創造論

わかる組織神学 創造論
創造の証明・宇宙自然の創造・人の創造


「エントロピー増大の法則」は、宇宙は無限の
年齢を持っていないことを示す。宇宙には
”始まり”があった。また「エネルギー保存の法則」は、
宇宙が自然発生的に誕生したのではないことを示す。
宇宙は、超自然的な力によって創造されたのである。

 神は、ご自身の栄光を現わすために、宇宙自然を創造された。そしてご自身の愛の対象とするために、ご自身のかたちに似せて人間を創造された。


一 創造の証明


 「はじめに神が天と地を創造した(創世一・一)
 この聖句は、宇宙には始まりがあったこと、また、宇宙は超自然的な力を持つかたによって創造されたことを述べている。この聖句の正当性は、比較的簡単に、科学上の二つの法則によって証明される。
 物理学の分野に「熱力学第一法則」および「第二法則」と呼ばれるものがある。第一法則は「エネルギー保存の法則」、第二法則は「エントロピー増大の法則」である。
 これらは"仮説"ではなく、繰り返し何度も証明された科学的真理であって、科学の根本、また全宇宙を支配する絶対的法則と考えられている。
(1) エネルギー保存の法則は、反応の前と後でエネルギーの総量が変化しないことを述べたものである。エネルギー自体は、滅ぼすことも、新たにつくり出すこともできない。エネルギーは形態が変わるだけで、量は変化しない。だからエネルギーは、決して自然発生的には生まれない
 この際、質量も、エネルギーの一形態と見なされる。これは「質量とエネルギーの等価性」と言われるものである。
 さて、宇宙はエネルギーと質量を持っている。だから宇宙は、エネルギー保存の法則により、決して自然発生的には発生し得ない。つまり、宇宙は自然に誕生したのではない
(2) つぎにエントロピー増大の法則であるが、エントロピーとは使用できないエネルギーの量をいい、これが時間と共に必ず増大の方向に向かうという法則である。
 すべての物理的化学的反応は、時間がたつと、しだいに秩序から無秩序、使用できるエネルギーの豊富な状態から、使用できないエネルギーの多い状態へと移行していく。物理的化学的反応の起きやすい状態から、起きにくい状態へと移行していくのである。
 全宇宙のエントロピーは、時間と共に増大している。今後もエントロピーは増大し続け、かなりの時間がたつと(数百億年以上)、宇宙はやがて、そのどこにおいても物理的化学的反応の起きない「熱死(ヒート・デス)状態に到達する。宇宙はついに、何の事象も起きない状態に達し、死ぬのである。
 しかし現在の宇宙は、「熱死」状態にまだ達していない。これは宇宙が無限の年齢を持っていないことを、意味する。したがって宇宙には"始まり"があった
 宇宙は決して、永遠の昔から存在しているのではない。今から有限の時間をさかのぼった時点で、宇宙は始まりを得た。そのとき、エントロピーは最小であった。しかし時間と共にエントロピーは増大しており、現在の宇宙はその途上にある。
(3) 私たちは(2)により、宇宙には始まりがあったことを知り、(1)により宇宙は自然発生的に始まったのではないことを知った。(1)と(2)を合わせて考えれば、何が言えるか。
 宇宙は、超自然的な偉大な力によって創造され、始まりを得たのである。この偉大な宇宙の創造者が、神である。


二 聖書は天動説ではない


 無神論者はしばしば、「聖書は天動説を唱えている」と言って聖書を非難してきた。そして、地動説の勝利は科学の勝利であってキリスト教の敗北である、と説いてきた。
 しかしこれは事実に反する。聖書は実際には、天動説を唱えていない。
 「天動説」とは"地球のまわりを太陽がまわっている"という説、また「地動説」は"太陽のまわりを地球が回っている"とする説である。これについて、三つのことを述べよう。
 第一に、地動説を最初に唱えた人々はみな熱心なクリスチャンであり、聖書信奉者であった。彼らは、自分たちの地動説が聖書に矛盾しないと信じていた。
 地動説を最初に理論的に唱えた天文学者コペルニクスは、教会の司教であった。また、そののち望遠鏡を発明してコペルニクスの地動説を裏づけたガリレイも、クリスチャンであり、さらに自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する手紙を、友人カステリと大公妃クリスティナに書き送っている。


