神の栄光だけを考えて
祈るべきですか?
自分の利益を願ってはいけませんか。
バルテマイは、「神の栄光のために」とは言わなかったのに、
なぜいやされたのか。 ブロック画
Q 日頃、疑問に感じていることがあり、思い切って質問させていただきます。
祈りについてですが、よく「自分の欲望や快楽のためではなく、神の栄光のために願いなさい」と聞きます。
しかし、本当に神の栄光しか考えてはいけないのでしょうか。自分の利益は、絶対に考えてはいけないのでしょうか。主イエスは、
「求めることは何でもそれをしましょう」(ヨハ一四・一三)
と言われました。また「求めなさい」(マタ七・七)と言われただけで、神の栄光が現わされるものでなければいけませんよ、とは言われていません。
もちろん「何でも」といっても、明らかに御心に反する願い――たとえば今度銀行強盗を行ないますからうまく行きますように、といった願いは絶対にかなえられないと思いますが、神の栄光のためになるのかならないのか明確でないことも多くあります。
もっと昇進したい、収入をあげたい、家を買いたい、車を買いたい、結婚したい、子どもが欲しい、趣味を楽しみたい、そのためにお金が欲しい・・・・等、こうした願いは自分の利益を求めるもので、「神の栄光」とは無関係でしょうが、はたしていけないものでしょうか。
バルテマイやフェニキヤの女も、自分の、あるいは自分の子の病が、ただ癒されることを求めました。彼らは一言も「神の栄光のために」とは願っていません。
でも癒されました。神の栄光を念頭に置かない、自分の利益だけを求めた祈りも、聞かれているのではないでしょうか。
聖書のヤコブ四・三の"自分の快楽のために願ってはいけない"、また第一ヨハネ二・一五の「世にあるものを愛してはいけません」という聖句は、私には非常に不思議です。
なぜなら、これらの聖句を文字通り受け取れば、願いはすべていけないことになってしまわないでしょうか。
貴誌七四号のバックストン宣教師による「完全に自己放棄をし、自分の利益を捨てる」という説教も、私には到底理解できません。
もっと収入が欲しい、健康が欲しい、家や車を買いたいというように、自分の利益を求めて祈ることが、そんなにいけないものでしょうか。
もし欲望がいけないなら、神はなぜ人間に欲望というものをお与えになったのでしょうか。願いや祈りは本当に神の栄光のためだけでないと、いけないのでしょうか。
自分の快楽や欲得があっては絶対にいけませんか。また神の栄光になるのかどうか、明確な基準はどこにあるのでしょうか。
これらの疑問が解決されないと、祈ることすらできません。御心に反することを願ったのでは、神の裁きを受けかねません。どうかご教示下さい。
A たいへんよい質問をして下さいました。こうしたことに聖書からの明確な答えを得ることは、信仰生活の上でたいへん貴重なものになるでしょう。
神の栄光を念頭におかない願いはいけないか、というご質問ですが、いけないことはありません。「求めることは何でもしましょう」(ヨハ一四・一三)の御言葉通り、神の栄光を必ずしも念頭におかずとも、自分の率直な願いを、何でも、神様に申し上げてよいのです。
もっと仕事ができるようになって、昇進し、収入を上げたいとか、家を買いたい、結婚したい、子どもがほしい、病気をなおしてほしい・・・・等、たとえ自分の利益や、願いを満たすことだけを目的とした祈りでも、いっこうにさしつかえありません。
それが本人にとって有益であれば、神様は喜んでそれをかなえてくださるでしょう。実際クリスチャンたちは、そうした多くの願いをし、かなえられて、大きな喜びを得ています。
神様は偉大な親です。親は、たとえば小さな子どもがオモチャを欲しいと言えば、それが「世のため人のためになるかどうか」などとは関係なく、わが子にそれを買い与えるでしょう。
神も、かわいいわが子の願いであれば、本人に有益と判断できる場合、喜んでそれをかなえて下さいます。
ただし、もし小さな子どもがナイフが欲しいと言えば、親はきっと与えないでしょう。たとえ子どもの願いであっても、それを与えれば危ないとか、有益でないと判断されれば、親は与えないのです。
神も、たとえわが子の願いであっても、有益でなければ、願いをかなえてはくださいません。私たちは、自分の率直な願いを何でも神に申し上げてよいのですが、それをかなえる、かなえないは、神が判断されることです。
何を愛するかで願いも変わる
人は、子どもの時は子どものように願い、大人になれば大人の願いをするものです。子どものときは、「あれが欲しい」「これが欲しい」という願いが多いものです。
しかし、もし大人になっても、いつまでも子どものような願いばかりしていたとしたら、どうでしょうか。周囲の者は、きっと悲しむに違いありません。
これは、信仰の世界においても同様です。神は親として、信仰者の成長に応じ、信仰者の願いの質が高められていくことを期待しておられます。
