古代日本とユダヤ・キリスト教

古代日本人はヤハウェを信じていた
神道の多神教以前に、ヤハウェ信仰があった。


 日本の伝統的宗教である「神道(しんとう)」では、神は「八百万(やおよろず)の神」と言われ、数多くの神々がいるとされています。
 しかし、古代日本人は、本当に初めからそのような多神教の神々を拝んでいたのでしょうか。


最初に一神教があり後に多神教になった

 以前、多くの人類学の本の説明では、宗教は次のように発展してきた、と説明されていました。
 すなわち、はじめに石や樹木などに宿る精霊(しょうりょう)を拝する「精霊信仰(アニミズム)などの原始的形態があり、そこから「多神教」に発展し、さらに進んで多くの神々の中から一つの神だけを拝するゾロアスター教などの「拝一神教(はいいつしんきょう)」が生まれ、さらにそれが高度化して、高度な倫理体系と整備された教理を持つユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの「唯一神教」が生まれたのだ、と。
 しかし、二〇世紀の考古学の発達は、事実は全く逆であったことを明らかにしました。
 すなわち、宗教は決してこのような進化論的な形で発展してきたのではなく、はじめにあったのは、ただおひとりの神を信じる"一神教"でした。そこから、堕落した形態として"多神教"が現われたのです。
 たとえば、人類学上最も古い民族の一つとされるスメリヤ人は、その文化の終わり頃には五千の神々を持っていました。しかし、その文化の初期には、ただひとりの神「空の神」がいただけです。
 この「空の神」は、聖書の教える「天の神」に通じるものでしょう。元来は同じ神に違いありません。
 また、有名なエジプトの考古学者フリンダース・ペトリ卿は、エジプトの宗教ははじめは「一神教」だったと言っています。
 オクスフォード大学のスティーブン・ラングドン博士は、バビロニアで碑文を発見し、その研究から、世界最古の宗教が何であったかについて、言及しています。それによるとその碑文は、人類最初の宗教は唯一神の信仰であって、そこから急速に多神教と偶像崇拝に傾いていったことを、示していたとのことです(ラングドン著『セム族の神話』)
 W・シュミット、W・コッペルスなどの有力な学者たちも、豊富な資料に基づき、一神教こそはあらゆる原始的宗教の基本となるもので、これが後に堕落変形して、他の様々な宗教形態が生じた事実を、明らかにしました。
 このように、宗教は精霊信仰→多神教→拝一神教→唯一神教と進化発展してきたのではなく、むしろ、唯一神教→多神教→無神論と堕落してきたのです。


考古学者たちは、一神教が堕落して
多神教になった事実を明らかにしている。

 とすれば、日本神道で言われている「八百万の神」の多神教も、じつは初めからそのような多神教だったのではなく、もとは一神教であり、それが堕落してできた形ではないか、という推測が出てきます。


初期の日本人は非常に霊性の高い人々だった

 私たちは古代の日本人について調べてみるとき、彼らが霊性の非常に高い人々であったことを知ります。
 今日、日本人の精神的荒廃が叫ばれて久しくなりますが、古代の日本人は、ある種の風格と高い霊性を持つ民族でした。
 たとえば、初代天皇である神武天皇の生涯を日本書紀に読んでみても、神武天皇はつねに天の神を祀り、信仰していた人でした。そして、
 「わがみおやの霊よ、天より降りみそなわし、我が身を照らし、助けたまえ
 と祈る敬虔、かつ謙虚な人物であったことがわかります。


