信仰に関するメッセージ

神の国は人生に開ける
地上に開ける神の国


"燃えているのに焼け尽きない柴"――
そこに、神の命と光の場が形成された。 

(C) Norman McGary and Web Servants@localweb.com



[聖書テキスト]
 「わたしが神の御霊(みたま)によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」
 (マタイの福音書一二・二八)。


[メッセージ]

 多くの人は、神の国は遠い所にあると思っています。はるかかなた、天国に行かなければないものと思っています。
 しかし、そうではありません。神の国とは、特定の場所のことではなくて、神の御臨在(ごりんざい)される場をいうのです。神が臨在されるところ、それはどこでも神の国です。主イエスは、
 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」
 と言われました。神の御霊、聖霊が働かれる所、そこに神の国が開けます。神がご臨在し、みわざが行なわれるところに、神の国が開けるのです。
 神の国とは、最終的には、キリスト再臨後の千年王国、そして、古い天地が過ぎ去って新しく創造される新天新地をさします。それは"来たるべき神の国"です。神の国の最終的な姿がそこにあります。
 その日、神のみもとにある天国が、地上世界を支配して、地上世界のすべてが神の支配下におかれるのです。こうしてその新世界は、神の国となります。
 しかし、神の国は単に未来に来るものではありません。それは単に将来のものではなくて、すでに"来つつあるもの"でもあります。
 神の国を信じる者たちの心と魂に、神の国は先取り体験されていくのです。神の国は、今、ここで、あなたの内側に開かれ得るものです。あなたの内側に展開し得るものです。
 神の国は、まず地上に開けます。人生に開けます。そして後、天で開かれ、やがて天と地が、神の国において一つとなるのです。
 私たちが、心の中で神の国を体験するというのは、天と地が心の中で結ばれる経験です。そのとき私たちは、地上にいながらにして、天にいる思いとなるのです。


神の国の「場」

 物理学の世界では、よく「場」ということが言われます。
 磁力線の働くところを、磁場といいます。電磁波のおよぶ所を電磁場、重力のおよぶ所を重力場といいます。この「場」の考え方は、物理学の分野で革命をもたらしたと言われます。
 物理学だけではありません。神の国においても、「場」というものがあります。
 東京・調布の教会の日曜学校の先生をしている方が、こんな証しをしてくださいました。
 彼がまだ求道者だった頃、ある日、教会の集会に少し遅れて来ました。讃美がもう始まっていました。その讃美の中に入ったとき、彼は圧倒されてしまいました。神のご臨在にふれて、彼はそのとき思わずひざまずいて、回心したというのです。


神のご臨在を感じて、ひれ伏す経験。
(C) Norman McGary and Web Servants@localweb.com

 これは神の国の「場」というものです。聖霊の圧倒的な臨在、光に満ちた場、それが神の国の「場」です。
 この世の光ではない、不思議な神の栄光がそこに満ちている。その「場」にふれると、魂の底から、霊の奥底から、ゾクゾクするほど何かがこみ上げてきて、全身を包んでしまうのです。
 また、ある家庭集会でのこと、一人の未信者が来ていました。彼女はその集会で、一人の同(おな)い年(どし)くらいのクリスチャン女性と知り合いになりました。
 未信者の彼女は、そのクリスチャン女性に、他の女性には見られないような非常に素晴らしいものを感じ取りました。そしてそれをきっかけとして、彼女は信仰に入っていったのです。
 彼女はクリスチャンになってから、証(あか)しのときにこう語りました。
 「私は、その方の内側から輝き出る何かを感じたのです。それは私には、天使の輝きにも思えました」
 と。これも、神の国の「場」です。人の内側から神の恵みがあふれ出て、その周辺に神の国の場をつくる。
 神の国の場は、あるときには天使の輝きにも思えてなりません。心の内に神の聖霊が住んでおられると、その体が不思議に輝き染めるようになります。
 神の子としての性質が輝き出す。神の恵みと愛が、その周辺に「場」をつくるのです。そして人の心を惹きつけてやみません。
 たとえば、ストーブがあると、その周りには暖かい熱に満ちた場が形成されます。またスポットライトの下では、光に満ちた輝きの場が形成されます。
 同様に、神の国を魂の中で体験した人には、神の国の場が、その人の内側から周りにかけて形成されるのです。
 旧約聖書を読んでみると、イスラエルの指導者モーセは、神と語り終えて山から下ってきたとき、その顔は「光を放っていた」と記されています。神の国にひたると、神の国の栄光と恵みがその人の内側に残って、残光として輝き染めるのです。
 光を吸収すると、自分も光り始めます。夜行塗料がなぜ光るかと言えば、それは昼の間に光を吸収して、夜になってから残光が輝くからです。
 人間にもそういうことがあります。神の国にひたっていると、神の国の命の光が、残光としてその人の内側から輝き染める。その人の存在全体が、神の国の場となるのです!


