キリスト

く おん じつ じょう 
遠実成の
救い主キリスト

キリストは永遠の昔からの救い主である。

   ブロック画


 私たちの人生は、出会いで決まります。
 人は、決して自分だけで生きるのではありません。人生の中で、どんな人に出会うか、どんな友を持つか、どんな先生に師事するか、どんなパートナーを得るかなどが、人生を大きく左右するのではないでしょうか。


人生は出会いで決まる

 良い先生のもとで学べば、人は向上し、悪い先生のもとで学べば、悪い影響を受けてしまうでしょう。先生だけでなく、友人、上司、親、また配偶者・・・・私たちの人生は、出会いによって大きく左右されます。
 しかし、私たちの人生を根源的に左右するものは、一体何でしょうか。それは、友人や、上司、また配偶者などとの出会いではありません。
 私たちの魂を根源から揺さぶり、その奥底にまばゆい光をもたらしてくれる出会いがあります。
 それは、神との出会いです。神を知る体験です。また、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストとの出会いです。
 昔、ルー・ウォーレスという人が、
 「キリスト教はウソっぱちだ。人々の間にあるキリスト教という迷信を滅ぼすために、私は近いうちにキリスト教撲滅論を書こうと思っている」
 と言いました。そして彼は実際、そのキリスト教撲滅論を書くために、キリスト教に否定するような証拠を得ようと、様々な努力をしました。
 彼はインガソール博士という、当時の著名な無神論者にも会って、無神論を勉強しました。また、パレスチナにも行って、そこで考古学的なことまで調べ上げて、キリスト教に反する証拠を得ようとしたのです。
 そしてついに彼は、キリスト教撲滅論を書き始めました。ところがです。書いている途中に、もうそれ以上書けなくなってしまったのです。
 キリスト教を滅ぼそうとして書き始めたというのに、彼のペンはそれ以上進まなくなってしまいました。じつは、書いている途中に、キリストというお方の圧倒的な命にふれて、彼は回心してクリスチャンになってしまったのです。
 そのために、彼はそれまで書いていたその本を捨てました。しかし、それに代えて、彼は別の本を書きました。ルー・ウォーレスが書いたその別の本とは、あの不朽の名作と言われる小説「ベン・ハー」です。


映画ベン・ハー

 イエス・キリストの時代のパレスチナを舞台に、ベン・ハーという名の男性が波瀾万丈の人生を送りながら、ついに十字架のイエス様のみもとで、救い主を信じるという物語です。
 この物語は、ルー・ウォーレス自身の人生を重ね合わせたものかも知れません。私たちの人生は、イエス・キリストという救い主との出会いを通して、全き祝福に導かれるのです。


