信仰・救い

わかる組織神学 堕落論
アダムとエバの堕落、また人類の堕落はなぜ起こったか。


               アダムとエバ デューラー画

 人は、自由意志を持つ者として創造された。それゆえ神を愛することも、神を離れることも、人の自由であった。人は、善だけを行ない続ける可能性とともに、悪を行なって堕落する可能性も有していた。


一 人は自由意志を与えられた

 もし、私たちに出来ることが一つしかないとすれば、私たちは自由とは言えない。自由とは、幾つかある道の中から、自分の進む道を自主的に選択できることである。
 神はご自身、「自由意志」を持っておられる。神は主体的・自主的決断のできるかたである。この自由意志により、神は永遠に善を選び取り、悪を排除しておられる。だからこそ、自由意志には価値がある。
 さて、神のかたちに似せて人が造られたとき、神は人にも「自由意志」をお与えになった。人は主体的・自主的決断をする存在者となった。
 「自由意志」こそ、ロボットや操り人形と、主体的行動者としての人間とを区別する本質的要因である。
 もし、人が善しか行なえないようにプログラムされていたら、人は自由ではなかった。それは操り人形に過ぎない。
 しかし、人は自由意志を与えられたので、善だけを行ない続ける可能性とともに、悪を行なって堕落する可能性も有していた。
 アダムとエバは、自動車のギヤで言えばニュートラルの状態に置かれた。前進か後退かは、彼らの自由意志による。
 だから、自由意志を与えられた人間は、神と同様に主体的に善を選び取り、悪を退ける決断をしなければならなかった。その決断なしに、自由意志の価値は実証されない。
 人にとって善とは、宇宙の絶対者である神のご命令を守ることである。また悪とは、神のご命令に背くことである。
 神は、アダムとエバを造ってエデンの園に置かれたとき、彼らに幾つかのご命令をお与えになった。それはまず、
 「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世一・二八)
 であった。また、エデンの園の中央に生え出た二本の木――「命の木」と「善悪を知る木」に関しても、次のようなご命令をお与えになった。
 「あなたは園のどの木からでも、心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世二・一六〜一七口語訳)
 アダムとエバは「園のどの木からでも心のままに取って食べて」良かったから、たとえ「命の木」から実を取って食べても良かった。
 ただ、「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という一つの禁止命令が与えられたのである。
 これは、彼らの自由意志で守らねばならなかった。もし守らないなら、それは彼らの堕落を意味した。


エデンの園に置かれたアダムとエバには、
自由意志が与えられていた。


二 「命の木」「善悪を知る木」の意味

 ここで私たちは、「命の木」「善悪を知る木」の意味を正しく知らなければならない。

「命の木」の意味
 「命」は、神の永遠の命をさす。朽ちない不死の命である。聖書には、天国には「命の木」があり(黙示二・七)、来たるべき新天新地の新エルサレムにも「命の木」がある、と記されている(黙示二二・二)
 だから「命の木」は、天国の永遠の命の世界を代表・象徴するものであった。
 神の住んでおられる天国という世界には、命だけがあって、死がない。歓喜だけがあって、悲しみがない。光だけがあって、闇がない。幸福だけがあって、不幸がない。真理だけがあって、虚偽がない。対立物がなく、良いものだけがある(黙示二一・四)
 天国では、命と絶対善が一元的に支配している。「命の木」は、この世界を代表・象徴するものとして、天国とエデンの園の間に橋渡しをするものであった。