光と命の躍動する場

 かつてモーセは、シナイ山で、"燃えているのに焼け尽きない柴(しば)"を見ました。その柴の中から、神の声が聞こえたのです。
 その柴は、炎に包まれて燃えているというのに、いつまでも焼け尽きることなく、光と熱を放っていました。これこそ、神の国の「場」の象徴です。
 私たちは、柴のように、ありふれたものです。枯れ木のような、つまらない存在でもあります。しかし、そこに神の国の場が形成されると、いつまでも光と熱を放ち続けます。
 あなたは、この神の国の「場」というものを、もう体験しましたか。
 たとえ、今までのあなたの人生が暗夜行路(あんやこうろ)を行くようなものであったとしても、神の国の場を持つなら、あなたは光と命の躍動を味わって生きることができます。
 この世には、様々の「場」があります。世俗権力に支配された場、欲望のうずまく場、因縁(いんねん)で結び合わされた場・・・・。
 多くの人は、この世には、そういう場しかないものと思っています。そうしてそれらの場から、いつまでも抜け出せません。
 しかし、ひとたび神の国の場を知り、神の国の場に身をおけば、この世のどこにいても、自分は天の栄光と幸福に結ばれています。環境や状況にかかわらず、命の躍動と輝きを持って生きていけるのです。
 ある牧師から、こんな話を聞きました。一人のクリスチャンが、牧師のもとに相談にやって来ました。そのクリスチャンは、信仰をもってから数年になりますが、他の宗教を信じていた頃の思いから、まだ完全には抜け切れていませんでした。
 彼は、福島県でたいそう繁盛している店を経営していました。ところが、彼は震えながら、牧師に言ったのです。
 「じつは東京である有名な御祈祷師に会ったのですが、今、早く店を開けなければ危ないと言います。どうしましょう」。
 牧師は呆気(あっけ)にとられて、
 「何を言うのですか! あなたの神はいないのですか」
 「はい、祈祷師のお告げです」
 「あなたをこの三年間導いて、店を繁盛させ、家庭を幸福にしたのは、天地を造り、聖書にご自身を現わされたキリストの神様ではありませんか。その神様を忘れて、他の声に聞き従うようなことがあったら、たいへんなことになりますよ」
 「どうしたら、わたしはこの危険から救われますか」
 「あなたの神、主を愛せよ、ということです。もし悪魔があなたを試み、呑もうとするような時に、主は御口(みくち)の息をもってフーッと悪魔も倒して下さいます。だから心配してはいけません。あなたの神、主を愛することですよ」
 彼は、この牧師の言葉に従いました。そして本当に守られました。
 神の御言葉に従うと、神の国の場が形成されます。だから、悪魔はもう近づけない。神の国の場が、バリアー、防御壁をつくっているからです。
 因縁や、たたりを恐れる人生は、つまらないものです。多くの人は、因縁や、たたりというと、馬鹿らしいと言ってあざけるでしょう。
 ところが、いざ祈祷師に言われたとか、占い師に言われたとか、霊媒師に言われたとか言うと、不安にかられたりするのです。それは、こうした人は神の国の場を持っていないからです。
 私のある友人は、かつて創価学会に入っていました。そこから抜けようとするとき、彼は学会員の友人たちから、創価学会を抜けたらこういう法難(ほうなん)が幾重にも襲って来るぞと、さんざん言われたそうです。
 しかし、彼はキリストの救いの喜びに満ちていたので、創価学会を抜けました。法難などは何も襲ってきませんでした。それは彼の魂と身の上に、神の国の場が形成されていたからです。
 かつて、ものみの塔にいた人もそうです。ものみの塔では、組織から離れた人は滅びるという脅迫観念を、信者に植えています。だから、キリストに従うというより、ものみの塔の統治体組織にただ盲従するしかない状態になっている。
 しかしそこから、今では多くの人々が救われて、きちんとしたキリスト教会でクリスチャンとして生きるようになった人々がいます。彼らも、組織から抜けたら災難が降りかかって来るぞ、とさんざん言われたそうです。
 けれども、抜けてからも、災難が降りかかって来るどころか、キリストとの個人的つながりによって救われたという平安と喜びで心がいっぱいになって、もううれしくてうれしくてたまらない。
 これは、神の国の場が魂に形成されたからです。
 神の国の場が形成されると、身は地上にあっても、心は常に天国に生きています。神と共に歩むことが、こんなにも素晴らしいのかと驚く。
 信仰というのは、いやいやするのでも、辛いものでもありません。それは、世知辛(せちがら)いこの世の中を、力強く闊歩(かっぽ)していく偉大な活力なのです。


