三位一体論
    神の三位一体とはどういうことか? 
キリストの神性について


         「三位一体の礼拝」(部分) デューラー画

 キリスト教では、神を「三位一体の神」と呼ぶ。これは、
 "父なる神・御子キリスト・聖霊の三者は、一体で、おひとりの神となっておられる"
 という教えである。「三位」の「位」は位格を意味し、御父・御子・御霊の三者をさす。これら三者は、互いに区別されるが一体の神である、というのが三位一体論である。
 「三位一体」という言葉自体は、聖書に出てこない。しかし、その意味する内容は、明らかに聖書自体が示すものである。
 はじめに、三位一体論が何でないか、つぎに、三位一体論が何であるか、について見てみよう。


一 三位一体論が意味しないこと

(1) 三位一体論は、"三神論"ではない。それは三つの神々が存在するという多神教ではなく、唯一の神を教える。
 「主は私たちの神、主はただひとりである」(申命六・四)
 神は唯一である。御父・御子・御霊(聖霊)という、三つの独立した"神々"がいるわけではない。御父・御子・御霊は、存在において一つであり、おひとりの神になっておられる。

(2) つぎに、三位一体論は"一神三部分論"ではない。すなわち、おひとりの神の内に三つの"部分"がある、とする教えではない。
 御父・御子・御霊は、神の中の三つの"部分"ではなく、それぞれに完全なかたである。神の本質を分割することはできない。御父・御子・御霊は一体であられる。

(3) 三位一体論は、"三位同一論"でもない。三位の間に"区別"はある
 御父・御子・御霊の間には、
 "生まれざる者・生まれた者・出た者"
 という区別がある。区別までなくしてしまうと、もはやそれは三位一体論ではない。
 御父は、誰によっても造られず、誰によって生まれたのでもなく、自存者であり、「生まれざる者」であられる。また御子は、御父から「生まれた者」、御霊は、御父から「出て」御子を通して信者に注がれた霊である。
 父なる神・御子キリスト・聖霊は、決して"同じかたの別名"ではない。三位一体論は、唯一の神のうちに御父・御子・御霊という位格の"区別がある"とするものである。
 これら三者が、互いにその区別を保ちながらも、存在と本質において一体であるとする。

(4) また三位一体論は、父なる神・御子キリスト・聖霊に関するものであって、父なる神・イエス・マリヤの三者ではない
 じつは、イスラム教の創始者マホメットは、キリスト教の三位一体論は父なる神・イエス・マリヤの三者のことだと、誤解していた。彼はその間違った知識に基づいて、キリスト教の三位一体論を批判した。


マホメットは、キリスト教の
三位一体論を「神・イエス・マリヤ」
の3者と誤解して、キリスト教を批判した。

 マホメットのこの誤解については、イスラム教の教典『コーラン』の四章一七一節、また五章七三〜七五節などに見ることができる。
 マホメット自身は、文盲であり、読み書きができなかった。彼は聖書知識を、自分で読んで得たのではなく、人から聞いて得たので、このような初歩的ミスが起きたのであろう。

(5) もう一つの重要なことは、三位一体論は"一神三様態論"ではない、ということである。すなわち、
 "旧約時代の「父なる神」は、キリスト在世時代に「イエス・キリスト」となられた。また、キリスト昇天後の時代には、「聖霊」となられた"
 ということではない。御父・イエス・聖霊は、時代に応じてあらわされた神の三様態ではない。旧約の父なる神が、新約時代になって、呼び名が変わってイエス・キリストになられたわけではない。
 神は、キリスト初来以前の時代にも、「御父・御子・御霊」であられた。そしてキリスト在世時代にも、キリスト昇天後の時代にも、つねに「御父・御子・御霊」として存在しておられる。
 「御父・御子・御霊」の区別は、永遠の過去から永遠の未来におよぶ。その区別は"永遠の区別"である。これについては、のちに諸聖句をあげて具体的に見てみよう。


二 三位一体論が意味すること

 つぎに、三位一体とは何であるか。
 神の三位一体の教えは、神の奥義に関する事柄である。人間の知性で完全に理解することは困難であろうが、明らかに聖書が教えていることであって、「信ずべき真理」である。
 三位一体とは、唯一の神の内に、御父・御子・御霊の三位格の永遠の区別がある、というものである。三位の神は、存在と本質において一体とされる。
 キリスト教の歴史的な基本的信仰告白である「アタナシウス信条」には、こう記されている。
 「われらは唯一の神を、三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分割することなく」。


御父

 はじめに御父、すなわち父なる神から見てみよう。
 御父は、天地万物の創造主であり、「第一原因」であられる。御父は、御子キリストの父であり、万物の父であり、すべて神の御心を行なう者たちの父である。
 御子イエスもこのかたより生まれたのであり、聖霊(御霊)もこのかたより出たのである。
 父なる神は、ご自身を聖書の中に「ヤハウェ」の名で啓示された。
 新改訳 (日本聖書刊行会訳) の旧約聖書を読むと、ところどころに、太文字の「主」という言葉がある。これは旧約聖書の原語ヘブル語において、神のお名前 (固有名詞)であるヤハウェを表す神聖四字YHWHの記されているところである。
 ヤハウェの御名は、アダムの子セツの子であるエノシュの時代に、すでに知られていた。
 「そのとき、人々はヤハウェの御名によって祈ることを始めた」(創世四・二六)
 実際、考古学者は、ヤハウェ神の御名を古代遺物の中に発見している。