「いのちの木」は、”永遠の命と絶対善の世界”を代表・象徴していた。


「善悪を知る木」の意味
 「善悪」の原語のヘブル語(トーブ・ワーラー)は、自然的善悪と道徳的善悪の双方を意味する
 自然的善悪とは、幸福と不幸、命と死、喜びと悲しみ、祝福と災いなど、道徳とは無関係の"良いことと悪いこと"をさす(民数一三・一九)。一方、道徳的善悪は、道徳また倫理上の良いことと、悪いことである。
 だから「善悪を知る木」の「善悪」は、単に道徳的善悪だけでなく、自然的善悪と道徳的善悪の両方を意味していた。「善悪を知る木」は"自然的善悪と道徳的善悪に規定される世界"を代表・象徴するものだったのである。
 今私たちが住んでいる現実の世界は、自然的善悪と道徳的善悪の双方が満ちた世界である。
 私たちの世界には、生と死があり、幸福と不幸があり、光と闇があり、真理と虚偽、善行と悪行、善心と悪心がある。多くの対立要素があるのである。
 こうした対立要素によって規定される世界は"生死と善悪の世界"または"生死と善悪の対立世界"等と呼ぶことができるであろう。エデンの園にあった「善悪を知る木」は、この世界を代表・象徴していた。
 ちょうど、命の木が"永遠の命と絶対善の世界"の入り口となっていたように、善悪を知る木は、"生死と善悪の世界"への入り口となっていた。二本の木は、二種類の異なる世界を代表・象徴していたのである。


「善悪を知る木」は、”生死と善悪の世界”を代表・象徴していた。

 では、ほかに"死と悪の世界"というものは存在し得るであろうか。存在し得ない。なぜなら、そうした世界には死だけがあるから、存在しないに等しいのである。
 アダムとエバの前に存在し得た世界は、"永遠の命と絶対善の世界"および"生死と善悪の世界"の二種類だけであった。だからエデンの園には、それらを代表・象徴する「命の木」と「善悪を知る木」とが設けられた。


三 「知る」「食べる」の意味

 このことは、「知る」「食べる」等の聖書的意味を知ることによって、さらにはっきりする。

「知る」の意味
 「善悪を知る木」は、新改訳では「善悪の知識の木」と訳されているが、口語訳のように「善悪を知る木」と訳すのが適当である。
 「知識」というと、単に観念的知識――頭で知る知識と思われやすい。しかし、ここで述べている「知る」は単なる観念的知識ではない。というのは創世記三・二二に、
 「人は・・・・善悪を知るようになった」
 と記されているが、この「知る」のヘブル原語ヤーダーは、創世記四・一の次の言葉にも使われている。
 「人(アダム)はその妻エバを知った(創世四・一)
 この「知った」は、セックスを意味している。このように聖書でいう「知る」は、単に頭で知るという意味ではなく、自分の全存在をあげて対象または相手とかかわることなのである。
 だから「人は善悪を知るようになった」と言うとき、それは、何が善で何が悪かという観念的知識を持ったという意味ではない。道徳的善悪の区別が頭でわかるようになった、という意味でもない。
 そうではなく、人が自分の全存在をあげて自然的善悪と道徳的善悪の双方にかかわるようになった、という意味である。
 「善悪を知る木」以来、人は自然的善と悪、道徳的善と悪の世界に没入し、それらは人の全生涯にかかわるものとなった。善と悪が、彼らの人生のすべてを特徴づけるものとなったのである。

「食べる」の意味
 「食べる」は、自己の内に取り入れ、自分の血とし肉とすることであるから、聖書では"自己の内に展開していく"という意味に使われる。
 たとえば、黙示録を記した使徒ヨハネは、天の御使いから預言の巻き物を渡され、それを「食べる」よう命じられたので食べた。すると、彼の口から預言の言葉が次々に出てきた(黙示一〇・九〜一一)。預言者エゼキエルも同様の体験をしている(エゼ二・八〜三・四)
 アダムとエバは、善悪を知る木から実を取って「食べた」。これは、善悪を知る木によって代表・象徴される生死と善悪の世界が、こののち彼らの内に、また彼らから生まれ出てくる子孫の内に、展開していくことを意味していた。


