古代日本とユダヤ・キリスト教

日本神道のルーツは
古代イスラエル宗教

日本人が知らずに拝んできたものについて。
神社や祭に伝わる神道信仰のおおもと、ルーツは、
         古代イスラエル宗教にある。
(T歴代誌15:12〜29)


神社には、手前に拝殿があり、その奥に本殿がある。
本殿の中には、鏡や、石、剣、御幣などが置かれているが、
それらは神そのものとはみなされていない。それらは
「偶像」ではなく、神道の信者は、そこに降臨し臨在される
目に見えないお方を拝んでいるのである。

 かつてイエス・キリストの使徒パウロは、伝道旅行をしてギリシャにやって来ました。そこには祖先伝来の様々な宗教の礼拝所がありました。そのときパウロは、
 「あなたがたのしているのは偶像礼拝だ」
 と言って彼らを責めたてたのではありません。パウロは声高く叫んで言いました。
 「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう(使徒一七・二三)
 と。パウロは、ギリシャ人が昔から「知らずに拝んできた」おかたは本当はどなたかについて、語りました。天地を造られた聖書の神様こそが、あなたがたがこれまで知らずに拝んできたおかたなのですよ、と語ったのです。
 きょう私たちは、日本人が昔から知らずに拝んできたものについて、聖書から学んでみたいと思います。聖書は、日本人が知らずに拝んできたおかたについて、私たちに大切なことを教えようとしているのです。
 日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教があります。"神の道"と書く「神道」は、仏教が日本に入るよりはるか以前から日本に存在していた、日本人固有の民族宗教です。
 「神道」は「しんどう」ではなく、「しんとう」と読みます。神道は、神社や祭などを通して、昔から日本人の心に連綿と生き続けてきました。
 今日お話ししたいことは、とくに、この神道のルーツは古代イスラエル宗教にある、ということです。神道の起源をずっとさかのぼっていくならば、それは古代のイスラエル人たちが守っていた宗教に行き着くのです。
 その証拠について、いくつかのものをご紹介したいと思います。それによって、私たち日本人が持つべき信仰は本当はどんなものであるかも、わかってくるでしょう。


神道は偶像礼拝か

 神道は、特定の教義よりも様々のしきたりや形式によって伝えられてきた宗教です、しかし、きわめてはっきりした幾つかの特徴を持っています。
 それらの特徴をよく調べてみると、旧約聖書に記された古代イスラエル宗教との間に、明確な類似点を幾つも見いだすことができます。
 日本人の多くは、昔から元旦になると神社にお参りするでしょう。また、祈り事があると神社に参り、結婚式は神道式で行なうことが多いでしょう。赤ちゃんが生まれると、神社参りをします。
 私はクリスチャンになってから、こうした日本古来の神道のしきたりというものは、キリスト教信仰とは何の関係もない、聖書の教えから遠いものだと、ながく思い込んでいました。
 神道は偶像礼拝で、聖書の真の神様の教えとは全く無縁のものだ、ぐらいにしか思っていなかったのです。
 しかし、よく考えてみますと、たとえば仏教では、沢山の仏像がつくられて拝まれました。ヒンズー教でも、たくさんの神々の彫像が作られて、拝まれました。ギリシャでも、たくさんの神々の形をした像が作られました。ところが、日本の神社を見てみると、神々の形をした彫像が一つも見当たらないのです。
 みなさんは、神道の神であるアマテラスオオミカミの偶像が、神社の中に立っている姿を見たことがあるでしょうか。オオクニヌシノカミの偶像を、見たことがあるでしょうか。
 ないでしょう。想像もできないはずです。絵くらいは見たことがあるかも知れませんが、人々が拝む対象としての彫り刻んだ彫像、神々の形をした偶像は、神道の場合は作られなかったのです。
 じつは、神道というものは、厳密な意味では「偶像礼拝」という言葉が当てはまりません
 神社の本殿の中には、たとえば鏡が置かれています。では、その鏡が神様と考えられているかというと、そうではありません。それは単に、そこが神聖な場所であることを示すためのものに過ぎません。
 神道の信者は、その鏡を拝んでいるのではないのです。そこに降臨し臨在される、目に見えない神様を拝んでいるのです。神様は目に見えないおかた、とされているのです。
 神社の本殿には、そのほか、石や、剣、お札などが置かれています。しかし、それらは偶像ではありません。それらは単に神聖さを示すためのものに過ぎないのです。人々は、そこに降臨して臨在される、目に見えない神様を拝んでいるのです。
 目に見えない神様を拝むという、このような宗教形態は、じつは世界でも珍しいものです。しかし、ただ一つ、それは古代イスラエルの宗教に、よく似通っています。
 古代イスラエルの神殿の内部には、三種の神器――十戒の石の板、アロンの杖、マナの入った壺の三つの神器が置かれました。しかし、それらは決して偶像ではありませんでした。それらは神聖さを示すためのものだったのです。


神社に置かれている鏡や剣などは、偶像ではない。
イスラエルの契約の箱の中にあった十戒の石の板、
アロンの杖、マナの壺などが偶像でなかったのと同じである。

 聖書を読むと、紀元前一〇〇〇年頃にイスラエルの王ダビデは、「主の箱」――契約の箱を、エルサレムに運び入れたと記されています。この契約の箱も、決して偶像ではありませんでした。
 契約の箱は、神聖さを示すためのもので、神がそこに降臨し、臨在をおく場であったのです。
 人々は、契約の箱それ自体を拝んだわけではありません。人々が拝んだのは、そこに降臨して臨在される、目に見えない神様ヤハウェだったのです。
 目に見えない神様を拝むということにおいて、神道と、古代イスラエル宗教とは、たいへんよく似ているのです。そして両方とも、基本的に偶像をつくりません。


十戒の石の板も、契約の箱の中に
入れられていた。これも偶像ではなかった。



石の柱を"ご神体"とする由来

 日本の神社には、しばしば石の柱があります。大きな縦長の石を立てて、その周りにも石をめぐらします。石の柱は"ご神体"と呼ばれています。
 しかし、この"ご神体"というのも、偶像とは異なるのです。それは「依代」といって、神の霊がそこに降臨する、神聖な目標物の意味なのです。人々はそれ自体を拝んでいるのではありません。そこに降臨して臨在する、目に見えない神様を拝んでいるのです。
 日本の初代天皇の神武天皇も、石を積み上げて壇を築き、神を祭ったと言われています。しかしじつは、こうした風習は、今から四千年も前の古代イスラエル人の風習と同じです。
 イスラエル民族の父祖ヤコブは、神を祭るために石の柱を立てました。
 「ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油を注いだ」(創世三五・一四)
 と聖書に記されています。日本でも、神社の神主は、しばしば石の柱を立てて、それに"神酒"を注ぐでしょう。


石を「ご神体」とする風習は、
ヤコブ以来のものである。
(尾張 浜神明社の御腰掛石)

 石の柱を立て、それによって神を礼拝するという礼拝形式も、古代イスラエルのものと全く一緒なのです。これが第一の事柄です。


お神輿のルーツは契約の箱

 日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える第二の事柄は、神社の「お神輿」です。
 神社のお神輿は、じつは古代イスラエルの「契約の箱」をモデルにしたものと言われています。


