キリストの再臨を信じて
私はこう変わった
内村鑑三(うちむらかんぞう)
内村鑑三。明治時代に多くの著書を著し、
知識人や青年層に大きな影響を与えた。
〔証し〕
(文章は現代文に直してあります)
私の生涯に三度、大変化が臨みました。
第一回は、私がキリスト教によって、初めて独一無二(どくいつむに)の神を認めた時です。
そのとき私の迷信は、根から断たれました。
熊野、八幡、太神宮と、八百万(やおよろず)の神々を恐れ、また拝んできた私は、天地万物の造り主を唯一の神と認めることにより、思想が統一されました。
混乱していた万物は、すべてを完備した宇宙となり、私は迷信の域を去って科学の人となりました。これは、今から四一年前の出来事です。
第二回は、私がキリストの十字架において、自分の罪の贖いを認めた時でした。
その時私の心の煩悶(はんもん)は、やみました。いかにして神の前に正しくあることができるか、と悶(もだ)え苦しんでいた私は、
「仰ぎ見よ、ただ信ぜよ」
と教えられて、心の重荷がたちまち落ち、心軽き人となったのです。
私は道徳家であることをやめて、信仰家となりました。私は私の義を、自分の心に見るのではなく、十字架上のキリストにおいて見ました。
これは今から三二年前、私がアマスト大学の寄宿舎において、貧乏と懐疑を相手に戦っていた時のことです。
そして第三回が、過去一年間のことでした。
私は、キリストの再臨(再来)を確信するに至り、生涯に大革命の臨んだことを認めます。これは確かに、私の生涯に新時期を画する大事件です。このことについて私は、
「見よ、すべてが新しくなった」(Uコリ五・一七)
と言うことができます。私は古い世界を去り、新しい世界に入った感がします。私の宇宙は広がり、前途は開け、新たな力が加わり、眼は明らかになり、生涯のすべてが一新したことを感じます。
じつに私の短い生涯において記憶すべきは、明治一一年と、一八八六年(私は西暦でこれを記憶しています)、それに大正七年です。
さいわいなことに、私の生涯も向上の生涯であって、退歩の生涯ではありませんでした。今やその第三の時期を送ろうとしている私の心は、言いがたい感謝の思いでいっぱいです。
再臨がわからなければ聖書はわからない
「キリストの再臨」――言葉はいたって簡単です。しかしながら、その意味は深遠であり、その元理は根本的です。
キリストの再臨の一つの意味は、万物の復興です。宇宙の改造です。また聖徒の復活、正義の勝利、最終の裁判です。また神政の実現です。
人類のすべての希望を総括した者の来臨――それがキリストの再臨です。ですからこのことがわかって、全てがわかるのです。
反対に、このことがわからないと全てが不明です。じつにこれを真理の中心、と称して誤りはありません。
聖書がこのことに特に注意を払うのは、当然です。これこそ万物の帰するところであり、万物の究極だからです。
再臨を信じることによって、聖書は私にとって、初めてわかりやすい書物となりました。四〇余年間読み続けた聖書を理解する"鍵"を与えられ、私は最大の恵みを与えられた思いです。
聖書を理解することは、神を理解し、自然を理解し、人生を理解し、自己を理解することです。
キリストの再臨を信じて、聖書は
初めてわかりやすい書物となりました。
それゆえに人類は、全身全力をつくしてこの書を理解しようと努めつつあります。聖書一冊を理解するために、大学が建てられ、講座が設けられ、世界最大の知識が傾注されています。それでも理解することができないのです。
カイムの『イエス伝』、バウル、プフライデラーの『パウロ伝』、B・ヴァイスの『キリスト伝』、バイシュラークの『新約聖書神学』、その他サバティエ、ダイスマン、フォン・ゾーデン、ダルマンと、ああ私もまた、全身全力をつくしてこれら大家の著書を渉猟(しょうりょう)し、聖書を理解しようとしてきました。
しかしついに理解し得なかったのです。否、懐疑はさらに懐疑を増しました。聖書はますます"暗き書物"となりました。
どうしてこうなったのでしょうか。私が聖書の言葉そのままを、信じなかったからです。信ずべきことを信じないで、聖書を天然、人生、世の常識をもって解釈しようと試みたからです。
奇跡はあった事、イエスの肉体の復活はあった事、その昇天はあった事、そして彼の再臨もまたあるべき事、と信じて初めて、聖書は理解しやすい書物となるのです。
