富をつくる能力 富を生かす能力 
        キリスト教の理想は清貧ではなく、 
        "富に生きず富を生かす"という生き方である。 
          
           アブラハムは非常に富んでいた。(創元社『聖書物語』より)  
         キリスト教は、金銭に富むことを悪とするものでしょうか。ある人々は、 
         「キリスト教では、清貧が理想とされ、富むことは悪とされている」 
         と思っているようです。しかし、そうではありません。キリスト教においては、富むこと自体は必ずしも悪とはされず、一方、清貧も、必ずしも理想とはされないのです。 
         
         
        富は悪ではない清貧も理想ではない 
         
         キリストの使徒パウロは、こう言っています。 
         「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリ四・一二)。 
         パウロは、経済的な「貧しさの中にいる道」も「豊かさの中にいる道」も知っていると語りました。彼は、清貧が良く、富は悪だとは語りません。富との"つき合い方"次第で、富は良くも悪くもなることを、彼はよく知っていたのです。 
         キリスト教は決して、富自体を悪いものとは考えません。聖書は、 
         「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」(一テモ六・一〇) 
         と言っています。悪いのは「金銭を愛すること」――すなわち金銭へのフィリアの愛、金銭に執着することであって、金銭そのものではありません。富は、もしその生かし方さえよく心得ていれば、良いものなのです。 
         キリスト教はまた、貧乏であることを決して理想としません。 
         旧約聖書を見ると、私たちの信仰の父アブラハムや、イサク、ヤコブは、非常に富んでいました。義人ヨブも、まれにみる大富豪でした。 
         信仰深いヨセフを宰相としたエジプトは、非常に富んでいました。知恵に満ちたソロモン王が治めていたときのイスラエルは、世界一富んだ国でした。 
          
        ヨセフが宰相だったときのエジプトは、非常に富んでいた。 
                                            創元社『聖書物語』より 
         もし貧乏が理想なら、彼らも貧乏だったでしょう。しかし、富は彼らにとって神の祝福でした。古いユダヤの格言に、 
         「貧者だから正しく、金持ちだから間違っているとは限らない」 
         というのがあります。貧しい人が清くて正しく、金持ちが悪人とは限りません。金に目がない利己的な貧者も大勢いれば、一方で、自分の得た正当な富を神と人のための有益な事業に使っている良い金持ちもいます。 
         貧乏であればそれで清く正しい、とは決して言えません。貧乏は理想でも何でもないのです。 
         「貧乏は恥ではない。しかし名誉と思うな」。 
         これも古いユダヤの格言ですが、私たちはたとえ貧乏であっても、それを恥と思う必要はありません。しかし、だからといって名誉と思うこともできないのです。 
         いわゆる「清貧」については、どうでしょうか。 
         ある人々は、人間が富むことによって陥りやすい誘惑や弊害をさけて、自ら「清貧」すなわち"清く貧しい生活"を選びます。それはそれで価値あることかも知れません。富に心を奪われない生活をする上で、有効なこともあるでしょう。 
         しかし、「清貧」自体は決して人生の理想ではありません。なぜなら、富のただ中にありながら、富に心を奪われない生き方もあるからです。前述のアブラハムや、ヨブ、ヨセフらは、その良い例でした。さらに、聖書の申命記八・一八にこう記されています。 
         「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」。 
         これはイスラエル人だけでなく、すべてのキリスト者たちにも語られた御言葉です。神はすべてのキリスト者に、「富を築き上げる力」を授けておられるのです! 
          