神輿をかついで街をねり歩くその光景は、
ダビデが契約の箱をエルサレムに
導き入れたときの光景と全く同じである。
(石川県羽咋(はくい)市気多(けた)神社の「おいで祭り」)
神輿をかつぐ者たちの正式な服装は、
このように白の祭司服である。ダビデや
レビ人たちも、白の祭司服を着た。

 神社には、神輿と呼ばれる移動式の小型神殿があります。とくに祭のときなどは、人々は神輿をかついで、「ワッショイ、ワッショイ」と言いながら、街をねり歩くのです。
 じつは、古代イスラエルにも、そのような移動式の小型神殿がありました。「契約の箱」です。
 日本の神輿も、古代イスラエルの契約の箱も、サイズは同じくらいです。
 日本の神輿は二本の棒でかついで運びます。イスラエルの契約の箱も、二本の棒でかついで運びました。
 「レビ族は、モーセが主の言葉に従って命じた通り、神の箱を、にない棒で肩にかついだ(T歴代一五・一五)
 と旧約聖書に記されています。
 契約の箱をかつぐ二本の棒は、日本の神輿と同じように、箱の下についていました。聖書は、二本の棒は箱の「基部に」ついていた、と記しています(出エ二五・一二新改訳)


イスラエルの契約の箱のにない棒は、上部ではなく、
「基部」すなわち、下についていた
(出エ25:12新改訳)
また箱をかつぐ者たちは、白の祭司服を着用した。

 聖書事典などに載っている契約の箱の図の中には、しばしば二本の棒が箱の上の方についているように描いているものがあります。しかし二本の棒は、本当は箱の下についていたのです。神社の神輿と同じです。
 日本の神輿は、上の部分に「鳳凰」と呼ばれる鳥が、翼を広げているでしょう。鳳凰は想像上の鳥で、天的な、神秘的な鳥なのです。
 イスラエルの契約の箱も、上の部分には、ケルビムと呼ばれる天使が、翼を広げて守るような形になっていました。ケルビムも、天的で神秘的なもので、鳥のように翼をもっている存在です。
 日本の神輿の多くは、要所が金で覆われています。すべて金で覆われているものもあります。イスラエルの契約の箱も、全体が金で覆われていて、光り輝いていました。


鹿島神宮の神輿。やはり白の祭司服。

 旧約聖書を見ると、イスラエルの王ダビデは、契約の箱をエルサレムに運び入れようとするとき、民と共にその前で歌い踊りました
 「全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と竪琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。
 こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカル(ダビデ王の妻)は、窓から見下ろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ」(T歴代一五・二八〜二九)
 と記されています。人々はピーヒャラ、ピーヒャラと神楽を奏でながら、契約の箱を都に運び入れたのです。
 その前では、ダビデをはじめ、歌うたいたちが喜び踊っていました。まわりにいる者たちも、楽器を打ち鳴らし、歌を歌って喜んだのです。
 以前、『ダビデ』というアメリカ映画が上映されました。それは旧約聖書の記すダビデの人生を忠実に描いたもので、私はそれを見に行きました。
 映画の中で、ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れるシーンがありました。私は目を見はりました。それは日本人の私には、まさに、どこかで見たような光景でした。
 映画の中でダビデは、契約の箱の前を歩きながら、日本の「阿波踊り」のような踊りをしていたのです!
 まわりの景色はエルサレムですが、それを日本の風景に置き換えれば、それはまさに日本の御神輿の光景と全く一緒です。日本でも、人々は神楽をかなで、神輿をかつぎながら街を練り歩き、その前で踊るでしょう。
 また京都の祇園神社では、毎年七月の夏祭り(祇園祭)に、"神輿の水中渡渉"の儀式をとり行ないます。これは男たちが神輿をかついだまま、川に入って川を渡るという儀式です。
 みなさん、何か思い出さないでしょうか? そうです。かつて古代イスラエルの人々も、契約の箱をかついでヨルダン川を渡って行ったのです。イスラエル人がヨルダン川を渡ったとき、彼らの先頭を契約の箱――神輿が進んだのです(ヨシ三・一五)。祇園神社の神輿の水中渡渉の儀式は、まさにその絵ではありませんか。
 この前、テレビで興味深いことを知りました。瀬戸内海のある島のことですが、そこでは神輿をかつぐ者として選ばれた者たちは、神輿をかつぐ前に、身を汚さないように、一週間一つの家に泊まりこんで、共同生活をするんだそうです。
 さらには、神輿をかつぐ前日になると、裸で海の水に入って、自分の身のお清めをするそうです。
 みなさん、これは全く、古代イスラエルの習慣と同じなのです。古代イスラエルでも、契約の箱をかつぐ者たちは、かつぐ前に自分の身を清めたからです。
 「祭司達とレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱(契約の箱)を運び上るために身を聖別した(T歴代一五・一四)
 と記されています。
 ダビデはまた、契約の箱を運びながら街々をねり歩いたあと、民の一人一人みなに、「パン」や「お菓子」を分け与えました(T歴代一六・三)
 日本の神社の祭でも、神前の供え物を氏子に分け与えるでしょう。パンやお菓子をくれるのです。これは子供心にうれしかったですね。
 お神輿の風習は、世界中で、日本と古代イスラエルにしかありません。神社の神輿と、古代イスラエルの契約の箱にまつわる風習は、このように何もかもがよく似ているのです。


旧約聖書に書いてあることは、神道の風習と全く一緒じゃないか!

 以前、私のある友人が、こんなことを語ってくれました。
 その方はクリスチャンなのですが、その方には神道の熱心な信者さんの友人がいるそうです。神道信者のその友達がある日、クリスチャンの彼のところにやって来ました。その神道の信者さんは、旧約聖書を開いて、こう言ったそうです。
 「なあ、聞いてくれ。君はクリスチャンだろ。聖書を読んでいるんだろ。最近ぼくも旧約聖書を読み始めたんだが、いやー、全く驚いてしまったよ。
 旧約聖書に書いてあることは、神道の風習と全く一緒じゃないか。契約の箱にしても、神殿の構造にしても、祭のしかたにしても、お清め、禊ぎのしかたにしても、まったく神道に伝わる風習と一緒だ。神道のルーツはまさに旧約聖書だよ」。
 そう言って、興奮して、あれこれと話し始めたのです。これを聞いたクリスチャンの友人は、彼に言いました。
 「そうか。その通りだよ。私もそのことなら、以前から思っていたことだ。それがわかったと言うなら、君もどうだろう、聖書の神様を信じるようにしたら! それこそ、本当に君の信じる神道をきわめることになると思うよ」。
 そう言いますと、その神道の信者さんは唖然として、言葉も出ない状態になってしまったそうです。
 じつは、神道のルーツが古代イスラエル宗教にあると考えるのは、クリスチャンの私だけではないのです。
 かつて、藤沢博士という人は、正統派神道の信者だったのですが、神道の「三種の神器」の起源は古代イスラエル宗教にある、と信じていました。
 ユダヤ教を信じるユダヤ人の学者の中にも、神道のルーツが古代イスラエル宗教にある、と考える人々がいます。
 戦前にニューヨークで発行された英語版の『ユダヤ大百科事典』の中には、この考えを持つ学者の説が紹介されています。
 ユダヤ人のラビで、日本の上智大学で教鞭をとったこともあるマーヴィン・トケィヤー氏も、『ユダヤと日本――謎の古代史』(産業能率大学出版部刊)という本を書いていて、神道のルーツが古代イスラエル宗教であるという可能性について、様々な議論をしています。
 また、イスラエルに育ち、後に日本に来て研究活動をしたユダヤ人であるヨセフ・アイデルバーグ氏も、神道のルーツは古代イスラエル宗教にある、と述べています。


