比較宗教(仏教とキリスト教)

仏教の「女性」
キリスト教の「女性」

仏教では「女性は女性のままでは仏になれない」。
キリスト教では?


キリストの話に耳を傾けるマリヤとマルタ

 仏教とキリスト教の大きな違いの一つは、女性に対する考え方でしょう。
 仏典に、「女性は女性のままでは仏になれない」と書いてあるのを、あなたは知っていますか。女性は救われない、というのではありません。女性は女性のままでは成仏できない、女性のままでは救われない、というのです。


女性は女性のままでは仏になれない

「仏教の女性観は、いささかひどい女性蔑視だと思います」
 こう語るのは、仏教解説家として知られる、ひろさちや氏です。氏自身は仏教徒ですが、続けてこう言っています。
「というのは、仏教においては、まず女性は、女性のままでは仏や菩薩(仏の候補生)になれない、とされているのです。仏や菩薩になるためには、女性は一度男子に生まれ変わらなければなりません。それを、
変成男子(へんじょうなんし)
 と言います。……これは、どうにも言い逃れのしようのない女性差別です」
 この「変成男子」とは、どういうことでしょうか。
 仏教には、もともと女性は修行をしても仏になれない、という考えがありました。仏典にはこう書かれています。
「悟りに達しようと堅く決心して、ひるむことなく、たとえ測り知れないほどの理知を持っているとしても、女性は、完全な悟りの境地は得がたい。女性が、勤め励む心をくじくことなく、幾百劫(一劫は四三億二〇〇〇万年)・幾千劫の間、福徳のある修行を続け、六波羅蜜(修行の六ヶ条)を実現したとしても、今日までだれも仏になってはいない」(法華経・堤婆達多品)
 さらに、
「なぜかというと、女性には"五つの障り"があるからだ」
 と述べ、女性がなれないものを五つ列挙しています。それらは、
 1 梵天王になることはできない
 2 帝釈天になることはできない
 3 魔王になることはできない
 4 転輪聖王になることはできない
 5 仏になることはできない
 です。1〜4の「梵天王」「帝釈天」「魔王」「転輪聖王」は、いずれもインドの神々を仏教に取り入れたものですから、現実には問題ないでしょう。しかし最後の「女性は仏になることができない」は、女性信者にとって大問題であるはずです。
 この「女性は仏になれない」という考えは、仏教の創始期からありました。実際仏典には、あちこちに女性を劣等視した言葉が見受けられます。なかには露骨な表現で、
「女は、大小便の満ちあふれた汚い容器である」
 というような、耳を覆いたくなるような表現さえ少なくありません(スッタ・ニバータ)。「汚い容器」であるのは男も同じなのですが、どういうわけか仏典には、男については決してそのような表現がないのです。
 女性が劣った者であり、仏になる能力のない者であるという考えは、仏教の創始者シャカ自身が持っていたようです。実際、シャカは従者アーナンダに対して、
「女は愚かなのだ……」(増支部)
 と語っています。仏教は、インド古来の階級制度である「カースト制」は否定しましたが、女性差別の考えは捨てきれなかったようです。


女は男にならなければ仏になれない

 そこで困ったのが、後世の大乗仏教徒たちでした。
 大乗仏教は、出家の人間だけでなく、在家の人間も成仏できることを目指していました。
 また男性だけでなく、万人が成仏できることを目指していました。ですから、「女性は仏になれない」という教えは、彼らにとって大きな問題となったのです。
 そこで考え出されたのが、「女が男になる」(変成男子)という考えです。
 女が仏になれないのであれば、一度男に生まれ変わればよい、というわけです。そのため例えば、仏になることを一心に願って修行していたある女性の生殖器が、シャカや人々の見ている前で突然消え、たちまち男性の生殖器が生じた、などというような話も創作されました。
 こうして後世の仏教は、女性も修行を積んでよい、女性も修行を積めば仏になれる、と一応説くようになりました。また「勝鬘経」(しょうまんぎょう)のように、女性信者が仏法を雄弁に語る、という内容の仏典も創作されました。しかし勝鬘夫人の場合でも、仏になれるのは、
「何度も何度も生まれ変わって後」
 と言われています。つまり、輪廻転生して将来"男"に生まれ変わってから成仏することが、想定されているのです。


