あなたがしなかったから
何が人を天国に入らせ、何が人を天国に入らせないのか。
ダビデは、真実な悔改めを見せたので赦された
(ミケランジェロ作「ダビデ」)。
太閤と呼ばれ、天下の権勢を欲しいままにした豊臣秀吉は、その辞世の句に、
「露と起き、露と消えぬる我が身かな、浪華のことは夢のまた夢」
とうたい、嘆いて死んでいきました。もし人生が、肉体の死と共に終わり、無に帰するとすれば、それは何とむなしいことでしょう。
しかし神は、「永遠の命」また「天国」での生活を、ご自身の民に対して約束しておられます。
死後、神の王国である「天国」に迎えられるために、私たちは何を知り、この世でどのような生き方をなすべきでしょうか。
何が人を天国に入らせ、何が人を天国に入らせないのでしょうか。聖書から学んでみましょう。
「した」からでなく「しなかった」から
多くの人は、「もし、私が天国に入れないとしたら、それは私が悪いことをしたからだ」とか「罪を犯したからだ」と思っていないでしょうか。
しかし、この考え方は聖書の教えるところではありません。もしあなたが、不幸にも死後天国に入れないとしたら、それはあなたが何かを「した」かたではありません。むしろ、あなたがあることを「しなかった」からなのです。
旧約聖書のサウルとダビデの記事に、それを見てみましょう。
サウルとダビデは、古代イスラエルの王でした。サウルが初代の王、ダビデは第二代の王です。
聖書は、サウルも、ダビデも、人生の中で罪を犯したと記しています。しかし、二人の結末は対照的でした。サウルは神から退けられ、ダビデは神によって赦されて、誉れと幸福を与えられたのです。
何がこのような違いをもたらしたのでしょうか。サウルの罪は重く、ダビデの罪は軽かったのでしょうか。
そうではありません。むしろ逆でした。一般的な考えからすれば、サウルの罪は、それほど罪深いものとは思われませんでした(一サム一五章)。ダビデの犯した罪のほうが、ずっと深刻で重いものに思われました。
ダビデは人の妻を横取りし、姦淫したうえ、彼女の夫を戦闘の最前線に出して故意に死なせたのです(二サム一一章)。彼のしたことは、何という恐ろしい罪であったことでしょう。
しかし結局、ダビデの罪は赦され、サウルの罪は赦されませんでした。それは、ダビデが深刻な悔改めを行なったのに対し、サウルは真実な悔改めをしなかったからです。
サウルは、自分の罪が発覚したとき、預言者サムエルにこう言いました。
「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で、私の面目を立ててください。どうか私と一緒に帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」(一サム一五・三〇)。
サウルは、表面上は「私は罪を犯しました」と言いましたが、すぐあとに、「私の面目を立ててください」と言っています。彼は、自己保身をはかったのです。
「罪を犯しました」というのはタテマエの言葉で、「面目を立ててください」が彼のホンネでした。神はこうした態度を、悔改めとはお受け取りになりませんでした。
神はサウルを、王位から退けられました。サウルの晩年は、悲惨さを感じさせるものでした。
一方、ダビデはどうだったでしょう。彼は自分の罪を指摘されたとき、
「私は主に対して罪を犯しました」(二サム一二・一三)
と言い、自分のしたことが「主に対する」重大な罪であったという認識を表明しました。ダビデは自分の面目が保たれることを求めず、神の懲らしめに身をまかせました。
やがてダビデの家庭と王位には、様々の災いがふりかかりました。しばらくして、息子と家臣がダビデに反逆し、ダビデは王座とエルサレムを去らなければならなくなりました。
そのとき、ベニヤミン人のある男がダビデに近寄ってきて、嘲笑とのろいの言葉を浴びせました。さらに、ダビデや家来たちに石を投げつけました。
もしダビデが、家来に命じれば、家来はその男を捕らえて黙らせたり、斬り捨てることもできたでしょう。
しかしダビデはそうせず、むしろ、その男ののろいの言葉を甘んじて受けました。そして言いました。
「見よ。私の身から出た私の子さえ、私の命をねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほおって起きなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」(二サム一六・一一〜一二)。