神主と祭司が着た白亜麻布の衣

 日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える第三のことは、神社の神主(神官)のことです。
 旧約聖書は、ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れたとき、
 「ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた」(T歴代一五・二七)
 と記しています。ダビデ以外にも、すべてのレビ人、祭司たちや、歌うたいたちも、みな白い衣を着ていた、と記されています。
 古代イスラエルでは、神聖な行事には、純白の衣が用いられました。これは日本でも同じです。神社の神主は、最も神聖な行事においては、必ず真っ白な服を着ます。
 とくに伊勢神宮などでは、神主はみな、いつも白づくめの衣を着ています。伊勢神宮では、神輿をかつぐ人たちもみな、真っ白な衣を着ています。
 この前、私が兵庫県に行ったときも、そこで祭の様子を見ると、やはり神輿をかつぐ人たちが、真っ白な衣に身を包んでいました。
 はちまきに、色とりどりのラフな、はっぴ姿ではありません。神主が着るのと同じ正装で、帽子をかぶり、フォーマルな真っ白の服を着ていたのです。
 由緒ある神社では、神輿をかつぐ人たちは、必ず神主と同じ、きちんとした服を着ます。そしてその服は、正式にはなのです。
 日本でも古代イスラエルでも、神輿をかつぐときの服装は、祭司の服であり、また白い服だったのです。


古代イスラエルの一般的な祭司たちの服は、
白で、簡単なものだった。大祭司は宝石や、
色とりどりの糸を織り交ぜた服だったが、
その下の一般祭司たちは、房つきの長服に、
エポデ、帽子という簡素なもので白い服だった。

 つまり、真っ白な祭司服を着て、お神輿をかつぎ、街を練り歩くその姿は、古代イスラエルのレビ人たちが白い祭司服を着て、契約の箱をかつぎ、エルサレム中を練り歩いた姿と全く一緒です。
 日本の皇室でも、最も神聖な行事の際には、真っ白な服が用いられます。
 この前、平成天皇が即位したときに、大嘗祭が行なわれました。そのとき私はテレビ中継を見ていました。
 天皇は、はじめは豪華絢爛とした色とりどりの服を着ていました。しかしそのあと、ただ独り、神(アマテラス)の前に出る儀式の時が来ました。すると天皇は、上から下まで真っ白な、シンプルな白無垢の衣に着替えたのです。
 それだけではありません。天皇はそのとき、裸足になったのです。
 かつてモーセは、シナイ山で神の御前に出るとき、「あなたの靴を脱げ。ここは聖なる地である」という言葉を聞いて靴を脱ぎ、裸足になりました(出エ三・五)。ヨシュアも、主の軍勢の将の前に出たときに、裸足になりました(ヨシ五・一五)
 それと全く同じように、天皇は、神の御前に出ようとしたときに、裸足になったのです。裸足になることといい、真っ白な服を着ることといい、これらは全く古代イスラエル人の習慣です。
 仏教などでは、高い地位にある僧侶ほど、「錦襴」といって、金銀や鮮やかな色の糸で織った服を着ます。そのほか外国では、祭司はたいてい、色とりどりの着物を着ます。しかし日本の神道と、古代イスラエル宗教においては、共通して純白がもっとも神聖な色とされるのです。


房も同じ

 神主の服装は、古代イスラエルの一般祭司の服と全く同じです。
 神主の服には、袖のところに「」がついているでしょう。今度神社に行くときがあったら、神主の正式な服の袖のところを、よく見て下さい。
 そこには、袖の端に「房」がたれています。「房」というのは、糸をたばねて、その先を散らしてたらしたものです。しかしこれは、もともとは古代イスラエル人の風習なのです。
 イスラエル人は、両袖に房をつけることを、一般的な風習としていました(民数一五・三八)。大祭司も、祭司たちも、みな袖に房をつけていました。
 聖書辞典などにしばしば載っている祭司や大祭司の絵には、房がきちんと描かれていないものが多いようです。しかし、本当は彼らの袖には房がたれていたのです。
 イエス様の衣にも、房がついていました。福音書を見ると、長血の女がイエス様の「着物の房にさわった」という記事が出てくるでしょう(マタ九・二〇)。またパリサイ人たちは、人目をひくために衣の房を長くしていた、と記されています(マタ二三・五)
 ユダヤ人でラビでもあるマーヴィン・トケィヤー氏は、彼が日本の神社で見た神主の服装について、こう言っています。
 「日本の神社へ行って気づくことは、日本の神主は、袖に長いひも(房)をつけている。私が神主にその理由について尋ねると、彼らは単に、
 『それは伝統にしたがっているに過ぎない』
 と答えてくれた。しかし面白いことには、このように袖に房をつけておくのは、非常に古いユダヤの祭司の習慣なのである。それは有に三千年以上もの昔から存在していた、古代ユダヤの習慣なのである」
 と。


四角い布も帽子も同じ

 また、神社の神主の服装を見てみると、長服の上に、体の前と後ろにかけて、長方形の布をかぶっています。肩から、ももくらいまでの長さがあって、腰のところは、ひもで結ばれています。そして頭には帽子をかぶっているでしょう。
 しかし、これは古代イスラエルのレビ人たちが着た祭司の服と、全く一緒なのです。古代イスラエルの祭司は、長服の上に、「エポデ」と呼ばれる、長方形の布を、体の前から後ろにかけてかぶりました。
 ダビデは契約の箱を運ぶとき、白い「亜麻布のエポデを着けていた」と記されています(T歴代一五・二七)。彼だけでなく、古代イスラエルの祭司はみな、白い亜麻布のエポデをつけたのです(Tサム二二・一八)
 このエポデは、日本の神主がつけているものと、色も形も大きさも全く一緒です。エポデも、肩からももくらいまでの長さがあって、腰のところを、ひもで止めるようになっていました。これも神主のと同じです。ユダヤ人のトケィヤー氏は、こう言っています。
 「日本の神主の着る亜麻布の衣服は、古代イスラエルの祭司が着た白い亜麻布の服と、全く同じような形をしている。神主のはくも、ゆったりした上着も、前にたらしている布も、胸の前につけている特別な布も、古代イスラエルの祭司が身につけていた衣服に、非常によく似ている」
 また、日本の神主が必ず帽子をかぶっているように、古代イスラエルの祭司も、必ず帽子をかぶっていました(レビ一六・四)。日本の神主の服装は、古代イスラエルの祭司たちの服装と全く一緒なのです。


