比較宗教(仏教とキリスト教)

仏教の「欲望」
キリスト教の「罪」

仏教は「欲望を捨てる」ことを教え、キリスト教では「罪を捨てること」また「罪から救われる」ことを教えるが、その違いは何か


天台智(ちぎ)は、出家者に性欲を捨てさせるため、
女性を「糞尿の塊」と見るよう教えた

 仏教では「欲望を捨てる」ことを教え、キリスト教では「罪を捨てる」こと、あるいは「罪から救われる」ことを教えます。
 これは同じことのように見えますが、そこには大きな違いがあります。それを見てみましょう。


仏教の「欲望を捨てよ」

 前章で見たように、仏教が本来目指したものは、「輪廻」(りんね)からの「解脱」(げだつ 解放)でした。
 輪廻から解脱するためには、すべての欲望や執着心を断つことが必要だ、とシャカは教えました。
 自分を世界に結びつけ、また世界に生まれさせる原因をつくっているのは、欲望や執着心である。だからそれらを断てば、もはや輪廻の世界に生まれることはなくなる、というわけです。
 ですからシャカは「出家」を説き、すべての生産活動、経済活動、商売、家庭生活、性生活から離れることを、弟子たちに命じました。シャカは、金銭欲、名声欲など、すべての欲望から離れるように命じたのです。
 シャカはとくに、性の欲望を捨てることを、かなり口を酸っぱくして弟子たちに説きました。仏典を読むと、「決して性交するな」という言葉が、何度も出てきます。
 それもかなり露骨な表現で、性生活のもたらす害を説いています。シャカにとって結婚生活や性生活は、修行の敵だったのです。
 これは、シャカ以後もそうでした。
 たとえば中国の僧・天台智(ちぎ)は、出家者に性欲を捨てさせるために、女性をけがらわしいものと見るように教えました。「愛欲」の心が起きるのは、女性の美しいところばかり見るからで、女性を「糞尿の塊」とみれば愛欲の心は起きない、というのです。
 こうして仏教の修行者は、自分の欲望を断ち、すべての執着心を捨てて、「涅槃」(絶対的無)に入ることを目指したのです。


キリスト教では必ずしも「欲望を捨てよ」とは言わない

 つぎに、キリスト教の考えを見てみましょう。
 仏教が「欲望を捨てよ」と教えたのに対し、キリスト教では必ずしも、「欲望を捨てよ」とか「執着心を捨てよ」とは教えません
 たとえば、"性欲"について見てみましょう。
 初代教会において、新たに弟子に加わった人々に結婚を解消せよとか、出家せよとか、性生活を断てとか求めるようなことはありませんでした。初代教会には、独身の人も、結婚している人も、様々の人々がいました。たとえばキリストの使徒ペテロも、結婚しており、しばしば妻を同伴して伝道しました(コリント第一 九・五)。
 キリスト教では、結婚における男女の結合は神の合わせたもうもの、という認識がありますから、結婚生活の中での性は良いもの、という認識があります。
 性に限らず、キリスト教では必ずしも「欲望を捨てよ」とは言わないのです。キリスト教ではむしろ、
欲望を昇華(しょうか)せよ
 あるいは、欲望をもっと高い次元の欲求に変えよ、と教えます。
 たとえば、人が性の快楽にふけりたいと願う。しかし性の快楽にふければ、そこに永遠の満足が得られるでしょうか。尽きない生命の躍動があるでしょうか。
 いいえ、そうした快楽は一時的・刹那的なものにすぎません。やがては空しさを伴うでしょう。私たちは、最終的には、もっと高い次元の幸福を追求していくべきです。
 性の快楽は、ある意味では、永遠の神の世界にある歓喜の"代替物"にすぎません。性の快楽よりもっと高い次元の、"永遠の幸福"というものがあるのです。
 私たちは、この地上の喜びを通し、さらに優れた天上の歓喜・幸福を求めることを、学んでいるのです。
 キリスト教は、天地の創造者なる"神との愛と生命の交わり"にこそ、最高最大の歓喜と、永遠の生命の躍動があると教えます。私たちは恋愛等の心情を通して、じつは、永遠の神との愛と生命の交わりの"影"を、おぼろげに見ているのです。
"金銭欲"の場合も同様です。金銭に富み、好きなものを好きなだけ手に入れたいという願望を満足させれば、人は尽きない幸福を味わうことができるでしょうか。
 いや、そうした幸福は、やはり一時的・刹那(せつな)的なものにすぎません。私たちは、自分の快楽のためだけに富を得るのではなく、むしろもっと高い次元の目的のために富を用いていくべきです。
 自分のみならず社会全体が繁栄するために富を活用することは、きわめて価値あることです。キリスト教は、社会、ひいては世界のすべての人々の生活が向上するための富の創出と、その活用に関心があります。
 私たちは金銭欲をも、より高い次元の目的を実現するために活用すべきなのです。金銭欲をも転じて善意となすなら、それは価値ある目的を実現できるに違いありません。
 キリスト教は、必ずしも「金儲け」を悪とは見ません。悪いのは、金儲けを人生の目的とすることや、自分だけが富むことです。
 金儲けは手段であって、神と隣人愛のために活用すべきなのです。大切なのは、金銭に生きることではなく、金銭を生かすことです。
 人間の欲望も、それを昇華し、より高次の欲求となしてそのエネルギーを善用するなら、尊い目的を実現できるでしょう。キリスト教は生産活動、経済活動、商売、その他の社会活動を"悪"とは見ないのです。
 キリスト教は、"欲望を捨てる"ことではなく、"願いの生活の変革"を説くのです。


