卵が先か鶏が先か?
卵が先ではあり得ない。
よく「卵が先か、鶏が先か」ということが問われます。
卵がなければ鶏が生まれないし、鶏がいなければ卵も生まれない。だから最初は一体どっちだったんだろう、といったことが言われます。
しかし最近の遺伝子工学の発達により、生物の誕生において、「卵が先」ということは決してあり得ないことがわかってきました。
私たちは卵と鶏を見てみると、一見、卵のほうが簡単なもののように見えますから、きっと卵が先、と思ってしまうかも知れません。ところが、卵は一個の細胞です。その細胞の核の中には「遺伝子」が入っています。
DNAとも呼ばれるこの遺伝子は、じつはおとなの鶏が持つ遺伝子と全く同じものなのです。その内容は、寸分違いません。
これは人間でも同様です。母親の胎内に宿った受精卵の中にある遺伝子DNAは、大人になった人間の細胞内にある遺伝子DNAと全く同じものです。
このDNA一個の中には、百科事典でいえば一億ページ分にも相当するような膨大な量の情報がつまっています。この卵がどのように細胞分裂を繰り返して、どの細胞が目になり、どの細胞が耳になり、どの細胞が足になり、どの細胞が翼になる・・・・といったすべての情報とプログラムが、その卵のDNA内に含まれています。
DNAには、生まれてから死ぬまでの、その個体の生物的要素に関するすべての情報がつまっています。つまり、おとなの鶏になった時の生物的設計図のすべてが、その小さな卵の中にすでに収められているのです。
遺伝子情報という観点からみれば、卵も、また成長して大きくなった鶏も全く変わりません。そして、卵は親鶏がいなければ生まれません。卵にすべての遺伝情報を与えたのは、親鶏だからです。
ですから、生物の歴史において、卵は決して先に誕生したのではありません。一番最初に誕生したのは、親鶏でした。また人間で言えば、大人が最初に出現したのです。
アダムとエバが最初の人間として現われたと聖書は述べていますが、彼らは大人でした。また、聖書によれば最初に誕生した鶏でも、また他の生物でも、すべて、おとなの状態のものでした。
このように、卵が先ではなく、鶏が先だったのです。
単細胞が先か多細胞が先か
進化論では、はじめに偶然に単細胞生物が誕生し、それが進化して多細胞生物が誕生したと教えています。その理由は、単細胞生物は構造が簡単で、多細胞生物は構造が複雑だからだといいます。
しかし、これは真実ではありません。なぜなら、単細胞生物は決して「簡単なもの」ではないのです。
たとえば進化論者は、アメーバを最も原始的な単細胞生物と呼んでいます。ところが、アメーバをよく観察してみると、細胞内部は非常に複雑な構造と機能を持っています。
しばしばそれは多細胞生物内の一個一個の各細胞よりも、ずっと複雑です。
アメーバは、たった一個の細胞から成る生物ですが、そのたった一個の細胞で、ものを食べたり、排泄したりします。また外界を知覚し、運動までします。
それらを、たった一個の細胞ですべてしてしまうのです。それを考えてみただけでも、いかに複雑な構造と機能を持っているかがわかるでしょう。それは多細胞生物の持つ一個一個の細胞よりも、しばしば複雑なのです。
このように優れた機能と構造を備えたものが、いったい進化論のいうように偶然で生まれ得るでしょうか。
答えは「否」です。そのようなことは論理的にあり得ません。
また、生物というものは、初めから全部の機能を持って生まれなければ、生きることはできません。食べることはできても、排泄する機能を持っていなければ、生きることはできません。
生物は、はじめからすべての機能を持つ
完全な形で誕生しなければ、生きることができない。
排泄することはできても、生殖機能がなければ子孫を残せません。生殖機能があっても、運動機能がなければ食べ物を得られません。このように、生物は誕生の初めから完全な機能をすべて持たないと、全く生きることができないのです。
進化論は、徐々に機能が備わっていったと想像しますが、そう考えるのは不可能なのです。生物は誕生の初めから、全部の機能を持つ完全な形で生まれなければなりません。
聖書は、すべての生物界は偉大な創造主の力により、「種類にしたがって」創造されたと述べています。この聖書の教えは、進化論よりもはるかに理にかなっています。
生物は、それぞれ「種類に従って」創造された
と考えた方が、科学的事実をよく説明する。
久保有政著(レムナント1998年1月号より)
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