神社では白の服が最も神聖視される。
これは伊勢神宮の神官の服だが、
袖に「房」があることに注意。
「房」は古代イスラエル人の風習である。
また肩からももまである縦長の四角い布は、
古代イスラエルでは「エポデ」と呼ばれた。



お祓いの仕方もそっくり

 さらに、日本の神主は、お祓いをするとき、棒の先に白い紙をたくさんつけた祓麻というものを持って、それを左右にサッ、サッ、と揺するでしょう。
 あれは、今は簡略化されて紙で出来ていますが、大昔は、植物の枝や穀物が用いられていたと思われます。じつは神主がサッ、サッ、と揺り動かすその有り様も、古代イスラエルの祭司がなした風習と同じなのです。
 古代イスラエルの祭司は、ヒソプという植物の枝を用いて、清めの儀式を行ないました。ダビデは詩篇の中で、
 「ヒソプをもって、私の罪を除いて清めて下さい」(詩篇五一・七)
 と言っています。ヒソプの枝をサッ、サッ、と揺り動かして、ちょうど日本のお祓いのような、お清めの儀式が執り行なわれていたのです。
 今日もユダヤ人は、仮庵の祭――収穫祭(スコット)ともいいますが、そのとき収穫の束を、ちょうど神社の神主がするような形で、左右に、また上下に揺り動かします。


神主が、祓麻(はらいぬさ)を持ってお祓いするときの光景は、
古代イスラエルの祭司たちと同じである。
祭司たちは、ヒソプや収穫物を、左右に、
また上下に揺り動かしたのである。

 ある日本人の女性が、仕事の関係で、アメリカに住むようになりました。彼女の家の近くには、メシヤニック・ジューといって、ユダヤ人のクリスチャンたちの集うキリスト教会がありました。
 そこでは毎年、ユダヤの伝統的な仮庵の祭が、昔ながらに行なわれていました。彼女も初めて、その仮庵の祭に参加する機会を得ました。
 日本人の彼女は、まだ英語もわからなかったので、そこで話されている言葉が全く理解できませんでした。しかし、ユダヤ人が収穫の束を左右に、また上下に、サッ、サッ、と揺り動かしたとき、
 「あっ、これは、神社の神主がすることと一緒だわ
 と思って、「ここにこそ、日本人のふるさとがある」と強く感じたということです。
 神主がサッ、サッ、と揺する習慣は、古代イスラエルの風習から来たものなのでしょう。


狛犬のルーツは中東

 つぎに、日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える第四の事柄は、神社の構造です。
 ダビデは、契約の箱をエルサレムに運び入れたのちに、それを特別な天幕の真ん中に安置しました(T歴代一六・一)
 かつてモーセの時代に、幕屋というものが造られました。ダビデのつくった天幕は、この幕屋と同じようなものだったでしょう。
 そののち、ダビデの子のソロモンの時代になって、神殿が造られました。ソロモンは、モーセのつくった幕屋をモデルに、神殿を造ったのです。
 じつは、幕屋や神殿の構造と、日本の神社の構造は、たいへんよく似ています。
 たとえば、その一つは「狛犬」です。
 神社の入り口に、二頭のいかめしい動物が、神社を守るかのように両側に座しているでしょう。あれが狛犬です。
 頭が毛におおわれていて、いかめしい顔をしたあの動物は、獅子、すなわちライオンです。日本には「獅子舞」というのもあるでしょう(ただし稲荷神社の狛犬はキツネ)
 ところが、獅子――ライオンは、昔の日本には一頭もいなかったのです。みなさん、日本に一頭もいなかったはずの獅子が、なぜ古くから神社の守り役として座すようになったのでしょうか。


古代エジプトの獅子の図像

 私は以前、飛騨高山のほうへ旅をしたときに、途中に「狛犬博物館」というのがあったので、そこに立ち寄りました。そこには昔からの様々の狛犬が、陳列してありました。狛犬のルーツについても、解説がありました。
 それによると、「狛犬のルーツは中東である」とはっきり書かれていたのです。古い時代の中東の幾つかの神殿に、狛犬が座していた、という証拠の写真入りで細かく説明されていました。


狛犬のルーツは中東である。

 聖書にも、古代イスラエルの神殿や王宮には、獅子の像や獅子のレリーフがあったと記されているのです(T列王七・三六、一〇・一九)。神の宮に獅子をすえる風習は、ソロモン王の時代のイスラエルに始まりました。それはもともと、古代イスラエルの風習なのです。


拝殿と本殿も同じ

 また、神社には、手前に「拝殿」があります。その奥に「本殿」があります。本殿には、神の霊が降臨する"神器"が置かれています。
 人々は、手前の「拝殿」の前で拝みます。拝殿の中には、一般の人は入れません。本殿の中にも入れません。
 拝殿には、ふつう神主だけが入ります。本殿には、ふつう鍵がかけられていて、神主も特別な時しか入りません。


日本の神社――拝殿と本殿からなる

 しかしこうしたことは、古代イスラエルの「幕屋」や「神殿」と、全く一緒なのです。イスラエルの幕屋や神殿は、やはり二つの場所――「聖所」と「至聖所」に分かれていました。
 幕屋も神殿も、基本的な構造は一緒です。幕屋は、神殿の原型なのです。そこには手前に聖所と呼ばれる場所があって、奥に最も神聖な場所――至聖所がありました。


古代イスラエルの幕屋――聖所と至聖所からなる

 日本の神社が「拝殿」と「本殿」から成っているように、古代イスラエルの幕屋も、「聖所」と「至聖所」から成っていたのです。
 至聖所には、三種の神器――十戒の石の板と、アロンの杖、マナの入った壺が置かれていました。
 一般の人々は、聖所には入れず、ましてや至聖所には入れませんでした。聖所には祭司だけが入れました。至聖所は、大祭司が年に一度だけ入る最も神聖な場所でした。これも、日本の神社の場合によく似ています。
 日本の神社では、手前の拝殿より奥の本殿のほうが、少し高い位置にあるでしょう。階段で上ってそこに行くようになっています。
 イスラエルの神殿でもそうでした。学者によれば、ソロモン王が建造した神殿においては、奥の至聖所は少し高い位置にあったそうです。そして、聖所と至聖所の間に幅約三メートルの階段があって、上るようになっていたといいます。
 日本の神社の基本的な構造は、古代イスラエルの神殿の基本的構造にそっくりなのです。


拍手(かしわで)もイスラエル人の風習

 また、日本人は神社の拝殿の前でパン、パン、と二回手をたたくでしょう(拍手)。あの"手をたたく"というのは、古代イスラエルでは"私は約束を守る者です"という意味でした。
 旧約聖書にしばしば「誓約をなす」という言葉が出てきます。しかし、そう訳された言葉の原語を直訳すると、「手をたたき」なのです(箴言六・一、エゼ一七・一八 新改訳欄外注参照)
 つまり"私はあなたの約束を守ります"という場合に、古代イスラエル人は、相手の目の前で自分の手をたたいてみせました。それは"私はあなたに同意します"アーメン"というような意味であったのです。


拝殿の前で手をたたく風習は、
古代イスラエルでは「私は約束を守る者です」
「アーメン」の意味だった。おじぎも、
イスラエル人の風習である
(創世33:6−7)



