比較宗教(仏教とキリスト教)

創価学会の「幸福論」
キリスト教の「幸福論」

両者を比較しつつ、真の幸福について考えてみましょう。


真の幸福を得るため「新しく生まれること」を説くキリスト

 創価学会は、仏教系の新興宗教として、日本に信者を多く持っています。
 そこで、創価学会の説いている幸福論と、キリスト教の幸福論とを比較しつつ、「真の幸福とは何か」について考えてみましょう。


創価学会では宇宙を一個の大生命体と見る

 創価学会の幸福論の中核は、生命論・・とくに「永遠の生命」に関する教えと、「法華経信仰」にあります。
 創価学会では、「生命」について次のように考えています。創価学会第二代会長・戸田城聖は、その著『折伏経典』の中でこう書きました。
宇宙自体がすでに生命そのものであり……」
「われらが死ねば、肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である」
 創価学会では、宇宙は一個の偉大な「生命体」である、と見ているのです。そして私たち個々の生命は、宇宙の大生命の一部なのだと。


創価学会第二代会長・戸田城聖。彼は「宇宙自体
がすでに生命そのものであり……」と説いた

 この考えは実質的に、いわゆる「汎神論(はんしんろん)の考えと同様です。汎神論とは、
"宇宙イコール神である"
 とする思想で、宇宙を一個の偉大な生命体と見るのです。もちろん創価学会では「神」という言葉は用いませんが、宇宙を「一個の偉大な生命体」と見ている点で、実質的に汎神論と変わるところはありません。
 汎神論は、かつて近世のヨーロッパなどにおいて、一時流行しました。この考えによると、宇宙は神の被造物(ひぞうぶつ=造られたもの)ではなく、
"宇宙が神であり、神が宇宙"
 なのです。こうした汎神論的な考えは、もともと原始仏教にはありませんでした。しかし"混合宗教"である仏教は、時代とともに他の宗教や哲学の思想を取り入れて、変化してきたのです。
 創価学会の汎神論的な考えも、その一つです。創価学会では、この考えに基づいて、人間の死後の生命について次のように教えています。
 まず、私たち人間は死ぬと、生命は「宇宙の大生命の中へ溶け込んでいく」。そして溶け込んでしばらくすると、縁にふれてまた世の中に生まれてくる……。
 人は生まれては死に、死んではまた生まれる。ちょうど人が、"寝たり起きたり"を繰り返すのと同じく、人は死んでは宇宙の大生命へ溶け込み、溶け込んではそこからまた生まれてくると考えるのです。
 創価学会では、「死」は、新たな生命に生まれるための「方便」、と見なされます。ちょうど"眠り"が、疲労回復のための方便(手立て)であるように、死は、新たに生まれ変わって若さを取り戻すための「方便」というわけです。
 こうして人は、宇宙の大生命にあって限りなく生まれ変わり(輪廻)を繰り返している、とします。この"生の繰り返し"が、創価学会で言う「永遠の生命」です。
 創価学会において「永遠の生命」とは、輪廻のことであり、単なる生の繰り返しのことなのです。


宇宙の大生命へ溶け込んではまた生まれてくる
際の"幸福な輪廻生活"を、創価学会は目指した


創価学会の説く"幸福な輪廻生活"