キリストは永遠の昔からおられた

 イエス・キリストは、どういうお方でしょうか。
 今日は、新約聖書ヨハネの福音書一章から学んでみましょう。この福音書は、イエス様の一二弟子の一人であるヨハネが、イエス様の御生涯を記したものです。
 われわれ東洋人がイエス様というお方を知るために、このヨハネの福音書は、非常にピッタリしたテキストです。
 多くの人々は、イエス・キリストとは単に三大宗教の教祖の一人であるとか、二千年前におられたユダヤの偉人の一人であるとか、理解しているかも知れません。
 それは決して間違いではありません。しかしそれだけの理解では、イエス・キリストというお方を充分理解しているとは言えないのです。
 イエス様は私たちと同じ人間でありながら、同じ人間ではありません。ヨハネの福音書は、イエス様のことを紹介するにあたって、
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハ一・一〜三)
 と述べています。この「ことば」は、「神のことば」とも呼ばれるイエス・キリストのことです。
 「初めに、ことばがあった」──イエス・キリストはじつは永遠の昔から存在しておられた方だと、宣言しているのです。
 多くの人は、イエス・キリストは単に二千年前に、およそ三三年間生きた一人の人物と思っているかも知れません。しかし、それだけがイエス様ではない。
 二千年前にユダヤの地で処女マリヤから生まれ、三〇歳の時に公生涯に入り、三年半の激烈なる伝道を経て十字架の死、復活、昇天というみわざをなされたイエス様。しかし、それだけがイエス様なのではないのです。
 イエス・キリストというお方そのものは、じつは永遠の昔から存在しておられたのだ、と述べているのです。キリストは、永遠の昔から永遠の未来にまで存在しておられるお方です。
 日本には昔から、「言霊」(ことだま)という言葉があります。単なる言語とか音声としての言葉ではなく、霊の宿った言葉──それが言霊です。
 ヨハネの福音書が、「初めにことばがあった」というとき、それは単なる言語とか音声としての言葉を言っているのではありません。
 ギリシャ原語ではロゴスといって、それは深い思いや思想、感情など、霊的なものが込められた言葉をいうのです。キリストは神の言霊だと言ってもよいでしょう。
 ヨハネの福音書を理解するには、西洋の神学者の本をいくら読んでもよくわかりません。東洋的な観念を学んだほうが、かえって、ヨハネの福音書に描き出されたイエス・キリストをよく理解できるのです。
 キリストは、神の言霊であり、ことばなる霊であり、人格を持っておられるお方です。私たち人間が自分の心を表現するのに言葉を用いるのと同じく、神はご自身の御心をキリストによって表現されるのです。
 キリストは、神の自己表現です。神はキリストによってご自身の本質を現わし、ご自身の愛の計画を推進し、キリストによって万物を創造されます。
 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(三)。
 神が「光あれ」と言われると、光がありました。その「光あれ」という言葉は、単なる言語や音声ではないのです。それには創造の力が宿っていたのです。
 神はキリストによって万物を創造されました。その神の言霊であるキリストが、今から二千年前に、生々しい人間の姿をとってこの世に来られました。
 それがイエスというお方なのです。神の化身であるキリストを見て、私たちは神の自己表現に接して驚嘆し、またひれ伏します。
 イエス様は、単にマリヤの胎に宿ってこの世に"お生まれになった"のではありません。マリヤの胎を通して"この世に来られた"――永遠のお方が、人間の姿となってこの世に来られた方なのです。
 これが第一の事柄です。


キリストは永遠の昔からおられた
By PJP_ on Flickr


キリストは永遠の昔に救い主として立てられた

 第二に、イエス・キリストは永遠の昔からおられたというだけでなく、永遠の昔から神によって立てられた「救い主」です。
 イエス様は、今から二千年前に初めて救い主となられたのではありません。彼は、永遠の昔から「救い主」であられるのです。イエス・キリストは久遠実成の救い主──久遠の大昔に救い主と成られた方です。
 仏教の経典の中に、法華経という経典があります。法華経は、じつはヨハネの福音書にたいへんよく似た経典です。
 法華経は、昔から日本人の心に大きな影響を与えてきました。聖徳太子でも、法然上人でも、これを読むようになって深い宗教心に目覚めました。
 空海も、法華経で真言の尊さを学びました。日蓮も、この経典をたずさえて宗教改革に立ちました。
 じつは法華経は、釈迦が説いた原始仏教ではありません。それはペルシャの宗教や、キリスト教の影響さえも受けて、二世紀頃に出来あがったものです。
 イエス・キリストの使徒トマスは、インド方面に伝道に行って、インドでたくさんの信者を得ました。それでトマスのキリスト教は、当時の仏教界にも大きな影響を及ぼしたのです。
 法華経は、イザヤ書やヨハネ福音書など、キリスト教の影響をも受けて成立したものだと言われています。また、当時広まりつつあったキリスト教の「永遠のキリスト」の信仰に対抗するために、法華経が書かれたとも言われているのです。
 ですから、私たちはヨハネ福音書を読むうえで、下手な西洋の神学書を読むよりも、法華経のほうがよほど参考になる場合があります。
 釈迦は紀元前六世紀に生まれて、二九歳で出家、様々な修行の末に三五歳で悟りに達したと人々に思われています。しかし法華経は、じつはそうしたことはあくまで"仮の姿"に過ぎないというのです。
 法華経は、釈迦にこう語らせています。
 「私は、悟りを開いてから今日に至るまで、はかり知れないほどの歳月を生きている。人の思いをはるかに越えた無量無辺の"久遠(くおん)の昔"に仏となった者である。私は過去、現在、未来にわたって永遠に人々を教え導き続けている」
 と。つまり、この地上を歩んだ釈迦という人間は釈迦の"仮の姿"または、人々にわかりやすくするための"方便"(手だて)にすぎない。本当は、釈迦は永遠の昔に悟りを開いて仏になった者であって、永遠の昔からの救い主なのだ、というのです。
 法華経はこのように、「久遠実成の仏」ということを説きました。永遠の昔から釈迦は仏なのだ、というのです。


