比較宗教(仏教とキリスト教)

仏教の「戒律」
聖書の「律法」

両者の違いを比べてみると、興味深いことがわかる


中国のクリスチャンが描いた「良きサマリヤ人」。
イエスの隣人愛の教えを描いたものである。

 仏教とキリスト教の"違い"について、考えてみましょう。
 たとえば、仏教には「戒律」があり、またキリスト教の聖書には、「律法」が記されています。その違いは何でしょうか。
 両者の内容を比べてみると、興味深いことがわかります。


仏教の「五戒」と聖書の「十戒」

 仏教には、「五戒」と呼ばれる戒めがあります。これは、シャカが制定したもので、

 1、不殺生戒ふさっしょうかい 生きものを殺してはならない)
 2、不妄語戒ふもうごかい 嘘をついてはならない)
 3、不偸盗戒ふちゅうとうかい 盗んではならない)
 4、不邪淫戒ふじゃいんかい 姦淫してはならない)
 5、不飲酒戒ふおんじゅかい 酒を飲んではならない)

 の五つです。
 一方、この「五戒」とよく対比されるのが、キリスト教の聖書に記されている「十戒」(申命記五章)です。「十戒」は、聖書の律法の中でも、最も有名なものでしょう。
 十戒の前半では、まず神への礼拝に関する教えが述べられています。

 1、あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。
 2、あなたは刻んだ像(偶像)を造ってはならない。
 3、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
 4、安息日を守ってこれを聖とせよ。
つぎに、人間側の倫理に関する教えが説かれます。
 5、あなたの父と母を敬え。
 6、殺してはならない。
 7、姦淫してはならない。
 8、盗んではならない。
 9、隣人について偽証してはならない。
 10、隣人のものをむさぼってはならない。


 ここで、仏教の五戒と聖書の十戒後半とを比べてみると、似ているものが幾つかあるのに気づくでしょう。しかし、違いも幾つかあります。


「不飲酒戒」?

 たとえば、仏教の五戒には「不飲酒戒」があります。仏教では本来、飲酒は禁止されているのです。
 一方、飲酒禁止の規定は聖書の十戒の中にはありません。十戒に限らず、聖書の中には「酒を飲んではならない」という戒めはないのです。聖書の戒めはむしろ、
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」(エペソ人への手紙五・一八)
 で、少量の酒なら、必ずしも禁じられていません。実際使徒パウロは、胃の弱かった弟子テモテに対して、健康のために、食事の前に少量のぶどう酒を飲むようにすすめています(テモテへの手紙第一、五・二三)。
 つまり、仏教では"酒を禁止する"戒めが五大戒の中に入れられているのに対し、キリスト教では"酔っぱらうことを禁止する"戒めが、補助的な教えの中に述べられている程度です。
 では、両教の実際はどうでしょうか。東南アジアに広まった小乗仏教(上座部仏教)の人々は、お酒を飲みません。
 しかし日本の仏教徒は、信者も僧侶も、よく酒を飲むようです。
 仏教徒で仏教解説者として知られる、ひろさちや氏(気象大学校教授)が著書の中に書いていることですが、日本のお寺では「般若湯」という隠語が使われているそうです。これはじつは酒のことで、昔寺でお坊さんがこっそり飲んでいて、信者に見つかったとき、
「いや、これは般若(はんにゃ 知恵)の湯でな……」
 と弁解したのでしょう。最近では、ビールは「泡般若」、ウィスキーは「洋般若」と言うのだそうです。氏は言っています。
「日本の僧侶は、『不飲酒戒』をとっくの昔に忘れてしまったのでしょう」
 仏教徒は、初期の頃は、酒を飲みませんでした。また日本ではかつて、僧侶は肉食もしませんでした。肉食をしようと思えば、殺生をしなければならなかったからです。
 しかし現代の仏教徒は、公然と酒を飲むし、肉食もします。これは、「戒」に対する解釈が変わったからでしょうか。
 一方、クリスチャンについてもあまり誇れたことは言えません。福音派の人々は一般に酒を飲みませんが、教派によっては、信徒も指導者もよく酒を飲むところがあります。
 どうもそうした人々は、"食前の少量のぶどう酒"程度ではないようです。これは、反省しないといけません。


「不殺生戒」は守れるか?

