも、これと同じ風習がありました。士師記二一・一六〜二三にこう記されています。
 「そこで会衆の長老たちは言った。『あの残った者たちに妻をめとらせるには、どうしたらよかろう。ベニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ』。・・・・彼らは言った。『そうだ。毎年、シロで主の祭りがある』。
 ・・・・彼らはベニヤミン族に命じて言った。『行って、ぶどう畑で待ち伏せして、見ていなさい。もしシロの娘たちが踊りに出てきたら、あなたがたはぶどう畑から出て、めいめい自分の妻をシロの娘たちのうちから捕らえ、ベニヤミンの地に行きなさい。・・・・
 ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって、連れてきた。踊っているところを、彼らが略奪した女たちである」。
 つまり、一部族に未婚の婦女が絶えたので、略奪結婚の風習が始まったのです。これがのちに、民族的風習となったでしょう。
 この同様の風習が古来日本にも見られたことは、はたして偶然の一致でしょうか。


高き所にある礼拝所

 日本においては、高い山があると、必ずと行っていいほどそこには神社もあります。
 高い山の上に礼拝所を設けるこうした風習は、日本特有のものです。欧米や仏教圏にはこうした風習はなく、中国や韓国においても、特徴的なものではありません。しかし日本では、高い所には必ずと言っていいほど礼拝所が設けられるのです。
 これは、古代イスラエルにおいても同様に見られた風習でした。イスラエル人たちは山の頂を、非常に宗教的な意味で重要視していたのです。ダビデ王の詩篇に、
 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇一二一・一〜二)
 とあります。また、十戒はモーセがシナイ山頂で受けたものですし、エルサレムという聖なる都も山上に建設された町です。
 さらに、ソロモン王はエルサレムに神殿が建てられる以前、主の幕屋をギブオンの「高き所」に置いていました(二歴代一・三)
 はじめ「高き所」は、必ずしも偶像崇拝とは関係ありませんでした。しかし、やがてイスラエル人は堕落すると、「高き所」に偶像の宮を建てるようになりました。それは偶像崇拝の温床となり、各地に設置されるようになりました。
 「高き所」は、町の中に小高い段を設けて礼拝所とした所もそう呼ばれましたが、一般的には実際に高い場所に造られることが多かったようです。
 「イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て・・・・すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした」(二列王一七・九〜一一)
 古代イスラエルでも、日本と同様、すべての高い所に礼拝所がつくられたのです。


山伏

 また、日本には、山岳信仰者として「山伏」と呼ばれる人々がいます。
 山伏は、現在は仏教に属しているようですが、もともとは仏教のものではありません。中国やインドの仏教徒の間には、山伏の風習はないからです。
 これは「本地垂迹説」以後に仏教に吸収されたもので、古くから伝わる日本特有の風習です。


山伏は、今は仏教の中に吸収されているが、
もとは日本古来の風習である。彼らは、山岳信仰者である。

 山伏は、額の上部に「兜巾」と呼ばれる黒い小さな箱を、紐で結んでつけます。そして法螺貝の笛を吹き鳴らします。
 昔から伝わる「天狗」の話の中においても、天狗は山伏と同じく、旅行者の格好をして額に兜巾をつけています。
 ところがこの風習は、イスラエル人に伝わる風習と全く同じなのです。イスラエル人(ユダヤ人)は今でも、「ヒラクティリー」と呼ばれる黒い小さな箱を額の上部につけて祈り、「ショーファー」と呼ばれる笛を吹く風習を持っています。
 イスラエル人の「ヒラクティリー」も、山伏の「兜巾」も、同じ位の大きさの黒い箱です。
 形は若干違いますが、これは時代と共に変遷があったから、と理解することができそうです。それを額上部につけることや、紐で結ぶことなども一致しています。
 イスラエル人が祭の時に吹くショーファーという笛は、羊の角でつくったものですが、山伏の吹く法螺貝と同様ひねった格好をしており、さらに法螺貝と同じ様な長い低音を出します。日本では羊がいなかったので法螺貝が用いられた、とも考えられるのです。
 額に黒い箱をつけ、笛を吹いて低音を出すというこうした風習は、世界中でただイスラエルと日本にだけ見られるものです。そのほかの国には、全く見られない風習です。
 「ショーファー」という笛は、聖書には「角笛」という訳語で出てきます。これはかなり古代から、イスラエルで使用されていました。
 また、イスラエル人が祈りの時に額につける「ヒラクティリー」と呼ばれる黒い小箱について言えば、その起源はおそらく、紀元前一五世紀に大祭司アロンが額に紐でつけた聖なる札でしょう。こう記されています。
 「純金の札を作り、その上に印を彫るように『主への聖なるもの』と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。・・・・これは、絶えずアロンの額の上になければならない(出エ二八・三六〜三八)
 額の上に紐でつけられたこの札の大きさは、伝承によれば四センチほどだったといいます。この札は花形をしていた、という学者もいます。そうだとすれば、それは山伏の兜巾に非常に似たものだったでしょう。
 この額の札の風習は、やがて一般のイスラエル人の間では、黒い小箱をつける習慣になったものと思われます。