手水舎(てみずや)も同じ

 日本の神社にはまた、入り口から少し入ったところに、必ず「手水舎」というものがあるでしょう。清らかな水と柄杓を置いてあります。
 私は小さい頃、あそこに行くと、「ああ、のどが渇いた」と言って水を飲んでしまったんですが、あれは水飲み場ではないんです。
 神社の手水舎は、口をすすぎ、手を洗って、口と手を清めるための場所です。口と手の禊ぎをするための場所です。今日ユダヤ人の会堂にも、入り口近くには口と手を清める場所があるそうです。
 古代イスラエルの神殿にも、入り口から少し入ったところに、「洗盤」というものがあって、清らかな水をたたえていました。人々は神様の御前に出る前に、そこで手や足を洗って、お清めをしたのです。


手水舎は水飲み場ではない。それは
口と手の禊
(みそ)ぎ(きよめ)をするための
場所である。ユダヤ教の会堂にも
同じようなものがある。また古代イスラエルの
神殿にも「洗盤」があって、人々はそこで禊ぎをした。



鳥居は「二本の柱と鴨居」にそっくり

 みなさんは、神社と寺の建物を外見上で区別するものは、一体何だとお思いになりますか。
 それは鳥居のあるなしです。神社には必ず、入り口に鳥居があります。二本の柱があって、上の部分がつながっています。このトリイの形は、韓国や中国にもありません。日本独特のものです。
 しかし、古代イスラエルの神殿にも、入り口に二本の柱がありました(T列王七・二一)。じつは、古代イスラエル人はアラム語も話したのですが、アラム語でトリイといえば「門」の意味なのです(アラム語のTARAAが少しなまったものと考える)
 また、神社の鳥居の二本の柱と、その上の部分がつながっている形は、まさに、古代イスラエル人が過ぎ越しの夜に小羊の血を塗ったあの「二本の柱と鴨居」の形と、全く同じではありませんか。
 日本の神社の鳥居は、赤く塗られている所が多いでしょう。かつて出エジプトの前夜、イスラエル人の家の「二本の柱と鴨居」も、小羊の血で赤く塗られたのです。


賽銭箱も

 日本の神社には、入り口に必ず賽銭箱がおいてありますね。古代イスラエルにおいても、そうだったのです。紀元前九世紀以降の神殿には、入り口に賽銭箱――献金箱が設置されていた、と旧約聖書に記されています(U歴代二四・八〜一一)


高い所の礼拝所も

 日本の神社はたいてい、山の上とか、高い所につくられるでしょう。日本の山は、どこにもたいてい頂神社があります。私は富士登山をしたことがありますが、ハッ、ハッと上についたら、何とそこにまで神社があるんですね。
 しかし、高い所に礼拝所をつくるというのは、もともと古代イスラエルの風習です。
 古代イスラエルでは、高い場所には必ずといっていいほど、「高き所」と呼ばれる礼拝所がつくられました。高い所があれば、至るところに、礼拝所がつくられたのです。
 日本の神社には必ず、神聖な場所に、注連縄(しめなわ)が張られているでしょう。注連縄は、そこが神の領域と世俗世界の境であることを示すために張られるのです。これも、古代イスラエルの習慣と思われます。


注連縄を張った所は、神の領域を意味する。
これも古代イスラエル人の習慣である。
モーセは、シナイ山の周囲に「境」を設けた
、と記されている
(出エ19:12)
おそらく縄のようなものを張って、境を設けたのであろう。

 かつてモーセは、シナイ山で十戒を与えられていたとき、人々がシナイ山に近づかないように、その周囲に「境を設けた」、と聖書は記しています(出エ一九・一二)
 境とするために、何かの縄が張られたでしょう。以来、古代イスラエルでは、神の領域を示すために、境として注連縄のようなものが用いられたと思われます。日本の注連縄は、モーセに始まった習慣に違いありません。


イザナギとイザナミの結婚式はユダヤ式

 日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える第五の事柄は、イザナギとイザナミの結婚式の話です。
 イスラエルの王ダビデには、ミカルという奥さんがいました。ダビデとミカルの結婚式は、一体どんなふうに行なわれたのでしょうか。
 日本の『古事記』を見ると、男神イザナギと女神イザナミの結婚式の話が記されています。その結婚式で、ふたりは柱のまわりを廻るという儀式を行ないました。
 花嫁のイザナミは、柱を右から廻ります。花婿のイザナギは、柱を左から廻ります。そして彼らは、出会ったところで結婚の契りを交わしました。イザナギとイザナミは柱をまわるとき、互いに、
 「あなにやし
 と言いました。みなさん、なんとも不思議な結婚式ではありませんか。しかし、じつはこれは、ユダヤ人の結婚式の仕方なのです。
 この前、アメリカのワシントンに住む友人が、ユダヤ人の結婚式に参加する機会があったと言って、その様子を教えてくれました。そのユダヤ人の結婚式では、真ん中にきれいに花で飾った柱が置かれていました。そして花嫁と花婿がその柱を巡り回って、出会った所で結婚が成立したのです。
 こうした結婚式は、昔からのユダヤの伝統だそうです。花嫁が花婿のまわりをまわることもあるそうですが、イザナギとイザナミの結婚式の仕方が古代イスラエル人の行なっていた結婚式の仕方であった可能性は、非常に高いのです。
 ユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグ氏もそう言っています。昔、神は「雲の柱」「火の柱」をもってイスラエル民族を守られたことがあるので、「柱」は神のご臨在を象徴するものだったのです。
 それだけではありません。古事記には、イザナギとイザナミは柱をまわるとき、
 「アナニヤシ」
 と言ったとされています。日本の国語学者は、この「アナニヤシ」は「ああ、ほんとにまあ」という意味だろうとか、いろいろな説を言っています。しかし、アイデルバーグ氏によれば、これはヘブル語だというのです。
 もし、「アナニヤシ」をヘブル語として解すれば、「私は結婚します」の意味になるのです[ヘブル・アラム語の「アナニャサ」(ANA・NISA)が若干なまったもの、と考える]
 「ああ、ほんとにまあ」なんていう言葉よりも、ずっと結婚式の場面にピッタリした言葉ではありませんか。私がそう言っているのではありません。ユダヤ人がそう言っているのです。


日本人はみな神道信者!?