「食べる」は、聖書ではそれが自己の内に展開していくことを意味する。

 善悪を知る木から取って「食べる」なら、人は幸福と不幸、また善と悪が同居する世界に入らねばならなかった。
 さらに、その後の人類の歴史は、善と悪が複雑に交錯するものとならなければならなかった。だから神は、この木から取って食べることを禁じられたのである。


四 サタンの堕落

 アダムとエバの堕落の前に、サタンの堕落があった。

蛇の背後にいたサタン
 アダムとエバを誘惑したのは、「蛇」であった(創世三・一)。「蛇」の背後には、悪の勢力の主体であり霊的存在者であるサタン(悪魔)がいた。それは、ヨハネ黙示録一二・九の次の言葉から明らかである。
 「この巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は・・・・」。
 エデンの園でアダムとエバを誘惑した「蛇」は、単なる爬虫類の蛇というわけではなく、その背後にサタンがいたのである。私たちはここで、サタンの起源に関して見ておく必要がある。

サタンはもとは良い天使のひとりだった
 サタンは、もとは良い天使のひとりであった。はじめから悪の勢力の主体だったのではない。しかし、堕落し、のちに悪の勢力の主体となった。
 というのは、私たちはサタンが永遠の昔から存在していたと、考えることはできない。永遠の昔から存在しておられるのは、神だけだからである。サタンには誕生した時があった。
 また、サタンが誕生当初から悪い者だった、と考えることもできない。神はご自身で悪を造ったり、人を誘惑したりすることはなさらないからである(ヤコ一・一三)
 神の天地創造のみわざが終了したときのことについて、聖書は、
 「神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。・・・・第六日」(創世一・三一)
 と記している。「良かった」と見られたこれらの被造物の中には、霊的被造物である天使たちも含まれている。
 したがってサタンは、もとは自由意志を持つ良い天使のひとりとして誕生したことがわかる。そののちに堕落して、悪の勢力の主体となったのである。


天使も被造物であり、自由意志を持つ。 
                      カール・ブロック画


サタンには自由意志があった
 サタンの堕落について、エゼキエル書にこう記されている。
 「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。・・・・わたしはあなたを、油注がれた守護者ケルブと共に、神の聖なる山に置いた。あなたは火の間を歩いていた。
 あなたの行ないは、あなたが造られた日から、あなたに不正が見いだされるまでは完全だった。・・・・あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして、神の山から追い出し、守護者ケルブが、火の石の間からあなたを消えうせさせた」(エゼ二八・一二〜一六)
 この聖句には、サタンの堕落に関する事柄が二重写しに語られている(文脈は都市国家ツロに関する預言であるが、これらの言葉はツロに関しては文字通りには当てはまらない)
 この中に、「わたしはあなたを、油注がれた守護者ケルブと共に、神の聖なる山に置いた」と訳された句があるが、この原語の直訳は、
 「あなたは油注がれた守護者ケルブ。わたしはあなたに与えた。あなたは神の山にいて、火の石・・・・」
 である(新改訳の欄外注を参照)
 「ケルブ」とは、守護天使のことである(複数形はケルビム)。サタンは、守護天使ケルブのひとりとして、天界の神の山シオン(黙示一四・一、ヘブ一二・二二)から、エデンを守っていたのである。
 天使たちは、神と人に「仕える霊」として創造された者だから(ヘブ一・一四)、サタンも天使のひとりとして、人間に仕え、守り、またそれを通して神に仕える役にあった。しかし彼はのちに罪を犯し、堕落して、天界の神の山シオンから追放されたのである。

サタンは高慢の罪によって堕落した
 このときサタンが犯した罪とは、「高慢」であった。それは第一テモテ三・六の、
 「(人が)高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないため」
 という言葉からも知れる。サタンは高慢になって、「いと高き方のようになろう」(イザ一四・一四)と言った。彼は自分が神のようになろうとしたのである。サタンはイエスの公生涯開始に際しても、
 「もしあなたが私を拝むなら・・・・」
 と、荒野のイエスを誘惑している(ルカ四・七)。サタンの高慢の罪は続いているのである。
 このようにサタンは、創造されたときは良い者であったが、自由意志によって堕落し、悪の勢力の主体となった。


