まことの幸せへの道 
        アウグスチヌス 
          
        アウグスチヌス(354−430年) 
         
        初期キリスト教会最大の教父。神学者、哲学者として、 
        後世に大きな影響を与えた。彼は北アフリカのタガステに、 
        異教徒である父と、キリスト教徒である母モニカの子として生まれた。 
        しかし若い頃は遊興にふけり、乱れた生活を送っていた。 
        はじめマニ教を信じたが、疑いの中に悩み苦しんだのち、 
        ついにイエス・キリストへの信仰に目覚め、生まれ変わった。 
        その魂の遍歴を、彼は『告白』に記した。 
        また最初の歴史哲学書と言われる『神の国』も、有名である。 
         あなたが、幸せであろうと願うのは、自然なことです。誰もそれに反対する人はいないでしょう。 
         しかしあなたは、自分の愛するもの――それが何であろうと――自分の愛するものを得るまでは、幸せではないでしょう。 
         また、すでに愛するものを得ていたとしても、それが有害なものになったら、幸せではありません。それがどんなに優秀なものであっても、得たあとに愛せなくなるようなものなら、幸せではありません。 
         もし決して得られないものを望んでいるのなら、それは拷問と同じですし、自分の望みもしないものを手に入れるのも、幻滅でしょう。 
         得られるのにそれを望まないのも、おかしなことです。これらはいずれも、不幸の一種です。これらの不幸は、幸福と相容れるものではありません。 
         幸福になることは人生において大切なことですから、良い人も悪い人も、それを望んでやみません。しかし善人が、幸福を求めて良いことをするのはわかるにしても、悪人が幸福のために悪事をなすのは、困ったものです。 
         邪欲の奴隷となっている人々や、淫乱にふけっている人々は、邪欲や淫乱の楽しみを味わわないと不幸だ、と思いこんでいます。またそれらを味わうと幸せだ、と称しています。 
         貪欲な人間は、どんな手段を講じても金をもうけて幸せになろう、とします。権力の好きな人間は、敵の血を流したり、他人を不幸におとしいれたり、犯罪をおかしたりして権力を手に入れ、自分は幸せだと思っています。 
         道をそれて偽りの幸せを求めているこんな人々も、ちょっと耳を澄ませば、神が良い道に呼び戻そうとしておられる声が、聞こえるはずです。 
         「さいわいなことよ。 
          全き道を行く人々、 
          主のみ教えによって歩む人々」(詩篇一一九・一)。 
         この言葉はあたかも、 
         "お前たちはどこへ行くのか、滅びに向かう道に気づいていないのか" 
         と言っているかのようです。 
         あなたは、今歩いている道を通っては、自分の望む目的地にたどり着けません。あなたは全力をあげて幸福をつかみたい、と思っていますが、あなたの歩いている道は、恐ろしい不幸へと続いています。 
         悪い道を通って幸福をつかめると、幻想してはなりません。幸福を手にしたいなら、ここへ来て、この道を歩みなさい。幸福でありたいとの思いは変えられなくとも、通る道を変えることはできるのです。 
         
         
         汚れた道を通って、幸福という目的地にたどり着くことはできません。汚れた道を歩んで自分を汚している人は、幸福を求めているのではないのです。 
         「さいわいなことよ。 
          主のさとしを守り、 
          心を尽くして 
          主を尋ね求める人々。 
          まことに彼らは不正を行わず、 
          主の道を歩む」(詩篇一一九・二〜三)。 
         ここに言われている「主を尋ね求める人々」は、現在よりも、将来にある幸福において幸せです。というのは、 
         「義のために迫害されている者はさいわいである」(マタ五・一〇) 
         と聖書に言われています。この人々は、迫害されるからさいわいだというのではなく、未来にある幸福において、さいわいなのです。「天の御国はその人のもの」(同)だからです。 
         同様に、 
         「義に飢え渇いている者はさいわい」(マタ五・六) 
         です。飢え渇いているからさいわいなのではなく、未来において「満ち足りる」(同) ようになるからです。 
         「悲しむ人」(マタ五・四)もさいわいです。いま悲しんでいるからではなく、やがて「慰められる」(同)からです。 
         つまり、神の証しを探し求め、全力をあげて神を求める人はさいわいです。その人々は、やがて求めるものを受けるからです。 
         力を尽くし、心をあげて、それを求めなさい。怠惰に流れてはいけません。望みにおいて清ければ、汚れなく生きることができます。 
         あなたがたとえ、現在この世で主のみ教えを行ない、主のみ言葉を求め、心を尽くして神を求めていたとしても、 
         「自分には何の罪もない」 
         と言って高ぶってはいけません。それは自分を偽ることであって、真理ではありません。 
         へり下って、正しい人であろうとする人は、さいわいです。 
         