        ヨブは非常に富み、後半生は前半生以上に富んだ者となった。 
                                                 創元社『聖書物語』より 
         もし、貧しく生きることを選ぶなら、この「富を築き上げる力」を用いないことになります。そして、その築き上げた富を神と人のために生かして用いるという、ダイナミックな生き方をする機会も、ともに失われてしまうことになるでしょう。 
         キリスト教の理想は、清貧ではなく、むしろ、 
         "富に生きず、富を生かす" 
         という生き方です。富に執着した生き方ではなく、たとえ富の中にあっても、その富を豊かに神と人のために役立てることのできる生き方なのです。 
         ここで、「富を築き上げる力」が私たちに与えられている、という先の聖句を受けて、二つのことを考えてみましょう。それは"富をつくる能力"と"富を生かす能力"ということです。 
          
        キリストは、富に生きず、富を生かす生き方をお教えになった。 
         人には、"富をつくる能力"に優れた人と、"富を生かす能力"に優れた人とがいるようです。ほかに"富を浪費すること"に長けた人(?)もいますが、これは能力ではありませんから別として、まず"富をつくる能力"からお話ししましょう。 
         
         
        富をつくる能力 
         
         神は、私たちキリスト者に「富を築き上げる力」をお与えになっています。 
         主イエス・キリストはある日、「タラントのたとえ話」をお語りになりました。 
         「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出ていくようなものです。彼は、おのおの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出た・・・・」(マタ二五・一四〜一五)。 
         この主人は、しもべたちに、商売の元手、すなわち開業資金を渡していきました。「一タラント」でさえ大金と言われるのですが、同じように私たちにも、「富を築きあげる」ために豊かな元手が与えられているのです。 
         とくに、このたとえ話の中で、しもべたちは三人とも、決して赤字を出さなかったことに注意してください。 
         五タラント預かったしもべは、もう五タラント儲け、それを計一〇タラントにしました。二タラント預かったしもべは、もう二タラント儲け、計四タラントにしました。一タラント預かったしもべは、愚かにもそれを土の中に隠しておいたものの、赤字にはしませんでした。 
         彼らの中に、商売で失敗して破産した者は一人もいないのです! 
         しかし、ある人はこの「タラントのたとえ話」を読んで、「神様って不公平だな」と言います。「ひとりに五タラント、ひとりには二タラント、ひとりには一タラント」というように、資金に差を設けたのですから。 
         実際、この点では不公平でしょう。しかし一方では、神はたいへんに公平な方です。なぜなら、五タラント預かったしもべがもう五タラント持ち帰ったとき、主人は彼に言いました。 
         「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物をまかせよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」(マタ二五・二一)。 
         そして次に、二タラント預かったしもべがもう二タラント持ち帰ったとき、先のしもべに語ったと全く同じ言葉を、主人はこのしもべにも語ったのです。それは一字一句違わない、完全に同じ言葉でした(マタ二五・二三)。 
         ふつうなら、儲けの少ない分、主人の声のトーンも下がりそうなものではないでしょうか。しかし、主人は全く同じ喜びをもって、二タラント儲けたしもべを喜びました。ここに"公平さ"があります。 
         私たちは、神からの期待に応じて、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラントの「富を築き上げる能力」が与えられています。私たちはそれを、人生で用いるべきなのです。  
         たとえ話の中で、一タラントのしもべは、それを死蔵して用いなかったために、あとで主人に叱られました。私たちも「富を築き上げる能力」を、死蔵しないようにしましょう。たとえ元手は一タラントでも、大きな富を築き上げられる可能性があるのです。 
         ある人は言うかもしれません。 
         「しかし、私には一タラントの資金さえない。私の家は裕福ではなく、貯金もない」。 
         けれども、「富を築き上げる」ための資金は、どこから来るのでしょうか。それは神から来るのです。 
         あなた自身が、必ずしも初めから資金を持っている必要はありません。あのしもべたちも、最初は一銭も持っていませんでした。しかし、資金は主人から与えられたのです。 
         あなたに今、資金がないとしても、それは問題ではありません。もしあなたが、自分の内なる「富を築き上げる力」に目覚め、神のために働く気があるなら、それはやがて上から与えられるのです。 
         神は、あの怠惰なしもべにさえも、一タラントも預けてくださいました。しかし、富をつくり出すのに有能と見たしもべには、二タラント、あるいは五タラントも預けて下さったのです。 
         大切なのは、二タラント、あるいは五タラント預けられたしもべたちのように、一生懸命働こうという意志を持っていることが、主人(神)に認められることです。そして、元手を無駄なことには使わず、賢明に運営して増やそうと、知恵をしぼることなのです。 
         あるクリスチャンが、自分は神と人のために何ができるだろうか、と模索していました。「伝道者になることがいいだろうか」――彼は思いました。「いや、私は伝道者には向かない」。「慈善事業家はどうだろうか」。「いや、私には何をやったらいいかわからない」。 
         そんなとき、ある日ジョン・ウエスレー(一七世紀英国の大伝道者)の説教に、こうあるのを読みました。 
         「まじめに働いて富をつくり、できる限り節約し、できる限りそれを神と人のために用いなさい」。 
         彼は感激し、「そうだ。私には商売の才がある。うんと働いて富をつくり、それをできる限り伝道や慈善事業のために捧げよう」と決心したのです。 
         以来、彼の事業は祝福されました。そして自分の生活のためのお金はさし引いて、余剰のお金を神と人のために捧げることが出来るようになりました。こうして彼は、豊かに「天に宝を積んだ」(マタ六・二〇)のです。 
          