ユダヤ教徒のヒラクティリー(黒い小箱)と、ショーファー(角笛)。
山伏も、ユダヤ教徒も、額の上部に紐で黒い小箱をつけ、低音を出す
笛を吹く。こうした風習は、日本とイスラエルだけのものである。

手を打つこと

 日本では、神社に参拝した者は、拝殿の前で二度ほど手を打ってから、手を合わせて祈ります。これは昔から、日本人独特の風習です。
 参拝のときだけでなく、約束を違わないというしるしに、双方が手を打つことがあります。物品の売買が成立したときなど、「ヨォー」のかけ声などとともに、一同が手を打つことは今日でも行なわれています。
 古代イスラエルにも、この風習がありました。約束を守るしるしとして、手を打ったのです。
 「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をなし・・・・」
 という言葉が箴言六・一にありますが、この「誓約をなし」は、新改訳聖書の欄外注にあるように直訳は「手をたたき」です。古代イスラエルでは約束を違わないというしるしに、手をたたいたのです。エゼキエル書一七・一八にも、
 「彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は誓っていながら(直訳・手をたたいていながら)、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない」
 とあります。古代イスラエルでも、日本でも、契約成立のときに手をたたく習慣があったのです。


日本人は古来、手をたたいてから祈る。
また、約束を違(たが)わないというしるしに、
手をたたく風習がある。古代イスラエル人も、
約束を違わないという誓約のしるしに、手をたたいた。

石を立てて神を祭ること

 日本には古来、石を「御神体」として祭る風習があります。
 「御神体」は、神を表す象徴だとか、偶像だとか誤解している人もいるでしょう。しかし、これは象徴ではなく、また一般に言う「偶像」とも性格が異なります。
 偶像は、一般に神仏の似姿に刻んだ像をいいます。これに対し御神体は、"神の降臨の御座所"とされ、"神の霊が降りる神聖なモノ"の意味なのです。
 偶像にはふつう、神仏の霊そのものが宿っているわけではありません(そう信じられているものもありますが)
 しかし御神体はそこに神が降りる、あるいは降りていると考えられているもので、一般に言う「偶像」の観念とは違います。
 古代の日本人は、石を祭って、それを「御神体」と見なしました。
 たとえば茨城県の鹿島神社の後方に、直径四五センチ、地上部分の高さ六〇センチほどの柱のような丸い石が立てられ、周囲に美しい垣根があり、注連縄を引いて、神石とされています。ほかにも、全国に石を御神体として祭った神社があります。
 こうした風習は、もともと古代イスラエルにおいて見られたものでした。イスラエル民族の父祖ヤコブは、神の降臨を感じて、ベテルの地で石を柱として立てたのです。
 「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。・・・・
 ヤコブは眠りからさめて、『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんと恐れおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ』。
 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を注いだ」(創世二八・一二〜一八)
 さらに、この数十年後、ヤコブは再びベテルに来たとき、もう一度そこに石の柱を立てました。
 「ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油を注いだ」(創世三五・一四)
 ヤコブは、石の柱に神酒を注いだのです。これは日本でも、同様に行なわれてきました。
 早期のイスラエルでは、祭壇のかたわらに石の柱を立て、ヤハウェ神礼拝の一要素として用いていました。
 「モーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの一二部族にしたがって一二の石の柱を立てた」(出エ二四・四)
 と記されています。
 しかし後の時代になって、イスラエルに異教の偶像崇拝が入ってきたとき、偶像教でも石の柱が使われたため、石の柱が偶像崇拝の対象とされる傾向が出てきました。
 そのため、やがて石の柱は預言者によって厳しく非難されるようになり、排除されるようになりました。


(右)秋田県鹿角(かづの)市にある石の柱。
(左)パレスチナで発見された「高き所」。石の柱は、
日本のものとほぼ同じである。

 聖書は、南王国ユダの人々が偶像崇拝に堕落したときのことについて、こう記しています。
 「ユダの人々は主の目の前に悪を行ない・・・・すべての高い丘の上や青木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた」(一列王一四・二三)
 「高き所」には、異教礼拝の一部として石の柱が立てられたのです。この石の柱は、考古学者によって発見されていますが、日本の石の柱と同様に、丸く長い大きな石が柱のように立てられたまわりに、幾つもの小石を円形に置いて囲ませています。
 またこれに関連して、日本では神を数えるのに「一柱」「二柱」という言い方をすることは、興味深いことです。『古事記』『日本書紀』などでは、「この三柱の神は・・・・」とか「イザナギ、イザナミの二柱の神に・・・・」とか言っています。
 この「柱」は神なのです。こうした言い方は、古代イスラエルの石の柱に由来するものなのでしょう。

                                 久保有政(レムナント1995年6月号より)

キリスト教読み物サイトの「古代日本とユダヤ・キリスト教」へ戻る

感想、学んだこと、主の恵みを掲示板で分かち合う

レムナント出版トップページへ 関連書籍を購入する