 ひろ氏によると仏教の五戒は、守りきるのが大変難しい教えです。氏は、
仏教の五戒は、守ろうとしても守りきれるものではありません
 と述べています。たとえば最初の「不殺生戒」は、「いかなる生き物も殺してはいけない」という教えですから、私たちは、いかなる場合も、獣や、家畜、また足もとの地面の虫に至るまで、殺すべきではありません。実際、昔、仏教の厳格な派では、僧侶が道を歩くときは、付き人がその前を歩いて、地面の虫をどけるようにしました。
 それに対し、聖書の十戒中の「殺すなかれ」は、英語訳ではもっと明確で、“You shall not commit murder”となっています。「殺人」が禁止されているのです。
 人を殺すな! という命令であれば、なんとか守ることはできるでしょう。しかし、一切の生き物・・ハエや蚊、ゴキブリ、足もとの虫に至るまで殺してはならない、となれば、私たちにはあまり自信がありません。また、もし生き物を一切殺してはならないのであれば、私たちはお肉や魚を食べることができません。
「不妄語戒」も、守るのはなかなか大変です。嘘をつくな、というわけですが、私たちはときおり嘘をついてしまうことがあります。それが人間の弱さというものです。
 しかし聖書の十戒では、嘘をつくな、とは言われていません。裁判のときに偽証してはならない、と言われているだけです。それくらいなら守れるでしょう。
 このように仏教の五戒を完全に守りきるのは、至難のわざです。どうも仏教の五戒は、"守る"とか、"遵守する"ために与えられたものとは、少し違うようです。
 仏教学者によると、「戒」はサンスクリット語(仏典の原語)ではシーラと言い、"習慣性"という意味です。「五戒」は、そうした"習慣性"を身につけようという教えなのだ、と学者は説明しています。
 つまり仏教の五戒は、守るためにあるというより、修行のためにある、と考えたほうがよいでしょう。たとえば「不殺生戒」は、生きものを極力殺さないようにして、慈悲の心を修行しようとするものです。
「不妄語戒」や「不偸盗戒」は、利己的な心をもって嘘をついたり物を盗んだりせずに、むしろ欲望を捨てる修行をしなさい、というものでしょう。「不邪淫戒」や「不飲酒戒」は、淫行をしたり酔っぱらったりしないで、煩悩を捨てる修行をしなさい、というものでしょう。
 このように仏教の「戒」の精神は、修行です。仏教には、そのほか「律」と呼ばれる出家者への様々な規則がありますが、これらなども、やはり修行を目的としてつくられたものです。
 仏教の「戒」と「律」は、修行を目的とし、個人の完成を目指したものと言えるでしょう。その主眼点は、欲望や煩悩を捨て、はてしなく個人の人格の完成に向かって進もう、というものなのです。
 なお、出家者に課せられる「戒律」(律をともなった戒)は、比丘(男子修行者)の場合は二五〇戒、比丘尼(女子修行者)の場合は三四八戒あります。これらはいずれも修行生活に関する規則ですが、これらの戒律を破ると、厳しい場合は比丘や比丘尼の資格が剥奪され、教団から追放されます。
 戒律の数が比丘尼のほうが多いのは、女性はセックスなどにおいてどうしても受け身になるからです。自分から積極的に戒を破らなくても、たとえば強姦されたような場合もあります。その分、戒の規定が複雑になっています。


聖書の「律法」の精神は何か

 つぎに、聖書の「十戒」や、そのほか聖書に出てくる数多くの「律法」の精神を見てみましょう。
 聖書の律法は、個人の完成を目指すというよりは、むしろ神・隣人・自分の三者の関係を完成させることを、目指しています
 たとえば、「十戒」の前半は、神と自分との正しい関係のあり方を規定したものです。また「十戒」後半は、隣人と自分との正しい関係を規定したものです。
 聖書の律法は、神・隣人・自分の三者の間に"あってはならないこと"また"あるべきこと"を規定しようとするものなのです。
 そのため聖書の律法は、社会福祉や社会正義をきわめて重要視しています。律法には「十戒」以外にも様々のものがありますが、その幾つかを見てみましょう。たとえば、"貧民救済法"ともいえるような社会福祉的条項が、旧約聖書に数多く述べられています。
「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめてはならない」(レビ記一九・一三)
「ひきうす、またはその上石を質に取ってはならない。これは命をつなぐものを質に取ることだからである」(申命記二四・六)
「あなたが畑で穀物を刈り取る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦(未亡人)に取らせなければならない」(同二四・一九)
 これらは貧民救済法とも言えるものです。また、裁判の公正に関して次のような規定もあります。
「どんな不正であれ、どんな咎であれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない」(同一九・一五)
 一人の証言では、真犯人が他人をおとしいれるために偽証することも考えられるので、「二人または三人の証言」が必要だ、と述べているのです。
 ここに引用したものは、聖書の律法のほんの一例に過ぎませんが、聖書の律法がいかに実際的で、配慮に満ちたものであるかが、多少なりともおわかりいただけるでしょう。
 また聖書の律法は、ただ「……してはならぬ」式の禁止規定だけでなく、神・隣人・自分の三者の間の「愛」を説いているのが特長です。
「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記六・四〜五)
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九・一八)
「もしあなたがたの国に、あなたと一緒に在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。……在留異国人は……あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがた(イスラエル人)もかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である」(同一九・三三〜三四)
 このように聖書の律法には、単なる禁止規定だけでなく、積極的な愛の倫理が説かれています。聖書の律法は、最終的に、神・隣人・自分の三者間の愛の完成を目指すものなのです。