        ジョン・ウェスレー 
        「まじめに働いて富をつくり、できる限り節約し、 
        できる限りそれを神と人のために用いよ」 
         
        富はアイデアから生まれる 
         
         ある青年夫婦が、アメリカ・サウスダコタ州のある町で、商店を営んでいました。それは将来の成功を夢見て、希望で胸をいっぱいにして始めた店でしたが、しだいに失望感がつのってきました。 
         この小さな町では、人口が少なくて、客があまり来ないのです。夜遅くまで働くようにしても、生活は苦しくなるばかりでした。夫妻は、商売はもうやめようと考え始めました。 
         しかし、ある夏の暑い午後のこと、いつものように店は閑散としていましたが、そのとき妻の脳裏に聖書の言葉が思い浮かんだのです。 
         「何事でも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ。これが律法であり、預言者である」(マタ七・一二)。 
         妻は夫に言いました。 
         「そうだ。いいアイデアがある。ここから二キロ先のハイウェイに、毎日何万台もの車が走っているわね。この辺は、ずっと砂漠です。車で走っているときは、本当にのどが渇くでしょう(当時の車には冷房がついていなかった)。 
         さあ、これが私のアイデアよ。あなた、一キロくらい先の道路ぞいに、大きな看板を立てて来て」。 
         夫は、妻のアイデアに従って、道路沿いに大きな看板を立てました。それにはこう書いてあったのです。 
         「一キロ先にレストラン。冷たい水無料。コーラ・アイスクリーム等あり」。 
         夫は、長男と共にこの看板を立て終わり、「本当に人が来るかなぁ」と言いながら、ゆっくり店に戻りました。すると店には、もう人がいっぱい並んでいたのです。 
         「水を一杯」 
         「私にも一杯」 
         という具合で、妻がひっきりなしに応対していました。人々は、冷たい水をと思って店にやって来ると、コーラもある、アイスクリームもあるということで、それらも買い始めました。そればかりか、ついでに飲食物以外の雑貨等も、飛ぶように売れ始めたのです。 
         こうして、小さかったその店も、その後デパートにまで発展したそうです。 
         富を築く秘訣は、「何事でも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ」というゴールデン・ルール(黄金律)にあります。イエス・キリストの語られたこの教えにこそ、富をもたらす重要な秘訣があるのです。 
         ビジネスにおける偉大なアイデアは、ほとんどこの教えを実行したものと言って、過言ではないでしょう。サービス精神から、アイデアが生まれるのです。 
         サービスのアイデアで、巨富を築いたもうひとりの人の話をしましょう。 
         ジェイムズ・ハリスは、当時四五才の働き盛りでしたが、平社員で、給料も安く、ウダツの上がらない男と見られていました。 
         ある日彼は、世の中ではいろんな会社が、自社製品の宣伝用に無料のサンプルを出していることに気づきました。またあるとき、ドラッグ・ストアで買い物をしていると、 
         『無料でもらえる一〇〇一種類の価値あるもの』 
         という本が、レジの近くに置いてあるのが目に入ったのです。それを買おうと思ったら、何とそれにも「FREE」(無料)と書いてあるではありませんか。 
         彼はそれをもらって、さっそく家に帰って読み始めました。読んでいるうちに気がついたのです。読んで感心しているだけではつまらない。手紙を書いてやろう。ハガキ代だけで済むのだから。 
          