法華経曼陀羅図(本法寺蔵)
法華経は釈迦を「久遠実成の救い主」の座
にすえたが、その本体はキリストにある

 じつは法華経以前は、釈迦は単に数百年前に現われた一人の尊師にすぎませんでした。紀元前後の大乗仏教の成立期にあってさえ、そう考えられていました。
 ところが法華経は、突如、釈迦を永遠の昔からの救い主──久遠実成の救い主の座にすえたのです。
 このへんにもキリスト教の影響が見られるのですが、当時インドでは永遠のキリストの教えに対抗して、釈迦を永遠の仏の座にすえる動きが仏教界に起こったのです。こうして法華経が誕生しました。
 しかし、法華経が久遠実成の仏を説く以前から、ヨハネ福音書は――また他の福音書もそうですが、聖書は、イエス・キリストこそ久遠実成の救い主であると説いていたのです。


キリストは久遠実成の救い主

 法華経において、釈迦が「私は久遠実成の仏である」というと、弟子達が訝しげにこう尋ねたという話がのっています。
 「お釈迦様、たとえばここに二五歳の若者がいたとします。彼が、百歳の白髪の老人を指さして『これは私の子ですよ』と言ったりしたら、一体誰が信じるでしょうか。
 または逆に、百歳の老人が若い青年を指さして『これは私の父です』などと言ったら、一体誰が信じるでしょうか。
 お釈迦様、あなたが皇太子をやめて宮殿を出、出家して悟りを得てから、まだ四〇年にしかなりません。それなのに、あなたが永遠の昔に悟りを得た仏であると言われても、私たちにはにわかには信じがたいですよ」
 と。まあ、釈迦が急にこう言い出したのですから、こんな疑問も無理のないことでしょう。
 イエス様も、あるときユダヤ人からこう質問されました。
 「あなたはまだ五〇歳になっていないのに、アブラハムを見たのですか」。
 すると、イエス様は彼らに言われました。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハ八・五七、五八)。
 イエス様は、ご自身が久遠実成の救い主であると言われたのです。たしかに、ある人たちには、このことはあまりに大きなことで、理解を越えたことかも知れません。
 しかし、神を本当に心に求める人には、わかるのです。
 はじめに、ことばがありました。神のことば──キリストが、父なる神と共におられたのです。
 「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。
 この「ことばは神と共にあった」というときの「神」には、ギリシャ原語では定冠詞(英語のtheにあたるもの)がついています。しかし、次の「ことばは神であった」の「神」には、定冠詞がありません。
 最初の「神」は父なる神であり、次の「神」は子なる神キリストです。一八節に、
 「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」
 とあります。父なる神と、「ひとり子なる神」キリストとは、一体のお方です。このことは、キリスト教では三位一体論という教えの中で、さらに詳しく学ぶことができます。
 キリストは、永遠の昔──久遠の大昔から救い主として神に立てられたお方なのです。あなたが生まれるよりはるか以前から、あなたのための救い主として立てられたお方です。
 みなさん、聖徳太子や日蓮をはじめ、多くの日本人は、法華経のいう久遠実成の仏なる釈迦について聞いて、永遠の世界に対する宗教心に目覚めました。
 そうであれば、なおのこと、永遠の救い主──久遠実成の救い主なるキリストは、日本人の心に大きな宗教心をひき起こすのです。ヨハネの福音書はその巻頭で、イエス・キリストこそ"久遠実成の真の救い主"であると、私たちに語っているのです。
 イエス・キリストに出会うとき、私たちは本当の永遠の救い主に出会います。