聖書は、天動説を唱えていない。これは地動説を最初に
唱えた人々が、みなクリスチャンであったことからも知れる。

 惑星運行の法則を発見して地動説を発展させたケプラーは、その法則を発見したとき、思わずひざまずいて偉大な創造者を讃美したと伝えられている。このように彼らはみな、聖書信奉者であり、地動説は聖書に矛盾しないと考えていた。
 第二に、天動説はもともと宗教的な教義ではなく、中世において"正統的な科学"と見られているものだった
 天動説は、はじめ二世紀に活躍した古代エジプトの大天文学者プトレマイオス(トレミー)によって唱えられ、以後ヨーロッパにおいて約一四〇〇年もの間、正統的科学の座を占めていた。
 プトレマイオスの天動説は、数学を駆使した非常に精巧な理論であって、「偏心円」「周天円」等の概念を用いて惑星の動きを詳細に説明するものだった。
 中世のカトリック教会は、この天動説を鵜呑みにしていたに過ぎない。それは聖書の教えではなく、むしろ当時「正統的」と見られていた科学上の学説であった。
 第三に、「天動説」対「地動説」の争いは、"宗教"対"科学"の争いではなかった。
 天動説は当時、正統的な科学として認められており、それに対して聖書を信じる科学者たちが、地動説という新しい科学を唱えたのである。
 だから、「天動説」対「地動説」の争いは、根本的には"古い科学"対"新しい科学"の争いだった、と言わなければならない。


三 進化論の崩壊と 創造論の復興


 つぎに、宇宙自然の誕生について"進化か創造か"という問題について考えてみよう。今日、いまだに多くの人が「進化論は事実で、聖書は間違っている」と思っている。しかし、事実はそうではない。
 宇宙自然の起源について、人々の間に三つの説がある。
 第一は、無神論的進化論である。これは神の存在を認めないために、宇宙自然が偶然の積み重ねによって今日のような高度な秩序形態に進化した、という説である。
 第二は、有神論的進化論である。これは、神が進化という方法を通して宇宙自然を創造した、という説である。
 第三は、(聖書的科学的)創造論である。これは、聖書に記されているような仕方で神が短期間(六日)に宇宙自然を創造され、生物をそれぞれ種類にしたがって創造した、という説である。
 第一と第二は進化論を認め、第三は進化論を認めない。私たちは、ここで進化論の是非を検討してみることにしよう。


(1) 進化論は崩壊の一途をたどっている

 一九世紀以来、進化論はまたたく間に全世界に広がり、人々の「常識」とされ、「事実」また「真理」として学校で教えられてきた。
 しかし、今日科学的な研究により、進化論は崩壊の一途をたどっている。進化論の「証拠」とされたものが次々に崩れ、もはや様々な科学的事実をよく説明できないことが、明らかになったのである。
 進化論は、生物について言えば、無生物から物質が進化して最初の単細胞生物(アメーバの類)が生まれ、やがて多細胞の無脊椎動物(クラゲやイソギンチャクの類)→脊椎動物(魚類)→両生類(ワニの類)→や爬虫類→鳥類や哺乳類→人間、というように長い年月をかけて進化してきたという説である。
 しかし、もし進化論が事実なら、これら各種の生物間に「中間型(移行型)と呼ばれる生物が存在したという証拠が、無数に見つからなければならない。ところがそうした中間型は、過去にも現在にも一つも見つかっていない。
 進化論者が、かつて「これは中間型だ」と主張したものは幾つかある(始祖鳥など)。しかし、その後の研究により、それらはすべて中間型ではなかったことが判明した。
 サルと人の中間である「猿人」と主張されたアウストラロピテクスなども、じつは中間型ではなく、また人間の祖先でもなく、単にサルやゴリラに似た過去の絶滅動物の一種に過ぎなかったことが、わかっている。
 さらに、進化論は生命の自然発生説なのだが、生命の自然発生説は一八五九年に、有名な「パスツールの実験」で完全に否定された。
 進化論者はその後、「長い時間」に望みをつないだ。しかし、「エントロピー増大の法則」により、むしろ長い時間がたてばたつほど、生命が偶然の積み重ねによって自然発生することは、絶対的に不可能なのである。
 そのほか、進化論の「証拠」とされたものの崩壊については、創造論に立つ多くの科学者たちが詳細に説明している。今日、進化論の証拠は、事実上一つもなくなった。