ダビデは、人前で自分の面目が保たれることを求めなかったのです。彼は主の懲らしめに身をまかせました。これは彼が真に悔い改めていたことを示すものです。
ダビデのなした真実な悔改めは、神に知られるところとなりました。神はダビデの罪を赦し、彼を再び王座に戻し、誉れと幸福をお与えになりました。
サウルとダビデ――この二人の違いは、どこにあったのでしょうか。サウルは神から退けられ、ダビデは高く上げられました。
サウルが神から退けられたのは、彼が罪を犯したからでしょうか。そうではありません。ダビデも罪を犯したのです――深刻な罪を。しかしダビデは赦され、サウルは神から退けられました。
サウルが退けられたのは、彼が悔改めをしなかったからです。彼が何かを「した」からではなく、あること――つまり悔改めを「しなかった」ので、彼は神から退けられたのです。
罪の軽重も関係ない
何を言おうとしているのか、おわかりになるでしょうか。
あなたは天国に入れますか。それとも入れませんか。
もしあなたが天国に入れるとすれば、その理由は何ですか。またもし天国に入れないとすれば、それは何故ですか。
あなたが、もし天国に入れないとすれば、それはあなたが何かを「した」からではありません。むしろ、あなたがあることを――悔改めを「しなかった」からです。
また、私たちが天国に入れるか入れないかの基準は、私たちの犯した罪の軽重にも関係がありません。「犯した罪が軽いから天国に入れる」のではありません。また「犯した罪が重いから天国に入れない」のでもありません。
罪の軽重は何の関係もないのです。
主イエスの一二弟子の一人イスカリオテのユダが天国に入れなかったのは、何故でしょうか。彼が主を裏切るという、重い罪を犯したからでしょうか。
そうではありません。ユダが天国に入れなかったのは、彼が「した」ことに関係しているのではありません。むしろ、彼が「しなかった」ことに関係しているのです。
ユダは、自分のしたことを悔い改めませんでした。むしろ、絶望し、自殺してしまったのです。
もし、彼が悔い改めて、もう一度主のみもとに来て赦しを乞えば、主はきっと彼を赦してくださったことでしょう。
ユダが自殺したとき、イエスはまだ死んではおられませんでした。もしユダが自分の命を断つほどの勇気があるなら、彼は人々の中、イエスの十字架のもとに走っていくだけの勇気を持つべきでした。
しかし彼は、それをしなかったのです。
「悔改め」とは、それまで神に背いて反対方向に歩いていた自分が、一八〇度向きを変えて、神と同じ向きになり、神と共に生きていくようになることです。つまり、
「まわれ右。前へ進め」
ということです。悔改めは単に罪を悔やむことではありません。罪深さに絶望することでもありません。神と共に生きることを決心し、神に信頼して神にすがって生きることです。
この点でユダは、「悔改め」をしませんでした。彼は絶望しただけで、生き方を変えることも、神にすがることもしなかったのです。
このように、ユダの「した」ことが彼を滅ぼしたのではありません。むしろ彼の「しなかった」ことが、彼を滅ぼしたのです。
ユダが滅びたのは、主を裏切ったからではない。
悔い改めなかったからである。 ドレ画
何と多くの人が、これについて誤解をしていることでしょう。どんなに大きな罪を犯したからといって、救われない人などいないのです。
では、なぜ天国に入れる人と、入れない人がいるのでしょうか。天国に入る人は罪が軽くて、入らない人は罪が重いのでしょうか。
そうではありません。天国に入るか入らないかは、罪の軽重には関係ないのです。すべての人の罪は、その人を天国から引きずり下ろすに充分なほど重いのです。
すべての人は罪を犯しました。天国に入れない人がいるのは、その人が何かを「した」からではなく、悔改め、すなわち回心を「しなかった」からなのです。
神はすべての人に、悔改めと信仰を命じておられます。
「わたしは、あなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべての背きの罪を振り捨てよ。・・・・新しい心と新しい霊を得よ。・・・・
なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから悔い改めて、生きよ」(エゼ一八・三〇〜三二)。
この句において、「新しい心と新しい霊を得よ」と言われています。悔改めとは結局、信仰に立って、新しい心、新しい霊を得ることなのです。