シェキナーの栄光

 昔、イスラエル民族は、出エジプト後に、シナイの荒野を四〇年ものあいだ放浪しました。そのとき、昼は神の「雲の柱」が、夜は「火の柱」が彼らの先頭に立って導いたと、聖書に記されています(出エ一三・二一)
 「雲の柱」「火の柱」は、神の濃厚なご臨在を示すものでした。それは、あの"燃えているのに焼け尽きない柴"と同じです。
 昼には密雲が柱となり、夜にはその密雲の中が光り輝いて「火の柱」として見えたのでしょう。それはまさしく、ただならぬ雲、神の雲でした。


幕屋と火の柱

 この栄光の状況を、ユダヤ人は「シェキナー」と呼んで尊んでいます。イスラエル民族は、このシェキナーのもとを歩みました。
 それは神の国の場でした。だからこそ、イスラエルの民は荒野を放浪しながらも、飢えることなく、渇くこともなく、敵に打ち負かされず、すべての必要を満たされて歩むことができたのです。
 神が共におられると、神の国の場が形成されて、あふれるばかりになります。そこには、恵みと愛と豊かさが満ち満ちている。
 そこはまた、聖なる栄光に満ちています。かつてイスラエル民族の幕屋では、神がそこに降臨されると、
 「雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていた」(出エ四〇・三五)
 といいます。そこはシェキナー、聖なる栄光に包まれました。太陽の光や、電灯の光ではない、神秘な光が包みました。
 この世の光ではない、霊的な神の光、神の栄光です。心の目、霊の目で、よりはっきり見える光なのです。
 かつて神は、シナイ山の密雲ただよい、雷が火花を散らすような中でモーセと語り、彼に律法の石の板を授けられました。またソロモンがエルサレム神殿を建てた時も、雲は主の宮に満ちました。
 神の栄光、シェキナーが満ちたのです。預言者エリヤも、イザヤも、同じようなことを経験しています。
 神を愛する者には、シェキナーの栄光が臨みます。神の国の場が、その人に形成されます。霊の目が開かれると、主の濃厚なご臨在の雲と、神の国の栄光が、まばゆいばかりにそこを覆っているのが見えるのです。


幕屋と主の栄光――シェキナー

 ある日、モーセと、イスラエルの長老たち七〇人は、主なる神のもとにのぼって、その聖なる栄光のもとで食事をしました。そのとき神を見上げると、
 「御足(みあし)の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった(出エ二四・一〇)
 と記されています。人は霊の目を見開いて、この透き通った青空のようなところに座しておられる神を見るようになると、人生において、透き通った輝く神の国の場を持つようになります。
 光り輝き、命あふれる場が人生に展開していく。主イエスは、私たちに言われました。
 「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(黙示三・二〇)
 主イエスは、私たちの心の戸の外に立って、私たちの心の戸をノックしておられます。私たちがその戸をあけるなら、主は私たちの心の中に、魂の中に入って、共に食事をして下さる。共に生きて下さるのです。