サタンは、もとは良い天使のひとりだったが、
高慢になって堕落し、悪の勢力の主体
               になったのだと思われる。 
  創元社 『聖書物語』より

 では、ヨハネ八・四四の「悪魔は初めから人殺しであり・・・・」という聖句は、どう考えるべきであろうか。「初めから」という言葉は、サタンの"堕落"という考えと矛盾するであろうか。
 しかし、この聖句には「人(殺し)」という言葉が出てくる。これは人類の開始以降のことを述べているのである。
 人類の歴史が始まったとき、すでにサタンは悪の勢力の主体と化していた。だからサタンは、確かに人類の歴史の「初めから人殺し」だった。
 けれども、それ以前にサタン堕落の出来事があったのである。したがってこの聖句は、サタンの"堕落"という考えに矛盾しないことがわかる。


五 サタンの提出した異議

 サタンは堕落して悪の勢力の主体となり、その後アダムとエバの誘惑にかかった。この誘惑が起こる前に、神がサタンを滅ぼすことは可能だったはずである。それなのに、神がそうされなかったのは何故であろうか。
 これは、神とサタンのどちらが強いか、といった力の問題ではなかった。神にとってサタンをすぐ滅ぼすことは、たやすいことであった。しかし、サタンは神に対して、二つの重大な異議を提出したのである。

サタンは神の支配権の正当性に関して異議を唱えた
 第一の異議は、神の支配権の正当性に関するものであった。サタンは高慢になって言った。
 「私は・・・・神の星々のはるか上に私の王座を上げ・・・・いと高き方のようになろう(イザ一四・一三〜一四 この聖句は、文脈上バビロン王に関する預言の中にあるが、サタンの堕落に関することが二重写しに語られている)
 サタンは、自分が神のようになろうとしたのである。彼はエデンで、アダムとエバに対しても、
 「あなたがたは(善悪を知る木から食べると)神のようになり・・・・」(創世三・五)
 と誘惑している。サタンは"神になろうとする"という同じ罪に、彼らを引き込もうとした。「神のようになる」とは、誰にも支配されない主権者になるという意味である(出エ七・一)
 サタンは、真の神の支配を拒絶し、自分が神のようになろうとした。彼の主張は、
 "神の支配や導きはいらない。それは真の幸福を与えるものではない。神の支配のもとにいることは、益をもたらさない。神中心ではなく、自己中心な生き方こそ、幸福の道である。自分自身が神になってこそ幸福になれるのだ"
 であった。サタンはこうして、自分が神のようになろうとしたという事実によって、唯一の神の支配権に対する異議を唱えたことになる。
 この異議には、神の支配権の正当性に関する重要な宇宙的問題が含まれていた。サタンは、唯一の神による支配は不当だと主張したのである。

サタンは人間の信仰の価値に関して異議を唱えた
 第二に、サタンの提出した異議は、人間の信仰の価値に関するものだった。
 これは、間接的に『ヨブ記』によって知ることができる。ヨブ記には、神の前に潔白で正しい生活を送っていたヨブという人が出てくる。神はヨブについて、サタンに言われた。
 「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが」(一・八)
 しかし、このときサタンは神に異議を唱えて言う。
 「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか(一・九)
 「いたずらに」とは"理由なしに"という意味である。ヨブが正しい生活を送っているのは、神が彼を祝福されたからである。
 もし彼が災いにあうならば、ヨブはきっと神に向かってのろうに違いない、とサタンは主張した。
 それで神は、サタンがヨブの身に災いを及ぼすことを、一定期間許される。しかしヨブは、ひどい災いに苦悩しながらも、神に対する信仰を貫く。ヨブ記はそういう内容である(ヨブは、最後には繁栄を回復され、はじめの二倍の祝福を得る)