神・隣人・自分の三者間の愛の完成

 実際、主イエス・キリストは、先の、
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
 という聖句と、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」
 という聖句の中に、旧約聖書全体の教えが包含されていると、教えられました(マタイの福音書二二・三七〜四〇)。
 これら二つの教えこそ、旧約聖書の律法の根本精神であり、それらが様々の具体的な条項として記されたのが、個々の細かな律法であると考えてよいでしょう。
 さて、これら二つの教えは、私たちが愛すべき三つのものを教えています。
 第一に神です。第二に隣人です。そして第三に、自分です。なぜなら「あなた自身のように……」ですから、自分を愛さなければ隣人を愛することはできません。
 これを詳しく見てみましょう。
 はじめに、神への愛とは何でしょうか。それは、天地宇宙の創造者であり、生命の根源であるかたを慕い、その教えを守ることです。
 つぎに、隣人への愛とは何でしょうか。
「愛」には、いくつかの意味があります。親子の間の「愛情」、恋人の間の「恋愛」、金銭への「愛着」や、性的な願望である「愛欲」など……。しかし聖書でいう隣人への「愛」とは、原語(ギリシャ語)ではアガペーという言葉で、これは相手に対して善を行なう愛を意味します。
 親子の「愛情」や、恋人の「恋愛」などは、心情的なものです。金銭への「愛着」や、性的な「愛欲」などは、欲望的なものです。それに対しアガペーの愛はむしろ意志的なもので、善意の愛であり、何が相手にとって善であるかを考えて行動するのです。聖書には、
「あなたの敵を愛せよ」
 と書かれています。敵を愛するなんてできっこない・・そう言う人がいるでしょう。敵を好きになることは、たしかに誰にもできません。
 しかし「敵を愛せよ」の愛も、やはりアガペーの愛なのです。それは、相手が誰であろうと善を行なう愛です。例をあげるなら、
「あなたを憎んでいる者のロバが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、……彼といっしょに起こしてあげる」(出エジプト記二三・五)
 ようなことです。また、
「あなたの敵が飢えるなら、彼に食べさせ、かわくなら、彼に飲ませる」(ローマ人への手紙一二・二〇)
 ことです。敵への愛とは、悪に対して善をもって報いることです。また、悪に陥っている人が善に立ち返れるように、手を差し伸べ、「迫害する者のために祈る」(マタイの福音書五・四四)ことです。
 こうした愛は、清い心から来る十分に強い意志があれば、可能なはずです。
「隣人への愛」は、これと同じアガペーの愛だということを忘れてはなりません。それは、あなたの周囲にいる人が、あなたにとって好ましい人であるかないかは、問題にしないのです。
 あなたの好き嫌いは関係ありません。大切なのは、隣人にとって何が善であるかです。隣人に対して、誰であろうと善を行なうこと、それが隣人愛です。
 隣人を愛することは、すなわち神を愛することです。すべての人は、誰であれ、神に愛されています。そうであれば、私たちが隣人を、どんな人であれ愛するなら、それは神と心を一つにしていることではありませんか。
 最後に、自分を愛するとはどういうことか、見てみましょう。
 自分への愛は、おもに二種類あります。一つは、利己的な愛で、自分の利益をはかり、自分の名声、富、権力、命などに執着する愛です。
 もう一つは、自分は神に造られた者だという意識をもって、自分を大切にする自己愛です。イエス・キリストは、
 「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ九・二五)
 と言われました。私たちは本当の愛で、自分自身を大切にしなければならないのです。この愛を知っている者は、悪を避け、身を清く保ち、つねに向上を目指します。
 そうした人は、神が自分を愛しておられることを知っているので、自分も自分の魂を大切に取り扱うのです。
 聖書が教えるアガペーの自己愛は、後者の愛で自分を愛することです。それは、自分に対して善であることを行なうことです。自分の欲望を満たすことではなく、理性と良心を発揮させることです。
 このように、私たちが愛すべきものは、神・隣人・自分の三者です。そのとき、聖書に記された律法の精神が、すべて成就するでしょう。
 私たちがこの世に生まれ、生きている意味は、じつに、これら三者の間の愛を完成させることにあります。
 愛は、この世において、また来たるべき世において、永遠に存続するでしょう。愛こそ、私たちの人生において、最高に価値のあるものです。
 キリスト者はまず、神と自分との間の愛の関係を確立することを目指します。次に、隣人と自分との間の愛の関係を確立することを目指します。
 もちろん、これらの愛の関係は、現世においては不完全を余儀なくされるでしょう。神と自分との間の愛は確立しても、隣人と自分との間の愛は、しばしば一方通行になるかもしれません。
 しかし少なくとも、それに向かって努力するのです。というのは、これら三者の間の愛の関係には"天国の写し"があることを、キリスト者は知っているからです。
 私たちは、神・隣人・自分の三者間の愛を確立することによって、来世の天国の祝福を"先取り体験"しているからです。神の国の本質は愛です。
 この世には、様々な苦しみや悲しみがあります。しかしキリスト者は、現実の世界に力強く立ち向かい、少なくとも神と隣人と自分の間には、"小さな天国"を建設しようとします。
 それは、やがて来たるべき日に、その小天国が神によって完成され、永遠に至ることを知っているからです。

久保有政













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