(2) 創造論は科学的に裏づけられつつある

 つぎに、聖書的科学的創造論の妥当性について見てみよう。この説は、
 "宇宙や地球また生物界の起源は、聖書に記されたような特別な創造によると考えたほうが、多くの科学的諸事実をよく説明できる"
 とするものである。今日、創造論に立つ科学者たちの基本的な考えは、次のようなものである。
 進化論が「斉一説(現在の自然界のゆっくりした変化は、過去においても常にそうだったという説)に立っているように、創造論は「激変説」に立っている。激変説とは、地球は聖書に記されているノアの大洪水の時に激変を経験した、という考えである。
 ノアの大洪水以前には、聖書で「大空の上の水(創世一・七)と呼ばれる広大な水蒸気の層が、地球上空の高温帯に広がっていた。
 水蒸気は、よく"白いもの"と誤解されたりするが、無色透明の気体である。だから当時、太陽光は、水蒸気層を通してもサンサンと地上に降り注いでいた。
 また上空にあった水蒸気層のために、大洪水以前の地球は、ちょうどビニールハウスの中のように、緯度の高低にかかわらずどこも温暖だった。


ノアの大洪水以前の地球には、大気上空の高温帯に、
「大空の上の水」
(創世1:7)と呼ばれる透明な厚い
水蒸気層があった。この水蒸気層のために、
大洪水以前の地球は、どこもビニールハウス
の中のように温暖だった。

 北極・南極地方も温暖であって、氷に閉ざされてはいなかった。実際、摂氏二〇度以上の水温がなければ生育できないサンゴの化石が、北極圏から発見されている。
 また、植物の遺骸である石炭層が南極大陸で大量に発見されたりしているのも、そのためである。
 しかしノアの日に、水蒸気層は均衡が崩され、「四〇日四〇夜」にわたる全世界的な大雨となって地上に落下した。このとき、大洪水に洗われた全地において、様々な地殻変動が生じた。
 「山は上がり、谷は沈み(詩篇一〇四・八)、地形は大きく変わった。エベレストのような高山や、日本海溝などの巨大な谷は、比較的最近できたものであることがわかっているが、それらはこのときに出来たのである。
 また大洪水はその後、地表に水平に横たわる、厚い土砂の堆積層を形成した。これが地層である。大洪水によって死んだ生物たちは、この地層の中に捕らえられ、高圧力下において化石化した。
 化石は、生物の遺骸がこのようにすばやく厚い堆積層の中に葬られなければ、決して形成されないのである。
 もし長い年月をかけて地層が堆積したとすると、死んだ生物は化石になる前に風化し、分解してしまい、決して化石にはならない。
 さて、大洪水によって生物の遺骸が地層内に捕らえられたとき、海底生物の遺骸は最も下の層に捕らえられた。
 また魚類や両生類は、泳ぐことができたのでその上の層に、陸生生物は海の生物より高い所に住み移動性にも優れていたので、さらに上の層に捕らえられた。
 そして人間は、高度な移動性と、水から逃れるための知恵を持ち合わせていたので、一般に最も高い所で発見される。地層においては一般的に、
 "下の層には下等・単純な生物、上の層に行くに従って高等・複雑な生物の化石が発見される"
 ということが見られるが、これは進化の順序ではなく、このように大洪水の考えでよく説明されるものなのである。
 つまり、生物は、下等・単純なものから高等・複雑なものへと進化したのではない。生物界は聖書に記されているように、はじめから多種多様なものとして創造され、存在していた。


”下の地層に下等な生物化石、上の地層に高等な生物化石”は、
進化を現わしているのではない。それは大洪水によって
地層が形成されたとき、高等な生物は逃げることができたので、
上の層に捕らえられた、ということを示しているのである。

 それらはおのおの「種類にしたがって(創世一・二一)造られ、はじめから豊かなバラエティを持っていたのである。生物分類学、遺伝学、分子生物学、そのほかあらゆる生物学の研究は、この聖書の主張に符合している。
 地球物理学、惑星物理学などの分野でも、創造論に立つ科学者たちは、多くの優れた業績を残している。彼らは、宇宙自然は創造されたものと考えるのが最も理にかなっている、と述べている。
 科学的諸事実を最もよく説明するものは、進化論ではなく、創造論なのである。


