2014年に始まる
「天のしるし」
ユダヤの祭の日に日食と月食がたて続けに起こる!
2014-15年のユダヤの祭の日に合わせて、日食と月食がたて続けに起こることが、天文学的データに基づいて明らかにされた!
皆既日食。2014−15年に日食と
月食が計6回、いずれもユダヤの祭の日に起きる。
米国のマーク・ブリッツ牧師は、NASAのデータや他の天文学的データを調査した結果、
「2014年4月〜2015年9月のわずか約1年半の間に、ユダヤの祭の日に合わせて、『月食』と『日食』がたて続けに起こることがわかった」
と発表し、話題になっている。
ご存知のように「月食」は、月が地球の影に入り、月が暗く見える現象である。ただし皆既月食のときでも、月は真っ暗にはならず、暗い赤色にみえる。いわゆる「赤い月」の出現である。
これは地球の大気によって、太陽の光のうち波長の長い赤系の光が屈折・散乱されて、本影の中に入るからだ。そのため月が血のように赤くみえる。夕焼けが赤く見えるのと同じ理屈である。
一方「日食」は、太陽と地球の間に月が入って、地球からは昼間でも太陽が真っ黒に見える現象だ。「黒い太陽」の出現である。
両方とも、まれにしか見られない。だが、それが今から約6〜7年後の将来において、計6回、たて続けに起こるという。しかも起こる日が、いずれも「ユダヤの祭」の日に、驚くほど符合しているのだ。
単に月食や日食が起こるというだけでなく、それらがすべてユダヤの祭の日にぴったり合って起こるというのは、いったい何を意味しているのだろうか。
次々に起こる月食と日食
(1)最初は2014年4月15日である。これは、ユダヤ暦5774年のニサンの月15日にあたり、ちょうどユダヤの「過越の祭」初日にあたる重要な日であるが、この日に皆既月食が起こる。
ふつう「過越の祭」は、夜、満月の明るい光の下で行なわれるものだ。ところがその日、月は暗く、赤黒くなる。不吉な予兆ととらえられるに違いない。
(2)つぎにその半年後、2014年10月8日(ユダヤ暦5775年ティシュリの月14日)にも――これはユダヤの「仮庵の祭」の前夜祭の日であるが――この日にも皆既月食が起こる。
「過越の祭」と「仮庵の祭」はユダヤの二大祭である。その両日とも、このように月食にみまわれ、月はまたもや赤黒くなる。
(3)またその半年後、2015年3月20日(5775年アダルの月29日)――「ユダヤの宗教暦の新年」の前日であるが――今度は皆既日食が起こる。新年が始まる前に、日は暗くなるのである。「黒い太陽」の出現だ。不吉なことの連続と、多くの人が感じないではいられないだろう。
この「ユダヤの宗教暦の新年」とは、旧約聖書「出エジプト記」などが記している「新年」と同じである。「アダルの月」(第12月)の次の「ニサンの月」(第1月)に始まる新年をいう。
新年第1月は、旧約聖書では「アビブの月」と呼ばれているが、のちにバビロニアの影響により、「ニサンの月」と呼ばれるようになった。第12月である「アダルの月」は29日までしかないので、その日はまさに宗教暦の新年の前日にあたる。
月食と日食の起きる日と、ユダヤの祭の関係
(4)さらにそれに追い打ちをかけるように、そのわずか2週間後の2015年4月4日(5775年ニサンの月15日)――ユダヤの「過越の祭」初日であるが――この日にも皆既月食が起こる。
(5)それで終わりではない。その半年後、2015年9月13日(5775年エルルの月29日)――これは「ユダヤの政治暦の新年」の前日にあたるが――この日に部分日食が起こる。
ここで、ユダヤの「宗教暦の新年」とか「政治暦の新年」とかの言葉が出てきたが、じつはユダヤには「新年」と呼ばれるものが2つある。一つは、先ほど述べた出エジプト記などに記された新年(宗教暦上の新年)で、第1月(ニサンの月=アビブの月)から始まる。
もう一つは、第7月(ティシュリの月 旧約聖書では「チスリの月」)から始まる「政治暦の新年」である。これは、天地創造を起源とする暦ともいわれ、今日のイスラエル人は、おもにこちらのほうの新年(ロシュ・ハシャナー)を祝っている。その前の月、第6月(エルルの月)は29日までなので、この日は、政治暦の新年の前日にあたる。
すなわち、新年の祝日が始まろうとするその前日に、太陽は暗くなるのだ。
(6)そしてそのわずか2週間後の2015年9月28日(5776年ティシュリの月15日)――ユダヤの「仮庵の祭」の初日であるが――この日に再度、皆既月食が起こる。またもや、月は赤黒くなる。ユダヤの祭は、ことごとく月食や日食におおわれるのである。
歴史的出来事が起きる?