心の戸の外に立って叩かれるイエス。
イエスが入られると、そこに神の国が形成される。

 そのために、そこは神の国となります。神の国の場が形成される。その場は、サファイアを敷いたような場であり、透き通った青空のように広がっていきます。
 人生は、この命を体験し、この光を見るためにあります。
 みなさん、肉体的な命だけが命ではありません。肉体を越えた、生物学的な命を越えた命があります。
 この世の光とは違う、霊的な神の光というものがあります。この世の光ばかりに気を取られていたんでは、いつまでもこの真理の光、神の国の栄光を見ることはできません。
 物質界の光とは違う、神の聖なる光を、あなたはもう体験したでしょうか。
 植物は、光を受けて成長します。光を受けて、青々と茎や葉を伸ばし、美しい花を咲かせ、豊潤(ほうじゅん)な実を成らします。


           植物は光を受けて生長する。(発芽したばがりの芽)

 人間も、神の国の聖なる光を魂の内に感じるようになって初めて、魂が大きく羽ばたくのを感じることができるのです。
 いったん神の国の場を体験して、その躍動する命と、聖なる光を味わうと、魂はもう喜びを止めることができません。どんな境遇にあっても、どんな状況にあっても、自分が神の子とされているという喜び、神が共におられるという喜びであふれているのです。


生死を乗り越える場

 神の国の場はまた、この世の生死をも乗り越えます。かつてキリストの弟子のステパノは、迫害にあって殉教して死のうとするとき、
 「見なさい。天が開けて、人の子(キリスト)が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒七・五六)
 と言いました。彼の霊の目には、天の光景が開かれました。その時の彼は、天使のように輝いて見えたでしょう。彼の身の上に、神の国の場が開かれたからです。


ステパノ
「見なさい。天が開けて、人の子
(キリスト)
神の右に立っておられるのが見えます」 
                           J.B.ピエール画

 ある方が、こんな証しを聞かせてくれました。彼の友人が、ガンで亡くなったのです。しかし、その友人は病床で救い主イエスを受け入れて、クリスチャンになっていました。
 その友人の方は、きちんと最後まではっきりした意識でいたいと言って、麻酔をこばみました。やがて家族や友人の見守る中、その友人は臨終の時を迎えました。
 臨終を聞いて、看護婦さんが部屋に入ってきました。看護婦さんは、びっくりして言いました。
 「まあ、何と安らかなお顔でしょう。ふつうなら、麻酔がなければ、苦痛に顔をゆがめるものなのに、このように平安に満ちたお顔で逝かれるとは!」
 そのように驚いたというのです。それは彼の魂に、神の国の場が形成されていたからです。神の国の場にあると、この世の生死をも乗り越えます。
 三浦綾子(みうらあやこ)さんの小説に「塩狩峠(しおかりとおげ)」というのがありますが、これは長野政雄(ながのまさお)というクリスチャンの生涯を、モデルにしたものです。
 実話をもとにした小説なのですが、長野政雄は鉄道の乗客の命を救うために、自分の命を投げ出して客車の暴走を止めたのです。そうやって彼が死んだその時刻に、じつは彼の婚約者は家で床に就いて寝ていました。
 ところが彼女は、何か急に胸さわぎがして、目がさめます。そして床からハッと跳ね起きる。すると、それからしばらくして、自分の婚約者の長野政雄が死んだという知らせを聞いたのです。
 そういうシーンが描かれています。私はこのシーンを読んだとき、「やはりこれは小説だな」と思いました。「こういうことは小説としては面白いけれども、実際はないことだろう」と思っていたのです。
 ところが、非常に親しい人物が死んだちょうどその時刻に、急な胸さわぎがして落ち着かなくなった、というのは、実際に少なからぬ人が経験しています。
 以前、レムナント誌に、刑務所に入れられていたある囚人がクリスチャンになったときの証しを、載せたことがあります。その囚人は、永井隆(ながいたかし)というクリスチャンとの文通によって、キリストの恵みに目覚めました。
 そして、監獄の中でも喜びに満ちて生活していました。救われて以来、夜眠れないことはなかったといいます。
 ところが、ある日、どうしても夜眠れずに、ついに朝まで目がさえて、床から起きあがって聖書を読み続けていました。すると、朝があけてから、彼は永井隆博士が召天されたという知らせを受けたのです。
 永井隆博士の魂の内にあった神の国の場は、刑務所にいる彼の心の中にまで及んでいた。だから永井博士が死んだとき、この囚人の魂はあざやかに、さえわたったのです。神の国の場というものは、このように生死や時空をも乗り越えて働きます
 『夜と霧』というアウシュビッツ収容所での体験を書いたW・E・フランクル博士も、同じようなことを書いています。
 アウシュビッツ収容所というのは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって、二百数十万人のユダヤ人がそこで虐殺されたという、恐るべき収容所です。
 ユダヤ人であるフランクル博士は、第二次大戦中にそこに入れられていました。しかし、幸いにも彼は生き残ることができて、戦後、その収容所での体験を本として出版したのです。
 そのときの極限状況における体験として、フランクル博士は、あるとき妻の面影が、生きていた時以上にありありと迫って、自分と共にあることを感じたと言っています。そのとき、
 「あっ、今、私の妻が毒ガス室で死んだ
 と閃(ひらめ)くように感じたというのです。そしてやがて、案の定、妻が死んだとわかったそうです。
 こうしたことは、私たちの理性では理解できないかも知れません。しかし、神の国の場というものに生きていると、わかってきます。
 天の世界というものが理解されてくる。目に見える世界がすべてではない。いや、目に見えない世界にこそ、真実なものがあると、わかってくるのです。
 神の国の場は、この世の空間や時間をも越え、生死をも乗り越えて、私たちの魂を天に結びつけるのです。