 ではどうしたら、人は、幸福な生涯を送ることができるのでしょうか。
 もし生まれ変わってくるたびに、愚かな動物や、貧乏人、病気、不具者などに生まれてくるとすれば、きっと誰でも、やるせなくなるでしょう。戸田城聖会長は、述べています。
「永遠に生きるのに、生まれてくるたびに草や木や犬や猫や、または、人となって貧乏・病気・孤独・バカ等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍び得ないことである」
 そこで、自分の永遠の生命を充実させ、力強い生命力に満ちるようにするために・・ということで登場するのが「法華経信仰」です。
 創価学会の人々は、
南無妙法蓮華経
 という題目を唱えます。これは「私は法華経に帰依します」という意味で、日蓮(一二二二〜一二八二年)が広めました。
 日蓮は、当時仏教界に多くの宗派が乱立し、諸説入り乱れているのを見ました。それでいったい何が本当の仏教なのだろうと、一心に模索したのです。そしてついに出会ったのが、
「法華経こそシャカの正説である」
 という、中国生まれの一つの説でした。
 近代の研究によると『法華経』は、シャカの死後五、六百年以上も経てから、一宗派が創作したものであって、シャカの直説ではないことは明かです。しかし法華経こそシャカの正説だ、と信じた日蓮は、法華経のみを信じることを決意して、他の一切を排除しました。そして、
「南無阿弥陀仏」(私は阿弥陀仏に帰依します)
 の念仏を否定し、それに替えて、
「南無妙法蓮華経」
 を説いたのです。
 日蓮によれば、法華経こそは真実最高の教えで、帰依すべきは法華経でした。法華経に帰依することは即、仏法そのものに帰依することだ、と考えたのです。
 日蓮にとって、もはや法華経は単なる"経典"(テキスト)ではありませんでした。法華経は"真理そのものの現われ"、もしくは"真理そのもの"と考えられました。
 つまり「南無妙法蓮華経」とは、単に法華経の"文字""文章""紙"等に帰依します、という意味ではなくて、
「私は真理そのものに帰依します」
 という意味で言われているのです。
 創価学会は、日蓮の法華経信仰を受け継ぎました。法華経を信じ、「南無妙法蓮華経」と唱えるなら、人は自分の永遠の生命を力強く躍動させることができる、と説くのです。
 輪廻の際にも、より良い者に生まれ変われる、とするわけです。戸田会長は、こう書きました。
「いつもいつも生まれてきて、力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運を持ってくる。このような生活が、何十回、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか」(折伏経典)
 このように創価学会では、"幸福な輪廻生活"を送ることが目指されているのです。幸福とは、力強い人生が「何千回」「何億万回」と繰り返されることだ、というわけです。
 こうした考えは、原始仏教と比べると、ずいぶん変わったものです。
 はじめ仏教は、「輪廻の世界からの解脱」を求めました。輪廻の世界は、すべて「苦しみ」であるとして、
「二度とこの世に戻ってくるな」(スッタ・ニパータ)
 と原始仏教は教えました。輪廻の世界から脱出することが、目指されたのです。
 ところが創価学会では、"楽しい輪廻生活"を送ることが目指されるように、変わったわけです。


キリスト者は一度死んで二度生まれる

 つぎに、キリスト教の幸福論を見てみましょう。
 まず、キリスト教において「永遠の生命」とは、「輪廻」のことではありません。キリスト教では、「輪廻」を信じないのです。
 キリスト教でいう「永遠の命」とは、不死の生命です。
「方便」であれ何であれ"死ぬ"生命は、「永遠の生命」とは言えません。老・病・死から解放された「朽ちない生命」こそ、真の「永遠の生命」でなければなりません。
 キリスト教の「永遠の生命」は、決して朽ちることのない生命です。ただし、それは単に"いつまでも死なない"という生命ではありません。
「永遠の生命」は、それ自身の内に、絶対的な幸福の源泉を宿しているのです。外部の環境がどうであれ、つねに内側に、躍動と幸福がみなぎっています。
「神の生命」の躍動と愛が、その内にあふれているのです。それは、永遠にすべての不幸から解放された生命です。
 キリスト者は、この生命に生まれ、この生命に生きることに、最大の幸福を見ます。「永遠の生命」と、その幸福にあずかることこそ、キリスト者の考える"究極の幸福"です。
 しかし、人間は、生まれつき「永遠の生命」を持っているわけではありません。人間には、必ず死があります。
 どうしたら、「永遠の生命」にあずかることができるのでしょうか。何度も何度も生まれ変わって、ついに永遠の生命に到達するのでしょうか。
 いいえ、そうではありません。キリスト者は、
"一度死に、二度生まれる"
 ことによって、永遠の生命にあずかるのです。
 はじめに人は、母の胎内より生まれ出ます。これが"第一の誕生"です。
 けれどもやがて老年となり、いずれ死を迎えるでしょう。"一度は死ぬ"わけです。
「人間には、一度死ぬこと……が定まっている」(ヘブル人への手紙九・二七)
 からです。一度生まれ、一度死ぬのです。
 しかし天地の造り主となる神と、救い主キリストを信じる者は、やがて来たるべき日に、死から復活します。聖書は言っています。
「最後の敵である死も滅ぼされます。……終わりのラッパとともに……死者は朽ちないものによみがえり……」(コリント人への手紙第一、一五・二六、五二)
 また、
「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」(同一五・五四)
 と記されています。終末のこの復活が、キリスト者の"第二の誕生"です。キリスト者は、最終的に"不死の体""永遠の生命の体"に復活する、と約束されているのです。


復活された主キリスト レンブラント画
主の復活は、私たちの復活の「初穂」だと聖書は教えている

 復活にあずかった者は、もはや死ぬことがありません。
もはや死もなく、悲しみ、苦しみもない」(黙示録二一・四)
 のです。その人は、永遠の生命の躍動と幸福を、自分の全存在に体現するようになります。キリスト者は一度朽ちる体に生まれ、二度目は、朽ちない体に生まれるのです。じつに私たちは、
「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえる」(コリント人への手紙第一、一五・四二)
 わけです。
"一度死んで二度生まれる"ことにより、キリスト者は、永遠の生命の躍動と究極の幸福を得て、それを余すところなく体現できるようになります。キリスト者はこの望みを、聖書の約束によって抱いています。