神武天皇は、篤く天の神を敬う人だった。

 神武天皇はまた、長随彦(ながすねひこ)に和議を拒まれたのみか、さんざんに攻めあぐまれたとき、言いました。
 「私は日の神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天道に逆らっている。一度は退却してたとえ弱そうに見せても、神をうやまい祀ろう。
 背中に太陽を負い、日の神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば、刃に血をぬることなく、敵はきっと敗れるだろう」
 と。天皇は戦況の悪化の中にも、神を第一にして退却したのです。
 彼は先祖の神を拝し、声高く雄叫びして祈願しました。こうして難をのがれたのですが、そののち神の祝福と導きがあって、戦況は一転し始めました。
 そしてついに、長随彦の大軍勢も降伏し、国は平定されたのです。
 神を第一とした神武天皇のこの敬虔さは、イスラエル民族の指導者ヨシュアにも比すべきものです。ヨシュアも、天の神をあつく信仰しつつ、約束の地カナンを目指して民を率いた人物でした。
 ヨシュアは、「先祖の神」すなわち「アブラハム、イサク、ヤコブの神」に祈りを捧げながら、その力を得て敵に打ち勝ちました。そしてついにカナンの地を平定しました。
 確かに、ヨシュアの信じた神は唯一神ヤハウェであり、一方、神武天皇の信じた神は、日本書紀によれば多神教の神であるという違いはあります。
 しかし、世界の多神教をいろいろ調べてみると、多神教を拝む人々というのは、これほどに高い霊性を持っていないのが普通なのです。一般に多神教は、みだらなものであったり、愚かしいものであったりするのが普通です。
 ところが、神武天皇の信仰などを見てみると、その信仰は一神教の信仰に比すことができるほど、ひじょうに気高いものとなっています。あたかも、古代イスラエル人が唯一の神に対して抱いた信仰にも、似ていると言えるのです。
 古代日本人は、「清く、明るく、さやけき(汚れなき)心」で、神に仕えようとしました。これは旧約聖書が教える神への信仰にも通じるものです。
 原日本人は、非常に高い霊性――気高い宗教的情操を持っていました。その霊性は本来、多神教のものというよりは、一神教の信仰を偲ばせるものです。


最初の至高神

 日本書紀によれば、神武天皇は、「日の神」の威光をかりて敵を討とうと言いました。「日の神」とは、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。
 では天照大神は、神道の神々の中で一番偉い最初の神様なのかというと、そうではありません。天照大神の生まれる以前に、もっと偉い神様がいたことになっています。
 天照大神の両親は、「伊邪那岐神(いざなぎのかみ)」と「伊邪那美神(いざなみのかみ)」でした。天照大神にはまた、「須佐之男命(すさのおのみこと)」という弟もいました。
 さらに、伊邪那岐神と伊邪那美神が生まれる前に生まれた神々も、います。
 古事記の中では、神々の中で一番最初に現われたのは「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、「高御産巣日神(たかむすびのかみ)」、「神産巣日神(かみむすびのかみ)」の三神とされています。
 これら最初の三神の中でも、「天之御中主神」は、天上界の中心にいて、天地を主宰する中心的な神です。この神は、親も系譜もない単独の神であり、姿を現わさず、目に見えない神とされました。最初の神であって、至高神なのです。
 ここらへんの『記紀(きき)(古事記と日本書紀)の記述は、なにやら聖書の教える三位一体の神に、どこか似ていると思わせるものがあります。
 神武天皇や、古代の日本人は、天照大神だけでなく、これら最初の三神を祀り、信奉していたとされています。また、その三神のあとの宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)や、天之常立神(あめのとこたちのかみ)、そして「神世七代(かみよななよ)」の神々などを信奉していたとされています。
 しかし、古代の日本人は、本当にこのように多くの神々を信奉していたのでしょうか。


日本神話の多神教はバビロニア等の多神教の影響を受けている

 聖書の教える唯一の神は、お名前を「ヤハウェ」(ヤーウェ Yahweh, )といいます。
 人間に、太郎や花子といった固有の名前があるのと同じように、ヤハウェは神ご自身の固有のお名前です。ヤハウェにはまた短縮形があり、その短縮形は「ヤハ」(ヤァ)といいます。
 一方、「神」という普通名詞は、ヘブル語で「エル」といいます。これは単数形で、複数形はエロヒムです。
 アブラハムの子孫、イスラエル民族などにおいては、神は唯一のお方として信じられ続けました。しかし他の民族においては、宗教的堕落とともに、多神教が発生していきました。
 多神教は、次のような形で生まれていきました。たとえばバビロニア(メソポタミヤ)では、しだいに堕落した人々は、「エル」はおひとりではなく、妻や子どももいるのではないか、と考えるようになりました。
 「エル」に妻がいると考えるようになった人々は、その妻を「アシュタロテ」と呼びました。また、元来は普通名詞だった「エル」も、彼らの間では固有名詞化して使われるようになりました。
 また、エルとアシュタロテからは、「バアル」という息子と「アナト」という娘が生まれた、とされました。こうして、最初の神から子どもが生まれたと考える形で、多神教が発生していったのです。
 じつは、この「バアル」という神は、日本のスサノオノミコトという神によく似ています。
 バアルは、ラス・シャムラ土板という古代の碑文によると、嵐の神です。彼は牛の角のついたかぶとをかぶり、鎚矛(つちほこ)と電光を放って、武装しています。
 また雷鳴と電光の中に現われ、秋と冬の雨をもたらします。バアルは人身牛頭の神であり、嵐の神なのです。
 これは日本神話のスサノオノミコトの姿に、じつによく似ています。スサノウは別名「牛頭天王(ごずてんのう)」と言われ、嵐の神とされているのです。
 京都の八坂神社では、スサノウは牛頭天王として祭られています。スサノウはまた、天上界で乱暴狼藉を働いたとされる荒ぶる神であり、暴風雨を司る神です。
 一方、女神アシュタロテは、やがてギリシャでは、「アフロディテ」、ローマでは「ヴィーナス」の名で信奉されるようになりました。
 日本の神話では、このアシュタロテとアナトが同化して、アマテラス(天照大神)になったのではないかと、神道家の鹿島昇氏は見ています(鹿島昇著『日本神道の謎』光文社カッパブックス)