神の国は地上に開ける

 人生において、神の国の「場」を持つということは、たいへん重要です。神の国は地上に開けます。
 それはまずあなたの内側に、魂の内に、心の内に、開かれます。そしてあなたの家庭に、仕事に、また人生へと広がっていきます。あなたが神の国の場を心に持つと、それはあなたの人生全体をおおうようになるのです。
 電波はラジオに受信されて、ラジオから音となって出ます。またテレビに受信されて、音や映像となって現われます。
 その周囲では、人が番組を見たり、聞いたりしています。そこには、その音が届き、また映像を見られる場というものが形成されます。
 しかし、そのテレビやラジオが、きちんとその電波の波長に合っていないと、その場は形成されません。人間も同様です。
 人間に神の国の場が形成されるためには、人間の魂の波長が、神の国の波長に合わなければなりません。
 多くの人は、欲望に従って生き、自分勝手な、利己的な思いで生きているので、この波長に合っていません。そしてサタンの波長に合わせてしまって、罪を犯し、また惨めな状況を作り出してしまっているのです。
 けれども、ひとたび神を愛し、救い主イエス・キリストを信じると、神の国の波長に魂が合います。人の思い、心が、信仰的な波長になると、神の国の波長にピッタリ合わされるのです。
 そして神の国の躍動する命の場、輝く光の場というものが、現実にあなたのものとなる。
 聖霊、また神の御霊とも呼ばれる霊が、神の電波となってあなたの内側を満たし、神の国の場をつくり出すのです。
 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」
 と言われた主イエスの御言葉の通りに、神の国があなたの所に来ます。来るだけではない。あなたを支配します。聖霊によって、あなたは神の国の内におり、神の国はあなたの内にあるようになるのです。
 あなたにあって天と地は結ばれ、あなたにあって、天国が地上に来ます。それは聖霊の働きによるのです。
 神の国を受け入れようではありませんか。神の国の躍動する命の場、神の国の輝く光の場が、あなたの魂の内に、またあなたの存在全体に、形成されるよう祈ろうではありませんか。
 神の国はまず、あなたの魂に開かれます。それは地上に開かれ、心の内に開かれるのです。そうすると、それは天でも成長し、やがて来たるべき世界で大きく花開き、実をならします。
 私たちがつねに、心の中にシェキナー状況――神の栄光の臨在がありありと現われる場――を持っていれば、いつでも神の国の命と光が躍動するのです。
 集会でもそうです。主イエスは言われました。
 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタ一八・二〇)
 と。キリストを祈り求める所には、キリストがご臨在され、そこにはシェキナーの雲がおおうのです。そこは神の国の場となります。
 集会はつねに、そのようなシェキナー状況が激しく脈打つ場であってほしいですね。私たちはそのような所に身を置くことによって、人生を力強く歩んでいける者に成長していけるのです。
 そのような集会では、眠りこけている人などいません。ありありと臨在される神の栄光に取り巻かれて、魂がさえわたるからです。