キリストは無量寿、不可思議光の救い主

 第三に、キリストは永遠の命と光に満ちた救い主です。
 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(四)。
 キリストに永遠の命があり、その命は私たちの魂に光をもたらします。
 みなさん、キリストについて知るために参考になるのは、なにも法華経だけではありません。仏教の浄土宗には、浄土三部経というお経があります。
 それには、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏について書かれています。阿弥陀仏というものが登場するのも、二世紀頃からです。
 キリスト教の影響を受けたのは、法華経だけではなくて、じつは阿弥陀仏誕生の背景にも、キリスト教の影響があります。仏教史学の権威であるアルティ氏は、
 「阿弥陀仏の教義は・・・・インドでつくられたものではない。・・・・阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」
 と言っています。


阿弥陀仏が「無量寿、不可思議光」の仏と
呼ばれた背景には、インドに入っていた
『ヨハネの福音書』の影響がある

 阿弥陀仏というのは、人々を死後に極楽浄土に連れていってくれるという仏です。キリストも、私たちに永遠の命を与え、死後には天国に迎え入れて下さる救い主です。
 念仏宗では、阿弥陀仏の名前を呼ぶその一念で私たちは救われる、と説いています。聖書にも、
 「主の御名を呼ぶ者は、だれでも救われる」(ロマ一〇・一三)
 と説かれています。キリストのお名前を信仰の心をもって呼ぶその一念で、私たちは救われるのです。
 阿弥陀仏は、経典の中では「無量寿、不可思議光」の仏と説かれています。「無量寿」とは永遠の命、「不可思議光」とは不可思議なる光の意味です。
 昔、親鸞上人は、
 「無量寿の仏を信ぜよ、その不可思議なる光に帰依せよ」(帰命無量寿如来、南無不可思議光)
 と言いました。このように、阿弥陀仏を永遠の「命と光」の仏とするのは、じつはキリスト教の影響です。ヨハネ一・四に、
 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」
 とあります。この思想が仏教の中に取り入れられて、阿弥陀仏が誕生し、阿弥陀仏は「無量寿、不可思議光」の仏と言われるようになったのです。
 みなさん、阿弥陀仏はどんなに多くの日本人の心に、慰めと安らぎを与えてきたことでしょうか。今でも、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える声が朝な夕なに聞こえる家々が、日本のあちこちにあります。
 そうであれば、ましてや真の永遠の命と光であるキリストは、多くの日本人の心に喜びと平安を与えずにはおきません。キリストこそ、真の「無量寿、不可思議光」の救い主です。
 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(五)。
 まことに、キリストは「すべての人を照らすまことの光」(九)なのです。
 みなさん、仏教というものは、決してキリスト教に敵対するものではありません。お互いにライバルなのでもありません。仏教を信じている人々は、むしろ仏教を入門として、オリジナルな真の救い主であるイエス・キリストのもとに来る必要があります。
 そのときにこそ、あなたは、求めていた真の救い主に出会うことが出来るのです。
 あなたは、これまで信じていた仏教を捨てる必要はありません。あなたがキリストのもとに来ることは、これまであなたが追求してきた仏教をむしろ完成するのです。
 キリストのもとに来るときに、あなたは仏教という名のもとに求めてきた真の救い主に出会います。私たちは入門的な教えをあとにして、正式な神の教えを受けようではありませんか。
 序論をあとにして、本論に入ろうではありませんか。真の神様の本来の教えを受けようではありませんか。
 亀谷凌雲(かめがやりょううん)という人は、浄土真宗のお寺の子として生まれました。仏教系の大学を出て、自分もお寺のお坊さんになろうと修行を積んでいました。
 しかし、真剣に仏教を通して救い主を求めるのだけれども、奥に行けば行くほどどうも真理がぼやけてくる。入り口はとっつきやすいように見えるけれども、仏教は奥へ行けば行くほど、何が真理なのかはっきりしなくなる。
 それで思い悩んで、やがてキリスト教会にも来るようになったのです。そこで彼は、はじめて明確な真理に出会った。そしてイエス・キリストを、自分の救い主として信じたのです。
 彼は結局、お坊さんになるのをやめて、キリスト教の牧師になりました。親や親戚からは、つまはじきにされたけれども、彼の決心は揺るぎませんでした。そして自分の体験をまとめて、『仏教からキリストへ』という本を著しました。
 仏教を信じていた人は、仏教を捨てるのではなく、むしろ仏教を入門として、イエス・キリストのもとに来ればよいのです。あとはイエス様ご自身が、私たちを指導して、神様の正式な教えに導いて下さいます。