アダムの子セツの子エノシュの時代に、
「人々はヤハウェの御名によって祈ることを始めた」
(創世4:26)

 その後、イスラエル民族が創始され、彼らは神の民となって、ヤハウェの御名において律法を学び、生活した。ヤハウェの御名は彼らの日常生活において、信仰と敬虔さをもって、ふつうに発音されていた。
 しかし、やがて神の御名ヤハウェを「主」(へブル語アドナイ ギリシャ語キュリオス)と置き換えて読む習慣が、紀元前三世紀頃からユダヤ人の間で始まった。
 キリスト教会でも、今日この習慣を踏襲しているところが多い。しかし、この習慣の是非については、今日も議論がある。


御子

 つぎに、御子イエス・キリストを見てみよう。
 御子は、父なる神から生まれ出たかたである。
 「わたしは神から出た者、また神から来ている者である」(ヨハ八・四二)
 とキリストは言われた。キリストは、永遠において父なる神から生まれ出た、神の御子である。
 私たち人間も、神を信じる者はみな「神の子」と呼ばれるが、私たち人間の場合は神の被造物 (造られたもの) である。
 これに対し、キリストは神の被造物ではなく、直接父なる神から生まれ出たかたであって、彼は、
 「すべての造られたものに先立って生まれたかた(コロ一・一五)
 なのである。
 キリストは、万物の創造される以前に、神からお生まれになった。まだ「時間」というものもなかったときに、神からお生まれになった。
 その意味で、キリストは「神のひとり子(ヨハ一・一四)とも呼ばれる。キリストは私たちが「神の子」と呼ばれるのとは違った意味で、「神の子」であり「神のひとり子」なのである。キリストは、神の独一の子である。
 また聖書は、キリストを、
 「ひとり子なる神(ヨハ一・一八)
 とも呼んでいる。父なる神から出たキリストは、子なる神とも呼ばれる。人間の子が人間であるように、神の御子キリストは、「(子なる)神」である。
 したがってキリストは、永遠から永遠にいたるまで存在しておられる。キリストご自身、
 「アブラハム (紀元前二千年頃に生きた人物)の生まれる前から、わたしはいるのである」(ヨハ八・五八)
 と言われた。子なる神キリストは、永遠に父なる神と共におられる。
 では、父なる神と子なる神は二つの独立した神々なのかというと、そうではない。キリストは、
 「わたしと父(なる神)とは、一つである」(ヨハ一〇・三〇)
 と言われた。キリストは存在と本質において、父なる神と一体なのである。
 キリスト教の異端 (非正統派) で、三位一体の教えを否定する宗派に「ものみの塔」 (エホバの証人) というのがある。彼らは、この「一つである」という御言葉は単に"目標や意思において一つ"という意味なのだ、と主張している。
 しかし新約聖書の原語ギリシャ語を見てみると、これは単に、父なる神とキリストが目標や意思において一つになって行動する、という意味ではない。「一つ」という言葉は、原語では「同一の本質」「同質」という意味なのである(新改訳欄外注参照)
 つまりキリストは、父なる神と同じく神性を持つかたであり、父なる神と存在を一つにしておられる。黙示録二二・三の記述も、それを示している。
 「神と小羊(キリスト)との御座が、都(新エルサレム)の中にあって・・・・」。
 この「御座」は、ギリシャ原語において単数形である。これは御父と御子の一体性を示すものである。


御霊

 つぎに、聖霊 (御霊) について見てみよう。
 聖霊は、「神の御霊」 (Tコリ三・一六) とも「イエスの御霊」(使徒一六・七)とも呼ばれるかたである。聖霊は、父なる神から御子キリストを通して信者に注がれた神の霊である。聖書にこう書かれている。
 「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、・・・・聖霊をお注ぎになったのです」(使徒二・三三)
 聖霊は、父なる神から出た神の霊であって、御子キリストを通して信者に注がれた。聖霊は、御父および御子から発する。
 御子キリストは、十字架の死と、復活を経たおかたである。だから、聖霊がキリストという一種の"フィルター"を通して注がれることによって、信者はその聖霊を通し、キリストの十字架死と復活の力にあずかることができる。
 キリストは今は天におられるが、キリストの十字架死と復活の出来事と同じことが、聖霊によって信者の魂にも起こる。私たちは聖霊によって、古い自分に死に、「神の子」として新しい者に生まれ変わる。
 聖霊は、父なる神、およびキリストから出た霊である。したがって神性を有する。しかし、聖霊は神を離れてあるのではなく、神およびキリストと一体であられるのである。
 聖霊は、単なる"エネルギー"とか"力"ではない。人格を持っておられる。
 「聖霊を悲しませてはいけない(エペ四・三〇)
 「 (父なる神は) 御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(ロマ八・二七)
 「ペテロが幻について思い巡らしていると、御霊が彼にこう言われた・・・・」(使徒一〇・一九)
 「思」ったり、「とりなし」たり、「悲し」んだり、「言う」ことをするのは単なるエネルギーではない。聖霊は"おかた"である。