        その本も、何と「無料」で手に入った。 
         彼は一〇〇カ所にハガキを書き送りました。「これこれの品物を送ってください」と書いただけですが、八二社から八二種類の品物が送られてきました。 
         大は歯磨き粉の一ダース入りから、小は頭痛薬まで、千差万別でした。全部無料なのです。「ハガキを書く手間さえ惜しまなければ、生活費はだいぶ助かるぞ」と彼はつぶやきました。 
         しかし、もしここで終わっていれば、その後、彼を社長とするゲスト・パック社という年商五億円(当時)の会社は生まれなかったでしょう。 
         彼はそのとき、ふと気づいたのです。こういう無料の品物を用途別に集めて、小綺麗なパッケージに入れたら、商品にならないだろうか? たとえば、歯磨き粉一袋に、歯ブラシ、小型ヘアブラシと、タオルを組み合わせてセットしたら、りっぱな旅行道具になる。 
         彼はこのプランを、近くのホテルへ持ち込みました。旅行道具を忘れた客に進呈するサービス品としてはどうでしょう、というわけです。 
         ホテルは次々とこのプランに乗ってきました。それから一五年後、全米で約四〇〇〇のホテルがこの「ゲスト・パック」を備えました。 
         彼はさらに、このアイデアがうまく行きそうだと見きわめると、無料品を出す会社を訪問し始めました。 
         「無料品を最も効果のあるところへ配ってあげましょう。その代わり、一品につき三セントから五セント配達料を下さい」。 
         この考えに、多くのメーカーが乗ってきました。メーカーにとっては、依頼に応じていちいち郵送していると郵便代が馬鹿にならないし、まとめて引き取って効果のあるところに配布してくれるなら、願ったりかなったりだったからです。 
         一〇〇〇を越えるメーカーと話をつけた彼は、こうしてホテルへは洗面道具セット、銀行へは新規客開拓用フリー・パック、航空会社へは機関サービスや、時間待ち客用の品物セットを売り込みました。 
         救世軍や赤十字へも売り込みました。赤十字は彼から無料品を「買って」、災害地へ「無料で」送ったのです。それでも赤十字にとっては大きな経費節減になりましたから、大喜びだったのです。ベトナム戦線の傷病兵用にも、彼の企画した「慰問袋」が届けられました。 
         また彼は、大学生に目をつけました。彼は若者たちの使用する品物のメーカーから試供品やサービス品を集め、うまくまとめて一袋二ドルから三ドルの値打ちにして、大学周辺の店に届けました。卸値はわずか二九セントだったので、店は喜んでこれを買いました。 
         ただし、このキャンパス・パックを学生客に提供しようとする店は、大学新聞や、店頭看板、チラシなどで無料提供品のことを広告する義務がありました。 
         つまり、提供メーカーは一品五セントくらいの代金で広告をしてもらえるから、喜んで彼の会社に品物をわたすし、一方の商店も、その無料セットにひかれて学生が集まるから喜んでそれを置いてくれる、というわけで、八方円満のこのビジネスはたいへんな成功をおさめました。 
         彼は会社が軌道に乗ったとき、大学生のために奨学金制度を設けました。学ぶ意欲がありながら、経済的に困難を覚える大学生のために、学費を援助したのです。 
         もし彼が、以前勤めていた会社で平サラリーマンのままだったら、こうしたことは、したくても出来なかったでしょう。しかし、彼は頭をひねって考え出した自分のアイデアのおかげで、こうしたことも出来るようになったのです。 
         大実業家のハーベイファイアストーンは、こう言っています。 
         「資本は、ビジネスにおいてさほど重要ではない。経験もさほど重要ではない。この二つは、外から手に入れることができる。 
         大切なのはアイデアだ。もしアイデアがあれば、いちばん重要なビジネス資産を持つことになる。そのビジネスの可能性には限りがない。人生における最大の資産――アイデアがそれである」。 
         アイデアを生み出す能力、またアイデアを実行に移す能力こそ、「富を築き上げる力」なのです。 
         