私たちを神の子としてくださる救い主

 第四に、キリストは私たちを「神の子」として下さる救い主です。
 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(一二)。
 私たちを「神の子」にできるのは、「神のひとり子」なるイエス・キリスト以外にはおられません。私たちは信仰により、神のひとり子イエス・キリストを"通して"神の子になるのです。
 私たちは、生まれながらにして神の子なのではありません。なぜなら、私たちは神を忘れて生きてきたからです。神に反する生き方をしてきたからです。
 しかしイエス・キリストを通して、私たちは神との本来の関係を回復して、神の子とされるのです。イエス様を救い主として信じて、イエス様をお遣わしになった神様を「天のお父様」と呼ぶとき、私たちは「神の子」となるのです。
 人には様々な幸福がありますが、神の子の幸福は、人が体験し得る最高の幸福です。
 この地上で、人はときおり楽しみや喜びを味わいます。誰かからプレゼントをもらうと、人はうれしいでしょう。
 自分が欲しいと思っていたものを得られたら、人は喜ぶでしょう。人はしばしば、自分の欲望が実現されたり、満足されると、喜び、また幸福感や快感を覚えます。
 しかし、そうした欲望の満足による幸福というものは、決して長続きしません。その時はうれしくても、時間がたつと消え去ってしまいます。欲望の満足による幸福感は、一時的です。
 また、欲望の満足による幸福は、相対的です。人と比べてどうか、ということです。
 ある人が、広い家に住みたいと言って、一生懸命働いて、東京の郊外にある三〇〇平方メートルほどの敷地に、大きな家を建てました。しかし、そんなことはアメリカに行けば、当たり前の広さなのです。そうしたことは、相対的な事柄です。
 また、明治時代に、ある人は手腕を発揮して大金持ちになりました。しかし彼の資産と、今日の中流家庭とを比べれば、今日の中流家庭のほうがはるかに大金持ちなのです。なぜなら、お金の価値が今日のほうがはるかに高くなっているからです。
 お金持ちだとか、貧乏だとかいうのも、相対的なものでしかありません。お金持ちになりたいという欲望を実現したとしても、それによる幸福は、相対的な幸福でしかありません。
 しかし、これに対して神の子の幸福は、絶対かつ永遠の幸福なのです。
 それは他人と比べてどうのこうの、という幸福感ではありません。神様から直接与えられる幸福ですから、絶対的なのです。
 自分の生まれた境遇がいいか悪いか、自分の生まれた血筋がいいか悪いか――そんなことは全く関係がありません。たとえ波瀾万丈の人生を送ろうとも、たとえ人間的には辛いところを通った人生であっても、「神に愛されている」という絶対的な幸福なのです。
 神の子の幸福はまた、永遠の幸福です。それは一時のものではありません。刹那(せつな)的なものではありません。
 それはあなたが信仰を持った時に始まり、この地上の生涯を通じてあなたに伴います。また死後も、天国において全き形であなたに伴うのです。
 キリストは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたからです(マタ二八・二〇)。
 イエス・キリストは、あなたに絶対かつ永遠の幸福――神の子の幸福を与えて下さいます。それは人間として体験し得る最もハイ・レベルの、最高の幸福なのです。