アシュタロテ。この女神は、
ギリシャではアフロディテ、
ローマではヴィーナス、
そしておそらく日本では
アマテラスオオミカミの名で、
信奉されるようになった。

 このように、アマテラスやスサノオの神話は、バビロニアの神話が若干変形しながら伝わってきたもの、と見ることができそうです。
 ほかにも、日本の神話の中には、ギリシャや、インド、インドネシア、中国の神話と同型同根(どうけいどうこん)のものが数多く見られます。詳細は省きますが、日本の神話は、それらの地方から伝わった様々な多神教神話の集合体であることが、明らかなのです。
 つまり、『記紀』に述べられた八百万の神の多神教神話は、あとからのものであって、元来はもっと別のものだったでしょう。
 実際、古事記と日本書紀とでは、神々の神話内容に、いくつかの相違や矛盾が見られます。それはそうした神話が、あとから付け加えられたものであることを示しています。
 古代の日本人は、みなが多神教を信じていたのではありません。じつは古代日本人の中には、堕落した多神教ではなく、唯一の神ヤハウェを信じる人々もいたと思われるのです。


アジアには古来ヤハウェ信仰を持つ民族がいる

 こう書くと、ある人々は、
 「まさか。神ヤハウェを信じていた人々は、イスラエル人だけだったのではないのか。日本は、その地からはるかに遠い所にある。どうして日本にヤハウェ信仰があるだろうか」
 というかも知れません。しかし、ヤハウェ信仰は古来、アジアにもあったのです。
 たとえば、東南アジアに位置するミャンマー(旧ビルマ)に、カレン族という人々がいます。彼らは、先祖伝来のヤハウェ信仰を今も保持しています。
 彼らは、神の御名ヤハウェを短縮形の「ヤァ」(Ya)で呼んでいます。短縮形ヤァは、聖書にも何度も出てきます。たとえば、詩篇一一八・五の
 「私はを呼び求めた」
 の「主」は、原語のヘブル語では「ヤァ」(ヤハ、Yah, )なのです。古代イスラエル人も、神を「ヤァ」と呼んでいたのです。
 カレン族は、ヤァは永遠、完全な唯一神であり、宇宙を創造し、人を創造された全知全能のお方であると言い伝えてきました。彼らにはまた、聖書の内容に酷似する人間堕落伝承や、大洪水伝承、バベルの塔や、民族の起源に関する伝承もあります。


カレン族には古来、ヤハウェ信仰がある。

 カレン族はこれらの知識を、決してキリスト教の宣教師に教わったわけではありません。ただ大昔の先祖に教えられたことを、大切に言い伝えてきたにすぎないのです。
 カレン族のヤハウェ信仰は、聖書の流れとは独立して言い伝えられてきたものです。(詳しくはレムナント七七号「カレン族に先祖代々伝わるヤハウェ信仰」参照)
 また、ニュージーランドなどに住むマオリ族にも、古来、ヤハウェ信仰があります。
 マオリ族もまた、永遠、不死の至高の神、宇宙を創造し人を創造された全知全能のおかた、恵み深い見えない神を信じています。彼らにはまた、聖書の内容に酷似する人間堕落伝承があります。
 彼らはその創造者なる神を、「ヨォ」(Io)または「ヤェ」と呼んでいます。これはヤハウェの短縮形「ヤァ」の若干なまったものと理解できそうです。
 彼らはこの神について、宣教師から教わったわけではありません。単に大昔から、先祖の教えた神を忠実に言い伝えてきたにすぎないのです。


マオリ族にも古来、ヤハウェ信仰がある。

 マオリ族は東南アジア方面から来た民族であることが知られています。彼らのヤハウェ信仰も、聖書の流れとは独立して存在してきたのです(Creation ex nihilo, Vol.18 No.4, CSF)
 中国の苗族(ミャオ族)にも、古来、同様のヤハウェ信仰があります。
 苗族にもまた、天地を創造し、あらゆる生物と人類を創造された創造主なる神に関する言い伝えがあります。またその言い伝えは、大昔の大洪水と人類の絶滅、箱舟によって一家族が助かったこと、またバベルの塔、民族の起源などに関するものも含まれ、その内容は驚くほど聖書のものに酷似しています。
 苗族の言い伝えもまた、キリスト教の宣教師によるものではありません。彼らは単に、大昔の先祖の言い伝えを忠実に保持してきたにすぎないのです(聖書と科学の会『インパクト』一五九号)