願いは、その人が何を愛しているかで、ずいぶん変わってきます。趣味を愛する人は趣味のことを願い、福音を愛する人は福音のことを願い、隣人の幸福を願う人は隣人のことを願うでしょう。
私たち人間の創造目的は、神・隣人・自分の三者の間に、豊かな「愛」が実現されることにあります。そのとき神が人を喜び、また人が神を喜ぶという、相互の幸福な関係が築かれるからです。
そしてこれによって、「神の栄光」――神の素晴らしさが現わされます。それで聖書は、心から神を愛し、また隣人を愛するよう教えています。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
「あなたの隣り人を、あなた自身のように愛せよ」(ルカ一〇・二七)。
ですから、人間の心がもしいつまでも幼く、願いがいつまでも自分や自分の利益のことばかりで、神と隣人への愛を願うようにならないとしたら、はたして神は親としてどう思われるでしょうか。
神はきっと、ひどく悲しまれることでしょう。神は人の成長に従って、人がはやく真の愛において成長して、大人の信仰者になってほしいと願っておられるのです。
自分のことを願って一向にかまいませんし、自分の幸せを求めてよいのです。それを与えることは神のみこころです。
しかし、単にそこにとどまらず、「神を愛し、隣人を愛せよ」とあるように、さらに神と人への愛の願いを持つ、成長した信仰者になってほしいのです。
私たちが愛すべき三つのもの・神・人・自分
人が何を願うかは、その人が何を愛するかによって変わってくると述べました。ですから、ここで「愛」について詳しく考えてみましょう。これを考えることは、みこころにそった願いとは何かを知るために、きっと有益であるに違いありません。
先に引用したルカ福音書一〇・二七の御言葉は、私たちが愛すべき三つのものを教えています。
第一に神です。第二に隣り人です。そして第三に、自分です。なぜなら、「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」ですから、自分を愛さなければ、隣り人も愛することができません。自分を愛することはとても大切ですし、愛してよいのです。。
しかし、自己愛には二種類のものがあります。ここで言われている「あなた自身のように愛せよ」という言葉は、ギリシャ原語ではアガペーという言葉です。これは、対象に善を行なう愛で、有益なことを行なう愛です。
一方、聖書には、ギリシャ原語でフィリアと言われる自己愛が出てきます。これはおもに、執着心を意味する愛です。聖書は、フィリアの愛で自分を愛してはいけない、と言っています(ヨハ一二・二五)。私たちは、フィリアの愛ではなくアガペーの愛で自分を愛すべきなのです。
フィリアの愛で自分を愛している人と、アガペーの愛で自分を愛している人とでは、その願いが大きく違ってきます。
たとえば、ある人がお金を欲しくて盗みをしたとしましょう。これは欲望を実現するためにやったことですが、こうした自己愛はフィリアの愛です。こうした愛は、彼自身の魂の価値を傷つけるもので、罪の一種となります。
一方、ある人が自立して生きたいと思い、努力して勉強に励んだとしましょう。あるいは、ある人が真理を求めて、聖書をむさぼり読んだとしましょう。
こうした自己愛は、アガペーの自己愛です。なぜなら、こうした愛は、本人の益になるからです。
ヤコブ四・三で「自分の快楽のために願う」ことはいけないと言っていますが、これはフィリアの自己愛を言っています。また、第一ヨハネ二・一五の「世にあるものを愛してはなりません」の「愛」も、原語ではフィリア――すなわち、ものへの執着心です。
私たちは、フィリアの愛で自己と世を愛するのではなく、アガペーの愛(善を行なう愛)でそれらを愛せるようになるとき、神の御前に真に大人の信仰者になることができるのです。
同じ自分のために祈る祈りでも、神は、アガペーの自己愛に基づく祈りをよく聞いて下さいます。
フィリアの自己愛を捨てアガペーの自己愛に立つ
たとえば昔、イスラエルの王ソロモンは即位の際に、自分の富も名誉も求めず、ただ民を治める知恵が豊かに与えられることだけを願い求めました(二歴代一・一〇)。彼はアガペーの自己愛でそれを願ったのです。
すると、神はその祈りを喜び、民を治める豊かな知恵をソロモンに授けて下さいました。さらに、彼が求めなかったもの――富と名誉も加えて、彼にお与えになりました。神は、アガペーの自己愛による願いを、よく聞いて、かなえて下さるのです。
バルテマイの盲目が、主イエスによっていやされたのは、なぜでしょうか。それは彼がやはり、アガペーの熱心な自己愛で、いやしを求めたからです。
いやされることは、自分自身に対する善であり、益だからです。それで「神の栄光のために」と彼が言わずとも、いやされたのです。フェニキヤの女の場合もそうです。
一方、弟子ヤコブとヨハネが、主イエスの王座の右と左にすわらせて下さいと言って、自分の栄誉を求めた祈りは聞かれませんでした(マコ一〇・三五〜四〇)。それは彼らが、フィリアの自己愛で願ったからです。彼らは自分の栄誉に執着したのです。