サタンの提出した異議に決着をつけるため、
       ヨブは試練に渡された。 
デューラー画

 アダムとエバに対するサタンの誘惑を、神が許容された背景にも、同様の事情があったと考えるのが妥当である。
 サタンは神に対し、"人はいたずらに神を恐れるでしょうか"と異議申し立てをした。
 "人は理由なしに神を信仰するでしょうか。理由なしに、神を愛するでしょうか。理由なしに、神の忠実なしもべでいるでしょうか。彼らが神を愛しているのは、神が彼らを祝福しておられるからです。もし彼らの世界に災いが入るなら、神を愛したり、信じたりする者はいないでしょう"
 サタンのこの異議には、やはり、非常に重要な宇宙的問題が含まれていた。つまり、神に対する人間の信仰の価値に関する問題である。サタンは、人間の信仰は無価値だと主張したのである。


六 異議の決着

全被造物の前で決着がつけられる
 このように、サタンは反逆して悪の使いとなったとき、神の支配権の正当性と人間側の信仰の価値という二つの事柄に関して、異議を唱えた。
 こうした重要な問題は、当然、全被造物の前で決着をつけることが望まれた。かつてイスラエル民族の指導者モーセは、民に律法を授けたとき、
 「私はきょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる」(申命三〇・一九)
 と言った。預言者イザヤも、神の重要な預言を語ろうとするとき、
 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」(イザ一・二)
 と言っている。ましてや、神ご自身の支配権や、人間の信仰の価値に関する宇宙的問題は、全被造物を証人として、その前で決着がつけられることが望まれた。


モーセは、神の律法を述べようとするとき、天と地とを証人に立てた。


「女の子孫」による信仰の価値の実証
 神はこのとき、後述する「女の子孫」と呼ばれる人々(キリストを頭とするキリスト者たち・黙示一二・五、一七)のことを、心に留めておられた。
 神は彼らが、神に従うことがたとえ逆境や苦難を意味する場合でも、なお神を愛することを、知っておられた。彼らが、利己心のゆえではなく、神を神であるがゆえに拝し、愛するということを知っておられた。人間の信仰の価値を実証できると、知っておられたのである。
 また神は、人間の命と幸福は、唯一の神の支配と導きにかかっているのであり、人間自身やサタンによる支配は人間に幸福をもたらさないことを、全被造物の前に実証できると知っておられた。
 神なしの世界は、結局、悪と不幸が絶えず、真に平和で幸福な社会とはなり得ないのである。
 こうした理由から、神はご自身の支配権と人間の信仰の価値に関して、全被造物の前にご自身の創造の正当性を実証できると、判断された。
 それで、神はすぐさまサタンを滅ぼすことをせず、むしろ一定期間サタンの存在を許容された。そして、この問題に完全に決着がついた時点でサタンを滅ぼす、と定められたのである。

この期間は長いか
 この期間は、ある人々にとっては長いものと思えるかも知れない。しかし、神にとっては、たとえば六千年という期間もわずかな年月にすぎない。
 八歳の子にとっては、一年は長く思えるであろう。けれども、八〇歳の老人にとっては、一年は短いものと感じられる。ましてや永遠に生きておられる神にとって、「千年は一日のよう」(二ペテ三・八)である。
 したがって、たとえ悪の存在がしばらくの間許されたとしても、最終的に神の支配権の正当性と、人間の信仰の価値が実証されるなら、それはむしろ益となる。
 またそれは、後に人間に与えられる永遠の平和・繁栄・幸福に比べれば、きわめて短いものに感じられるであろう。