         
        富を生かす能力 
         
         つぎに"富を生かす能力"について考えてみましょう。 
         もし私たちが、単に自分のために富を築くのであれば、私たちはもはやキリストの弟子ではありません。 
         キリストは、「神を愛すること」また「自分と同じように隣り人を愛すること」が、人生でいちばん大切だと言われました(マタ二二・三六〜四〇)。したがって、もし富を神と人のために活用しないなら、私たちは愛の実践者ではなく、またキリストの弟子でもありません。 
         聖書は言っています。 
         「気をつけなさい。・・・・あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・・・ 
         あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい」(申命八・一一〜一八)。 
         私たちは、富を得たとき、それは自分の力によったのだ、と思ってはなりません。それは、神が私たちを祝福して、富を私たちに"預けて下さった"に過ぎないのです。 
         その富は自分のものではなく、神から預けられたものです。私たちはそれを、神と人のために運用して役立てなければなりません。 
         アンドリュー・カーネギーは、これをよく知っていた人でした。彼は、「貧困を追い出してやる」と決意し、貧困の中から這い上がって世界有数の金持ちになりました。 
         しかし、彼の事業はむしろそれからだったのです。彼は富豪となったとき、その富をすべて投げ出して、社会の向上と、福祉、教育、医療、科学研究、奨学金、また教会への援助等のために使ったのです。 
         彼は富を、自分の息子や娘たちには残しませんでした。自分のためにも、通常の老後を過ごせる程度にして、あとはすべて社会のために捧げたのです。 
         といっても、貧乏な人や、お金を欲しがっている人々に、考えもなく富をばらまくようなやり方をしたのではありません。自助努力のない、向上心のない怠惰な者には、彼は決して富を与えようとはしませんでした。 
         富が役立てられる分野、人、団体を注意深く選び、適切な額を援助したのです。彼は富を築くことにおいて優秀だっただけでなく、富を生かすことも真剣に考えた人でした。彼は自著の中にこう書いています。 
         「富豪でなければ味わえない満足と、幸福というものがある。その幸福とは、自分が生きている間に、公益を目的とする財団法人を組織し、そこに基本財産を寄贈することである。 
         そしてそれが生み出す利益が、社会を潤し続ける状況を、自分の目で確認することである。そのような行為が、富豪の生涯を高尚なものにし、神聖なものにすることができる。主イエス・キリストは、 
         『あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげなさい』(マタ一四・一六) 
         と教えられた。その心さえ忘れなければ、富める者が、その富と能力を使って貧しい兄弟たちのために働く方法は、いくらでもある」。 
         カーネギーはまた、富は決して"自分のもの"なのではなく、自分に"預けられた"ものに過ぎない、という明確な認識に立っていました。自分が幸いにも富むことができたのは、富が自分に"預けられた"ということであって、それを賢明に運用し役立てることは富んだ者の責任なのだと。 
         さらに、彼にはもう一つの口癖がありました。それは、 
         「富を持ったまま死ぬのは恥である」 
         ということでした。 
         世の中には、築いた富を単に自分のために使っただけの富豪が、多くいます。また自分の生存中、富を人々のために役立てようとしなかった富豪が多くいます。 
         富は天国へ、あるいは地獄へ自分と一緒に持っていけないという理由から、自分の死後やむなく人に遺贈したという富豪もいます。 
          