神学ではなく

 今の日本の教会では、一部の教会は別として、多くの場合、これがあまり見られません。
 ある教会では、講壇から語られる説教は、「パウロ神学ではこうです」「ペテロ神学ではこうです」といったことばかりなんです。
 キリストが語られていない。神学は語られているのかも知れないが、キリストが語られていない。
 私は以前、ある教会でメッセージを聞いたとき、牧師は「パウロ神学」「ペテロ神学」「ヨハネ神学」はどうのこうのと語っていました。ところが、説教中一度も「キリスト」が出てこなかったので、たいへん失望したことがあります。
 これではキリスト教ではなくて、パウロ教、ペテロ教、ヨハネ教です。
 今の多くの教会では、教理が重要視されています。また、ああだこうだと神学議論をします。しかし大切なのは、宗教の議論ではない。理屈ではありません。
 大切なのは、神の国の命と光に生きることです。それがあなたの人生そのものとなることです。体験がなくて、理屈を議論しているだけでは、信仰は死んでしまいます。


アナニヤに祈ってもらうパウロ(ジャン・レストゥー画)

 インテリの人々は、しばしば具体的なことよりも観念的なもののほうが、何か普遍的な真理のように思いこんでいます。しかし聖書は、観念的な、空な理論をもてあそんでいるのではありません。
 キリスト教とは、命です。観念ではない、私たちの命そのものなんです。もっと言うなら、キリスト教はキリスト「教」ですらない。
 それはキリストご自身――キリストの命と私たちの命が、渾然一体となることなんです。
 私が今、神の国の場に生きることについて語っているのも、単に頭の中の教理として理解してもらいたいと言っているのではありません。みなさんに、それをありありと体験していただきたいのです。
 私の友人が、以前、メシヤニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)の集会に行って、ユダヤ人のクリスチャンと一緒に祈っていたら、ただならぬ聖臨在を目の前にありありと感じて、うれしくてうれしくて涙がこぼれて仕様がなかったと話してくれました。
 キリスト教というのは、単なる教えではなくて、命と光を体験することなんです。それが自分の人生そのものとなるという、神の国の場の体験です。


祈るユダヤ人

 かつてキリストの弟子達一二〇人は、あのペンテコステの日に、エルサレムの二階座敷に集まって祈っていました。すると、彼らは激しい風が吹いてくるような響きを感じて、激しいシェキナー状況に包まれました。
 聖霊が、風のように彼ら一人一人の内に入って、彼らは聖霊に満たされました(使徒二・二)。このとき、教会が誕生しました。
 教会は、彼らのこの聖霊体験によって始まったのです。それまで弟子たちは、「キリストに関する」知識はたくさん持っていました。しかし、聖霊の力を受けた彼らは、このときから真に"キリストの証人"(使徒一・八)となったのです。
 彼らの多くは、漁師であったり、農夫であったり、ほとんどは社会的には名もないような人々でした。その彼らが、世界を造り変えたのです。