(3) 創造はいつだったか

 では、宇宙自然や生物界の創造は、どのくらい昔の時代になされたのか。
 聖書の文字通りの解釈によれば、人類も、生物界も、地球も宇宙もすべて、今から"約六千年前"に創造された(創世記五章)
 一方、進化論者は、宇宙や地球の年齢について億年単位の長大な時間を主張してきた。それらは誕生してから何十億年ないし何百億年もたっている、という教えは、人々の耳に何度も繰り返されてきた。
 しかし、それでも私たちは、聖書の教えのほうがはるかに理にかなっていると、知るのである。というのは、聖書によれば人類の始祖アダムは、成人の姿で創造された。彼は創造されたとき、赤ん坊だったのではない。
 アダムは誕生第一日目にすでに、今の私たちの感覚で言えばあたかも何十年もすでに生きてきた人であるかのような、大人の姿形をしていた。
 しかし、誕生第一日目の彼の年齢は、実際には二四時間にも満たなかったのである。
 地球や宇宙の年齢についても、全く同様のことが言える。地球や宇宙は、ある者たちには億年単位の長大な期間を経たもののように見えるであろう。
 しかし、六日にわたった神の天地創造のみわざが終了したとき、地球や宇宙はすでに、現在見られるような完成されたシステムになっていた。それは実際には「六日」の年齢に過ぎなかったのであるが、すでに何億年もの時間を経たものであるかのように見えたのである。
 私たちが神の全能の力を信じるなら、人類も生物界も地球も宇宙も、すべて今から約六千年前に創造された、と考えることに困難はない。
 宇宙は単に、長大な期間を経たかのように見えるだけなのである。実際は、それほど長い年月を経ているわけではない。
 たとえば、主イエス・キリストが公生涯の初めに"樽の中の水をぶどう酒に変えられた"という記事を思い起こしてほしい(ヨハ二・一〜一一)
 これは奇跡であるが、じつは"水がぶどう酒に変わる"ということ自体は、自然界でふつうに起こっていることである。
 雨が降り、その水を受けて、ぶどうが生育する。人がぶどうの実を集めて、踏み、ぶどう酒をつくる。雨の水がぶどう酒に変わるまでには、そうしたプロセスと長い時間が必要だが、水がぶどう酒に変わること自体は、普通に起こっていることなのである。
 では、なぜイエスのなさったことが奇跡なのか。それは、水がぶどう酒に変わるまでのそうしたプロセスと時間が、省かれたからである。
 御子イエスを世に送られた父なる神は、全能の創造の力をお持ちである。神は、天地宇宙を創造された。
 そのとき、人間には何百億年もかかると思われるような宇宙のシステム構築を、神はわずか六日でなし遂げられたのである。
 宇宙自然は六日間をかけて創造され、それから今まで約六千年の歳月を経ている。この聖書の主張を裏づける何らかの科学的証拠は、他にもあるだろうか。
 ある。たとえば、進化論者は地球も月も約四六億年の年齢であると考えていたから、月面にはその期間中ずっと宇宙塵(宇宙からのチリで微小な隕石)が降り積もり、現在は数十メートルもの厚さに達していると考えていた。
 月には大気がないので、宇宙塵は大気中で燃え尽きることなく、そのまま降り積もり、ぶ厚い層を形成しているはずであった。
 しかし、アポロ宇宙船の飛行士が月に行ったとき、月面の宇宙塵の厚さはわずか数ミリに過ぎなかった。月は思いのほか、きわめて若かったのである。
 また、彗星が存在するという事実も、宇宙がきわめて若いことを示している。彗星は、太陽の近くを通るたびに、太陽風(太陽からの放射線)に表面を吹き飛ばされ、しだいに物質を失っていく。それが彗星の「尾」として見えるのである。
 彗星は、しだいに物質を失い、公転周期の短い彗星で約一万年、長い周期のものでも最大一〇〇万年程度でなくなってしまう。それがなぜ、今も存在するのか。
 宇宙はきわめて若いのである。そのほか地球大気中の炭素一四の量、海の塩分の量、地球磁気等の研究結果は、地球がきわめて若く、一万年以下であることを示している。
 創造論に立つ科学者たちは、地球や、宇宙、また生物界の年齢がきわめて若いという科学的証拠を、数多く提出している。
 真に科学的精神を持つ者は、そうした証拠をよく検討してみなければならない(詳しくは、レムナント出版発行『科学の説明が聖書に近づいたPart1』等を参照)