 みなさん、私がなぜこんなに神道のことについて、あれこれお話しするのか、おわかりになるでしょうか。
 みなさんは、神道の信者が日本にどれだけいるかを、ご存じですか。
 神社庁の発表によると、神道の信者は全部で、一億三千万人もいるそうです。日本人の総人口と同じだけいるのです。
 というのは、神道では、日本人はすべて神道信者、とみなしているからです。本人が、
 「私は神道信者です」
 という自覚を持っていようといまいと、神道では日本人はみな神社の氏子とみなしていますから、みな神道信者ということになってしまっているのです。
 私などもクリスチャンですから、神道信者ではないつもりなのですが、神社のほうでは私を神道信者とみなしているのです。
 みなさんもそうですよ。本人の意向におかまいなしに、日本人であればみな神道信者ということになってしまっているのです。
 日本人として生まれれば、すぐに神道信者に登録されてしまっています。
 しかし逆に、神道では、日本人でなければ、だれも神道信者にはなれません。外国人は神道信者になれないのです。
 その意味では、神道ほど、排他的な宗教はありません。神道は、日本人だけの民族宗教なのです。
 この点では、神道はユダヤ教にたいへん似ています。ユダヤ教は、ユダヤ人だけの民族宗教です。それと同様に、神道は日本人だけの民族宗教なのです。
 神道というのは、ある意味ではユダヤ教と同様に"神の選民としての意識"の名残であるように思えます。
 日本人は昔から、選民意識の強い国民でした。昔、元寇が日本に攻めてきて、二度とも台風が巻き起こって彼らを撃退してしまったことがありました。すると、人々はそれを「神風」と呼んで、自分たちの国は特別に神様が守ってくれているのだ、と言いました。
 この選民意識の中枢に、神道がありました。それは、神道がもともとは古代イスラエル宗教に発している、ということにも関係しているように思えます。
 古代イスラエル宗教を調べると、神道のルーツが見えてくるのです。神道はもともとは、古代イスラエル宗教から来た、と考えられるのです。
 ですから、神道のすべての信者は、聖書の教える神様に立ち返る必要があります。そのときにこそ、本来の意味での「神道」に回復できるのです!
 聖書の教える神様――父なるヤハウェの神様を信じ、またその御子イエス・キリストに従うとき、すべての神道信者は、本来の神道――神の道を実現することができます。聖書の教える神様を信じることこそが、神道を本来のものに回復し、きわめる道です。


塩を清めに使う風習も同じ

 日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える第六のことは、塩です。
 日本には昔から、塩を清めに用いる風習があります。
 この前、時代劇を見ていますと、いやな人が家から出ていったときに、その家にいた女性が、立ち去ったそのいやな人の跡に塩をまいていました。
 もしあなたが立ち去ったあとに、塩を蒔かれたら、それはあなたが嫌われているということですよ。
 日本には昔から、"塩をもって清める"という風習があるのです。しかし、これは全く古代イスラエルの風習なのです。旧約聖書には、アビメレクという人が敵の町を征服したとき、
 「そこに塩をまいた
 と記されています(士師九・四五)。それは塩をまくことによって、汚れたその地を清めるためなのです。
 今日もユダヤ人は、新しい家に住むようなとき、その家に塩をまいて、お清めをするそうです。これなど、まったく日本人の感覚と同じではありませんか。
 日本では、料亭などに行くと、「盛り塩」といって、たいてい入り口に塩を盛っています。神道式のお葬式に行けば、入り口に塩を置いています。お葬式から帰ったときには、塩祓いといって、玄関で塩を体にふりかけます。
 相撲の際には、力士は土俵に塩をまきます。欧米人がそういう光景を見ると、
 「なぜ相撲レスラーは、塩をまいたり、土俵を行ったり来たりするのか。はやくやってくれればいいのに」
 と思います。しかし、ユダヤ人なら、
 「あれは土俵を清めるためだ」
 と即座に理解するのです。
 日本では神前に供え物をするとき、そこに必ず塩を添えます。けれども、これもまた、古代イスラエルの風習と全く同じなのです。古代イスラエルでも、神前に供え物をするときは、必ずそこに塩を添えました。
 「あなたがたの捧げ物には、いつでも塩を添えて捧げなければならない」(レビ二・一三)
 と旧約聖書に言われているのです。
 日本では、明治維新以前には、新たに生まれた赤ちゃんの産湯に、塩を少し入れる習慣があったそうです。
 しかし、これもまた、古代イスラエルの習慣です。古代イスラエルでも、新たに生まれた赤ちゃんは、塩でやわらかくこすってから水で洗い清めました(エゼ一六・四)
 お清めや、「禊ぎ」という考え、またそのときに塩や水を用いるという考え方は、全く、古代イスラエルの風習と同じなのです。


相撲の力士はなぜ土俵に塩をまく?
土俵をきよめるためである。
これは古代イスラエル人の風習であった。

 私たち日本人は、しばしば「罪」という観念をあまりよく理解できないことがあるようです。それでも、「けがれ」という観念ならばよく理解できるのです。
 この前、アメリカ人に、汚れということを説明したのですが、どうもピンと来ないと言うのです。しかし、日本人なら「けがれ」という意味はよくわかるのです。
 じつは「けがれ」という観念は、ひじょうに旧約聖書的な観念なのです。旧約聖書では、何かに触れると、けがれるとかいうことがよく言われています。
 「けがれ」や「きよさ」の観念は、まさに神道の中に、今日も生き続けています。「清浄を貴び、汚れを忌み嫌う」ことが、神道の根本理念なのです。
 これは、古代イスラエル宗教にさかのぼることのできる観念です。


神社中心の日本人

 みなさん、日本人が知らずに拝んできたおかた――そのおかたは本当はどなたなのでしょうか。
 日本人は赤ちゃんが生まれると、清めの期間が終わったのちに、その幼子を神社に連れていって、お宮参りをするでしょう。
 古代イスラエルでもそうでした。人々は赤ちゃんが生まれると、一定の清めの期間が過ぎた後に、お宮参りをして、子どもを神様に捧げたのです(レビ一二章)
 福音書には、ヨセフとマリヤが生後八日の幼子イエスを連れてお宮参りをした、と記されています(ルカ二・二二)
 日本人は昔から神社中心に、収穫祭を行なってきました。新しくとれた穀物は、必ず神棚に捧げ、供えました。
 皇室においても、「新嘗祭(にいなめさい)」といって、新しくとれた穀物は神に捧げたのです。民間でも、古くから「おはつほ」といって、初穂を第一に神に捧げました。
 今日「一一月二三日」は勤労感謝の日とされているでしょう。しかし昔は、この日は「新嘗祭」といったのです。人々はその日に、新しくとれた穀物を神棚に捧げました。
 この風習は、古代イスラエルにおいても、全く同様に行なわれていたことです(レビ二三・一六、主エ三四・二六)。人々は新しくとれた穀物を、神様ヤハウェに捧げたのです。


