比較宗教(仏教とキリスト教)

仏教の「修行」
キリスト教の「贖い」

仏教でいう「修行」と、キリスト教でいう
罪からの「贖い」
(あがない)の違い


修行で人間は救われるのか

 仏教では「修行して、欲望などの煩悩(ぼんのう)を断ち切り、仏になる」と言い、キリスト教では「キリストの贖い(あがない)によって罪と滅びより救われ、神の子とされる」と言います。
 ある人々は、これについて、
「どちらも人間の究極の幸福を目指しているのだし、表現が違うだけだ」
 と言います。はたしてそうでしょうか。
 これら二つの考え方には、大きな違いがあります。仏教とキリスト教の、本質的な違いについて考えてみましょう。


仏教では長大な期間の修行を積まなければならない

 仏教は、「人が仏になる」ための教えです。
「仏」とは、"真理を悟った者"であり、また"輪廻の生まれ変わりから脱した者"を言います。
 映画などで、刑事がよく死んだ人のことを"ホトケ"と言っていますが、これは「仏」の元来の意味ではありません。
 仏教では、「仏になる」方法として、おもに「自力仏教」と「他力仏教」の二種があります。
 自力仏教の代表は「」、他力仏教の代表は「念仏」と思えばよいでしょう。
 自力仏教では、自ら修行して煩悩(執着心や欲望)を断ち、悟りを開いて仏になろうとします。本来の仏教は、このような仏教です。
 自力仏教では、この世界のあらゆる事物は移り変わるもので、実体を持たない「空」だから、それを悟って、すべてのものに対する執着心や欲望を断ち切れ、と教えます。そうすれば「涅槃」の境地に入り、仏になれるのだと。
 もちろん、悟りを開いたり、執着心・欲望を断つためには、大変な修行がいります。そこで修行者は一般に「出家」をしなければなりません
 「出家」は文字通り、家庭生活を捨てることです。出家者は、妻子・親・兄弟との生活を放棄し、一切の性生活を断ち、生産活動や金銭を扱う生活から離れなければなりません。
 では、そうやって一生懸命に修行をして、どのくらい修行を積めば、悟りを開けるのでしょうか。一朝一夕では無理でしょう。仏典には、人が「仏になろう」と決心してから成仏するまでの期間は、じつに、
三阿僧祇百大劫(さんあそうぎひゃくだいこう)
 だと記されています。「三阿僧祇」とは、仏教学者によると、3×10の59乗という数字だそうです。「百大劫」は八〇〇〇劫と同じで、一劫=四三億二〇〇〇万年ですから、これはなんと約一兆年の10の61乗倍を意味します。


自力仏教では、約1兆年の10の61乗倍
の間、修行が必要である

 またはもっと控えめに、
「三劫」(一二九億六〇〇〇万年)
 だという仏典もあります。数字の上ではずいぶん違いますが、長大な期間という点では同様です。
 いずれにしても大変な期間です。仏典にはそんなに長い間、一心に修行を積まなければ決して仏になれない、と記されているのです。
 けれども、
「シャカは二九歳の時、王宮を出て求道生活に入り、六年後には悟りを開いて、仏になったではないか。いったいいつ、彼がそんなに長い修行を積んだというのか」
 という疑問を持つ人もいるでしょう。しかし、仏教は輪廻説に立っている、ということを思い起こしてください。
 シャカは何度も何度も過去において生まれ変わりながら、「前世」(前生)で長いあいだ一心に修行を積んできたと、仏教では考えているのです。そしてついに悟りを開いて、仏になったのだと。
 ですからもし仏教の考え方で行けば、あなたが先ほど述べた長大な期間の修行を、すでに「前世」で終えているとすれば、あなたは現世を最後に仏になれるでしょう・・もっとも「前世」というようなものが、本当にあったとしての話ですが。
 しかし、もし「仏になろう」と決心したのがつい最近のことであれば、あなたはまだ当分の間、仏にはなれないことになります。


密教では「即身成仏」をいうが……

 ここで自力仏教に関連して、仏教のもう一つのかたち・・「密教」について見ておきましょう。
 密教は、七世紀頃インドに生まれた宗派で、日本には空海(九世紀)が伝えました。密教は、自力的要素の強い教えですが、他力的要素も多少含んでいます。
 本来の仏教的な考え方でいくと、人が仏になるためには、途方もない期間の修行が必要です。そのため後世になると、
「もっと早く仏になれないものか」
 という願いが、人々の間に起こってきました。
 そこで生まれたのが、「即身成仏」(この身のままで成仏する)を説く密教です。これは、"至高の仏(大日如来)と合一する"ことによって成仏しよう、という教えです。
 密教では、宇宙の中心に「大日如来」と呼ばれる"絶対仏"がいる、と考えています。この仏は"真理そのもの"であるような仏で、雄弁に人々に仏法を説いている、とされています。
 しかしその説法は、いわば"宇宙語"でなされています。私たちが聴いてもわかりません。ですから大日如来の教えは、「秘密仏教」・・「密教」と呼ばれるのです。
 大日如来の説法を私たちが理解するには、まずその"宇宙語"を勉強し、心を研ぎ澄まして聴く必要があります。そうすれば、私たちは大日如来の説法を理解できる、というわけです。