三位の統一性と一体性

 このように、唯一の神の内に御父・御子・御霊の三つのご人格(神格とでも言ったほうが良いかもしれないが)がある。人間なら人格が三つあったりしたら、矛盾してしまって大変だが、三位一体の神のご人格は完全に統一されている。
 父なる神と御子の意志が違ったり、御子と御霊の意志が違ったりすることはない。意志は完全に統一されている。
 意識の上では互いに独立しているものの、意志的には御子は御父に従い、御霊は御父と御子に従うのである。これを「神の統一性」という。
 また、御父・御子・御霊は、存在と本質において一体の神であられる。神は唯一である。
 神の三位一体の聖書的根拠は、数多くある。上に述べたもののほかに、根拠となる聖句をいくつか書き出してみると、たとえば次のようなものがある。


三 神の三位一体を示す諸聖句

(1)マタイの福音書二八・一九
 「父、子、聖霊の御名によって、バプテスマ(洗礼)を授けなさい」。
 ここで「父、子、聖霊」の三者の名があげられている。これに続く「御名」は、ふつうなら複数形でなければならないが、原語では単数形である。
 これは三位の神の一体性を示す。

(2)ヨハネの黙示録二一・二二
 「それは、万物の支配者である、神であられる主(御父)と、小羊(キリスト) とが、都 (新エルサレム)神殿だからである」。
 この聖句の「神殿」も、原語では単数形である。これもやはり、父なる神とキリストの一体性を示す。

(3)創世記一・一
 「はじめには、天と地とを創造された
 この聖句の「神」は、原語では複数形である。しかし「神々は・・・・」と訳さないのは、「創造された」の動詞が単数形だからである。
 これもやはり、神の三位一体を示すものと言われる。

(4)創世記一・二六
 「神は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう・・・・』と仰せられた」。
 ここでも、神に複数形が用いられ、「われわれ」と言われている。「われわれ」は三位の神と思われる。というのは、キリストはこう言われたからである。
 「誰でもわたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人と共に住みます」(ヨハ一四・二三)
 この「わたしたち」と、先の「われわれ」は同じ用法と思われる。

(5)創世記一・一〜三
 「神は天と地とを創造された。・・・・神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた」。
 この聖句の中に、私たちは父なる神(神は・・・・)と、神の言キリスト(『光あれ』と言われた)、それに聖霊 (神の霊が・・・・) の三者を見出す。
 これは、天地創造が三位の神によってなされた、ということである。御父・御子・御霊の区別と、その一体性は、永遠の昔からのものである。
 神は、旧約時代は父なる神として、イエス在世時代は子なる神として、教会時代は聖霊なる神としてというように、"一神三様態論"で言われるようなかたちで現われなさったのではない。
 これは時々誤解されているが、非常に重要なことである。教理は間違ってはいけない。


「光あれ」と言われると光があった、と記されているように、
神はみことばによって万物を創造された。そして神の霊が、
万物をおおっていた。宇宙・自然の創造は、
三位一体の神の御働きであった

 神は、旧約時代も「御父・御子・御霊」であられた。またイエス在世時代も「御父・御子・御霊」であられ、その後もそうである。それは、次の聖句にも明確に示されている。

(6)マルコの福音書一・一〇〜一一
 「イエスは・・・・バプテスマ (洗礼) をお受けになった。そして水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった。『あなたはわたしの愛する子・・・・』」。
 この場面においても、私たちは三位の神を見出す。すなわち天から声を発せられた父なる神、バプテスマを受けられた御子イエス、そして、鳩のように下られた聖霊である。
 御父・御子・御霊の区別は、旧約時代に存在し、新約時代にも存在する。その区別は永遠のものである。永遠の過去から、永遠の未来に及ぶ。