聖書が難しいのは、その言語や、地理、博物、歴史においてではありません。それは私たちの常識を超える神の啓示なのです。
ですから啓示を、啓示として信じることができると、聖書は、子が父の親書(しんしょ)を理解する時のように、理解しやすい書物となります。「キリストは再び来られる」と文字通り信じて、それを理解するのに何の困難もないのです。
聖書の教えを時代的思想、と言うから解釈の困難が起きるのです。これをユダヤ的迷信、と言うから説明の必要が生ずるのです。
再臨は、文字通り再臨です。二度目の降臨です。連続的・霊的臨在のことではありません。白は白、黒は黒、聖書を謎として解さず、これを普通の書物を理解する時のように理解して、何の困難もないのです。
私が今日まで聖書全部を明白に理解できなかったのは、私の語学が不充分だったからではありません。私に信仰が不足していたからです。
さいわいにして私は神を信じ、キリストを神の子として信じ、彼の贖罪を信じ、復活を信じ、昇天を信じたのに、彼の再臨については文字通りに信じなかったために、聖書の重要部分を鏡をもって見るように、ただおぼろげにしか見ていなかったのです。
再臨を信受する以前の聖書は、私にとっては"半解の書"に過ぎませんでした。そのためその全部を楽しみ得なかったのです。
したがって私の聖書欲は、熾烈(しれつ)であったとは言えません。私は四〇年間、(神の恵みにより)聖書にすがっては来ましたが、今日のようにこれを賞味することはできませんでした。
まことに再臨の光をもって見て、聖書は全然別の書物となるのです。これは、ひとり私の実験ではありません。多くの人の実験なのです。
エルサレムの神殿の丘からオリーブ山を望む。
オリーブ山はイエスが昇天された場所であり、
かつ再臨される場所である(ゼカ14:4)。
再臨がわかって人生がわかった
再臨を信じなくても、聖書を味わうことはできます。しかし聖書の全部を味わうことは、できません。その真味を味わうことはできません。
「ダビデの子であり、アブラハムの子であるイエス・キリスト」
とある新約聖書劈頭(へきとう)の言葉に、再臨の預言のこもっているのが見えます。また、
「アーメン、主イエスよ、来てください」
の言葉をもって新約が終わるのを見て、新約は再臨の預言をもって始まり、その待望をもって終わる書物であることを知ります。
ああ、私はついに、聖書を理解し得て生涯を終え得ることを知り、神に感謝します。幾たびか"不可解の書"として放棄しようとした、この世界の書、人類の書が、ついに"可解の書"として私の手にあるのを見て、私の感謝と歓喜は、たとえようがありません。
私は今や、まことにルターのように、聖書を「わが書」として抱くことができます。私はキリストの再臨を信じます。それゆえ聖書全部を、神の言葉として受け取ることができます。
私はキリストの再臨がわかって、人生がわかりました。人生の意味の解決がここにあることが、わかりました。
正義は最後の勝利である、といいます。まことにそうです。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」(黙示二二・一二)
と主は言われました。
この世においては、正義は、勝つように見えて勝ちません。正義が勝ったと思うのは、つかの間です。
正義の背後に不義がいて、正義の勝利は、不義を行なう機会として利用されます。米国大統領リンカーンは、南北戦争を終え、奴隷制度にとどめをさした後に、嘆じてこう言いました。
「南北戦争は終わった。しかしさらに大きな、貧富の戦争が始まろうとしている。黒人対白人の格差はやんだが、貧者対富者の対立は、ますます大きくなっている」。
今から四八年前、ドイツがフランスに勝った時、英米両国の国民は喜んで言いました。
「新教国が旧教国に勝ったぞ」。
しかしそのドイツが、今度は、彼らに勝利をもたらした軍国主義を発揮して世界平和を危うくし始めると、英米二国は前に破れたフランスと組み、ドイツを破って、万歳を叫んでいます。
その後、「軍国主義のドイツは破れた」と聞いて世界が喜んでいると、今度は米国が、世界最大の海軍の建造を議決し、万国の耳目を驚かせました。こんなことで、真の平和はいつ地上に望むのでしょうか。