このように、2014年〜2015年の約1年半の間に、月食と日食が計6回たて続けに起こる。天に「赤い月」と「黒い太陽」が出現する。しかも、その起こる日は、ユダヤの祭の日にことごとく符合している。
月食。地球の影に入るとともに、
月は暗くなり、「赤い月」となる。
つまりこの期間、「過越」や「仮庵」の祭は、すべてその初めに月食がある。さらにユダヤの「新年」は、2つともその前日に日食がある。このような現象は、めったにあるものではない。少なくとも、今世紀には二度と起こらない。
これは一体、何を意味するのか。
ブリッツ牧師によると、じつは前世紀である20世紀において、同じようなことが2度あった。それは1948年と、1967年である。両方ともユダヤにとっては、きわめて歴史的な年であった。
1948年はイスラエル共和国独立の年、1967年は、イスラエルがアラブに圧勝しエルサレムを奪還した、奇跡的な「6日戦争」の年である。どちらもユダヤにとって、それ以上に重要な時はない、といえる年である。
イスラエル独立宣言の年にも
同様の現象があった。
つまり、来たるべき2014〜2015年も、ユダヤにとってきわめて歴史的な出来事の年となるのかもしれない。いや、ユダヤのみならず、世界史にとって重大な年となることが考えられる。
「太陽は暗くなり、月は光を放たず」
イエス・キリストはあるとき、弟子たちを前にして、「終末の時代」にどんなことが起こるかについて語られた。「終末」とは、何もかも無くなってしまう時のことではない。それはむしろ、「この世」と「来たるべき世」の境界である。
現在の世の体制はやがて崩壊し、終結する。そののち「新天新地」と呼ばれる新しい世界が来る。その境界が「終末」である。その時すべての人が死に絶えるわけではない。聖書は、生き残るべき者は生き残るとしている。
キリストによれば、この終末が間近になった時代は、人類にとって「試練」の時代である。それは、人類に内在する罪と悪が最高潮に達する時であり、善と悪が明確に分かたれる時である。神につくか、悪につくかが問われる時となる。
自然界にも、様々な異変が起きる。この試練の時代は「患難時代」とも呼ばれている。キリストは「患難時代」にみられる一つの現象として、
「これらの日の苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(マタイ24・29)
と語られた。この「太陽は暗くなり」は日食であるとも考えられるし、「月は光を放たず」は月食であろう、とも考えられる。別の箇所では、
「日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み……」(ルカ21・25)
と言われている。「日と月」に現われる「前兆」とは、日食や月食のことかもしれない。文脈からすると、イエス・キリストは、この現象は患難時代の末期に起こると語られているようである。
ならば、2014〜2015年の月食・日食の連続は、患難時代の末期に起こる現象なのだろうか。
それとも患難時代前兆期の現象か
むしろ別の可能性の方が高い。現在は、患難時代の近づいた時代ではあるが、まだ患難時代に突入はしていない。
来たる2014〜2015年の月食・日食の連続は、患難時代「末期」の出来事ではなく、むしろ患難時代の「前兆期」の現象、すなわち患難時代本体に入る前の前兆的出来事の一種と考えた方がよいだろう。
キリストが言われた患難時代末期の「太陽は暗くなり、月は光を放たず」は、2014〜2015年の月食・日食のことではなく、それとは別の、もっと大規模な異変をさしている、と考える。つまり、2014〜2015年の月食・日食は、患難時代前兆期の一現象として起きるものであり、その後しばらくして患難時代の本体が始まるのではないか。
キリストの終末予言や、ヨハネの黙示録によれば、患難時代は、前兆期に続き患難時代の本体が始まる。そして本体は第1期、第2期、第3期(末期)とも名づけていいような、3つの時期からなっている。黙示録によれば、患難時代は「第1のわざわい」「第2のわざわい」「第3のわざわい」という3つの時期から構成されているのである。