四 御父・御子・御霊の区別は永遠

 以上述べたように、おひとりの神のうちに、御父・御子・御霊の三位格の、永遠の区別がある。
 御子キリストは、御父から生まれ出たかたである。また御霊は、御父と御子の両方から出たかた、または、御父から御子を通して信者に注がれた霊である。
 そしてこれら三者は、矛盾することなく、おひとりの神となっておられる。御父は「生まれざる者」、御子は「生まれた者」、御霊は「出た者」であられる。
 御父は神の「第一位格」、御子は神の「第二位格」、御霊は神の「第三位格」とも呼ばれる。御父・御子・御霊には、第一・第二・第三という序列、または順位がある。
 ただしこの順位は、能力に差があるとか、本質に差があるということではない。人間でも、子(成人した子)は、人間としての能力や本質という点では本来父と変わらないものを持っている。
 それと同様である。だからキリスト教では、御父・御子・御霊の三者は、その間に順位の違いはあるが、神としての力と栄光においては等しい、と一般に考えている。
 三位の神の間には、永遠に愛の交わりがある。
 「神はである」(Tヨハ四・八)
 愛には対象が必要である。神は万物の創造以前から愛だったのであって、神はご自身のうちに、永遠の昔から愛の対象を持っておられたのである。すなわち、御父・御子・御霊の愛の交わりを、ご自身のうちに持っておられた。
 三位一体の教えを、たとえで説明することは、つねに不完全さがともなう。しかし理解を深めるために、たとえを示すことも有益であろう。聖書に、
 「神は光である」(Tヨハ一・五)
 と書かれている。神は光のように、恵みに満ちたかたである。
 実際、神は光のようなかたである。可視光は「三原色」から成っている。光の三原色は、赤・青・緑である (絵の具の三原色は、赤・青・黄)
 赤・青・緑の三つの光があれば、それらをうまく混ぜることによって、どんな色でもつくり出せる。
 実際カラーテレビのブラウン管の根もとに、赤・青・緑のそれぞれの色を出す三つの電子銃がついている。それら三つの色をうまく混ぜあわせて、様々な色をつくり出している。
 光は、赤・青・緑の三つの光であり、しかもそれら三つは一つの光である。
 同じように神は、三位の神から成っている。しかし、独立した三つの神々がいるわけではなく、三位は一体であり、おひとりの神なのである。
 三位一体の教えは、キリスト教の最も中心的な教えの一つである。神が三位一体であることを認めるか否かが、正統と異端とを分けるとさえ言われる。神の三位一体は、神秘的な事柄であるが、「信ずべき真理」である。


五 キリストの神性

 三位一体論に関して、歴史上最も議論があったのは、キリストの神性に関してであった。これについて、もう少し詳しく見てみよう。
 三位一体論は、キリストは神性と人性の両性質を合わせ持つ"神―人"であると教える。私たちは、これは聖書の教えであると受けとめる。
 キリストの神性を否定する人々は、しばしば次の聖句をあげてきた。
 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(Tテモ二・五)
 ここに「人としてのキリスト・イエス」とあることから、キリストは人であって、(子なる)神ではないと主張された。しかしこの聖句は、キリストの人としての側面を取り上げて言っているのであって、キリストが神性を持たないと言っているわけではない。
 聖書を全体から学ぶなら、聖書は明らかにキリストの神性を教えている。


キリストは人々からの礼拝を受けられた

 はじめに重要なのは、キリストは人々によって礼拝され、キリストご自身もそれを受け入れられた、という事実である。
 聖書は、神以外は決して礼拝してはいけない、と強く教えている。とくにユダヤ人は、周知のように神以外のものを決して礼拝の対象としなかった。
 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない
 は十戒の第一条であり、ユダヤ人たる者は、偶像や人間はもちろんのこと、たとえ天使であっても、礼拝の対象としてはならなかった。
 また彼らは、何らかの理由から自分が礼拝の対象にされそうになれば、身震いしてそれを退けた。神でない自分が礼拝されることは、真の神に対する冒涜行為だからである。
 あるとき異邦人たちが、使徒パウロとバルナバのなす奇跡を見て驚き、この使徒たちを礼拝しようとしたことがあった。そのとき、彼ら使徒たちは自分たちの衣を裂き(嘆きの表現)、身震いして人々の礼拝行為を退けて言った。
 「皆さん。どうしてこんなことをするのです。私たちも皆さんと同じ人間です(使徒一四・一五)
 このようにユダヤ人は、神以外のものを礼拝することを拒否したのみならず、自分たちが神のように礼拝されることも、かたく拒否したのである。
 ユダヤ人だけではない。天使たちも、自分が礼拝されることをかたく拒否している。
 ヨハネの黙示録によると、使徒ヨハネは預言の言葉を与えられたとき、思わず目の前の御使いを拝もうとした。しかし、御使いはヨハネの礼拝行為を拒絶して、こう言った。
 「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい(黙示一九・一〇)
 天使は、自分が礼拝されることを拒否し、「神を拝みなさい」と言ったのである。
 一方、イエス・キリストはつねに人々から礼拝され、またそれを受け入れられた。
 「(復活の)イエスにお会いしたとき、彼ら(弟子たち)礼拝した(マタ二八・一七)
 「舟にいた者たちはイエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」(マタ一四・三三)
 「神の御使いはみな、(イエス)を拝め(ヘブ一・六)
 「彼は言った。『主よ。わたしは信じます』。そして彼はイエスを拝した(ヨハ九・三八)
 ほかにも、人々がイエスを礼拝し、イエスがそれを受け入れられたことを記す箇所は多い(マタ二・一一、一五・二五、二八・九、マコ五・六)
 これら「礼拝した」「拝んで」「拝した」と訳されている言葉は、ギリシャ原語ではみな同じプロスキュネオーである。この言葉は、じつは先に引用した天使の言葉、
 「(神を)拝みなさい
 と同じギリシャ原語なのである。すなわち「礼拝した」「拝む」を、単なる"敬意をささげる"等と訳すことは不可能である。これは文字通り、神に対すると同じ礼拝行為なのである。
 またキリストが、復活して弟子たちの前に現われたとき、弟子トマスは、
 「わが主よ。わが神よ(ヨハ二〇・二八)
 と言ってキリストを礼拝した。このとき、キリストは衣を裂いて"わたしもあなたと同じ人間です"と言ったであろうか。いや、キリストはトマスの礼拝行為に対し、
 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハ二〇・二九)
 と言って、彼の信仰を励まされたのである。