欲望よりも罪が問題

 キリスト教においては、欲望は「罪」に陥らない限りは、必ずしも否定されません。問題なのは、欲望よりも「罪」と呼ばれるものなのです。
「罪」とは、天地を造られた神、また最終的にすべてを裁かれる神の御前における離反です。それは神のみこころに反するすべての行為、言葉、思いを指します。キリストは言われました。
人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま(ねじけた考え)、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり(傲慢)、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコの福音書七・二〇〜二三)
 これらは、罪の代表的なものです。そのほか愛のないこと、神に聞き従わないこと、神を否定すること、利己的な生活などもそうです。
 また罪とは、自分が自分をどう思うかではありません。たとえば、自分は他人に比べて善人であると思っていたとしても、それは何の価値もありません。
 問題なのは、天地の主であられる神があなたをどう見られるかです。私たちは死後、審判者である神の御前で、さばきの座に立つことになるでしょう。
 そこには、あなた独りで立たなければなりません。そのとき、あなたが自分をどう思っているかは、問題ではないのです。
 あなたは、今までの自分の行為や言葉を、すべて覚えているでしょうか。たぶん覚えていないでしょう。
 しかしその座において、天のスクリーンに、あなたの人生が記録映画のようにすべて描き出されるのです。それは自分も思い出したくないような暗部や、汚点を、余すところなく描き出すでしょう。


最後の審判(阿部博一画)
すべての人は死後、その神の法廷に立つことになる

 私たちは聖なるかたの御前で、それに耐えられるでしょうか。
 その時あなたは、死後の"裸の魂の状態"で神の御前に立つので、峻厳なさばきに対してきわめて敏感になっているでしょう。あなたは聖なる神の光に照らされて、自分の人生がいかに罪深いものだったかを、見るでしょう。
 それを見て、神の御前であなたは、
「とても耐えられない!」
 と思うでしょう。「罪」とは、そのようなものなのです。
 人間は、とかく自分の行為を正当化したがるものです。また、他人が自分に行なった悪いことはよく覚えているのに、自分が他人になした悪いことは、とかく忘れてしまいがちです。
 しかし私たちはいずれ、死後に、すべてを知っておられる全能の神の御前に立たなければならないのです。

久保有政













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