(4) 有神論的進化論の欠陥

 つぎに、有神論的進化論の間違いについて見てみよう。これは"神は進化という方法を通して宇宙自然を創造された"という説である。
 有神論的進化論者は、おもに次の二つの説を提出してきた。第一は「間隙説」である。
 間隙説は、聖書の創世記一章一節と、二節の間に何十億年もの「間隙」(ギャップ)があった、とするものである。
 つまり、一節の「初めに神が天と地を創造した」のあとに、数十億年もの時間がたってから、二節の「地は形がなく、何もなかった・・・・」が続くという考えである。
 こうした考えが生まれたのは、進化論者の主張する億年単位の宇宙の年齢と、聖書の記述を調和させようとしたからである。
 しかしこの説は、一部を進化論的に考え、一部を聖書に基づいて理解しようとする中途半端な説に過ぎない。
 また聖書の原語(ヘブル語)を調べてみると、創世記一章一節と二節は、二つの文に分けることが困難である。多くの訳は、伝統的に一章一節を「初めに神が天と地を創造した」と訳してきたが、この原語は、
 「神が天と地を創造し始めたとき・・・・」
 とも訳され、そのまま二節につながる言葉なのである(新改訳聖書欄外注を参照)
 つまり、創世記一章一節と二節の間に何十億年もの間隙があった、と考えることは、聖書的に適切でない。また、科学的にも適切でない。
 第二に、有神論的進化論者は「一日一時代説」も主張してきた。これについてはどうだろうか。
 これは、創世記一章の創造の「日」を、約二四時間の日と考えるのではなく何億年もの「時代」を表している、と考える説である。しかしこれも、聖書的および科学的の両方において問題がある。
 まず聖書的に見るなら、モーセの十戒に次のように言われている。
 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである」(出エ二〇・八〜一一)
 もし、創造の「日」を何億年もの時代と考えたりすれば、安息日の律法は何の意味もなくなる。私たちは何億年もの時代を六回繰り返す期間働いた後、七回目の何億年もの時代を休まなければならない、ということになってしまう。
 また一日一時代説によると、宇宙自然が形成される何億年もの進化の期間内に、無数の生物の死が積み重ねられたことになる。
 しかしこれは、アダムによって初めて生物界に死が入った、という聖書の教えに矛盾する。一日一時代説は、聖書に合致しないのである。
 さらに、一日一時代説は、科学にも合致しない。創世記一章によると、神は植物を「第三日」に創造された。一方、神は昆虫類を「第五日」あるいは「第六日」に創造されている。
 植物、とくに雄花と雌花が分かれているようなものが受精するには、昆虫が欠かせない。昆虫が花から花へ花粉を運ぶのである。
 もし一日一時代説をとると、植物は何億年ものあいだ昆虫なしで存続し続けたことになる。これは科学の知識に反する。
 このように、一日一時代説は科学にも聖書にも合致しない。間隙説もそうである。有神論的進化論は理にかなっていない、と言わなければならない。


(5) 宇宙自然は創造された

 無神論的進化論、および有神論的進化論は、世界と生命の起源をよく説明しない。
 宇宙の秩序正しいシステムや、人間の体の高度に組織化されたシステムは決して、長い時間があれば自然に出来るというものではない。
 偶然も、時間も、宇宙の創造者とはなり得ない。宇宙自然は神の偉大な創造の力によって造られた、と考えることが最も理にかなっている。
 私たちは全能の神の存在と、その偉大な力を信じるべきである。それを信じるなら、天地創造の「六日間」という時間は長すぎるくらいなのである。
 神は、天地を一瞬にして創造することもお出来になった。しかし一瞬にしてではなく、六日間もの時間をかけて創造された、ということにこそ、じつは意味があるのである。この「日」は、文字通り約二四時間の日であり、地球の一回の自転時間をさす。
 人類、生物界、地球、宇宙は、神によって創造された。これらは、創造されてから何億年もの長大な時間を経ているのではなく、きわめて若いものなのである。


ブレイク画「天地創造」
「あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを」
(ヨブ38:5)


四 人の創造


 神は、悠遠に広がる荘厳な宇宙自然を、ご自身の栄光を現わすために創造された。
 「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇一九・一)
 また、神は人に、宇宙の中の小さな地球という惑星を住まいとして与えられた。
 「天は、主の天である。しかし地は、人の子らに与えられた(詩篇一一五・一六)
 じつは宇宙自然の創造は、人間をそこに置くためだった、と言っても過言ではない。親は赤ん坊が生まれようとするとき、生まれる前から赤ん坊を寝かせるベッドや、部屋、服、赤ん坊をあやすオモチャなど、様々のものを用意するものである。そのあと、赤ん坊の誕生を迎える。
 同様に、神は天地創造の六日間において様々のものを創造されたあと、最後に人間を造って、その世界に置かれた。宇宙自然は、そこに人間を置き、神が人と交わり、また神のご栄光が人と自然を通して現わされるためであった。