聖書によれば、キリストは何度も人々からの
「礼拝」をお受けになっている。これは、原語的には
「神を拝みなさい」
(黙示19:10)の言葉と同じである。


キリストは人々の祈りをお受けになる

 さらに、キリストは人々の祈りをお受けになる。これも、キリストの神性のゆえである。
 私たちは、天の父なる神に祈るとともに、主イエスに対しても祈ってよいのであろうか。祈ってよい。弟子ステパノは、殉教して死のうとするとき、イエスに向かって祈って言った。
 「主イエスよ。私の霊をお受け下さい」(使徒七・五九)
 使徒パウロも、イエスに向かって祈った。
 「このことについては、これ(持病)を私から去らせて下さるようにと、三度も(イエス)に願いました(Uコリ一二・八)
 黙示録でも、イエスに向けて祈られている。
 「アーメン。主イエスよ。来て下さい」(二二・二〇)
 イエスご自身、ご自身に向かって祈りなさい、と言われた。
 「あなたがたが、わたしの名によって、何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」(ヨハ一四・一四)
 私たちは、父なる神に祈るとともに、御子イエスに向かって祈ってよいのである。言うまでもなく、私たちは神性を有する方以外に対して祈ることをしない。


使徒パウロは、持病を取り去って下さいと、
3度も「主」(イエス)に祈願した。


キリストは全知全能
永遠・偏在であられる


 まことにイエス・キリストは、私たちによる礼拝を受け、祈りを受けるに値するおかたである。
 彼は三位の神における「子なる神(ヨハ一・一八)であって、神としての性質――神性をすべて持っておられる。

(1)彼は全能であられる。
 かつて預言者エリヤやエリシャは、"神に願って"人々の病をいやした。しかし、イエスは"ご自分の権威によって"人々の病をいやし、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出された。たとえば、
 「ラザロよ。出てきなさい」
 等と、命令形の言葉をもって死人をよみがえらせ、病をいやされたのである。
 またイエスは、大自然をもご自分の支配下に置かれた。彼は水の上を歩き(マタ一四・二五)、御言葉の権威をもって嵐を静められた(マタ八・二六)。イエスは言われる。
 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタ二八・一八)
 また、
 「御子は・・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます」(ヘブ一・三)
 と記されている。これらはイエスの全能性を示す。

(2)イエスは全知であられる。
 「イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハ二・二四〜二五)
 イエスは、いちじくの木の下にいるナタナエルについて言い当て(ヨハ一・四八)、またサマリヤの女の経歴を言い当てられた(ヨハ四・二九)
 イエスは、ご自分がいつ、いかにして世を去るかを知り(マタ一六・二一)、世の終末があること、また御父についても、すべてを知っておられる。彼のうちには、
 「知恵と知識との宝がすべて隠されている」(コロ二・三)
 ただ例外と思えるのは、イエスがご自分の再臨の日時を知っておらず、それを知っているのは御父だけだと言われたことである(マコ一三・三二)。しかし、おそらく今はすでに、イエスはそれを知っておられるであろう。

(3)イエスは偏在しておられる。
 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタ一八・二〇)
 とイエスは言われた。彼は天にありながらも、同時に地上に現臨される。また、地上にありながらも、同時に天におられる。
 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」(マタ二八・二〇)
 イエスは、すべてのものをすべてのもののうちに満たすかたである。
 「教会はキリストのからだであり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペ一・二三)

(4)イエスは永遠のおかたである。
 「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハ八・五八)
 とイエスは言われた。そればかりではない。イエスは天地創造以前から存在しておられた。
 「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(ヨハ一七・五)
 「御子は・・・・造られたすべてのものより先に生まれた方です」(コロ一・一五)
 この「生まれた」というのは、何年何月に生まれた、ということではない。御子のお生まれになったのは、時間の創造以前のことであって、永遠における事柄であるから、時刻で表すことができない。
 キリストがお生まれになったのは、永遠の昔であり、限りなく昔なのである。またイエスは、未来においても永遠に存在される。
 「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」(黙示一・一七〜一八)
 「あなた(イエス)の御座は世々限りなく・・・・」(ヘブ一・八)

(5)イエスは完全にきよい方である。
 イエスは、罪のない、全くきよい方であったし、今もそうであられる。これもまた、神性の証明である。
 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」(Tペテ二・二二)
 「このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また天よりも高くされた大祭司(キリスト)こそ、私たちにとってまさに必要な方です」(ヘブ七・二六)