「世界平和の擁護者」を自ら任じる米国ほど、殺人罪の盛んに行なわれる国はありません。米国は世界最大の飲酒国、また喫煙国です。他は推して知るべしです。
キリスト再臨の時に人生のすべての謎が解ける
人類は時代とともに進歩する、というのは皮相(ひそう)な観察にすぎません。道徳の事、信仰の事、とくに人道の事においては、人類は確かに時代と共に退歩しつつあります。
人生は今なお、大きな謎です。深く人生を味わえば、誠実な人は何びとも失望せざるを得ません。
しかし、これは人生を見るからです。人を見ず神を見、人生を見ず聖書を読むとき、この失望は失せるのです。
「人の子(キリスト)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来る時、人の子はその栄光の位につきます……」(マタ二五・三一)
とあるのを読んで、すべての疑いは解けるのです。まことにパウロの言ったように、
「主が来られるまでは、何についても先走ったさばきをしてはいけません」(Iコリ四・五)。
その時、万事は決まるからです。そのとき正義はまことに勝ち、平和はまことに臨み、愛はまことに人類の法則となるのです。
「主が来られる時」――その時です。そのとき万事が判明します。さいわいなるかな、その日その時。その時が必ず来ることを知って、人生にかかわるすべての懐疑は、私の心から除かれました。
今や人類がいかに堕落しようが、教会がいかに腐敗しようが、偽善がいかにはびころうが、不義がいかに横行しようが、私は失望しません。
「わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」
と主イエス・キリストが言われたからです。私は彼の言葉をそのまま信じます。それで十分なのです。
人生の雲ははれ、万事は明白です。今は恐れず、たゆまず、彼の御教えに従い、事の成敗に頓着(とんちゃく)せず進むばかりです。感謝です。じつに感謝です。
私はキリストの再臨を信じて、死の悲痛を根本から癒されました。Tテサロニケ四・一三以下の言葉を文字通りに信じて以来、死は信者に臨む一時的な出来事にすぎないことがわかり、言い尽くされない慰めを感じます。
私はキリストの再臨を信じて、
死の悲痛を根本からいやされました。
私と、私の愛する者の未来は、朦朧曖昧(もうろうあいまい)なものではありません。確然(はっきり)としたものです。
「主は……天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして私たちは、いつまでも主と共にいることになります」(Tテサ四・一七)。
聖書のこの言葉を文字通りに信じることにより、死は、無きに等しいものとなるのです。再臨、復活、携挙(けいきょ)、再会、永生。――安心立命(あんしんりつめい)とはこの事を言うのです。
この確実な信仰がなければ、宗教は、有って無きものです。ああ未来は暗黒ではありません。光明です。
再会は疑問ではありません。確実です。私の祈りが聞かれずに、私よりもぎ取られた私の愛する者――私は彼らを、永久に失ったのではありません。
再会の日は定められたのです。その時のラプチュア(携挙)、これを思って再臨の日が待たれます。
もしこれが迷妄(めいもう)であると言うなら、詩も歌も美術も宗教も、美という美、善という善はありません。聖書に、
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自身を愛する者たちのために備えられた」(Tコリ二・九)
とあるのは、この事を言うのであると思います。
再会の日は定められた。
魂だけでなく体も救われる
再臨がわかって、私は自然がわかりました。私は今日まで自然を愛して、じつはこれをいやしめていたのです。
物といい肉といえば、いやしいものと思い、これを超越し脱却するのが霊的生命の目的である、と思っていました。私は、私の愛するこの地この自然と永久に別れて、その後に完全な霊的生命に入るのだ、と思っていました。
しかしこれは、大きな誤りです。生命は霊と肉であり、宇宙は天と地なのです。
私が救われるとは、私の霊と共に肉も救われることであって、また私の救いは、宇宙の完成と共に行なわれるものなのです。私は肉を離れ、地より挙げられて救われるのではありません。