密教の観念を表現した曼陀羅

 このように"絶対仏"である「大日如来」は、真理そのものを身とする宇宙の実在者とされており、"絶対神"であるキリスト教の神に幾つかの点で似かよっています。
 はじめ無神論的であった仏教は、密教においては完全に"有神論"になっているのです。
 さて密教では、修行者が、大日如来に合一することによって、成仏することを目指します。自分の身・口・意を通じて、大日如来に合一しようとするのです。
 修行者は、大日如来と同じ指の組み合わせで示される印を"手"に結び、大日如来と同じ真言を"口"に唱え、"心"を大日如来と同じ悟りの境地に置きます(身・口・意の三密)。
 こうした人間側の懸命な努力が、大日如来の慈愛に満ちた反応を呼び起こす、と期待されているのです。この修行によって修行者の身・口・意は、大日如来の身・口・意と合体・融合して、仏と合一し、成仏するとされます
 こうして人は「この身このままで」成仏できる、と密教は説きます。何億年とか何兆年もの歳月をかけずとも、現世において、父母から受けた肉体のままで、すぐにでも成仏できる、とするのです。
 これが、「即身成仏」の思想です。
 密教では、即身成仏を説くために、有神論的な教理を持つようになりました。言い換えれば、有神論にならなければ、"この身このままで救われる"という教えは、生まれてこないのです。
 また"人が大日如来と合一する"という考えは、哲学史を学んだことのある人ならすぐ気づくように、「神秘主義」の考えと同じです。
 キリスト教の歴史の中でも、かつて神秘主義が流行したことがありました。人が神と合一するという考えです。
 もっとも神秘主義は、キリスト教では異端として退けられました。人は神に近づくことはできるけれども、神と人との間には、やはりどこまでも区別がある、とするのが聖書的キリスト教の立場だからです。
 神は人を抱擁し、愛してくださいますが、神と人が融合・合体することは、決してありません。神は人に近づいてくださいますが、人が神性を持つことはないのです。
 キリスト教の歴史において、神秘主義は、やがて衰退していきました。言葉では"神と合一する"と言っても、そのようなことは、実際には到底あり得ないからです。
 宗教的な感情の高まりによって、自分がそのような体験をしたと思い込む時があっても、ふと目覚めてみれば、再び罪深い人間である自分の現実に舞い戻ってしまうのです。
 仏教の神秘主義である「密教」も、同様な理由で衰退していきました。"大日如来と合一する"という理想を掲げながらも、実際にそのような体験をすることは、多くの人々にとってきわめて困難だったからです。
 ふと気づいてみれば、また煩悩の盛んな自分の現実に舞い戻ってしまうのです。「本当に自分は即身成仏したのか」の疑問に、明確にイエス(Yes)! と答えられる証拠を得ることはできませんでした。
 現在の密教界では、大日如来との合一の教えはあまり強調して説かれず、むしろ現世利益の教えのほうが表立っているようです。


他力仏教にも本当は「修行」が必要

 つぎに他力仏教を見てみましょう。
 他力仏教の代表である「念仏」が、日本に広まった背景には、自力仏教に対する深い失望感があります。
 一般庶民にとって、自分の家庭生活や社会生活を捨ててまで、自力仏教の厳しい修行に出ることは、現実には不可能でした。また、煩悩や欲望を完全に心の中から断ち切るなど、普通の人間には到底できないことです。
 しかも当時自力仏教の多くの僧侶は、ひどく堕落していて、富や快楽を欲しいままにしていたのです。
 そこで、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで誰でも成仏できる、とする念仏が人々の間に広まりました。阿弥陀仏の他力によって、極楽浄土に生まれ、そこで成仏するという教えです。
 では、念仏をすれば、修行が全くいらないのでしょうか。信心さえあれば、修行を全然しなくてもよいのでしょうか。
 いいえ、そうではありません。念仏の考え方は次のようなものです。

 (1) まず私たちが、「南無阿弥陀仏」(私は阿弥陀仏に帰依します)の念仏を唱える。
 (2) すると阿弥陀仏(宇宙のはるか西方にいる仏)が、私たちを死後に極楽浄土(阿 弥陀仏の住む仏国土)に生まれさせてくださる。
 (3) 次に極楽で、阿弥陀仏の指導のもとに修行する。
 (4) そうすれば、きっと悟りを開いて仏になれる。