キリストの十字架と復活 By AshraFekry on Flickr


インディアンの酋長の回心

 あなたはもう、このイエス・キリスト様に出会いましたか。
 アメリカのインディアンの酋長でヨハネスという人は、以前は異教徒でしたが、今は回心してクリスチャンになりました。彼は、こんな証し(体験談)をしました。
 「昔ひとりの説教者が、私たちインディアンを教えようとして、私たちのところに来ました。手始めに彼は、私たちに向かって神の存在を証明しました。それを聞いた私たちは彼に言いました。
 『その通り。でも、あなたは、私たちが神の存在を知らないとでも思っているのですか。さあ、あなたが元いた所に帰りなさい』。
 その後しばらくして、別の説教者が来ました。彼は、
 『盗んではいけない。酒を飲み過ぎてはいけない。ウソをついてはならない』
 などと教えました。私たちは彼に言いました。
 『馬鹿な説教だ。私たちがそれを知らないとでも思っているのですか。帰って、まず自分たちでそれらの戒めを学びなさい。あなたのお国の人たち以上に酒飲みで、泥棒のウソつきが、どこにいますか。あなたの仲間の人たちに、それらの戒めを守れと教えたらどうですか』。
 こうして私たちは、この説教者をも追い返しました。それからしばらくして、モラビア兄弟団(ツィンツェンドルフの指導のもとに一八世紀のリバイバルで起きた敬虔な一派)のひとり、クリスチャン・ヘンリー・ラウフが私の小屋にやってきました。
 彼は私の横に座って、私に次のようなことを話しました。
 『私は天地の主であるお方のお名前によって、あなたのところに来ました。神が喜んであなたをお救いになることを、今のみじめな状態からあなたを救い出して下さることを、神はあなたに知らせておられます。
 この目的のために、神の御子イエス様が人となり、人類のために命をお与えになって、ご自身の血潮を流してくださいました』。
 そう語り終えると、ラウフは小屋の板の上に横になって、眠りこみました。旅の疲れが出たのでしょう。
 そのとき私は心の中で考えました。何という人だろう。彼はここに横になって、ぐっすり眠っている。彼を殺して森に投げ捨てたとしても、誰も気にしないだろう。
 なのに、彼は平気で寝ている。私の心はまた、彼の言った言葉から逃れられなくなっていました。イエス様の福音の言葉が私の心を離れず、眠ってもなお、キリストが私のために流した血潮の夢を見ました。
 私は、他のインディアンたちのところに出かけていって、ラウフに話させ、私がその話を通訳しました。こうして神の恵みによって、私たちの間にリバイバル(信仰の覚醒)が起こったのです」。
 このように、インディアンの酋長のヨハネスが語りました。
 みなさん、モラビア兄弟団のラウフという人は、このインディアンの部落に福音を伝えるために、単身乗り込んでいきました。そこには快適なホテルも、豪華な食事もありません。
 それに、もしかすると未開人である彼らに、命をねらわれるかも知れないのです。しかしラウフは、彼らに福音を伝えるために来ました。またインディアンたちの中で、安心しきったように眠ることができました。
 ラウフは、神の子の幸福を持っていたのです。神の子の幸福は、環境や境遇に左右されません
 それは外側の環境に依存する幸福ではなく、内側からわきあがってくる幸福なのです。内側からわきあがる平安、喜び、愛なのです。
 神の子の幸福を持っている人は、まわりにも幸福を与えます。ラウフの言葉を聞いて、インディアンの酋長のヨハネスも回心して、クリスチャンになりました。酋長も、それまでの乱れた生活を改めて、神の教えに従う喜びの人生に入ったのです。
 イエス・キリストに出会うことによって、私たちは神の子の幸福を知ることができます。


予言された救い主キリスト

 第五に、イエス・キリストは予言された救い主です。
 イエス様がこの地上で宣教を開始される少し前に、バプテスマのヨハネ――洗礼者ヨハネという人が、人々の中に現われました。六節に、
 「神から遣わされたヨハネという人が現われた」
 とあります。このヨハネは、ヨハネの福音書の著者のヨハネではなくて、バプテスマのヨハネです。彼はイエス様について証言して、人々に言いました。
 「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです」(一五)。
 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストという救い主が来られると、あらかじめ予言していました。
 バプテスマのヨハネだけではありません。キリストの来られることは、キリストが来られるより一千年以上前から、旧約聖書の中で予言されていました。
 出エジプトの指導者モーセは、いずれユダヤ人の中に大いなる解放者が現われるから、彼に聞き従わなければならない、と予言していました(申命一八・一五、ヨハ五・四六)。
 預言者イザヤも、キリストは私たちの犠牲となって身代わりに死なれて復活すると、予言していました(イザ五三・六、一〇)。そのほかにも大勢の預言者たちが、来たるべきキリストを予言していました。
 預言者たちはみな、自分より後から来る自分より大いなるお方について語りました。そしてそれらの予言はみな、ただ一人のお方イエス・キリストにおいて成就・実現したのです。
 このように予言されて来られたお方が、いったい他にいるでしょうか。イエス・キリスト以外にはおられません。
 私たちも、預言者たちと共に言うのです。イエス様こそ、神からの救い主であると。
 あなたはもう、この救い主にお会いしましたか。
 私たちはイエス様を心に受け入れて、救い主として信じるとき、イエス様の大いなる恵みに触れることができるのです。
 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」(一六)。
 これが、イエス・キリストとの出会いです。