苗族にも古来、ヤハウェ信仰がある。
(苗族の子どもたち)

 このように現在も、カレン族、マオリ族、苗族などに、ヤハウェ信仰が見られます。さらに昔にさかのぼれば、もっと多くの民族がヤハウェ信仰を持っていたことでしょう。
 カレン族にしても、マオリ族にしても、苗族にしても、みな日本人の祖先と非常に関係の深いと言われる民族です。彼らの顔形は日本人とほとんど変わりなく、言語や風習においても似たものがあり、近縁であることは明らかです。
 カレン族、マオリ族、苗族などは、周囲の民族が急速に多神教に堕落していく中でも、それらに毒されることなく、古来のヤハウェ信仰を保持してきました。
 彼らや、他の幾つかの民族が混血して、日本人となったと言われています。そうであれば、古代の日本人にヤハウェ信仰があったとしても、決して不思議なことではありません。


イサク伝承を日本に伝えた人々

 さて、先月見たように長野県の諏訪大社に、旧約聖書のイサク伝承と全く同型のものが、祭りとして、少なくとも江戸時代くらいまでは存在していました(レムナント九六号「諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承」)
 その祭りでは、子どもが縛られ、竹のむしろの上に置かれ、小刀が出されますが、使者の到来と共に子どもは解放されます。またこの祭りでは、動物のいけにえがなされるのです。
 そこには「守屋山(もりやさん)(モリヤ山)と呼ばれる所があり、その地の神は「洩矢神(もりやのかみ)(モリヤの神)と呼ばれています。また「ミ・イサク・チ」という名前も登場します。
 このように、この祭りはまさに、モリヤの地でイサクを捧げようとしたアブラハムの手を止められた神に関する記憶、と考えるほかありません。イサク伝承は、ヤハウェ信仰の人々以外は持っていないのです。
 ちなみに、ヘブル語の「モリヤ」()は、「ヤハウェの啓示」の意味です。諏訪大社に「モリヤの神」とイサク伝承を伝えた人々は、明らかにヤハウェ信仰の人々だったでしょう。


諏訪大社では古くから、なんと
イサク伝承が祭として伝えられていた。

 また、レムナント九二号「日本神道のルーツは古代イスラエル宗教」でも述べたように、日本の神社の構造が古代イスラエルの幕屋にたいへん似ているのは、一体なぜでしょうか。
 神主の服をはじめ、おみこし、みそぎ、そのほか日本古来の風習の多くが、古代イスラエルの習慣にあまりにもよく似ているのは、一体なぜでしょうか。
 さらに、日本の民謡にヤハウェ信仰の痕跡が随所に見られることは、興味深いことです。これについては、レムナント八九号「日本ヘブル詩歌の研究」でも紹介しましたが、同じくこれを研究した手島郁郎は、こう述べています。
 「じつは、サンフランシスコ教会の牧師だった川守田英二博士は、日本の全国いたる所に残っている神社の祭りの唄やハヤシ唄の中に、ヘブル語の痕跡が残っていることを広く考証して、数冊の著書を出しています。私は、卓抜な研究だと思います。
 たとえば、桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は、日本人なら誰でも知っている童話ですが、さて『エンヤラヤ』とは何か? と子どもから聞かれると、親たちは困ってしまいます。
 エンヤラヤ  エァニ・アーレル・ヤ)とは、『私はヤハウェを讃美します』というヘブル語(ユダヤ人の言葉)となります。
 熊本の八代の妙見社の御祭を見物したことがありますが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ・・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』と、ヘブル語そのままに歌われていました・・・・」(キリスト聖書塾刊『生命の光』二五〇号、四頁)
 また、神武天皇の物語の中にも、ヤハウェ信仰の痕跡が感じられます。ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグは、神武天皇の物語を読んだとき、昔イスラエル民族がカナンの地に向かった時のことを思い起こさざるを得なかった、と言っています。
 日本書紀によると、神武天皇は「キノエトラ(甲寅)の年に、「東征」に向かい、「葦原(あしはら)の国」の中心である大和に旅立ちました。一方、古代イスラエル民族はシナイ山で「律法を授かった年」に、北東へ旅立ち、「カナンの地」に向かいました。
 アイデルバーグによると、この「律法を授かる」は、ヘブル語で「キニヤ・トラ」といいます。キニヤは得る(箴言四・七)、トラ(トーラー)は律法の意味です(出エ一二・四九)
 一方「カナン」は、「カネ・ナー」の合成語と考えると、それは「葦原」の意味だといいます。カネは葦(T列王一四・一五)、ナーは原です。
 つまり、神武天皇が「キノエトラ」の年に「東征」に向かい、「葦原の国」の中心地・大和に旅だったという物語は、かつてイスラエル民族が律法を授かった年に北東に向かい、カナンの地へ旅だったという物語を"下地"としている、と思われます。