(1) 人の創造目的

 人の創造目的は、神が人によって喜びを受け、また人が、神によって喜びを受けることにあった。人の創造目的は、神と人の双方の幸福を目指していた。
 「人生の目的は永遠に神を喜ぶことにある」という言葉は、人生の目的の半分を言い表したものにすぎない。それはさらに、創造者なる神が人間を喜ぶという、創造者ご自身の喜びをも目指していたのである。
 神は、人が自由意志によって神を愛し神の栄光を現わすことにより、ご自身が喜びを受けることを望まれた。
 さらに、人が神を愛し神に愛されることによって、人が喜びを受けることを、神は望まれた。預言者イザヤの書において、人の創造目的が回復した世界について言われている。
 「だから、わたし(神)の創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする(イザ六五・一八〜一九)
 この聖句の前半は"人が神を喜ぶ"ことを、後半は"神が人を喜ぶ"ことを言っている。相互の幸福が、人の創造目的であった。


      人は神の愛の対象として造られた。  ミケランジェロ「アダムの創造」


(2) 全人類は最初のひとりの人に始まった

 「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ・・・・」(使徒一七・二六)
 人類が最初の一人の人に始まったというこの聖句は、科学的に裏づけられている。
 人類には、黄色・白色・黒色人種(モンゴロイド・コーカソイド・ニグロイド)等の別があっても、それらすべては同一の「種」に属し、同一の先祖に発している
 同一の種に属するとは、次のようなことである。イヌとネコは、互いに交配して子孫を生むことはできない。種が違うからである。サルと人も、互いに交配して子孫を生むことが出来ない。種が違うからである。
 しかし、黄色・白色・黒色人種は、相互間で結婚して子孫を生むことができる。これは同一の種に属するからである。
 同一の種に属するものが同一の先祖に発したものであることは、生物学的に明らかに知られている。
 したがって、人類はみな最初の共通の先祖に発した。私たちはその先祖をアダム(およびエバ)と呼ぶのである。


(3) 人は神のかたちに造られた

 「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された」(創世一・二七)
 人の創造目的は、神が人によって喜びを受け、人が神によって喜びを受けることにあったから、人は「神のかたち」に造られる必要があった。「神のかたち」は、人が神の子となるためである。創世記五・三に、
 「アダムは、一三〇年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた」
 とあるが、この「かたち」は、神の「かたち」の原語と同じである。
 子は、親の「かたち」を持つがゆえに子である。すなわち、人は神の子となるために、神のかたちに造られた。ルカ三・三八に、神のかたちに造られた「アダムは、神の子である」と記されている。
 アダムに限らず、アダムから生まれてくるすべての人間は、神の子となるために造られた。
 しかし、アダムの「かたち」は肉体的な類似も意味するが、「神のかたち」は肉体的な類似を意味するのではない。神は肉体を持っておられないからである。「神のかたち」には、次の三つの意味がある。
 第一に、人間の精神的働き、また肉体上の機能に関してである。
 神は、「見る」「聞く」「語る」「活動する」「知る」「思う」「感じる」「意志する」等の働きを持っておられる。
 神の持つそうした各種の働きに対応するものとして、つまりそうした神の"かたち"に似せて、人間も、「見る」「聞く」「語る」「活動する」「知る」「思う」「感じる」「意志する」などの働きを持つ者として創造されたのである。
 霊なる神は、各種の働きをされる。それら各種の働きに似せて、人間の精神および肉体は、各種の働きと機能を持つものとして、創造された。
 とくに人間の知情意は、神のかたちに似せて造られた。
 たとえば、人が動物と違って本能以上の心を持つこと、理性を持つこと、真の言語体系を持つこと、文化文明をつくり出す創造性を持つこと、「永遠への思い」(伝道三・一一)を持つこと、真理への探求心を持つこと、しばしば無私の愛を見せること等は、人が神のかたちに造られたからにほかならない。
 第二に、「神のかたち」は、神が意志決定において全く自由であるように、人も意志決定において全く自由な者に造られた、ということである。
 神は、ご自身の完全に自由な意志によって、永遠に悪を排し、善を選び取っておられる。
 人は神の子となるために、そうした神のかたちに似せて全き自由意志を持つ者として、造られる必要があった。人は自分の自由意志によって、悪を排し、善を選び取る者でなければならない。
 すなわち、神の創造のみわざは、二つの点で特別であった。一つは、無から有への創造をされたこと。そして二つ目は、自由意志を持つ人間という存在者をつくり出されたこと。
 神は、ご自身とは別の意志を持ち得る存在者をつくり出された。これらは、無限の力を持つ神にしかできないことであった。
 第三に、「神のかたち」は、神が他者との"交わり"を欲するかたであるのと同じく、人も"交わり"の中に生きる者として創造された、ということである。
 後述するように、神は「三位一体の神」であり、ご自身の内に御父・御子・御霊の永遠の"交わり"を持っておられる。
 また神は、人との間に、愛と生命の豊かな交わりを持ちたいとお望みになった。神は他者との交わりを、楽しまれるかたなのである。
 このように神は交わりを欲するかたであるから、その神の「かたち」に似せて、人間世界にも様々の交わりをお与えになった。
 日本語の「人間」という言葉が示すように、人は、人と人の「間」に生き、他者との人間関係と、交わりの中に生きる。
 神はまた、人の世界に男女を造って、その間に「交わり」をお与えになった。これは「神のかたち」の反映の一つである。
 「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世一・二七)
 ここには、じつは「奥義」(エペ五・三二)がある。人が男と女に創造されたこと、またそこに交わりが与えられたことは、神と人の間に持たれるべき"愛と生命の交わり"というかたちの「影」なのである。
 神がふしだらな男女関係を禁じ、健全な結婚生活を築くことを命じておられるのも、ここに理由がある。
 以上が、「神のかたち」のおもな意味である。