牢獄から御使いによって助けられるペテロ ラファエロ画



大切なのは人

 東京のお茶の水に、湯島聖堂(ゆしませいどう)というのがあります。一度、関東大震災で焼けましたが、そののち再建されました。中国風の銅(あかがね)の御殿のような、立派な建築です。
 湯島聖堂というのは、江戸時代の最高学府があった場所です。ここに天下の俊秀たちが集まって、学問をした。そこは今の東大よりも名声のあった所です。
 ところが明治維新のとき、その新しい文明が始まろうとするそのときに、この湯島聖堂から時代をになう人材が出たかというと、ほとんど出ませんでした。
 全国から選りすぐった秀才たちが集まっていた日本最高の大学であったというのに、そこからは人出(ひとい)でず、また新しい文明の発祥地としての栄誉も担えなかったのです。
 明治維新の新しい文明をになう人材が出たのは、どこだったでしょうか。それは山口県の萩にあった、わずか六畳か八畳の仕舞屋(しもたや)(住居)吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)でした。
 立派な建物ではありません。普通の庶民が暮らす小さな住居にすぎません。吉田松陰はそこを解放して、長州藩の下級武士の師弟たちを教えました。
 松陰がまだ二七、八歳の頃です。しかし、松陰は情熱に燃えていました。この松下村塾から、明治維新を担った大人物が続々と育っていったのです。
 時代をつくるのは、建物ではありません。人です。魂です。魂がどこまで澄み渡っているかです。
 ましてや、神の国の場を体験した人には、無限の可能性があります。シェキナーの栄光のもとに生きる人には、自分でも驚くような力がわいてくる。
 神はこのために、私たちを創造されたのです。今私たちがこの世に生きているのは、利己的な人生を送るためではありません。欲望の実現のために生きることでもありません。
 私たちがこの世に送り出されたのは、この地上に神の国を現出(げんしゅつ)させるためです。私たちは、来たるべき神の国の前触れなのです。
 私たちは神の国の大使として、神の国の栄光を、神の国のシェキナーを、その命と光を背負ってこの世に送り出されたのです。
 あなたがこれまで、どれほど人生の暗夜行路を歩んでこられたとしても、それをさらさら悔やむ必要はありません。神の国の場を持って生きるなら、あなたはつねに命と光の中を歩んでいくことができます。
 あなたの道は、神ご自身が導かれるのです。その道は、神の国の光を放って輝くでしょう。


聖霊を胎蔵する

 生物学では、卵子に精子が入ったとき、この受胎した細胞を胚と呼びます。これが母親の胎内で起こると胚胎(はいたい)(コンセプション)となります。
 胚胎が始まると、顕微鏡で見てもやっと見えるくらいの小さな細胞ですけれども、次第に成長して、四〇週の期間が満ちて母の胎を出る時には、特有な個性を持つ立派な人間として産み出されます。
 同様に、一人の人間の魂に、新しい神の生命因子(いんし)が一滴でも入ると、その魂は受胎して、驚くべき命と光を現わし始めます。精子と卵子の受胎と同じように、神の聖霊が人間の魂に受胎されると、そこには躍動する生命と輝く人格が出現するのです。
 これは、クリスチャンが誰でも経験し得ることです。長い間あんなに人生に苦しんで、嘆いて、胸打ちたたいて罪の自分が変わらぬものかと悩んだこの胸の中に、聖霊のコンセプション――胚胎が行なわれ出すと、われ知らず、希望にときめくのです。
 そして溢れる熱い喜びの涙を禁じられなくなる。聖書に、
 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは・・・・子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって『アバ、父』と呼びます」(ロマ八・一四〜一五)
 とあります。神の御霊を受けて――聖霊が自分の魂の内に受胎して、人格的に、また生命的に変わってしまう。そして天の父を思って、喜びにあふれて、いたしかたない。
 女の人が妊娠して、母親になったと知ると、うれしさに胸がときめきます。同様に、わが魂の内に神の霊をはらむことは、わが身のほどを忘れるほどの幸福です。
 そこに神の国の場が形成されて、命と愛が躍動し始めます。神は、人の魂を、そのように聖霊を受胎できるものとして造られたのです。
 かつて一六世紀の哲人、ヤコブ・ベーメは、田舎の無学な靴職人にすぎませんでしたが、二五歳の時、夕日の光が釘入れの皿に反射したのを見ました。その瞬間、彼はエクスタシーして、宇宙意識に包まれ、一躍、大思想家となりました。
 聖霊は、人間を大変化させる力です。人間は、そのように聖霊を胎蔵し得る者なのです。
 神は、人の魂と人生に、不思議な可能性をお与えになりました。あなたが聖霊によって歩んでいくとき、その可能性が現実のものとなります。
 神の国の場が、あなたの魂に、あなたの人生に具体化していきます。現実化していきます。あなたの人生が終わらないうちに、わたしはあなたに、この聖霊による意識に目覚めていただきたい。
 今の世の中は、たくさんの代用品があります。本物の真珠を買わなくても、人造真珠がありますし、本物のダイヤモンドを買わなくても、人造ダイヤがあります。
 本物を買わなくても、しばしば海賊版を買っても満足が得られたりします。しかし、こういう物質的なことでは、代用品を使って、「代用満足」というのもいいですけれども、人生において最も大切なものまで、代用品で済ますわけにはいきません
 人生には、代用品やイミテーションでは済まないものがあります。神の霊の代用品はありません。神の国の場の代用品となるものはありません。
 私たちは、本物を身につけるほかないのです。真の神様のもとに行って、真の神様に祈って初めて、これは得られるものです。
 表面を立派な人間のように見せかけていれば、それで神の国の場をつくれるのではありません。一生懸命努力していれば、それで神の国に生きれるのではありません。
 そのような表面上のつくろい、努力などは、代用品にすぎません。私たちは神ご自身と、祈りと聖霊による交わりをして初めて、神の国に生きる者となるのです。
 その代用品はありません。模造品はありません。本物を得ることです。