 つまり他力仏教の考え方は、自力で仏になるのはあまりにも大変であるし現世での修行は誘惑が多いから、修行を先に延ばしてまず極楽浄土に行き、そこで修行して仏になろう、というものです。


他力仏教とは、極楽浄土に行ってから阿弥陀仏
の指導のもとで仏になろうというもの

極楽に行くことは手段であって、目的は、そこで修行して仏になることです。極楽は環境が良いでしょうから、そこで心おきなく修行ができて、あとは必ず仏になれる・・それは間違いないでしょう。
 現世ではただ阿弥陀仏にすがって、念仏を唱えれば、やがては必ず仏になれる……。
 そこで浄土真宗を開いた親鸞(一三世紀)になると、(1)と(2)だけを説いて、あとは言いません。極楽に生まれさえすれば、仏になれるのは間違いないわけですから。
 日本人の中には、(1)と(4)をいきなり結びつけて、
「念仏を唱えれば仏になれる」
 と理解している人も多いことでしょう。しかし、本当は他力仏教の中にも「修行」という考えがあることを、忘れることはできません。


キリスト教の考え方

 つぎに、キリスト教の考え方を見てみましょう。「修行」を説く仏教に対し、キリスト教では、人間は修行や自分の努力だけでは決して救われない、と説きます。
 聖書によれば、罪の性質は人間の本性にまで及んでいます。それは外面についている"埃"(ほこり)のようなものではありません。神社でやっている「お祓い」のように、"祓って取れる"ものではありません。
 また、修行によって取り去られるものではありません。たとえ、あなたが自分の心と体を何千回、何万回とゴシゴシ洗っても、決して本性に巣くった罪の性質まで洗い落とすことは、できません。
 あるいはこうも言えます。修行によって救われようとすることは、ちょうど底なし沼にはまった人が、自分の力でもがいて、そこから抜け出そうとするようなものです。
 彼は、自分の力で沼の中から飛び上がろうとすれば、抜け出ることができるでしょうか。いいえ、かえって沼の中に、はまり込んでいくでしょう。彼は、だれか沼の外にいる人に助けてもらうしかありません。
 また修行を積み、善行を積むことによって救われようとすることは、ある人が上から垂らされた"鎖"を、自分の力でよじ登っていくことにも似ています
 その鎖の"一つ一つの輪"は「神の律法」(神の教え)、あるいは善行です。彼は、善行を積み上げ、神の律法を一つ一つ守っていくことによって、その律法の鎖をよじ登っていくのです。
 彼は運よく、頂上に達することができるでしょうか。鎖があまり長くないなら、達する人もいるかもしれません。しかし鎖が長かったら、どうでしょうか。彼の体力はもつでしょうか。
 あるいは、鎖の輪がもし一つでも切れたら・・律法の一つでも破る行為を彼が犯したなら、彼はたちまち奈落の底に転落してしまうでしょう。聖書は言っています。
すべての人は罪を犯した」(ローマ人への手紙三・二三)
義人はいない。ひとりもいない」(ローマ人への手紙三・一〇)
 自分の力で律法の一つ一つを完全に全うし、長い律法の"鎖"を登りきることのできる人は、ひとりもいません。
 私たちは、自分の力で鎖を登ろうとするのではなく、天から差し出された力強い腕に、つかまればよいのです。
 この天からの腕こそ、神と人との間の仲介者であり私たちの救い主である、イエス・キリストの差し出された腕です。私たちがその腕につかまりさえすれば、キリストは私たちを難なく、天にまで引き上げてくださるのです。
 そこで、私たちに救いをもたらす"キリストによる贖い"について、次に見てみましょう。


キリストによる贖い

 キリストは、永遠において神より生まれ出た神の御子であって、父なる神と一体になっておられるおかたです。
 そのかたが、今から二千年前に、肉体の姿をとって、ユダヤのベツレヘムに降誕されました。それはキリストが、神と人との間の"橋渡し"をなさるためでした。
 キリストのご降誕は、あらかじめ旧約聖書に預言されていました。紀元前八世紀に記された旧約聖書のミカ書には、こう書かれています。
 「ベツレヘム・エフラテ(ベツレヘムの古名)よ。……あなたのうちから、わたし(神)のために、イスラエル(イスラエル民族、および「第二イスラエル」であるキリスト教会をさす)の支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。……彼は立って、主(神)の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ」(ミカ書五・二〜四)。
 また、十字架にかかって槍で突かれることも、預言されていました。
「彼ら(ユダヤ人)は、自分たちが突き刺した者、わたし(キリスト)を仰ぎ見……」(ゼカリヤ書一二・一〇、紀元前六世紀の預言)
 さらに、十字架の意味も予言されていました。
 「彼(キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(罪)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。……主(父なる神)は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ書五三・五〜六、紀元前八世紀の預言)