人が男と女に造られたことにも、「神のかたち」が関係している。 
                                      レンブラント画「ユダヤの花嫁」


(4) 神のかたちは失われたか

 人は神のかたちに創造されたが、このことは、アダムとエバの堕落によって変化しただろうか。
 ある人々は、神のかたちは人の堕落によって全く失われてしまった、と言う。しかし、これは間違っている。なぜなら、大洪水後に神はノアに対してこう言われた。
 「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世九・六)
 これはアダムとエバの堕落後の言葉である。人の血を流してはならないという戒めの理由として、人が「神のかたち」に造られたから、と言われている。
 もし堕落によって神のかたちが完全に失われたなら、このように言われるはずがない。すなわち、神のかたちは人の堕落後も、罪によって損なわれながらも存続しているのである。
 私たち人間には、まだ「神のかたち」が残っている。神が、私たちの魂を救いたいと狂おしいまでに思われるのは、この「神のかたち」のゆえである。
 神は、人にある神のかたちを完全に回復させたいと願っておられる。神のかたちの回復は、神が人を救いたいと思われる動機である。
 もし、神のかたちがもはや全くないならば、たとえ人のためのどんな手だてが施されようと、人が自由意志によって神に立ち返ることはあり得ない。
 しかし、人は「神のかたち」を持つゆえに、堕落の中にあっても、なお自由意志によって神に立ち返り、救われる可能性を持つ。


(5) 人の構成

肉体
 「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」(創世二・七)
 最初の人アダムの肉体は、「土地のちりで形造」られた。これは無から有への創造ではなく、有から有への創造的形成である。
 私たちの肉体は、おもにタンパク質でできているが、タンパク質は炭素、水素、窒素、酸素、硫黄という元素が有機的に結合したものである。
 ほかに肉体を構成する元素として、骨を構成するカルシウムや、他の微量元素等もあるが、どれもみなありふれた元素であって、すべて地球の地殻中の「土」に含まれている。
 肉体は、元素レベルで言えば「土地のちり」に等しい。そこにある違いと言えば、肉体は、それらの元素が有機的に結合してタンパク質等をつくり、細胞をつくり、組織をつくり、器官をつくり、それらが集まって一個の肉体という高度なシステムに出来上がっている、ということである。


細胞を構成している物質は、
元素レベルで言えば、すべて
「土のちり」の中に含まれている。
写真はタマネギの鱗葉(りんよう)の表皮細胞(1000倍)

 この有機的な結合と高度なシステム化に、神の御手が働いたのである。
 私たちは、高度なシステムである肉体が「突然変異」という遺伝子の間違いの積み重ねによって進化して出現した、という進化論を迷信と言わなければならない。人の肉体は神の創造の力による、と考えることが最も理にかなっている。