(6)イエスは罪を赦す権威を持っておられる。
 イエスが罪を赦す権威を持っておられるということも、彼の神性に基づくものである。
 イエスはあるとき、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦された」と言い、さらに、彼の病をもいやされた(マコ二・五)

 このように、キリストは神性のすべての要素を持っておられる。
 キリストは実際、「」とも呼ばれている。
 「御子については、こう言われます。
 『(イエス)よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。・・・・それゆえ(イエス)よ。あなたの神(御父)は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にましてあなたに注ぎなさいました』」(ヘブ一・八〜九、詩篇四五・六〜七)
 ここで「神よ」と呼びかけられている方は御子イエスであり、一方「神よ、あなたの神は」と言われている方は父なる神なのである。
 また、こう述べられている。
 「はじめに、ことば(キリスト)があった。ことばは(原語は定冠詞つき)と共にあった。ことばは神(定冠詞なし)であった」(ヨハ一・一)
 最初の「神」は父なる神、あとの「神」は、子なる神キリストのことである。そのほか、キリストに関してこう記されている。
 「父のふところにおられるひとり子の神(ヨハ一・一八)
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザ九・六)
 「私たちは真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(Tヨハ五・二〇)
 こうしたことから、私たちは"キリストは神性を持つが、神ではない"といった矛盾した言い方をすることはできない。キリストは神性を有する「子なる神」であられる。


六 キリストの人性

 つぎに、キリストの人性についてであるが、こう記されている。
 「キリストは・・・・神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ・・・・」(ピリ二・六〜八)
 キリストは、受肉以前は神性だけを持っておられたが、受肉以降は人性をも持たれたのである。
 「ことば(キリスト)は人(原語は肉体)となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ一・一四)
 「子たちはみな血と肉をもっているので、主(イエス)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(ヘブ二・一四)
 キリストが私たちと同じ人としての性質を持たれたのは、その中で苦しんでいる私たちと同じようになって、私たちを救うためである。
 「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブ四・一五)
 キリストは、永遠の昔から存在しておられたが、今から約二千年前に、受肉のときに人としての性質を持たれた。
 「確かに偉大なのは、この敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ・・・・』」(Tテモ三・一六)
 以来、キリストは未来永遠にわたって、神性と人性の両方を持っておられる。
 彼は天に帰られた後も、人であることをやめてはおられない。やがて終わりの日に、再び世に来られるとき、彼は天から、人の姿をもって来られるのである。
 キリストの神性と人性は、混合して一つになっているわけではない。むしろ、互いに独立性を保ちながら一つに合体している。キリストは一〇〇%神であり、同時に一〇〇%人であられる。
 キリストが神から遣わされ、人のための救い主として立てられたことの奥義が、ここにある。キリストは神と人の間の「仲介者」となられたのである。


七 神のことばとしてのキリスト

 聖書で、キリストは「神のことば」と呼ばれている。
 「はじめに、ことば(キリスト)があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。この方(キリスト)は、はじめに神と共におられた」(ヨハ一・一〜二)
 なぜキリストは、「神のことば」と呼ばれるのであろうか。
 私たちは、何か物を造ろうとするとき、まず頭の中で考える。たとえば机をつくろうとする人は、机の形状、材質、大きさ、用途、その他の事柄をまず頭の中に思い描き、それを言葉に表してのち、実際の製作にかかるであろう。
 たとえ、机はまだ出来上がっていなくても、机の本質的な事柄――形状、材質、大きさ、用途等は、概念の形ですでにその人の思いの中にあり、言葉の中に宿っている。
 何かが造られようとするとき、本質は事物に先立つ。本質が、まず思いと言葉の中に持たれ、つぎにそれをもとに事物が現実化する。
 神の活動においても、そうである。神は「ことば」において活動される。「ことば」には、神の思いと創造の力が宿っている。
 人間の言葉には事物の概念が宿っているに過ぎないが、神の言葉には、事物の本質そのものが宿っている。だから神が「光あれ」と言われると光があったし、神のことばによって万物が創造されたのである。


人は言葉を使って物事を考える。その言葉には、
物事の本質的な事柄が概念の形で宿っている。

 さらに、神のことばには事物の本質だけでなく、神ご自身の霊的特質のすべてが顕現している。「神のことば」は神ご自身と同様に、人格的である。この「神のことば」が、キリストなのである。聖書は、
 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハ一・三)
 と述べている。「神のことば」キリストには、創造の力が備わっていた。神はキリストによって万物をお造りになったのである。
 「神は・・・・御子によって世界を造られました」(ヘブ一・二)
 すなわち、神のことばは神の活動であり、神の本質の完全な顕現であると言うことができる。
 「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」(ヘブ一・三)
 神はキリストによって万物を創造し、万物を保っておられる。キリストは、父なる神とともに万物の創造者なのである。
 だから私たちはキリストを「天使のひとり」とか「天使長」と言うことはできない。天使はすべて被造物(造られたもの)だからである。
 「御使いも・・・・そのほかのどんな被造物も・・・・」(ロマ八・三九)
 また、
 「(やがて)私たち(聖徒たち)は、御使いをさえさばく」(Tコリ六・三)
 と聖書は言っている。キリストは天使のような被造物ではなく、むしろ、神とともに創造者であられる。
 また、「神のことば」キリストは万物を保っているかたであって、万物の「根源」であられる。聖書においてキリストは、
 「神に造られたものの根源であるかた」(黙示三・一四)
 と呼ばれている。「根源」と訳されたギリシャ原語アルケーは、「はじめ」とも訳されるが、これは(ものみの塔の言うような)「神による最初の被造物」の意味ではない。
 この言葉は「はじめ」と訳される場合でも、つねに「出所」とか「起源」の意味で「はじめ」なのである。だから「根源」と訳すのがよい。キリストは万物の根源となっておられるのである。
 「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っているのです(コロ一・一七)
 キリストは「神のことば」であるゆえに、万物を存在に保つ「根源」であられる。