七 自由意志の価値の実証

 神がアダムとエバに対するサタンの誘惑を許容された背景にはまた、
 "自由意志の価値は、悪の存在に向かい合うときにのみ実証される"
 ということがあった。善しか選べない意志は、自由意志ではない。自由意志とは、選択できることである。
 人間は堕落前の状態において、自由意志を持っていたが、まだ誘惑を受けていなかったから、その自由意志の価値は実証されていなかった。単に無菌室の中で無垢だ、といった状態に過ぎなかった。
 しかし、そののち誘惑を受けたとき、もし人間が自由意志によって悪を退けるなら、その自由意志は大きな価値を得るはずであった。
 また万が一、誘惑を受けたときに人間が堕落したとしても、その堕落した状態から人間が再び自由意志によって神に立ち返るなら、その自由意志はさらに大きな価値を得ることになる。
 誘惑を受けたとき、堕落しなければ自由意志は価値を発揮し、反対に万一堕落したとしても、自由意志にはなお、その価値を回復し、発揮する機会があった。
 いずれにしても、自由意志は悪と向き合い、試されることによって、その価値を実証されなければならなかった
 こうした理由から、神は、サタンによる人間への誘惑を許容された。しかし、神はそれによって、ご自身の創造の正当性、ご自身の支配権の正当性、また人間の自由意志の価値と、信仰の価値を実証できる、と知っておられたのである。


八 神は過去の災いを償う力をお持ちである

 神が悪の存在を一定期間許容された背景にはまた、
 "神には人間に及んだ過去の災いを償う力がある"
 という事実がある。義人ヨブは、ある期間苦難の中に置かれたが、その苦難は、最後には二倍になった祝福をもって償われた。ましてや私たちが現在受けている「苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」(ロマ八・一八)
 神は、過去の災いを「償う(ヨエ二・二五)ことの出来るかたである。私たちがしばらくの間にがい経験をしたとしても、その記憶は最終的に神にあって消し去られる。
 「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(イザ六五・一七)
 そのうえ、過去の災いは、はるかに大きくされた祝福をもって償われる。これは、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ八・二八)神にとって、ふさわしいことであった。
 したがって、人間が万一堕落したとしても、人間が再び自由意志によって神に立ち返り、救われるならば、それはむしろ人間の幸福を確立することになる。
 神は、このような理由から、サタンの誘惑と人間の堕落を許容された。しかし神は、これによって天上天下最大の問題に決着がつけられ、長い目でみれば益になり、神と人の幸福を確立するものとなることを、知っておられたのである。


九 堕落と回復の約束

 人間の堕落は、サタンの誘惑と人間側の自発的決断という両面から起きた。

サタンの誘惑と人間の自発的決断
 サタンは、誘惑者なしに自ら堕落した。だから、サタンはいずれは滅ぼされなければならない定めにある。
 サタンは自分が堕落すると、すぐに、神が愛しておられる人間たちを同罪にしようと謀った。彼は地上のエデンの園に現われ、アダムとエバに、
 「あなたがたは(善悪を知る木から取って食べても)決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・・・」(創世三・五)
 と誘惑した。サタンはまず、「食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことによって、神をウソつきとした。神の導きや命令は不用のものとしたのである。
 また、サタンはアダムとエバに「神のようになれ」と誘惑した。すなわち真の神の支配を離れて、独立して自己中心的な歩みをなすよう誘惑した。
 人間は、この誘惑を受けたとき、自発的決断によってそれにのり、神の命令に背き、罪を犯した。
 "神に背いて自己中心に歩め"というサタンの誘惑は今日もあるし、すべての人は今日もアダムとエバと同じように堕落を経験している。
 サタンは自分と同じ罪を、人に犯させることに成功した。人間を罪の中に巻き込んだのである。しかし、人間は誘惑者に会って堕落したのであるから、サタンとは違って憐れみを受ける余地があった。