霊・魂
 さて、神は肉体を形成したあと、その「鼻に、いのちの息を吹き込まれた」。「いのちの息」とは「霊」のことである(聖書では霊と息に同じ言葉が用いられる)。霊が吹き込まれたことによって、人は一個の生命体となった。
 (ヘブル語ルーアハ、ギリシャ語プニューマ)は、人間の内にある見えない実体であって、すべての生命現象と精神現象(心)の元である。また、「私」という意識の座である。
 では「(ヘブル語ネフェシュ、ギリシャ語プシュケー)という言葉は、何を意味するのだろうか。
 「魂」と「霊」は、ほとんどの場合は同義語と考えてよいが、厳密にいうと違いがある。
 まず違いを見てみよう。「魂」と「霊」の違いは、たとえば海と水の違いに似ている。海は水からなる。水は海流や波などの現象を起こす。こうした水と、水の現象等の総称が「海」である。
 同様に、魂は霊からなる。霊は、人間の内に心や思い等の現象を起こす。この"霊"と"霊の引き起こす現象"(心、思い)とを合わせた総称が「魂」なのである。
 「魂」は、"霊"と"霊の現象である心"とを合わせた総合的な霊的実体をいう。だから人は自分の内に、ただ一つの魂を持つ
 しかし霊はそうではない。自己の意識の座である"人間固有の霊"は一つだが、人間はそれ以外に"特殊な霊"を幾つか持つことがある。
 たとえば福音書に、マグダラのマリヤは「七つの悪霊を追い出してもらった」(ルカ八・二)と記されている。
 彼女は、自分の"固有の霊"以外に、特殊な霊――七つの悪霊を所有していた。そのほか、人は「祈りの霊」「預言の霊」等、特殊な働きをする良い霊を受けることもある。
 これらは、人間固有の霊に影響を及ぼす霊である。しかし、それらすべてを総合した霊的実体を魂と呼ぶから、魂は常に一つである。
 これが「魂」と「霊」の違いである。しかし魂と、人間固有の霊は本質的に同じものをさしているから、両者は同義語として使われることも多い。
 たとえば、人の死に際して肉体から分離するのは、聖書のある箇所では「魂」と言われ、別の箇所では「霊」と言われている。ヤコブの妻ラケルの死については、
 「彼女が死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき・・・・」(創世三五・一八)
 と記され、一方で、イエスによるヤイロの娘のよみがえりについては、
 「すると娘の霊が戻って、娘はただちに起きあがった」(ルカ八・五五)
 と記されている。このように、ふつうは魂と霊は同義語として用いてさしつかえない。
 「魂も体も、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方(神)を恐れなさい」(マタ一〇・二八)
 「ちりはもとあった地に帰り、はこれを下さった神に帰る」(伝道一二・七)
 ――これらの聖句も、魂と霊が同義語として用いられている例である。
 聖書では多くの場合、人間は「魂と肉体」または「霊と肉体」というように、人間を二区分で言い表している。
 では、第一テサロニケ五・二三の次の言葉は、どう理解すべきだろうか。
 「あなたがたの霊、魂、体が完全に守られますように」(一テサ五・二三)
 これは人間のうちに三区分を設けたもの、と言われることがあるが、そうではない。単に、「霊、魂、体」という三つの言葉をあげることによって"人間全体"ということが強調されているのである。
 この場合、「霊」は人間固有の霊、「魂」は"霊"および霊の現象である"心"とを合わせた総称と考えてよい。「霊」と「魂」が、全く別々の領域をさしているわけではない。イエスは、
 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マコ一二・三〇)
 と言われた。この記述に基づいて人間に四区分を設けよう、という人は誰もいない。それと同じで、「霊、魂、体」は人間の三区分を示しているのではなく、単に人間全体ということが強調されているのである。
 ふつうは、人間は「魂と肉体」「霊と肉体」というように、二区分的表現で言い表してよい


人間は統一体である
 つぎに、肉体と魂(霊)の関係について見ておこう。
 古今東西において、人々の間には、肉体や物質を悪と見る考え方があった。そして、悪なる肉体を捨て、魂が肉体という牢獄から救われることを願って修行した人々がいた。
 しかし聖書によれば、肉体や物質それ自体は決して悪ではない。それらの創造者は神だからである。肉体も物質も、本来は良いものである。
人間は、肉体と魂からなる者として創造された。両方とも、人間にとって本質的なものである。両方が揃わなければ、本来の完成された人間の姿ではない。
 だから聖書は、神は魂を救ってくださるとともに、最終的に人の体も救ってくださる、と説く。魂には罪の赦し、義認、新生等が与えられるが、体にも、最終的に救いがもたらされる。
 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださるのです」(ピリ三・二一)
 体はやがて、死も病気もない、朽ちない体に変えられる。これは世の終わりの復活の時に成就するのであるが、神の救いは最終的に体にまで及ぶのである。
 このように、神の救いの対象となるのは、魂と体の両方である。聖書は、人間の体を決して軽視しない。体は、魂と同様に人間にとって本質的なものである。
 人間の肉体と魂は、互いに独立した"部分"なのではない。それらは有機的に結合した統一体である。
 肉体は物質界における人間の全体であり、魂は霊の世界における人間の全体である。そして両者は、この二つの世界にまたがって、人間という統一された生命体を形成しているのである。

                                 久保有政(レムナント1995年9月号より)

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