フィリアの自己愛と、アガペーの自己愛の違いが、おわかりになるでしょうか。ルカ一五章の放蕩息子が、自分に相続財産が与えられることを願い、それを放蕩に使ったのも、フィリアの自己愛です。それは自分の快楽への執着であり、彼を堕落に導くものだったからです。
"願いの質"と言ったのは、このことです。私たちにとって自己愛は非常に重要なものですが、フィリアの自己愛からアガペーの自己愛に、高められていく必要があるのです。
バックストンが「完全に自己放棄をし、自分の利益を捨てる」よう教えたのは、フィリアの自己愛を捨てなさい、ということを言っています。これは主イエスが、
「自分を捨てて・・・・わたしについて来なさい」(マタ一六・二四)
と言われたことと同一です。
バックストンのこの説教は、とくに伝道者に向けて語られたものです。伝道者になろうとする者や、神に用いられる働き人となろうとする者は、とくにフィリアの自己愛を捨てなければなりません。
たとえばもしパウロが、安楽で裕福な生活や、肉体的・物質的快楽を求めていたら、あのような大きな働きができたでしょうか。
彼があれほどの患難辛苦と、迫害を耐え抜いて伝道をすることができたのは、フィリアの自己愛を捨てていたからです。執着心を断ち、アガペーの愛に立ったからです。
また、シュバイツァー博士が、もし安楽な生活を望んでいたら、彼ははたしてあの病に苦しむ黒人たちを救うために、灼熱のアフリカに渡ったでしょうか。
彼も、やはりフィリアの自己愛を捨てていました。執着心を離れ、アガペーの愛に立ったのです。
シュバイツァーは、安楽な生活へのフィリアの愛を捨て、
神と人々へのアガペーの愛に立った。
私たちは、安楽で快適な生活を願いながらも、信仰を持ち続けることはできます。しかし、もし神と人のために何かの善と愛をなそうとするなら、自分の生活の何かを犠牲にする必要が出てくるのです。
もし私たちが神の有能な働き人になろうとするなら、私たちはフィリアの自己愛を捨て、確固としたアガペーの自己愛に立たなければなりません。
また世へのフィリアの愛を捨て、世へのアガペーの愛に立たなければなりません。アガペーの愛によって、神の栄光が現わされるのです。
アガペーの愛に生きた人々の姿は、信仰のアドバースド(上級者)・コースです。そこには、自分のことだけを願う幼い信仰の世界をはるかに越えた、大きな祝福があります。
もう一度言いますが、神の栄光を念頭におかず、自分の利益を求めて祈っても、全くかまわないのです。それが長い目で見て本人の益になるものなら、神はかなえてくださいます。
しかし、自分への執着心を捨て、神の栄光と人々への愛を第一に願う祈りに対しては、神はより一層聞き耳をたてて下さり、豊かな祝福を下さいます。そういう人には、はるかにまさった幸福が与えられます。
神のみこころによる願い
またじつは、このように神を愛し、神の栄光を第一にし、隣人を愛して祈っていると、神がみこころのままに人の内に願いを起こして下さるようになります。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリ二・一三)。
もはや、自分の願いというより、神が自分の内に、みこころのままに起こして下さった願いによって願うようになるのです。こうした願いは、みこころによるものですから、必ず実現します。
この段階になると、祈りにおける真の自由が感じられるようになります。自分の心が、神のみこころに一致しているという一体感と、自由、充実感、そして願いが必ず実現するという確信です。
最後に、もう一つ大切なことを述べましょう。それは、私たちはじつは「自分を捨てる」すなわちフィリアの自己愛を捨てることによって、かえって本当の自分を見いだすことができる、ということです。主イエスは、
「わたしのために自分のいのちを失ったものは、それ(自分のいのち)を自分のものとします」(マタ一〇・三九)
と言われました。この逆説的な言い回しの中に、じつは人生最大の秘訣が見事に表現されています。
クリスチャンの多くは、自分を捨て、自分の利益を捨て、フィリアの自己愛・フィリアの世への愛を捨てて、生涯を主イエスのために捧げてきました。では、彼らは、それによって自分をなくしてしまったのでしょうか。
いいえ、彼らはむしろ、それによって本当の自分を見いだしたのです。自分の利益を捨てたとき、それにまさる偉大な利益と祝福を得ました。
自分を捨て、自分の生涯をアガペーの愛と神の栄光のために捧げるとき、神は私たちに"もっと素晴らしい自分"を返して下さいます。
捨てることは、じつは得ることです。神にあっては、捨てた以上のものが、返ってくるのです。この真理に目覚めるとき、私たちの人生は確固とした祝福の中に定められます。
久保有政著(レムナント1995年11月号より)
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