新しい朽ちない体を与えられ、新しい天地に置かれて、救われるのです。私の救いは、万物の完成と同時に行なわれるものです。
そのことを最も明白に教えている箇所は、ローマ人への手紙八・一八以下におけるパウロの言葉です。
「被造物(ひぞうぶつ)も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」(八・一九)。
神の子ら(信者)が自分の救われることを切望しているのと同じく、大自然もまた、神の子らの現われる事、すなわち贖われた霊がそれにふさわしい朽ちない体を与えられて現われる時を、待ち望んでいるのです。
こうして神の子らと、自然とは、その希望を共にし、目的を同じくするのです。また、
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」(八・二一)
とあります。宇宙自然は、現在「滅びの束縛」のもとにあります。草は枯れ、花は落ちるという状態においてです。
しかしこれは、定められた運命ではありません。
自然もまた、やがて神の子らの受けようとしている栄光の自由の中に入るのです。不朽の生命は、人を待つとともに、地をも待っています。
被造物も、やがて滅びの束縛から解放されて、
神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる。
また言われています。
「御霊(みたま)の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、からだの贖われることを待ち望んでいます」(八・二三)。
天地万物が、信者が神の子として現われるのを切望しているのと同じく、信者もまた、自分の身体が贖われて、すべての被造物と共に不朽の生命に入る時を待っている、というのです。
人と自然との間には、切っても切れない関係があります。どちらも、他を離れては栄光の自由に入ることができません。
地は天に適(かな)い、肉は霊に適い、こうして完成された人が完成された地を占領して初めて、神が人を造り地に置かれたご目的が達せられる、というのです。
なんと偉大な自然観、救済観でしょうか。信仰はここに至って、その絶頂に達するのです。
まことにキリストの十字架は、単に罪人を救うものではありません。天地万物を完成させるためのものでもあるのです。こう言われています。
「神は……御子の十字架によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」(コロ一・二〇)。
キリストの十字架の血によって私も救われ、自然も救われる、というのです。かつて敬虔(けいけん)な動物学者ルイ・アガシが、動物を愛するあまり動物の永久存在説を唱えて、同学の徒(と)の嘲笑(ちょうしょう)を招いたことがありますが、これも聖書的根拠のない事ではありません。
動物の救いと人間の救いとの間に、明白な相違は幾つかあるでしょう。前者はおそらく種族的に救われ、後者は個人的に救われるのでしょう。
しかし十字架の血が、その恩恵を動物・植物、そのほか万物に及ぼすことは確かです。大自然もまた、今日のまま終わるものではありません。
「神の子どもたちの栄光の自由」
に入るよう、定められたのです。詩人ゲーテは言いました。
「私は自然を見て、そこに、牢獄に捕らわれた囚人のようなものを見る」。
それがいかにして救われるかは、詩人の知らないところでした。しかし聖書は、明らかにその解放の時と、その方途(ほうと)とを示すのです。
キリストの再臨の時に、信者の救いと共に、この事が行なわれます。偉観(いかん)この上なしです。
最もうまい酒
キリスト再臨の信仰は、聖書を新しい生きた書物として、私に与えました。私のために人生の謎を解き、死の悲痛を取り除きました。
私と自然とを永久に結び、やがて完成された天地に、贖われた体をもって不朽の生命を受ける希望を、私に抱かせました。これは私にとって、たしかに思想上の大変化です。
神は"最もうまい酒"を、最後に私にお与えになりました(ヨハ二・一〇参照) 。私はすべての人が、このうまい酒を飲むことを欲します。
私はこれを、彼らに勧めざるを得ません。ハレルヤ!
(一九一八年一二月の『聖書之研究』より)
(レムナント1998年9月号より)
|