さらにキリストの予言によれば、その第2期には、すでにエルサレムに「ユダヤ教の神殿」が建っていなければならない。この時期についてキリストは、
「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば……」(マタイ24・15)
と言われた。この「聖なる所」とはユダヤ教神殿のことである。というのは、かつて紀元前2世紀に異邦人アンティオコス・エピファネスは、エルサレムを荒らし回り、当時そこにあったユダヤ教神殿に土足で踏み入り、さらにそこにギリシャのゼウス神の偶像を置いた。すなわち彼自身とその偶像が、「荒らす憎むべき者」であった。
同様に、キリストは、終末の患難時代にもこれと同様のことが起きる、と言われているのだ。キリスト初臨前の出来事が、再臨前に繰り返されなければならない。聖書によれば、患難時代に現われる「獣」と象徴的に呼ばれる者が、エルサレムのユダヤ教神殿に踏み入り、みずから「荒らす憎むべき者」となって冒涜するという。
これは文脈からいって、患難時代の第2期に起こるものとみられる。だからそれまでには、エルサレムに「ユダヤ教神殿」が再建されていなければならない。
しかし、紀元前2世紀にあったユダヤ教神殿は、西暦70年にローマの軍隊によって破壊された。以来、今日に至るまで再建されていない。ユダヤ人は、その神殿の再建を熱望している。その計画もあるが、エルサレムのその地には今もイスラム教のドームがあるから、その実現は容易ではない。
だが今日も、多くのユダヤ人は、日夜エルサレムの「嘆きの壁」(かつての神殿があった場所の残存壁)の前に集っては、ユダヤ教神殿の再建を祈っている。こうした姿をみると、いずれユダヤ教神殿は再建されるだろう、との思いが強くされる。
問題は、それがいつかである。その予想は簡単ではない。しかし、2014〜2015年の月食・日食の連続の頃には、そうしたことも、もっとはっきり見えてくるのかもしれない。いや、その頃にユダヤで大変動が起きて神殿が建つ、あるいは神殿建設が開始されるということも充分あり得るだろう。
人生の歴史完成の時
いずれにしても、患難時代に入る時期は、何百年も先のことではないのだろう。かなり近い未来のことだと思ったほうがよい。
聖書の文字通りの解釈によれば、最初の人アダムから父祖アブラハムまでが約2000年、アブラハムからイエスご降誕までが約2000年、イエスご降誕から今日までが約2000年であり、計6000年である。神のご計画は、約2000年ごとに大きな転機を迎えてきた。
とすれば、私たちは今や、大きな時代の転機を迎え、新しい時代に入ろうとしているに違いない。
聖書の未来予言によれば、人類は終末の時代に、しばらくの間「患難時代」と呼ばれる試練の時を経験する。だが、世界はキリストの再臨を迎え、キリストは地上の悪を一掃、ご自身による世界統治をお始めになる。そして苦しみも悪もない至福の「千年王国」を、この地球上に樹立されるとしている(ミカ4章、イザヤ35章、同65・19-25、黙示録21章)。
人類の歴史約6000年の後の、1000年におよぶ至福・安息の時。この最後の1000年で、人類の歴史は完成する。かつて神の天地創造が、6日間の創造のわざの後の1日の安息であったように、人類の歴史もそうなるのである。
聖書は、終末の試練の時代に神を愛しキリストに従う者たちには、神の加護があり、彼らは「永遠の命」を受けて、さらには至福の「千年王国」に入れられるとしている。
私たちも、信仰を通して神の家族の一員とされた者として、今の時代に生かされている意味をかみしめたい。そして今後、時代がいかに変わろうとも、信仰にかたく立ち、闇夜に神の栄光を現わすような人生をおくっていきたいものである。
久保有政著(レムナント2008年8月号より)
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