八 ヤハウェとイエスのご関係

 三位一体論の最後に、ヤハウェとイエスのご関係に関して、もう少し詳しく見てみよう。


ヤハウェは父なる神の御名

 「ヤハウェ」は、父なる神の御名である。それは、たとえばダビデの詩篇一一〇・一から明らかである。
 「主は私の主(アドナイ)に言われた。
 『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」。
 これは原文では、
 「ヤハウェは私の主(アドナイ)に言われた・・・・」
 である。最初の「主」がヤハウェ(神聖四字YHWH)、次の「主(アドナイ)(私の主)はキリストである。
 ダビデは、聖霊に感じてキリストを「私の主」と呼んだ。これについてはキリストご自身も、説明を加えておられる(マタ二二・四五)。つまりこれは、
 "ヤハウェはキリストに言われた。・・・・「わたしの右の座に着いていよ」"
 という意味である。キリストはヤハウェの御言葉を受けて、その「右の座」に着かれたのである。このように、ヤハウェとイエスの間には"区別"がある。つまり、
 "イエスは旧約のヤハウェご自身である"
 という言い方をすることは正しくない。三位一体論は、第一位格の御父ヤハウェと、第二位格の御子イエスとを同一視したり、混同したりするものではない。
 また、
 「御父・御子・御霊としてご自身を現わされる神の御名はイエスである」
 と言うこともできない。「イエス」は御子の名であり、御父の名がヤハウェである。
 三位一体論は、"唯一の神のうちに三つの位格の永遠の区別がある"という教えなのである。イザヤ六一・一においても、同様の真理を見ることができる。
 「ヤハウェは、わたし(キリスト)に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」。
 イエスは、公生涯開始に際して、この言葉がご自分において成就したと言われた(ルカ四・一八)。父なる神ヤハウェは、御子イエス・キリストに「油を注ぎ」、彼をメシヤ(油注がれた者)として、世に遣わされたのである。また、
 「ヤハウェは、私たちのすべての咎を(キリスト)に置かれた(イザ五三・六)
 と記されている。十字架においてキリストは、私たちのすべての罪、咎を負い、私たちの犠牲となって、ヤハウェへの贖いの道を開くために死んで下さったのである。


「ヤハウェはわたしに油を注がれた・・・」


「主」とは主権者の意味

 つぎに、「主」という言葉について見てみよう。聖書で、神は「主」と呼ばれている。
 「主」は、ヘブル語でアドナイ、ギリシャ語でキュリオスという。これは"主人"や"主権者"を意味する普通名詞である。一方、「ヤハウェ」「イエス」は固有名詞である。
 旧約時代は、ヤハウェが「主」と呼ばれた。たとえば、
 「ハレルヤ。ヤハウェに感謝せよ。(アドナイ)は、まことにいつくしみ深い」(詩篇一〇六・一)
 等と言われている。ヤハウェこそ宇宙の主権者であり、われわれの主人だからである。
 では、新約時代になって、なぜクリスチャンは「イエスは主(キュリオス)である(Tコリ一二・三)とも告白するのであろうか。
 それは新約時代において、御子イエスが御父から全権をゆだねられて、救いの計画を進めておられるからである。
 「父は・・・・万物を御子の手にお渡しになった(ヨハ三・三五)
 だから、私たちは今日、イエスを「主(キュリオス)」と呼ぶ。イエスが主権者となられているからである。
 「イエスは主(キュリオス)である」は、しばしば誤解されているが、"イエスはヤハウェである"という意味ではないので注意しなければならない。これはイエスが主権者であり、私たちの従うべき主人だ、という意味以外のものではない。
 当時、初代教会の時代にローマ帝国では、
 「カイザル(ローマ皇帝)(キュリオス)である」
 と言われた。これに対しクリスチャンたちは、
 「イエスは(キュリオス)である」
 と告白したのである。
 また「イエスは主である」は、新約時代において御父ヤハウェはもはや「主」(主権者)ではなくなった、という意味でもない。イエスはあるとき、
 「天地の(キュリオス)であられる父よ・・・・」(ルカ一〇・二一)
 と祈られた。父なる神ヤハウェは今日も「主」であられる。しかし、父なる神は救いの御計画の推進を御子イエスにおゆだねになったので、今日私たちは御父と同様に御子イエスを「主」と呼ぶのである。
 御父は御子について、
 「これはわたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい(マコ九・七)
 と言われた。だから私たちは、イエスを「主」と呼んで、彼に聞き従わなければならない。それが父なる神のみこころなのである。
 イエスは今日、私たちの主として活動を進めておられる。しかし、イエスはやがて再臨して救いの御計画を完成した後は、再び全権を御父ヤハウェにお返しになるであろう。次のように述べられている。
 「・・・・それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。・・・・
 万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは神が、すべてにおいてすべてとなられるためです」(Tコリ一五・二四〜二八)
 すなわち、終末の日にキリストはすべての主権を、父なる神にお返しになる。実際、黙示録は新天新地における御父と御子について、
 「神であられる主(御父)と、小羊(御子キリスト)
 と表現している。御父が「主」と呼ばれているのである。