         
         あなたを本当に幸せにしてくれるものは何かを、よく調べなさい。 
         あなたが幸せになろうと努力すれば、不幸な今の状態よりも良くなるでしょう。しかし、あなた自身より値打ちのないものがあなたを幸せにすることは、できません。 
         あなたは人間であるのに、幸せになるためにあなたが望んでいるものは、じつはあなた自身よりも値打ちのないものばかりではありませんか。金も銀も、あなたの欲しがっているもの、持ちたいと願っているものはみな、あなた自身より値打ちがありません。 
         それに対してあなた自身は、それらどんな物質的なものよりも、価値あるものです。 
         あなたは幸せを求め、今の不幸から抜け出したいと思っています。今よりも良くなりたい――しかし、自分より値打ちのないものに頼って、良くなるのは不可能です。この世のどんなものも、あなた自身以上の価値を持っていません。 
         私の助言はこうです。自分を良くし幸福になりたいなら、自分より値打ちのあるものを、求めなさい。そうすればあなた自身も、より良いものになります。 
         創造主までかけ上りなさい。 
         「それは大変むずかしいことだ」 
         と思ってはいけません。あなたが望んでいる大金を手にいれることのほうが、もっと難しいのではありませんか。あなたが望んでいるようなお金は、どんなに欲しがっても手に入らないでしょう。 
         ところが神は、あなたが望んだだけで、もうそれをくださるのです。というより、望むより先に、あなたのもとに来てくださるのです。 
         あなたが神に背を向けるときも、神はあなたを呼んでいてくださいます。あなたが悔い改めれば、神はあなたに畏れを与え、畏れて痛悔の念を表せば、慰めてくださいます。 
         すべてをお与えになる神は、あなたに、まず"あなた"という存在を与えてくださいました。そして神は、悪人にも、あなたにも、すべての人間に対して、太陽と雨とを送られ、果物を実らせてくださっています。 
         人間の命と健康とを支え、いろいろ為になるものを、与えてくださっています。その神が、ほかの人ではなく、ただあなただけに与えたい恵みを持っておられます。 
         その恵みとは神ご自身でなくて、何でしょう。 
         それ以上の恵みがあると思うなら、探してみなさい。神はあなたに、ご自身を与えようと願っておられるのです。 
         ああ、貪欲な人間よ。なぜあなたは、天地を手にしたいと思うのですか。天地を造られたかたご自身のほうが、もっと偉大で、ありがたいではありませんか。 
         あなたは神を見、神を受けたい、と願うべきではありませんか。神を受けたい、とだけ望みなさい。 
         それだけで、あなたは幸せになれるのです。あなたを幸せにするものは、ほかにはありません。 
         あなたをより良くするものは、あなたより良いものでなければなりません。神を愛し、神を求めなさい。それはあなたが望んだだけで、自分のものにできるのです――しかも代償なしに。 
         (アウグスチヌス著『信心生活』より) 
         
         
        〔聖書の言葉〕 
         「神に近づきなさい。そうすれば神は、あなたがたに近づいてくださいます」(ヤコ四・八)。 
         
                                         
               (レムナント1998年10月号より) 
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