本来のキリスト教の復興

 かつて仏教が日本に公式に渡来したのは、欽明天皇の治世一三年のことでした。西暦五五一年に、百済(くだら)の聖明王が来て、仏像や仏教教典を献上したことに始まります。
 ところが、これを礼拝すると、たちまち国民の間に疫病(えきびょう)が流行して、病死する者が続出しました。それで天皇は、仏像を難波(なんば)の堀江に流して捨てさせ、寺院には火をつけて焼いてしまわれた、と日本書紀に書いてあります。
 今も大阪の中央区に難波という所がありますが、そこで昔そういうことがあった。そのあとも仏教は入ってきましたが、そのあと入ってきた仏教は、じつはシャカ直伝の原始仏教ではありませんでした。
 「大乗仏教」と称して、じつはペルシャ教やバラモン教の混ざった混合宗教でした。それだけではありません。その教えは、しばしば景教といって、ネストリウス派のキリスト教とも混合していました。
 今も空海の開いた高野山に、景教流行碑があります。またその高野山で、プリンストン大学の名誉教授、オットー・ピーパー博士を招待したりして、聖書講演をしたりしています。
 仏教のお寺で、聖書講演会をするんですよ! また高野山で、寺の宝として大切に保存されている金剛仏具(こんごうぶつぐ)や、僧服などを見ると、それが昔の景教のものだったことが歴史的に考証されるので、興味深いです。
 また、八世紀の時代に「光明皇后(こうみょうこうごう)」という人がいました(七〇一〜七六〇年)。この人は、ナイチンゲールや、マザーテレサのような人です。
 聖武天皇の妃なのですけれども、慈悲深く、貧しい人々のために病院を建てたり、薬を恵んだり、また孤児院を造って、孤児達を養ったという女性です。
 奈良の法華寺(ほっけじ)には、光明皇后が、ライ病患者の膿(うみ)を吸って吐き出したという浴室が残されています。この光明皇后ですが、仏教の人のように思われています。
 しかし、じつは「光明」という言葉は、れっきとした景教用語なのです。景教は、七三六年に日本に公式に入りました。聖武天皇の時代です。
 その妃であった光明皇后は、景教の教えにふれて、いたく感激し、その実行者となったのです。光明皇后のまわりには、神の国の場があったのです。
 キリスト教というのは、じつは非常に古くから日本に入っていました。ところがその後、日本人は、シンクレティズムといって、諸教混淆(しょきょうこんこう)、混合宗教をみごとにやってのけてしまいました。
 景教と呼ばれた東方キリスト教は、その中に取り入れられ、吸収されてしまった形となりました。しかし、そのような混合宗教では日本は救えないのです。
 今や、真のキリスト教、本来のキリスト教が日本に芽吹(めぶ)かなければなりません。神の国の種子(しゅし)が日本に蒔かれ、成長していかなければなりません。
 今こそ、一人一人のクリスチャンの内に、神の国の場が姿を現わす時です。それは、あなただけでなく、この日本をも潤す力となるのです。

                                 久保有政(レムナント1998年3月号より)

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