悔改めと信仰が命じられている
あなたは、神と救い主イエスに対する信仰を得ているでしょうか。神を天地の創造主と認め、またその御子イエス・キリストを、罪と滅びからの救い主として信じているでしょうか。
神を愛し、御子イエスに従って生きているでしょうか。神は、そうした信仰をもって生きるよう、私たちに命じておられるのです。
もし私たちが、死んだとき、天国に入れなかったとすれば、それは私たちがその信仰を持っていなかったからです。罪を犯したからではなく、信仰を持たなかったからなのです。
主イエスの十字架刑のとき、主の左右には、二人の盗賊が同じように十字架につけられました。ひとりは右に、ひとりは左につけられたのです。
盗賊たちは、はじめは二人ともイエスを信じていませんでした。しかしやがて一方の盗賊が、イエスの高貴なお姿にふれてイエスを信じるようになりました。
もう一方の盗賊はまだイエスを信じておらず、イエスをあざけって言いました。
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。
それを聞くと、イエスを信じた盗賊が、彼をたしなめて言いました。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているだから当たり前だ。だが、この方は悪いことは何もしなかったのだ」。
そしてイエスに言いました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。
すると主は、彼に言われました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ二三・三九〜四三)。
盗賊は、ふたりとも同じような重罪を犯した人物でした。しかし、一方は天国に入り、一方は入れませんでした。
天国に入れなかった人は、罪を犯したから入れなかったのでしょうか。そうではありません。悔改めと信仰を持たなかったから、入れなかったのです。
彼の「した」ことではなく、「しなかった」ことが、彼に対して天国の門を閉ざしました。
一方、イエスを信じた盗賊は、
「われわれは自分のしたことの報いを受けているのだから、当たり前だ」
と言って、真実な悔改めを示しました。また、
「イエスさま。・・・・私を思い出してください」
と言って、主イエスへの信頼を表明しています。彼には、天国の約束がすぐさま与えられました。
盗賊の一人は天国に入り、一人は入れなかった。
入れなかった人は、罪を犯したからではない。回心しなかったからである。
あなたは、この盗賊のように、今までの神を忘れた生き方を悔い改めますか。そして信仰を表明しますか。信仰に立つなら、あなたのこれまでの人生における罪の軽重に全く関係なく、天国が約束されるのです。
これは、人生で最も大切な真理です。信仰を持つか持たないかが、天国に入れるか入れないかに関して、すべてを決定するのです。
信仰を持つ者にたいしては、罪の赦し、義認、永遠の命、天国での生活は、いずれも確実なものです。死は恐怖ではありません。それはさらに高い次元の生命への移行にほかならないのです。
一八世紀のイギリスの大伝道者ジョン・ウェスレーは、ある人から「貴方がもし明晩一二時に死ぬものと決まったら、どんな用意をなさいますか」という質問を受けて、こう答えました。
「やはり、今ある予定どおりに過ごすだけです。今朝と明朝はグラウセスターに行って説教をし、それから馬でチウクスバクーに行き午後説教をし、夜は信者と会い、マルチン君の家に泊まり、その家族と話したあと神様に祈りをささげ、一〇時に寝床に入って、翌朝は栄光の国で目覚めるだけです」。
彼にとっては、天国は確実に用意されたものだったのです。それは彼の罪が軽かったからでしょうか。そうではありません。罪の軽重は全く関係ありませんでした。
彼が天国を確信できたのは、彼がただ信仰を抱いて生きたからなのです。
信仰を抱いて生きる
聖公会の高瀬恒徳主教は、こう書いています。
「私にひとりの友人がいた。数年前ガンで世を去った。
彼が重体に陥ったとき、彼は電話で『ぜひ会いたい』と言ってきた。彼は秀才で、明快な頭脳の持ち主であり、唯物的立身出世主義の権化となって巨財を積んだ大会社の社長である。
わたしが病室のドアを押すと、待っていたらしく、