正月の風習も同じ

 お正月の過ごし方も、たいへん似ていました。
 一月日本の正月は、太陽暦の現在では一月一日が「元日」ですが、旧暦だった昔は、一五日でした。今でも一月一五日は、「旧正月」というでしょう。
 それは一月一五日が、その年の初めての満月の日だったからです。旧暦の一月一五日は必ず満月なのです。昔は一月の満月の日を、「元日」と言ったのです。
 日本では、元日から一週間ほど「餅」を食べるのが、ならわしです。しかしこの風習は、じつは古代イスラエルの風習なのです。
 古代イスラエルでは、一月一五日から七日間は「種を入れないパン」を食べなければならない、と決められていました。
 「第一月の一五日は、主の、種を入れないパンの祭である。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない」(レビ二三・六)
 と旧約聖書に記されています。「種を入れないパン」は、ヘブル語で「マツァ」といいますと。これは単数形で、複数形はマツォトです。ユダヤ人はまた、マツァを「ハ・モチ」も呼んでいます。
 「ハ」は、英語でいえば定冠詞のtheにあたります。ですから、ハをとれば、「モチ」になるでしょう。それは「モチ」(餅)なのです。
 「餅」という漢字は、のちに中国から漢字が輸入されてから当てはめられた当て字なのです。それ以前には日本には漢字はありませんでした。モチという音だけがあったのです。
 マツァ――ハ・モチは、「パン種」(今日ではイースト菌や酵母が用いられる)を入れず、発酵させないでこねて作ったパンのことで、その製法は日本のモチと一緒です。
 材料を、もち米にすれば、日本のモチになるのです。ですから古代イスラエルにおいて、一月一五日から七日間持たれていた「種を入れないパンの祭」――「マツァの祭」とは、いわば"モチの祭"だったのです。
 日本の正月にはまた、「七草粥」を食べるでしょう。七種類の草を入れたおかゆです。七草粥は、平安時代以前は、一月一五日に食べるのがならわしでした。
 古代イスラエル人も、一月一五日には、幾種類かの「苦菜(にがな)」をそえて食べました。
 「その夜(一月一五日)・・・・苦菜を添えて食べなければならない」(出エ一二・八)
 と旧約聖書に記されています。日本人が正月に「モチ」と「七草粥」を食べる習慣は、古代イスラエル人が正月にマツァと苦菜を食べた習慣に由来するのです。ルーツは、旧約聖書でしょう。
 また、日本では正月を迎える前、大晦日までに、必ず家の大掃除をするでしょう。古代イスラエル人もそうでした。
 「あなたがたの家から・・・・パン種を取り除かなければならない」(出エ一二・一五)
 と旧約聖書に記されているので、彼らは正月を迎える前、年末に必ず家の大掃除をしたのです。今日もユダヤ人は、大晦日に必ず大掃除をします。
 また、日本人は大晦日の夜には、年越しそばや、年越しの食事をするでしょう。その後、じっと古い年が過ぎ去る時を待ちます。何かが、そのとき通り過ぎていくのです。
 そして、新しい年が明けるや否や、まだ夜も明けない暗いうちに、元旦にどっと神社に初詣に出かけるでしょう。
 古代イスラエル人の出エジプトの時もそうでした。彼らは一月一四日の夜、過越の食事をしました。そしてじっと裁きの天使が通り過ぎる時を待ちました。その後、まだ夜も明けないうちに家を出て、神の御前に集合したのです。
 また日本の神社では、たいてい、神聖な行事は夕方に始まります。大嘗祭も、夕刻に始まりました。
 これは古代イスラエルの場合と同じです。ユダヤ暦では、一日は日没から日没までだったからです。ですから古代イスラエルでは、神聖な行事や祭は、夕方に始まりました。

 このように、日本の神道の風習の多くは、古代イスラエル人の風習と同じであることがわかります。


神社に動物犠牲のない理由

 しかし、私には長年、一つだけ大きな疑問がありました。それは、
 「もし日本の神道の風習が、本当に古代イスラエル宗教に由来するものなら、なぜ日本の神社には、動物のいけにえの風習がないのか。古代イスラエルの人々は犠牲による贖いの儀式を行なっていたのに、なぜ日本の神社では行なわれて来なかったのか」
 ということでした。けれども、この前私の友人が教えてくれた一言によって、その謎も完全に解けてしまいました。その友人は、以前ユダヤ人からこう聞かされたというのです。
 「羊や、やぎ、牛などの動物をいけにえとして捧げる贖いの儀式は、エルサレム以外でしてはいけないんです。
 紀元七〇年にエルサレムが滅亡し、エルサレム神殿も滅亡して以来、全世界に離散したユダヤ人たちも、動物犠牲を一切行なってきませんでした。それはエルサレムの宮以外でしてはいけないことだからです」
 と。つまり、日本の神社で動物犠牲が行なわれてこなかった理由も、まさにこれだったのでしょう。


イスラエル人は、カナンの地に入って後、
動物犠牲をその他の特別な場所以外で
捧げることを禁じられた
(申命12:10−14)
とくにエルサレム神殿建設以後は、
エルサレム以外での動物犠牲は行なってはならなかった。

 申命記一二章には、カナンの地の特定の場所以外で動物犠牲を捧げてはならない、と記されています(一二・一〇〜一四)。とくにエルサレム神殿建設以後は、動物犠牲はエルサレム以外でしてはいけなかったのです(預言者に特別な神のご命令があった場合等は除く)
 ですから、当然、日本の神社でも、動物犠牲は行なわれて来なかったと考えられます。


七瀬の祓えとキリストの贖い

 動物犠牲はまた、もう一つの意味でも、今日行なわれる必要がありません。それは主イエス・キリストが、二千年前に十字架上で、ご自身を私たちの罪の犠牲となして死んで下さったからです。
 彼はただ一回で、永遠にわたる贖い――救いを全うして下さいました。ですから、もはや動物犠牲は必要ありません。私たちはただ、彼のもとに行って彼を信じ、彼に従っていけばよいのです。
 昔、日本の天皇家では、毎年「七瀬の祓え」という儀式を行なっていました。これは、まず人形をつくり、それに様々な服を着せます。それを天皇のところに持ってきます。天皇はそれに息をかけ、それに体をなでます。
 そしてそれらの人形を、七つの瀬――つまり七つの川の浅い所に流して捨てるのです。こうして人の罪や汚れが、人形と共に流し捨てられるのだ、と考えられました。人形は身代わりなのです。
 民間にも、「流しびな」とか「鹿島流し」などの風習があるでしょう。日本人は昔から、罪けがれを託した人形を川に流して捨てる、という風習を行なってきたのです。
 古代イスラエルでも、「アザゼルのやぎ」といって、大祭司がやぎの上に手を置いて、国民のもろもろの罪をその上に告白しました。そして、そのやぎを荒野に放ったのです。こうして人の罪や汚れが、遠くに捨てられるとされました。
 今日もユダヤ人は、「タシュリック」という慣わしを行ないます。これは小石をじっと握って、まず手の中で暖めておくのです。それからその小石を持って、川へ行きます。
 そこで、今までの自分のすべての罪を思いだして、それらの罪をその小石に託します。そしてその小石を、川や海に投げ込むのです。


流しびな(京都・下鴨神社)3月3日。
身のけがれをうつした人形を、さんだわらに納め、川に流す。
人形は身代わりである。これは古代イスラエルの「アザゼルのやぎ」や、
現代ユダヤ人の「タシュリック」と同様の考え方から来ている。

 みなさん、こうしたユダヤ人の風習と、日本人の風習は、基本的な考え方において何と似ていることでしょうか。
 しかし、これらすべては、じつは来たるべきイエス・キリストの十字架の犠牲を指し示す型にすぎなかったのです。
 神は、私たちのすべての罪と汚れを、主イエスの上に置かれました。そして主イエスは、私たちの身代わりとなって十字架上で罰を受け、死んで下さったのです。こうして、私たちのための罪の贖い、救いがなされました。
 主イエスは、復活して今も生きておられます。私たちはただ、彼を救い主として受け入れ、彼につき従って歩んでいけばよいのです。
 みなさん、こうして見てみると、主イエスの十字架上の贖いのみわざは、日本人にとって何と理解しやすい事柄でしょうか。
 彼は私たちの罪汚れを、代わりに背負って、よみにまで流されて行って犠牲となって下さったのです。そして再びそこから戻ってきて、救いを完成して下さいました。