        アンドリュー・カーネギー 
        「富を持ったまま死ぬのは恥である」。 
         しかし、富を持ったまま死ぬのはじつに不名誉であり、人間として恥ずかしいことだと、カーネギーは考えていました。富が自分に"預けられたもの"であるなら、それを自分の生存中に、自己の責任の範囲内で、活用を考えることは当然のことなのです。 
         もし、生存中にそれを真剣に考え、努力しないなら、死ぬときに自分が持っている富は、単にその人の不名誉となるばかりか、その人を天国に行かせないように引き下げる、大きなおもりとなることだけは疑い得ません。 
         その人は、神から預けられた富を愛のために用いなかったので、その富が多ければ多いほど、それは天国への道を閉ざすのです。ここに、 
         「金持ちが天の御国に入るのは、むずかしい」(マタ一九・二三) 
         と言われた理由があります。富を持ったまま死ぬことは、その人が神と人のために生きなかったことを証明するようなものなのです。 
         だから、もし富んだなら、それを神から自分に預けられたものと考え、自分の生きているうちに真剣にその活用を考えて、はやくから実行に移していく必要があります。 
         
         
        富への執着を捨て愛のために役立てる 
         
         主イエスのもとに、ある日、金持ちの青年がやって来ました。青年は、 
         「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」 
         と聞きました。すると主は、幾つか事柄を語られた後、 
         「もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」 
         と言われました。しかし、青年はこの言葉を聞くと、顔を曇らせ、悲しんで立ち去ってしまいました(マタ一九・一六〜二二)。 
         主は、青年になぜこう言われたのでしょうか。それは青年が富への執着心を捨てられるか否かを、試すためでした。 
         金持ちになることや、また金持ちであることは、決して悪いことではありません。しかし、人は人生のどこかで、金銭への執着心を捨てなければならない時が来るのです。 
         富を持ったまま死ぬことは、神の国に生きる者のすべきことではありません。キリストの求めに応じて、自分の生きているうちにその富を役立てようとしないなら、その人はキリストの弟子にはなり得ないのです。 
         私たちは地上において富むことができたとしても、いつかその富を「天の宝」に変えておかなければなりません。 
         これは単に、富んだ者に関してだけ述べているのではありません。たとえ貧しい者であっても、もし金銭への執着が強く、拝金主義に陥っているなら、そうした人が「神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタ一九・二四)のです。 
         要するに、富を持っていようと、持っていまいと、私たちは「富に仕える」(マタ六・二四)ことなく、神にのみ仕えなければなりません。また、自分の魂の救いのために富に信頼するのでなく、神にのみ信頼しなければなりません。 
         富は、良い人には良いものをもたらし、悪い人には悪いものをもたらします。富は、うまくつき合えば幸福を与えてくれますが、もし間違ってつき合えば、天国への道を邪魔するのです。 
         私たちは「富に仕える」のではなく、神と人のために富を仕えさせなければなりません。富は主人ではなく、しもべです。富は、人生の主人となれば無慈悲ですが、愛の事業のための召使いとすれば良き働きをします。 
          
        クリスチャンの生き方は、富への執着心を捨て、 
        愛のために富を役立てることにある。――絵:金持ちの青年とキリスト 
         富は人生の目的ではなく、手段の一つです。私たちは、富を浪費するのではなく、富を大きく生かす器になりたいものです。そのとき私たちは、真にキリストの弟子と呼ばれるでしょう。 
         
         
        富をつくる人と富を生かす人の協力 
         
         富士山の北方に、「清里」という美しい高原があります。ここは、戦後農村の民主主義復興の全国モデル、また高冷地における近代酪農の原点とされた町です。今日も、全国から多くの青少年がここに集います。 
         この清里を拠点に、敗戦後の荒廃した日本の復興と近代化に力を注いだ人物として、ポール・ラッシュというアメリカ人がいます。 
         当時、日本人は飢餓に苦しみ、生きる希望さえ失っていました。また日本再生の方向は民主主義社会の建設でしたが、日本人たちはその意味さえ知らなかったのです。聖公会のクリスチャンであったラッシュ博士は、その日本人が自助努力と、民主主義と、信仰を得ることを願いました。 
          