信仰は「永遠の生命」への復活の素地

 しかし、二度目の誕生(復活)の際に「永遠の生命」の体によみがえるためには、一度目の生命のときに、すでにその"素地"ができていなければなりません。
 そのことは、植物の種に似ています。種は、地中に埋もれてしばらくすると、やがて地上に茎・葉・花・実となって生え出ます。種自身は地中で朽ちますが、新しい体に変化して出てくるのです。
 そうやって種が、茎・葉・花・実となって生まれ変われるのは、あらかじめ種の中に、その"素地"があるからです。
 永遠の生命への復活の場合も、同様です。
 私たちは一度目の誕生の際に、朽ちる体を持ちました。その生命のときに、将来の復活のための"素地"がつくられていれば、やがて体が朽ち果てても、永遠の生命の体に復活できるのです。
 その素地とは、「信仰」です。
 信仰とは、私たちが、神およびキリストと「交わり」を持つことです。
「永遠の生命」は、神とキリストの内にあるのですから、私たちが永遠の生命にあずかるためには、神・キリストと私たちの間に、生命的な「交わり」が持たれていなければなりません。聖書は言っています。
「私たち(イエスの直弟子たち)の見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネの手紙第一、一・三)
 私たちの永遠の生命は、この「交わり」の中にあるのです。
 ですからもし人が、神およびキリストと、愛と生命の「交わり」を持っているなら・・つまり信仰を持っているなら、その人は実質的に、すでに永遠の生命に生きています。
信じる者には永遠の命がある」(ヨハネの福音書六・四七)
 と主イエスは言われました。信仰によって、永遠の生命は、すでに信仰者の魂に宿っているのです。
 ですから、信仰は、"永遠の生命の体"への復活の素地となります。
 そして信仰を持つならば、その人は、実質的に第二の誕生をすでに行なっているのです。その人は新しく生まれています。それは、本質的には永遠の命はすでに宿っているからです。
 キリスト者は信仰を通して、永遠の生命を、まず魂に宿します。つぎに、やがて復活の時になると、体も"永遠の生命の体"とされます。
 こうして永遠の生命が、全存在に体現されるようになるのです。
 永遠の生命は、人がまだ「朽ちる体」にあるときに、信仰によって素地がつくられます。そして来たるべき「万物更新の時」(使徒の働き三・二一)になって、全面的に開花するわけです。


キリスト者は永遠の生命を先取り体験する

 永遠の生命が、人の全存在に現れるのは、「万物更新の時」まで待たねばなりません。しかし永遠の生命自体は、すでに信仰者の魂に宿っています。
 そのためキリスト者は、永遠の生命の躍動と幸福を、現在の生において部分的に、"先立って"体験することができます。
 信仰生活とは、
「来たるべき世の力を味わう」
(ヘブル人への手紙六・五)
 ことなのです。将来の復活の際に得られる永遠の生命の躍動と幸福を、現在の生において"先取り体験"するわけです。
 永遠の生命は、愛と平安と、充足と喜びの生命です。その生命の持つ幸福を、キリスト者は信仰によって、現在の生活の中に取り込むことができます。
 苦難の多い現在の世においても、力強く脈動する、充実した生命を持つことができるのです。いかなる境遇にあっても、愛と平安と勇気を持って生きることが可能です。
 キリスト者は、将来の究極の幸福を、現在において味わうわけです。将来のものを、"現在化"しているのです。
 キリスト者の幸福は、じつにそこにあります。将来に究極の幸福を望みつつ、現在にそれを"先取り体験"することによって、幸福に生きることができるのです。
 このことを支えているのは、二千年前の、主イエス・キリストの復活の出来事です。
 キリストは十字架の死の三日後、死人の中よりよみがえられました。そして四〇日地上におられたあと、天に帰られました。
 キリストは今は天におられ、同時に「聖霊」(神の御霊)によって信者の魂の内におられます。キリストはつねに、信じる者と共におられるのです。キリストとキリスト者とは、一体です。
 キリスト者と一体であるキリストは、"復活されたキリスト"です。つまり復活の力と、その生命にあずかったキリストです。
 ですからキリストと一体化されたキリスト者も、信仰を通して、キリストの復活の力と、その永遠の生命にあずかることができるのです。
 永遠の生命とその幸福は、キリスト者においては、単に未来のことではありません。それは「復活のキリスト」により、信仰を通して、現在、この世において、体験できるものなのです。

久保有政

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