モーセが律法を授かった(キニヤ・トラ)年に
カナン(葦原)に旅だったように、神武天皇は、
キノエトラの年に葦原の国の中心地へ旅だった。

 日本書紀の記述には当時の大和朝廷の政治的意図がかなり混入していますが、こうしたことを考えるなら、日本書紀や古事記以前には民の間にヤハウェ信仰がまだ色濃くあったのではないか、と思われてくるのです。


記紀にみるヤハウェ信仰

 また『記紀』(古事記と日本書紀)には、ヘブル語起源と思われる言葉が多いのも、興味深いことです。
 神武天皇は即位したのち、種族の長たちに「アガタヌシ(県主)の称号を与えた、と書かれています。これは全く、ヘブル語と同じです。
 これがヘブル語の「アグダ・ナシ」だとすれば、それは"集団の長"の意味です。アグダは集団、ナシは長の意味(出エ一六・二二)です(ただし現代ヘブル語ではナシ・アグダ)
 『記紀』では、神々や天皇はみな「ミコト」と呼ばれています。これはどういう意味かと言ったら、日本語では単に尊称と解する以外にないでしょう。
 しかし、これがヘブル語の「マークート」から来たものとすれば、それは"王"の意味なのです(U歴代七・一八)
 また天皇は、「ミカド」と呼ばれることもあります。これがヘブル語の「ミガドル」から来たものとすれば、それは"高貴なお方"の意味です。
 また、日本は古来「ヤマト」と呼ばれてきました。これには「大和」「倭」「日本」などの漢字が当てはめられたりしますが、いずれも当て字です。漢字は中国から輸入されたもので、それ以前から「ヤマト」という音があったのです。
 ヤマトがヘブル語の「ヤ・ウモト」なら、それは"ヤハウェの民"の意味です。ヤは神の御名ヤハウェの短縮形、ウモトは民の意味です(民数二五・一五)
 とすれば、日本民族は本来は、神ヤハウェの民であったことになります。
 さらに、ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグ氏は、神武天皇の正式称号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」はヘブル語だと言っています。
 もしこれを日本語として解釈すれば、これといった意味はないが、ヘブル語として読めば、それは、
 「サマリヤの王、神ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者」
 の意味になるのです(詳しくはレムナント出版発行『古代日本にイスラエル人がやって来た』五二ページ)。またアイデルバーグ氏は、
 「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお」
 も、ヘブル語だと言っています。まさかと思う人もいるでしょうが、実際これはヘブル語としか思えないのです(詳しくは同書五三ページ)
 このように古代日本には、ヘブル語を話し、神ヤハウェを信じる一群の人々がいたはずです。『記紀』においてヘブル語源のものが残っているのは、そうした人々の名残でしょう。
 しかし、やがて多神教や、異教的な伝承を持つ人々たちが勢力を持つようになると、日本の起源に関する伝承は、『記紀』に記されたような多神教的な物語に作り替えられていきました。そしてヤハウェ信仰も、少なくとも表向きには、消し去られていったのです。


ヤハウェ神に立ち帰れ

 今日の日本神道の多神教形態と、現代の日本人の間に見られる無神論は、日本民族が堕落した結果にほかなりません。
 本来、日本人は、宗教心あつく、霊性高く、至高の神を敬い、拝する民族でした。初期の日本人は、聖書の教えると同じ神ヤハウェを知っていたことでしょう。
 私たちが、本来の民族的ルーツに立ち帰るにはどうしたらよいのでしょうか。それは、神ご自身が下さった啓示の書『聖書』に学び、聖書の教える神ヤハウェを信じることです。
 そして父なる神ヤハウェが、私たちのためにお送り下さった御子イエス・キリストを、救い主として知ることです(イザ五三・六)
 そのときに、私たちは霊性を回復し、祖先の信じたと同じ唯一の至高の神に立ち帰ることができるのです。


Back to Yahweh our God!
ヤハウェに立ち帰れ。

                                  久保有政(レムナント1997年8月号より)

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