勝鬘経(しょうまんぎょう)の勝鬘夫人の場合も、彼女が仏にな
れるのは何度も生まれ変わり、男になってからである。

 後世の仏教徒の中には、経典の言葉を無視して、「女性は女性のままで仏になれる」と説く者も現れましたが、仏典を見る限りでは、女性のままでは仏になれません。創価大学の岩本裕・客員教授(仏教徒)は、こう述べています。
「女性も仏になれるという女人成仏の思想は……一度男になった上でなければ成仏できないとされた。これが明らかに、女性を男性より劣等視したものであることは、いかなる抗弁もゆるされないであろう」
 また、こう述べています。
「僧侶のセックスを解放し、『弥陀の本願(念仏を唱える者を救うという阿弥陀仏の誓い)には、老少善悪の人を選ばず』と唱えた親鸞にしても……女人のままでの成仏に踏みきれなかったのは、仏教の立場から見て、女性はやはり救いがたい存在であったからであろうか。いずれにせよ、仏教がフェミニストでないことは事実である」
「親鸞」といえば、僧侶として初めて公然と妻を持ち、仏教界としては革命的な生き方をした人です。彼は、阿弥陀仏の救いには人の老若・善悪の別を選ばない、と説きました。
 しかし老若・善悪、そして男女の別を選ばない、とは説き得なかったのです。彼は、阿弥陀仏は女性を「変成男子」によって救う、と説きました。
 仏教の教理によると、「仏」はみな男性なのです。阿弥陀仏も、薬師仏も、大ビルシャナ仏も、その他ガンジス川の砂の数より多いと言われる無数の仏は、みな男性です。「仏」は男性名詞なのです。
 また男性なのは、「仏」だけではありません。「菩薩」もそうです。菩薩は、まだ仏にはなっていないが、仏の一歩手前にある人です。仏の候補生です。
 たとえば「観音菩薩」を見てみましょう。観音像は女性的な姿に造られているので、女性だと思う人もいるでしょうが、じつは男性です。仏教の教理では、菩薩はすべて男性なのです。
 また、仏典には、
仏国土に婦女子(女性)はいない」(法華経・五百弟子受記品)
 と書かれています。仏の国である「浄土」に、女性はいないのです。
 仏教は、「人が仏になるための教え」ですから、仏になるためには、女性はまず男に生まれ変わらなければなりません。
 女性は、うまく来世で男に生まれ変わって、男としてもう一度修行すれば、あるいは救われるかもしれない、というわけです。もっともこれは、「輪廻転生」によって来世で別の者に生まれ変わる、というようなことが本当にあればの話ですが。
 仏教の女性信者は、この世で善行を積んで、来世で男に生まれ変わって修行できるようになることを、渇望しました。女性は早く男性になることを夢見たのです。
 仏教は、女性が女性に生まれたことに何かの意味や価値があるとは、見ていないようです。仏典を読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値についての言葉を、私たちは何も見いだすことができません。


女性が女性に生まれた意味

 つぎにキリスト教を見てみましょう。
 聖書によれば、神が人間を男と女に造られたことには、深遠な意味があります。
 聖書は、「神は愛である」と言っています。これは、永遠から永遠まで神が愛のおかたである、ということです。神は、万物が存在する以前から「愛」であられました。
 しかし愛には、対象が必要です。もし人間も世界も、いかなるものも存在しない時から神は愛であったとするなら、神は何を愛の対象としておられたのでしょうか。
 神はご自身のうちに、愛の対象を持っておられたのです。クリスチャンは聖書によって、「父なる神」と「御子イエス・キリスト」とは一体のおかたで、おひとりの神となっておられることを、知っています。
 つまり、おひとりの神の内に、父なる神と御子キリストとの"愛の交わり"があるのです(さらに聖霊との交わりを加えて、これら三者が一体であることを、神の「三位一体」と言います)。
 この"愛の交わり"は、世界に何も存在しない時から、神の内にありました。そこで神は、人間を「神のかたちに造られた」とき、人間の世界にも"愛の交わり"をお与えになりました。すなわち人を男女に造り、そこに交わりをお与えになったのです。
 ですからキリスト教では、「性」は神の創造によるものとして、本来良いものと見られています。それは、不健全なものに走らない限り、肯定されています。
 また聖書によれば、男と女は神の御前に、人間として平等です。
「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女(エバ)が男(アダム)から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への手紙第一、一一・一一〜一二)
 男と女は、お互いに依存し合って存在しており、人間として平等です。そして両者は神から出たのです。
 しかし、かといって聖書は、男女が同じ役割をすべきだとは見ていません。男女は、それぞれ別の働きのために造られました。聖書は、
男は神の似姿であり、神の栄光の現われ」(コリント人への手紙一、一一・七)
 と述べ、女については、
女は男の栄光の現われ」(同)
 また、
助け手」(創世記二・二〇)
 と述べています。「男」は、人間の主体として神の栄光を現わすために造られました。そして「女」は、男から造られた者として男を助け、男と共に人間の創造目的を完成するために、造られたのです。
 ですから、男と女には、それぞれの役割が与えられています。そして神・男・女が"三位一体"となって家庭を形成していくとき、家庭が完成すると教えています。
 女性は、その特有の愛情、やさしさ、感性、その他の資質を生かすべきです。キリスト教は、女性が女性に生まれたことには、大きな意義がある、と主張します。