受肉された救い主

 第六に、イエス・キリストは「受肉」された救い主です。肉体となること、これを「受肉」といいます。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(一四)。
 阿弥陀仏は歴史上の実在者ではありません。しかしイエス・キリストは、歴史上の実在者です。
 イエス・キリストのことは、聖書に記されているだけではなく、紀元一世紀のローマ人の歴史家や、クリスチャンでないユダヤ人歴史家も記しています。
 そして実際、イエス・キリストが現われたからこそ、紀元一世紀の初代教会のクリスチャンたちは、大迫害の中でもあれほど勇敢に福音を宣べ伝えていったのです。
 イエス様は、永遠の昔からおられた方なのに、肉体をとり、私たち人間と同じ姿となってこの地上に来て下さいました。彼は生身の人間となって下さいました。
 そして私たちが今歩いているこの大地と同じ大地の上を、歩まれたのです。こうして神というお方を、私たちに非常に身近にして下さいました。
 ある子どもが孤児院にいました。孤児院の人たちはみな、その子にやさしくしてくれました。しかし、その子の淋しさは、なかなかいやされることがありませんでした。
 その子は言いました。
 「見て、聞いて、ふれ合って、一緒にいられる親が欲しいんです」
 と。イエス・キリストがこの地上に人間となって来られたのも、そのためです。
 彼は、私たちが見て、聞いて、ふれ合って、一緒にいる存在となられました。「私たちはこの方の栄光を見た」。
 イエス・キリストを通して、神は私たちに非常に身近な方となられました。神はもはや、遠くにいる親ではありません。すぐ近くにおられるのです。私たちと一緒におられるのです。
 「神われらと共にいます」――ヘブル語ではインマヌエルというこの言葉が、イエス様のもう一つのお名前だと、聖書は言っています。
 キリストの受肉は、歴史上のまさに一大事です。それは歴史をB.C.(Before Christ キリスト以前 紀元前)と、A.D.(Anno Domini ラテン語で主の治世 紀元後)に分けるにふさわしい出来事でした。


神を完全に説き明かされた救い主

 最後に、第七のこととして、イエス・キリストは、神を完全に説き明かされた救い主です。
 イエス・キリストとの出会いは、神との出会いでもあります。イエス様は、
 「私を見た者は、父を見たのです」(ヨハ一四・九)
 と言われました。イエス様を見ることは、イエス様だけでなく、父なる神を見ることでもあります。
 「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(一八)。
 私たちはイエス・キリストを通して、本当に実在される神様を知ることができます。
 宇宙自然も、神の永遠の力と神性を現わしていますから、宇宙自然を通して神の存在や神性に関して、ある程度の知識を得ることはできます。しかし、神の愛や義のご性質など、神のご性質の深い事柄については、イエス・キリストを通さなければ知ることができません。
 イエス・キリストは、神の完全な啓示者です。イエス・キリストは神と一体のお方だからです。
 昔、イスラム教の開祖マホメットは、一四歳のときに、叔父のアブ・タレブと一緒に、北方のシリヤまで隊商の一員として旅をしました。


マホメットは景教徒(東方キリスト教徒)
に出会って、強い宗教心に目覚めた

 その途中、マホメットがエルサレムに立ち寄ったときのことです。そこに、「景教」といってネストリウス派キリスト教の、修道僧であるセルギウスという人に出会いました。
 マホメットは、彼の教えに耳を傾けているうちに、激しい霊の衝動を受けました。そして生ける神を信じる、強い宗教心に目覚めたのです。
 マホメットは、じつは貧しい家に生まれた人でして、父親は彼が生まれてまもなく死に、母親も彼が六歳の時に死んでしまいました。そして叔父のアブ・タレブの家に引き取られて、寂しく孤児として育ったのです。
 マホメットは小学校にすら通ったことがなく、無学の文盲で、ほとんど文字の読み書きができませんでした。しかし、その彼が、キリストを信じる景教徒のセルギウスに出会ったとき、激しく感動して、宗教心に目覚めたのです。
 マホメットは、それから数十年後にイスラム教を起こしましたが、彼の宗教も元はといえば、キリストを信じる景教徒の教えに耳を傾けて、生ける神を信じたことにあるのです。
 マホメットが起こした宗教の内容はともかく、彼に生ける神を教えたのは、もともと、イエス・キリストを信じるクリスチャンでした。
 私たちは学問を積めば、生ける神がわかるのではありません。学歴があれば、真の神がわかるのではありません。
 イエス・キリストを通して、私たちは生ける真の神を知るのです。
 本当の神知識は、どこから来るのでしょうか。それはイエス・キリストを通して来ます。あなたは、イエス・キリストを信じることによって、生ける神に出会うのです。