        ポール・ラッシュ博士。 
        清里を拠点に、敗戦後の荒廃した 
        日本の復興と近代化に力を注いだ人物。 
         彼はまず清里の地に、農村センターをつくり、農業と酪農の実践モデルを戦後の日本に提供しました。とくに、それまでの日本人は国土の八割を占める山間高冷地をほとんど放置していたのに対し、そこで近代的な酪農が可能であるという実践的なモデルを、ラッシュ博士は提供したのです。 
         また彼は、そこに聖アンデレ教会、清泉寮(指導者訓練キャンプ場)、聖ルカ農村病院、聖ヨハネ農村図書館、聖ヨハネ保育園、清里農業学校などを次々に建設しました。さらに八ケ岳山麓の一〇か所に、民主的な農村運営の場である「弘道所」(現在の公民館)を建設しました。 
         そして、これらすべての場所において、日本人とともに働いて、近代日本の農業、酪農、民主主義、また福音伝道のために尽力したのです。彼のこの働きは「キープ」(清里教育実験計画)として、世界的にその名を知られました。 
          
        高冷地における近代酪農 
        のモデルをつくったラッシュ博士。 
        後ろに見えるのは聖アンデレ教会 
        (Xは十字架の一つで、アンデレの十字架。 
        キリストの弟子アンデレがキリストと同じ型の 
        十字架では恐れ多いと言って、自らすすんで 
        斜め十字架(X型)につけられ、2万人の群衆に 
        説教しながら殉教していったという出来事に基づく)。 
         かつて、ラッシュの理解者であった鳩山一郎首相はこう語りました。 
         「キープの成功の中に、わが国山村における農業が充分可能であるという、否定すべからざる証明が与えられた。この事実は人間の想像力、善意、それに信仰の誠の証しであり、また同時に日米協力の賜物の証しでもある」。 
         では、ラッシュ博士はこれほど多くの働きをなすために、資金はどこから手に入れたのでしょうか。自分が持っていたのでしょうか。 
         いいえ、彼は全く持っていませんでした。その資金は、ほとんどがアメリカやカナダの市民たちによる献金や募金でした。彼ら市民たちは、かつては敵国だった日本の復興のために「キープ後援会」を通して多額の献金をしてくれたのです。 
         アメリカやカナダの市民の中には、日本との戦争で息子や娘、友人を失った人々も大勢いました。しかし、日本が飢餓から救われて復興し、民主主義を身につけられるよう、ラッシュ博士の働きのために祈り、また経済的に支えてくれたのです。 
         彼らはお金だけでなく、衣類や毛布、農機具や種子、家畜等も送ってくれました。開墾の手伝いに、わざわざ清里にやってくる米国青年たちもいました。 
         東京の有名な聖路加国際病院(路加とはルカのこと)も、ラッシュ博士の呼びかけに応じて募金した、アメリカの数多くの人々の善意で建てられたものです。ラッシュ博士が集めた募金は、エリザベス・サンダース・ホームの経営の援助にも用いられました。 
         ラッシュ博士が募金を乞うために出した手紙は、膨大な数にのぼります。彼はこのために、タイプライターを何台もつぶしました。 
         ラッシュ博士は、富を生かす能力を豊かに発揮しました。その富は、大小の献金を捧げた多くの人々の協力のもとに集められたものなのです。 
         一般的に言えば、富をつくる能力と富を生かす能力を、両方とも優れた形で持っている人は多くありません。その両方とも発揮する機会と能力を持つ人は、少ないのです。 
         富を生かす能力はあるものの、富をつくる機会や時間がない人がいます。一方、富をつくる能力には優れているものの、富を自分で生かすには忙しすぎる、という人もいます。 
         ですからここに、両者の適切な協力関係が大切になって来るのです。もし両者が互いに良き信頼関係で結ばれて協力するなら、その関係は大きな実を結んでいくことでしょう。 
         そしてこの協力が適切に進行していくところでは、富をつくる人も、富を生かす人も、神からの等しい祝福を得ることができるのです。 
         
                                         
        久保有政著(レムナント1996年1月号より) 
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