回復の約束
 神は、アダムとエバの堕落後すぐに、人間に救いの道を開くことを約束された。それは、エデンで神が蛇に言われた次の言葉に示されている。
 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく(創世三・一五)
 この聖句には、「蛇」と「女」に関する文字通りの意味のほかに、サタンとキリストに関する事柄が二重写しに語られている。
 「彼」とあるが、これはその前の「女の子孫」をさす。「彼」は、キリスト、またはキリストを頭とするキリスト者である。それはヨハネ黙示録一二章に、次のように記されていることからわかる。
 「男の子を生んだ。この子(キリスト)は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである」(一二・五)
 「(サタン)に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち(キリスト者たち)と戦おうとして出ていった」(一二・一七)
 「女の子孫」は、頭なるキリストと、キリスト者たちなのである。一方、「おまえ」は蛇、すなわちサタンである。
 したがって「おまえは彼のかかとにかみつく」は、サタンによってキリストが受難することを表す。また、「彼はおまえの頭を踏み砕き」は、キリストが十字架の死によってサタンに致命傷を与えることを意味する。
 「(キリストは)その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブ二・一四)
 さらに、
 「平和の神は、サタンをすみやかに、あなたがた(キリスト者たち)の足の下に踏み砕くであろう」(ロマ一六・二〇)
 と記されている。キリストとキリスト者たちは、最終的にサタンを打ち砕くのである。これは、世の終わりに成就する。このように神は、サタンを滅ぼす仕事を、キリストとキリスト者たちにおゆだねになった。
 神に立ち返った人々が、自由意志によって罪を退け、また最終的にサタンを滅ぼすなら、自由意志の価値は全被造物の前に実証できる。神はこのために、彼らの頭としてキリストをお立てになったのである。


十 生死と善悪の世界への没入

 アダムとエバは、善悪を知る木から取って食べたとき、この木によって代表・象徴される"生死と善悪の世界"の中に没入した。
 以来、生死と善悪の世界は、彼らの全存在を規定するものとなった。彼らの人生は、生と死、幸福と不幸、喜びと悲しみが、複雑に交錯するものとなった。

罪の体と裸の概念
 アダムとエバが"生死と善悪の世界"に没入したとき、彼らの意識に大きな変化が起こった。
 「彼らは、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。・・・・人とその妻は、神である主の御顔をさけて、園の木の間に身を隠した」(創世三・七〜八) 
 アダムとエバは、自分たちが「裸」であることを知ったという。しかし「裸」は、「衣服」とセットになった概念である。
 私たちが、自分が裸であるかどうかわかるのは、衣服というものの存在を知っているからである。
 しかし、アダムとエバが「裸」であると知ったとき、世界に衣服は存在していなかった。彼らはまだ、衣服というものを見たことさえなかったのである。
 なのに、彼らは自分たちが「裸」であることを知った。これは何を意味するのだろうか。
 これは、生死と善悪の世界に入ったとき、彼らの体が"無垢の体"から「罪の体」(ロマ六・六)に本質的変化を遂げたことを意味する。
 聖書でいう「罪の体」とは、肉体が悪という意味ではなく、原罪を有する人間存在を意味する。
 彼らの存在は、見かけ上は変わらなかったものの、すでに罪を犯しやすい性質と、死すべきものに変化していた。これは神の前に恐怖にほかならなかった。アダムは神に、
 「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世三・一〇)
 と答えている。彼らの「罪の体」が、聖なる神の前に露出していることは、彼らにとって恐怖と感じられた。霊的な直観によってそう感じとったのである。
 このように、アダムとエバが裸を恥じたのは、互いに対してではなく、神に対してであった。
 彼らは生死と善悪の世界に没入し、無垢の体から罪の体に変化したので、その露出は神の前に恐怖と認識したのである。

皮の衣はキリストの贖いの予型
 人間は、もはやそのままの体では神の御前に出ることができない者となった。それで、
 「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世三・二一)
 神は、ご自身で用意された衣を、アダムとエバに着せて下さった。それは「皮の衣」であった。「皮」とは動物の皮である。したがって皮の衣が作られるとき、血が流された
 これは、神が将来イエス・キリストの犠牲の血潮により人間の救いの道を開くこと、またそれによって人間のために「義の上衣」「救いの衣」(イザ六一・一〇)が用意されることの、予型であった。