十字架の前夜、血の汗をかきながら父なる神に祈る主イエス。
十字架の死は私たちを罪と滅びから贖い、救うためだった

 イエス・キリストは、罪のない清いかたでしたが、私たちの代わりとなって罪をその身に負い、身代わりに十字架上で死んで、裁きを受けてくださったのです。神は、積もり積もった私たちの罪咎を、すべてキリストに負わせ、キリストはそれを、私たちのために背負ってくださいました。
 これをキリスト教では、「贖い」と呼んでいます。贖いとは"代価を払って買い戻す"という意味で、キリストの命が、私たちを神のもとに回復させるための代価となったのです。


信仰による救い

 もう一つ、キリスト教では"信仰による救い"を説きます。
 私たちが、キリストを自分の救い主として信じ、彼に従っていくなら、神は私たちの罪を赦し、義と認め「永遠の生命」と「神の子としての特権」を与えてくださるのです。聖書は、キリストの贖いという
 「恵みのゆえに」、
 それを受け入れる「信仰によって
 救われたのだ、と述べています(エペソ人への手紙二・八)。キリストの贖いという恵みが救いの源泉で、信仰はその救いを受け取るパイプなのです。さらに、こう述べています。
「(救いは)行ないによるのではありません。……私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって(新しく)造られたのです」(エペソ人への手紙二・九〜一〇)
 私たちは、善行によって救われるのではありません。善行によるなら、救われる者はひとりもいません。
 善行は、救いの"条件"ではなく、むしろ"結果"なのです。救われるために善い人間になろう、と修行するのではありません。救われたから、善い人間になろうと努力できるのです。
 また救われたから、善い行ないができるようになるのです。善行や品性は、あとからついてくるものです。
 人は、善行・修行・努力によって救われるのではなく、キリストの尊い血潮によってあらわされた贖いを受け入れる「信仰」によって救われるのです。
 信仰とは、神の贖いの恵みを素直に受け入れ、それに信頼する心です。また神の教えに従って、ついていく姿勢です。神の側の「恵み」と、私たちの側の「信仰」とが相即応して、私たちは救われるのです。
 私たちは「いつ」救われるのでしょうか。何億年、何兆年というような途方もない年月を輪廻転生して、やっと救われるのでしょうか。
 いいえ、あなたは信仰によって今、救われるのです。あなたは、永遠に救われるために、今救われなければなりません。
今は恵みの時、今は救いの日です」(コリント人への手紙第二、六・二)
 祈りの姿勢をとり、目を閉じて心を神に向け、自分の罪を悔い改めて、
「今、イエスさまをわたし自身の救い主として信じます」
 と祈るなら、あなたはその場で即、救われます
 ありのままでよいのです。罪に汚れたままでよいのです。聖書を読んだことがなくてかまいません。自分を飾ってはなりません。むしろ神の前に心を裸にして、清めていただくことです。
 その日が、あなたの第二の誕生日です。キリストはこう約束されています。
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方(神)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネの福音書五・二四)
 信じたその日に、すでに「死からいのち(永遠の生命)に移っている」のです。あなたはこの身、このままで神の子とされます。
 あなたは「自力仏教」のように、はるか未来において救われるのではありません。救われるために、「密教」のような神秘主義に陥る必要もありません。
 他力仏教のように、現世を厭い捨てて、極楽での修行を望む必要もありません。
あなたは、救い主キリストを心に信じるなら、きょう救われるのです。
 あなたは「永遠のいのち」に生まれ、「神の子」(ヨハネの福音書一・一二)とされます。そして来たるべき「新しい世」(神の国)を継ぐ資格が、与えられます。
 あなたはこの世では、ただ神と隣人を愛し、聖書の教えを守って生きていけばよいのです。その人生には、豊かな報いが用意されています。
 神はあなたを、この世で、また来たるべき世で、豊かに祝福されるでしょう。人生は、神とともにある幸福を享受するためにあるのです。
 しかし、あなたはまだ信じたばかりですから、おそらく何もわからないでしょう。今のあなたには、何ら聖書の知識がないかもしれません。
 けれども、赤ん坊がしだいに成長していくように、あなたもクリスチャンの先輩たちの指導を受け、神に助けられて成長していけばよいのです。
 あなたは、生まれたばかりの神の子(赤ん坊)なのです。あなたが成長することを、神は楽しみにしておられます。
 その成長は、あなただけの力によってできるものではありません。あなたの内におられるキリストが、助けてくださるのです。

久保有政













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