ヤハウェとイエスは一体である

 以上見てきたように、御子は、子なる神としての神性をお持ちである。
 かつて御父ヤハウェは、モーセに対し、
 「わたしは『わたしはある』という者である」(出エ三・一四)
 と言われた。英訳では"I AM THAT I AM"である。これに関連して、ヨハネ一八・五〜六の次の記事は興味深い。
 「イエスは『それはわたしです』と言われた。・・・・ イエスが彼らに『それはわたしです』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた」。
 イエスを捕らえに来た人々は、なぜイエスの御言葉を聞いて「あとずさりし、地に倒れた」のか。
 「それはわたしです」は、英語では"I AM"である。それはイエスによって発せられたとき、ヤハウェの「わたしはある」(I AM)の御言葉と同様に、神性の響きを持っていた。それで人々はあとずさりし、地に倒れたのである。
 御子イエスは、御父ヤハウェと同様に、真に「わたしはある」と言える方である。「有りて在る者」であり、真の実在者であられる。これは御子が、御父と存在を一つにしておられるからである。
 だから、御子イエスを見ることは、彼を通して御父の本質を見ることでもある。イエスは、
 「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハ一四・九)
 と言われた。私たちは御子イエスを通して、御父の本質を見ている。すなわち、今から二千年前に御子イエスが地上に降誕されたことは、
 "御父ヤハウェが御子イエスにおいて地上に来られた"
 ということでもある。
 さらに言うなら、やがてイエスが地上に再臨されることは、
 "御父ヤハウェが御子イエスにおいて再び来られる"
 ということである。聖書はキリストの再臨に関して、次のように表現している。
 「ヤハウェが出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる(ハルマゲドンの戦い)。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。・・・・私の神、ヤハウェが来られる。すべての聖徒たちも主と共に来る」(ゼカ一四・三〜五)
 ここで「ヤハウェが来られる」と言われているわけは、キリストの再臨の際、ヤハウェはキリストにおいて地上に来られるからである。キリストの再臨は、ヤハウェの来臨でもある。


オリーブ山

 ヤハウェとイエスは一体であられるから、ヤハウェの御名を呼ぶことはイエスの御名を呼ぶことである。またイエスの御名を呼ぶことは、ヤハウェの御名を呼ぶことでもある。ヨエル二・三二に、
 「ヤハウェの御名を呼び求める者は誰でも救われる
 と記されている。ここでは「ヤハウェの御名」である。一方、使徒パウロはローマ一〇・一三において、この、
 「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」
 を、主イエスに関して当てはめている。
 これは矛盾ではない。なぜなら、イエスの御名を呼び求めることは、すなわちヤハウェの御名を呼び求めることだからである。またヤハウェの御名を呼び求めることは、イエスの御名を呼び求めることである。
 イエスの御名は、"ヤハウェは救い"という意味である(「イエス」は「ヨシュア」のギリシャ名である)。それはヤハウェによって、私たちの「救い主」「主」として立てられた御名なのである。
 「この方(イエス)以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです」(使徒四・一二)
 イエスの御名を呼び求めることは即、ヤハウェに救いを呼び求めることなのである。ヤハウェの救いは、御子イエスにおいて実現されている。
 イエスの御名を救い主として知ることは、ヤハウェの御名とその救いを知ることでもある。イエスは祈りの中で言われた。
 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなた(ヤハウェ)の御名を明らかにしました(ヨハ一七・六)
 私たちはイエスを通して、御父ヤハウェを知るのである。
 私たちは、ヤハウェの証人であると共に、キリストの証人である。
 「あなたがたはわたしの証人。――ヤハウェの御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである」(イザ四三・一〇)
 これは、ヤハウェの証人について述べている。また、
 「イエスは言われた。「・・・・聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒一・七〜八)
 とある。これは、キリストの証人に関してである。私たちはヤハウェの証人であるために、キリストの証人でなければならない。
 イエス・キリストを知ることによって、私たちは万物の父、創造主である父なる神ヤハウェを知ることができる。イエスは言われた。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ一四・六)

                                久保有政(レムナント1996年5,6月号より)

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