『ああ、よく来てくれた。君とぼくは人生の相反する行路を選んだ。じつを言うと、君のことを迷信家でバカだと思っていた。しかし今、君がうらやましい。ぼくは聖書を読むうちに、弁解の余地のないことがわかった。そしてキリストが生ける神の子だと信じるようになった。遅まきだが、ぼくもキリストの弟子になりたいんだ。洗礼を授けてくれないか』
というのであった。
『悔改めに遅いことはない。君の生涯は、これでバンバンザイだ。人生は永遠の生涯の序曲にすぎない。君は勝利者だ』
私は洗礼を施してから、彼の手をしっかり握った。二人の目に涙が光った」。
悔改め、すなわち回心は、決して遅いことはありません――生きているうちならば。しかし、それも死んでからでは、遅すぎることになります。
あなたはもう、「まわれ右。前へ進め」を行ないましたか。マルチン・ルターは言っています。
「わたしは以前『悔改め』という言葉を、最もいやなものと思っていた。しかし今では、それがかえって最も楽しく、心地よい言葉と感じられる。そして、先には私を戦慄せしめた聖書の句が、今ではかえって私を喜び楽しませてくれている」。
悔改めをなし、回心した生涯は、光に満ちたものなのです。それは真の喜びと、平安を与えてくれるものです。
スコットランドのある教会で、ウィバーという説教者が、説教をしていました。すると、聞いていた一人の女性が非常に感動し、気絶して、バタッと会堂の床に倒れてしまいました。
医者がやって来て、脈をとって見ましたが、まだ生きています。まもなく彼女は起きあがって、言いました。
「私はようやく救い主を見いだしました。私は主イエスを信じます」。
彼女はそれまで、罪の深みに沈んだ生活をしていたのです。
彼女の家は、プレアソールという山中の貧しい一軒家でした。貧しい山村の生活がいやになった彼女は、母親を残して家出をしていたのです。
それから九年間というもの、彼女はあちこちで、したい放題の生活をしていました。しかし、どうにもならなくなり、ふとやって来たのがこの教会でした。回心した彼女は、
「お母さんの所に帰って、自分が悪かったことをおわびし、イエス様を信じたことを話そう」
と決心しました。
なつかしい山道を進み、やっとたどり着いた時はもう夜中でした。家には小さな灯がひとつ見えましたが、ノックしても返事がありません。
もう一度叩きました。しかし返事はありません。しかたなく戸を押すと、何のことはない、スーッと開くではありませんか。
山奥の真夜中の一軒家で、玄関に戸締まりがしていない! どうしたことだろう。母はこの九年の間に亡くなってしまったのだろうか。今はこの家は山賊のすみかにでもなっているのではないだろうか?
家の中には、小さな灯がさびしくまたたいていました。彼女はそれをたよりに、かねて勝手の知れている母親のベッドに近寄りました。その物音に母親の目がさめたのです。
「誰ですか」
「お母さん、私です」
その声こそ、九年間、たえて耳にしなかった娘の声でした。母親は電気に打たれたように飛び起きて、
「まあ、帰って来てくれたか!」
と涙を流しながら娘を抱きしめました。娘は母に、
「お母さん、さびしい山の中で、しかも夜中だというのに、なぜ戸締まりをしなかったのですか。もしものことがあったら大変じゃありませんか」
と言いました。しかし母は静かに言ったのです。
「いいえ、今夜ばかりではないのです。おまえが家を出たその晩から九年間というもの、戸締まりはしませんでした。おまえが夜半に帰ってもさしつかえないように、灯火をつけて鍵をかけずにおいたのです」。
私たちは、この家出した娘のように、神の家庭から出て、自分かってな利己的な生き方をしてこなかったでしょうか。私たちは「迷える小羊」のように、神の家庭から迷い出て、神ぬきの人生を送ってきたのです。
しかし、悔い改めて、主イエスを救い主と信じる者たちに対して、神の家の戸は今も開けられたままです。それはあなたを迎えるために、天国において開かれているのです。
ある人がもし、親なる神の愛のふところにもう一度戻れないとすれば、それはその人が家出を「した」からではありません。その人が、決心して神の家に帰って「来なかった」からです。
あなたは、ご自分の真の親である神の家に帰りますか。帰るなら、神はあなたを愛する子として迎え、あなたを抱きしめられることでしょう。
どうか、あなたが自分の人生を悔い改め、回心して信仰に立つことによって、罪赦された人生を歩み、永遠の命に至ることができますように。
久保有政著(レムナント1995年7月号より)
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