女性は女性のままで救われる

 そして、女性は女性のままで救われます。聖書は言っています。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ人への手紙三・二六〜二八)
 救いに至るには、国籍、身分、老若、善悪、また男女の差別はありません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」(コリント人への手紙第二、五・一七)です。男も女も、信仰によって同じ救いに入ることができます。
 人は、神の御前に、男も女も同様に罪人です。また誰であれ、人は自分の善行によっては救いに到達できません。同じイエス・キリストの救いが必要です。そして信仰を告白すれば、同じ罪の赦し、同じ永遠の生命、同じ神の子の身分、同じ幸福が与えられます
 だからこそイエス・キリストは、はじめから、男にも女にも同じように伝道されました。
 サマリヤ地方を通られたときには、井戸に水をくみに来た一人の女に伝道し、彼女を信仰に導かれました(ヨハネの福音書四章)。この女は、五回も結婚・離婚を繰り返し、そのときは六人目の男性と同棲していたのです。
 彼女はある意味では、なかなか本当の幸福をつかめない、かわいそうな女でした。しかしキリストは、この女に目をとめられ、彼女にやさしく、真の幸福とは何であるかについて諭されました。
 彼女が信仰を持ったとき、キリストはそれをとても喜ばれました。その後、弟子たちが町で食物を買ってきたので、その食物をキリストに差し出すと、キリストはすぐに食べようとはされません。
 弟子たちが不思議に思っていると、キリストは、
「わたしを遣わした方(神)のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネの福音書四・三四)
 と言われました。キリストは言わば、
"わたしは今、神のみこころを行ない、それによってひとりの人が救われたので、胸がいっぱいで、心が満腹なのです"
 と言われたのです。キリストは一人一人の女性を、つねに大切にされました。女性も信仰を持てば、女性のままで即、救われるのです。
 また、姦淫の現行犯で捕らえられた一人の女が、キリストのもとに連れて来られたときも、キリストは彼女の救いに心を配られました(ヨハネの福音書八章)。
 不倫の現場をおさえられたこの女は、人々の非難と断罪の言葉の中で、うちしおれ、泣きすさんでいました。当時、姦淫を犯した者は、ユダヤの律法により、石打ちによる死刑と決まっていました。
 しかしキリストは、彼女を責めたてる者たちに対して、こう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。


キリストと、姦淫の女 レンブラント画

 それを聞くと周囲にいた人々は、男と女も、心を刺され、年長者から一人一人出て行き、ついにキリストとその女以外はみな出て行ってしまいました。
 男と女も、人間はみな、罪深さの点で同じなのです。男が清くて、女が罪深いということはありません。ある場合には男の方が、女よりはるかに罪深くあります。
 キリストは、人々が出て行ったことを見ると、彼女に言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
 こうして、彼女を解放されました。男が救われるのであれば、ましてや女は救われるのです。
 いかなる女性も、神の救いに入り得ない人はいません。男性も同じです。私たちはだれであれ、罪深いからこそ、救われるのです。
「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ人への手紙五・二〇)
 と聖書に書いてあります。救いに値しない人は、一人もいません。どんなに罪の中に深く沈んでいても、そこに届かないほど神の御手は短くありません。
 だれでも、男も女も、悔い改めて主イエス・キリストの御名を呼ぶなら、例外なく、みな救われます。「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」(ローマ人への手紙一〇・一三)。
 神の救いの家には、すべての人が招かれているのです。

久保有政

キリスト教読み物サイトの「比較宗教」へ戻る

感想、学んだこと、主の恵みを掲示板で分かち合う

レムナント出版トップページへ 関連書籍を購入する