大祓(おおはらい)(京都・上賀茂神社)12月31日。
「人形
(ひとがた)」(人の形に切った紙)に罪けがれをうつし、
川に流す。今もユダヤ人は、これに似たことを行なう。



真に日本人となるために

 私たちは今こそ、日本人が知らずに拝んできたおかたについて、はっきりと知らなければなりません。
 日本の神道はもともと、古代イスラエル宗教を起源とし、そこから来たに違いありません。もちろん、現在の神道の何もかもが、古代イスラエル宗教と同じだとかいうことではありません。現在の神道には、不純物や異物が含まれています。
 しかし、神道に流れる基本的なものはすべて、もともとは古代イスラエル宗教から来たと、言ってよいように思えます。私たちは、神道内に流れる本流のルーツを、古代イスラエル宗教に見ることができるのです。
 神道は、古代イスラエル宗教の、なごりの一つでしょう。そこには、古代イスラエル宗教のすべてを見ることはできないとしても、多くの重要なものがまだ残されています。
 ですから、神道が完全な、本来のものにまで回復するためには、すべての神道信者が、すなわち日本人が、聖書の神様を信じ、聖書の教えに立ち返る必要があります。
 すべての神道信者は、聖書の教える神様ヤハウェを信じ、その御子イエス・キリストを信じるとき、おのずからその信じる神道は本来のものとなり、完成し、実現成就するでしょう。
 かつて使徒パウロは言いました
 「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」
 と。また主イエスも、サマリヤの地をお通りになったときに、言われました。
 「あなたがたは知らないで礼拝しています」(ヨハ四・二二)
 と。聖書は私たちにこう語っているのです。
 "日本人よ。聖書に帰れ。聖書の教える神様に立ち返り、その御子イエス・キリストを救い主として信ぜよ。そのとき、あなたの信じる神道は完成し、日本人は、日本人としてのアイデンティティ(同一性、素性)――日本人が日本人であることを、本当の意味で回復するのだ"
 と。私たちは、聖書に立ち返るとき、本当の意味で日本人になれるのです!
 今日の多くの日本人は、日本人とは何なのかを知りません。たいへん漠然としていて、よくわかっていないのです。「自分たちは何なのか」「何者なのか」を知りません。
 しかし、聖書を知るとき、日本人とは何なのか、日本人の起源はどこにあるのか、日本人はこれからどう生きるべきか、がわかってくるのです。
 聖書を知るとき、日本人のアイデンティティがわかってきます。聖書に立ち返るとき、日本人は本当の意味で日本人になるのです。
 私たちは単に一人の人間としてだけでなく、一人の日本人として、聖書の教える神様を信じなければなりません。聖書の中にこそ、日本人の魂のふるさとがあるのです。


神のご臨在をお迎えせよ

 私は、日本の神道は古代イスラエル宗教から来たとの考えに満たされたとき、感激で夜も眠れませんでした。日本人のヤマト魂をつくったのが神道だとすれば、日本人の本当の親は、イスラエルを造ったと同じ聖書の神様なのです。
 イスラエルのダビデは、国の最も中心であるエルサレムに、契約の箱をお迎えしました。
 契約の箱は、神道式にいえば神の降臨する「依代」であり、神のご臨在をあらわすものです。契約の箱をお迎えするとは、神のご臨在をお迎えすることです。
 契約の箱をお迎えしたとき、ダビデはその前で力の限り喜び、踊りました。しかしそのとき、
 「サウルの娘ミカルは、窓から見下ろし、ダビデ王がとびはねて踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ」(T歴代一五・二九)
 とあります。ダビデの奥さんであるミカルは、ダビデ王の喜びようを見て、心の中で彼をさげすみました。それでUサムエル六・二三には、
 「ミカルには死ぬまで子どもがなかった」
 と記されているのです。心の中でダビデをさげすんだ彼女は、一生、祝福されなかったのです。
 しかし、神のご臨在を心から喜んで踊ったダビデは、以後たいへん祝福された人生を送りました。私たちの愛する日本も、ミカルのようではなく、ダビデのように神様のご臨在をお迎えしなければなりません。
 イスラエル人もみな、神をほめ讃えて喜びました。彼らは言ったでしょう。「わたしは主を讃美します」「私はヤハウェを讃美します」と。
 じつは、京都の祇園神社などでは、「祇園祭」のときに神輿をかつぐ人たちが、高らかに「エンヤラヤー」と言います。「エンヤラヤー」のかけ声をもって祇園祭が始まるのです。
 桃太郎も、鬼ガ城に行くときに、みんなで「エンヤラヤー」と歌を歌ったでしょう。
 では、これはどういう意味かといったら、日本語として見たら、何の意味かさっぱりわからないわけです。しかしヘブル語としてこれを解釈すれば、
 「私は主(ヤハウェ)を讃美します
 の意味になるのです。ヘブル語の、
 「エァニ・アハレル・ヤー」
 
 が若干なまって「エンヤラヤー」になったのだとすれば、これは「私はヤハウェを讃美します」の意味なのです。


祇園祭りは、「エンヤラヤー」のかけ声をもって始まる。
このかけ声は、ヘブル語の「エァニ・アハレル・ヤー」
(私はヤハウェを讃美します)がなまったもの?

 みなさんは、「ハレルヤ」という言葉を知っているでしょう。これは「ハレル」と「ヤー」の二つの言葉から成っていて、「ハレル」は讃美せよ、「ヤー」(ヤハ)は神様のお名前ヤハウェの短縮形です。「ヤハウェを讃美せよ」の意味なのです。
 ハレルは、一人称の主語の場合は、アハレルとなります。エァニは「私は」の意味です。そうすると、"私はヤハウェを讃美します"はヘブル語で、
 「エァニ・アハレル・ヤー」
 といいます。私はかつて、ヘブル語の通訳もしている日本人の友人に、
 「この言葉が、若干なまって、祇園祭のはやし言葉『エンヤラヤー』になったのではないだろうか」
 と言いましたら、そのヘブル語通訳の方は、
 「あり得るかも知れないなぁ」
 とおっしゃっていました。
 それはともかく、私たちは「エンヤラヤー」「エァニ・アハレル・ヤー」「私はヤハウェを讃美します」「私は主を讃美します」と言って、心から喜んで神様のご臨在をお迎えしようではありませんか。そのとき、日本は本当に祝福された民族となるのです。
 日本は今、神様がとくに大きな関心を注いでおられる国なのです。
 地図で見れば、日本はイスラエルからたいへん遠い国ですし、「極東」と呼ばれる地域に存在する小さな国にすぎません。しかし、神様のご関心の中では、日本はとくに大きな比重を占めているのです。
 神様は私たち日本人一人一人を、愛しておられます。そして真の"神の道"に立ち返ることを、強く望んでおられるのです。

                                  久保有政(レムナント1997年2月号より)

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