アダムとエバに与えられた皮衣は、
将来キリストの犠牲によって人間に
与えられる「義の衣」の予型であった。


天国は地上世界から分立した
 人が生死と善悪の世界に入ったので、その後、天国は地上世界から分立した。
 人間の堕落前、天国は、エデンの園において地上世界と一体になっていた。それは、
 「そよ風の吹く頃、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた」(創世三・八)
 といった記述から知れる。神の住んでおられる天国と、地上世界は合体して一つになっていた。
 しかし、人が生死と善悪の世界に入ったとき、地上世界は天国とは相容れなくなり、天国は地上世界から分立した。
 現在、神は天国におられ、「命の木」も天国にある(黙示二・七)。それらは地上世界から分立して存在している。
 そのために、私たちは信仰によって神との関係を回復しなければ、天国に入ることはできない。


アダムとエバは園から追放され、天国は地上世界から分立した。 ドレ画


「女の子孫」と「蛇の子孫」
 アダムとエバが生死と善悪の世界に入ったことにより、自然的善悪と道徳的善悪は、彼らにだけではなく、彼らの子孫の中にも解き放たれた。
 「アダムは・・・・彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ」(創世五・三)
 「アダムのかたち」は、子孫の中に展開していった。アダムに入った善悪の性質は、子孫に受け継がれた。子孫はみな「罪の体」(ロマ六・六)になった。
 そのため、現在私たち人間はみな本質的に"罪を犯しやすい性質"を受け継いでいる。これを「原罪」という。原罪とは、アダム以来の、罪に傾きやすい性質(本性的腐敗)をいう。
 原罪は、単に始祖アダムが犯した罪のせいで人類すべてが有罪とされる、ということではない。
 アダムを通してすべての人に罪への傾向性が入ったため、「すべての人は罪を犯した」。それで、すべての人が罪人となった。このアダムに由来する罪への傾向性を、原罪というのである。
 すなわち、アダムを通して罪への傾向性が入ったが、人は、自分自身の犯した罪によって罪人になった。しかし、人はその罪の中にとどまるように定められているわけではない。
 その中にとどまることも、そこから抜け出ることも可能にする自由意志が与えられている。自由意志の価値は、再び神に立ち返ることによって実証されるのである。
 しかし、自由意志によって神に立ち返る人々と、立ち返らない人々とがいる。最終的に永遠の命に至る人々と、滅びる人がいる。神につく勢力と、罪にとどまる勢力とがある。
 アダムとエバには、最初の子カインとアベルが生まれた。しかしカインは、ねたみから義人アベルを殺してしまった。
 一方は善子であり、一方は悪子であった。彼らに限らず、アダムとエバの子孫たちは、大きく善子と悪子、また神につく勢力と悪の勢力とに分立した。
 聖書では、神につく勢力は象徴的に「女の子孫」と呼ばれ、悪の勢力は「蛇の子孫」(創世三・一五、マタ三・七)と呼ばれる。「女」とは、「天のエルサレム」とも呼ばれる「天国」のことである。
 「上にあるエルサレム(天国)は自由であり、私たちのです」(ガラ四・二六)
 一方「蛇」は、サタンを意味する。私たちは皆、蛇に従ったアダムの子孫であるから、生まれながらの状態では皆「蛇の子孫」である。
 しかし、信仰によって神に立ち返るとき、「女の子孫」、すなわち神の勢力である天国の民になる。
 「女の子孫」になるためには、自由意志によって神に立ち返らなければならない。それは、そのことによってのみ、堕落という失敗を自ら取り戻せるからである。
 「女の子孫」と呼ばれる天国の民になるなら、私たちは神の約束された罪の赦し、永遠の命、またすべての祝福を受け継ぐことができる。

                                 久保有政(レムナント1995年10月号より)

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