キリストを通して真の神を知る

 イエス・キリストを通さずしては、本当の神知識を持つことはできません。イエス・キリストは神を完全に説き明かされた救い主だからです。
 神を知ることなくして、人生の目的と意味を知ることはありません。そしてイエス・キリストを知ることなしに、神を知ることはありません。
 一八世紀に、ジョン・ウェスレーという人がいました。彼は若い頃、英国国教会に属する宣教師として、北米に行きました。
 この頃の英国国教会は、非常に形骸化していて、ウェスレー自身もまだ形式的な信仰しか持っていませんでした。
 北米で、ウェスレーはスパンゲンベルグという人物に出会いました。彼は優れた霊の人でした。
 ウェスレーは、信仰に関して彼に助言を求めました。するとスパンゲンベルグは、ウェスレーにこう尋ねたのです。
 「兄弟、私はまずあなたに一つ、二つの質問をしなければなりません。
 あなたは、あなたの内に証人を持っていますか。つまり、神の御霊があなたの心の内で、あなたは神の子であると証ししていますか」。
 ウェスレーは、全く驚いてしまいました。何と答えてよいかわからなかったのです。スパンゲンベルグはさらに、ウェスレーに尋ねました。
 「あなたはイエス・キリストを知っていますか」。
 「えっ、ええ、私はキリストが世界の救い主であることを知っています」
 とウェスレーは答えました。スパンゲンベルグは、
 「その通りですが、あなたは、キリストがあなたを救って下さったことを知っていますか
 と聞きました。ウェスレーは自信なさそうに、
 「ええ、彼は私を救うために死んで下さったのだと思います」
 と答えました。ウェスレーは「と思います」と答えるのが、精一杯だったのです。
 しかし、この時の問いかけがきっかけとなって、彼はその後、決定的な回心を経験することになります。
 ウェスレーはそれまで、キリストは"世界の救い主"であるということは知っていました。しかしキリストが"私の救い主"であるとは、明確に知っていなかったのです。
 キリストが十字架上で命を投げ出して犠牲となって下さったのは、ほかでもない、罪と滅びの中にある私を救うためであった、とは理解していませんでした。しかし、この問いかけの後、ウェスレーはこれがわかったのです。
 彼はそれを理解し、それを信じてキリストを「私の救い主」とあがめました。そのとき彼の魂に、内なる証人が宿ったのです。
 神の御霊である聖霊が、あなたは「神の子」であると、彼の心の中で証しするようになりました。ウェスレーの心は喜びに満たされました。
 そして、その後のウェスレーは全く生まれ変わったように、力強い人物となりました。彼は冷え切ったイギリスに、信仰のリバイバルの火を燃やしていったのです。
 あなたは、イエス・キリストを知っていますか。イエス・キリストは単なる世界の救い主ではなく、ほかでもない、あなたのための救い主であることを、知っていますか。
 イエス・キリストが、あなたのためにこの世に来られ、十字架上であなたの罪を贖い、あなたに永遠の命を与えるために復活し、今も生きておられることを知っていますか。
 イエス・キリストを通して、自分が神の子とされたことを、あなたは知っていますか。自分の魂の内に、あなたが神の子とされたと証しする証人である聖霊を持っていますか。
 イエス・キリストを「私の救い主」としてあがめるとき、神の聖霊はあなたが神の子とされていると、心の内で証しして下さるのです。
 あなたは、イエス・キリストに出会いましたか。彼との出会いこそが、永遠に至るまであなたの人生を祝福に満たすのです。 

久保有政

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