祈っていれば努力はいりませんか?
Q 何かの目的や願望のために祈っているなら、
もう努力する必要はないのですか。
A しばしば、同じような質問を受けることがあります。
しかし、私たちは努力する余地が全くないような場合は別として、多くの場合は、目的の実現に向けて祈りながら努力し続ける必要があります。その努力の中に、神の御力が働くのです。聖書は言っています。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリ二・一三)。
神は、私たちの心の内に志を立てさせ、熱意を起こし、努力心を起こして、事を実現して下さいます。ですから、祈ると共に、最大限の努力をしなければいけません。実際、使徒パウロは、この句のすぐあとで言っています。
「それはあなたがたが・・・・いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(ピリ二・一六)。
「自分の努力したことが・・・・」と言われています。パウロは、祈りながら常に最大限の努力をした人でした。
これは、人生の多くの事柄に当てはめることができます。たとえば、ある人が自分は医者になりたいと願ったとしましょう。その人は「神様、私を医者にして下さい」と祈るでしょう。
ところが、もしその人が医者になるための勉強をせず、努力しなかったら、その人は医者になれるでしょうか。なれません。
では、なぜ祈るのかというと、その努力が実を結ぶように祈るのです。また、医者になる過程で神の良き導きがあるように祈るのです。
ここで医者の例をあげましたが、どんな場合も同じことです。こうしたとき、努力がいるのは自明のことです。努力し続けられること自体が、私たちの祈りに対する神の答えである場合も多いのです。
しかし、人生にはときに努力の余地さえ全くないような場合があります。何かの努力をしようにも、人間には何もできることがない、ただ神の憐れみを待ち望むほかなし、といった状況に置かれることがあります。
たとえば、重い病気で医者にも見離されたような場合です。こうした場合、私たちはただ神に祈ります。
けれども、そうした場合を除けば、多くの場合は人間にも努力の余地があるのです。そのようなときは、その努力の中に神の御力が働くよう、祈るのがよいでしょう。使徒パウロはこう書きました。
「わたしは・・・・わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力している」(コロ一・二九口語訳)。
私たちは、私たちを内側から強くして下さるキリストによって、努力しながら奮闘するのです。人が祈りながら努力すれば、神が結果を下さいます。古来、
「人事を尽くして天命を待つ」
という格言があります。人に出来ることをすべてし尽くして、祈りながら努力していると、そこに神の御力が働き、良い結果が与えられるのです。また、
「天は自ら助くる者を助く」(Heaven
helps those who help themselves.)
という格言もあります。これは、
"自助努力を怠らず、自分で出来ることをきちんとする者には、天が味方する"
という意味です。こうした格言にも、耳を傾けるべきでしょう。
Q 祈りと伝道の関係については、どうですか。
A 昔、ある指導者が、
「人の回心は聖霊の働きによるのだから、祈っていれば私たちはもう伝道しなくていい」
と言い出して、問題を起こしたことがあります。しかし、これは間違いです。私たちは祈りながら、絶えず伝道の努力を続けなければいけません。祈れば伝道がいらなくなる、ということは決してありません。
たしかに聖書には、
「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(一コリ一二・三)
と記されています。しかし一方では、
「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ一〇・一四)
とも書かれています。
人が回心するためには、三つのものが必要なのです。それらは、真理と、真理を宣べ伝える人と、聖霊です。
クリスチャンが未信者に、真理すなわち福音を宣べ伝えます。すると、その真理を契機として、そこに聖霊が働かれます。聖霊は、その真理を受け入れるよう、未信者の心を圧迫して下さるのです。
私たちが祈るのは、この聖霊が豊かに注がれるようにです。しかし、もし真理が語られていなければ、聖霊は働こうにも働く場がありません。ですから、私たちは努力して、未信者に神の真理を語らなければならないのです。
「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マコ一六・一五)
は、キリストの"ご命令"です。
伝道というものは、魂の収穫であることを覚えてください。たとえば農夫が、
「神様、たくさん収穫を与えてください」
と祈りながら、一年間何もせず、畑を耕すことをせず、種も蒔かず、手入れも何もしなかったとしたら、はたして収穫が与えられるでしょうか。
与えられません。神は、農夫が祈りながら畑で労苦する姿を祝福して、収穫を下さるのです。
伝道も同じです。私たちが祈りながら努力し、奮闘しながら伝道するとき、そこに回心者が起こされ、豊かな魂の収穫が得られるのです。
久保有政著(レムナント1996年1月号より)
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