仏教の「末法」
キリスト教の「終末」
言葉は似ているが、どこがどう違う?
日蓮は、末法の世に生きる者たちのためにこそ
釈迦は「法華経」を残してくれたと説いたのだが……
仏教の歴史観と、キリスト教の歴史観とを比較してみましょう。これらは、きわめて対照的です。どのように違うのでしょうか。
仏教によれば今は末法時代
仏教には、いわゆる「末法思想」と呼ばれる歴史観があります。これは、シャカの死後、時代は、
正法時代→像法時代→末法時代→法滅時代
と進んでいく、という思想です。
まずシャカの死後五〇〇年間が、「正法」(しょうぼう)の時代です。正法時代には、シャカの教え(教)が完全なかたちで存在し、修行(行)する人も、悟り(証)を開く人もいます。「教・行・証」の三拍子がそろっている時代です。
正法時代が終わると、「像法」(ぞうほう)の時代になります。像法時代は一〇〇〇年です。この時代には、「証」(悟り)はなくなり、「教」(教え)と「行」(修行)だけになります。
次に来るのが、「末法」(まっぽう)の時代です。末法時代は、シャカの死後一五〇〇年たって始まり、一〇、〇〇〇年続きます。
この時代には、もはや悟りを開く人もいません。真の修行をする人もいません。ただ仏教の教えだけが残っています。「教」だけになるのです。
では末法時代で最後かというと、そうではありません。末法時代一〇、〇〇〇年のあとには、仏教の教えすらなくなる「法滅」(ほうめつ)時代が来ます。
法滅時代は、正法時代五〇〇年、像法時代一〇〇〇年、末法時代一〇、〇〇〇年よりも、ずっと長く続きます。じつに、約五六億七〇〇〇万年も続くのです。
しかし法滅時代が終わると、シャカの次の仏が現れます。「弥勒仏」です。弥勒仏は、シャカ誕生の時から数えて五六億七〇〇〇万年後に現れるとされている、未来仏です。五、六、七と、続き数字だから覚えやすいでしょう。
弥勒は、いま現在は天界にあって修行中です。修行中の身を「仏」と呼ぶのはまだ早いですから、一般には弥勒を、「弥勒菩薩」と呼んでいます。
仏教には、「過去七仏」の思想というのがあります。シャカは、初めてこの世に現れた仏ではなく、第七番目の仏で、それ以前にも六人の仏がいた、という思想です。
それぞれの仏と仏の間は、やはり何十億年ないし何千億年という、気の遠くなるような歳月で隔てられています。シャカは"この前の仏"であり、弥勒は"この次の仏"なのです。
弥勒仏が来ると、再び正法→像法→末法→法滅時代という、堕落の歴史が繰り返されます。このようにして歴史は循環する、と考えられているのです。
末法時代はあと九千年
仏教の歴史観によれば、今は「末法時代」です。仏教の教えは残っていても、もはや真の修行も悟りも存在しない時代です。
日本では、末法時代は一〇五一年に始まったと、信じられました。これは平安時代の末期にあたります。
平安時代の僧・皇円は、「永保元年」(一〇八一年)が末法に入って三〇年後にあたると、書いています(『扶桑略記』)。また『神明鏡』という書物には、永承六年(一〇五一年)からいよいよ末法に入るというので、僧・源信(『往生要集』の著者)が悲しみのあまり泣いた、と記されています。
当時は、支配者が横暴をきわめ、国中に争いが起きていました。しかも多くの自然災害や、ききん、疫病が頻発するといった、暗い世相が続きました。
こうして危機的な世相と、末法思想を背景に、やがて鎌倉時代に入って新仏教の諸宗派が生まれました。
親鸞の浄土真宗(念仏)
道元の曹洞宗(禅)
日蓮の日蓮宗(法華経信仰)
などです。
彼らは、末法思想とどのように関わったのでしょうか。「親鸞」(一一七三〜一二六二年)から見てみましょう。
親鸞は、現在が末法の世であることは、認めました。しかし彼の説く教えにとって、現在が末法であるかどうかは、関係のないことでした。
彼は、修行による救いではなく、阿弥陀仏の「他力」によって、極楽浄土に往生して救われる道を説きました。ひたすら他力によるわけですから、現在が末法であってもなくても、関係ないわけです。
親鸞は、人は末法の世においても念仏によって救われる、と説いたのです。
「道元」(一二〇〇〜一二五三年)の場合は、末法思想自体を信じませんでした。道元はこう書きました。
「仏教で正法・像法・末法の別を立てる説は、単なる一時的な方便である」(正法眼蔵随聞記)
彼はこう言って、末法思想を拒否し、自力の修行によって悟りを開くことを目指しました。シャカと同じように、座禅を通して悟りを開こうとしたのです。
一方「日蓮」(一二二二〜一二八二年)は、末法思想を、"逆手"に取りました。末法の悪世に生きる者たちのためにこそ、シャカは『法華経』を残してくれたのだ、と説いたのです。
日蓮によれば、法華経は、シャカが最後に説いた最深最高の経典です。また彼は、「西方十万億土」のかなたの「極楽浄土」というようなものは実在しない、と考えました。
そのため、現世を離れて成仏の道はないとし、法華経信仰を唱えたのです。末法の悪世において、苦難に耐えながら「法華経の行者」として生きることは、正法・像法における数千年の修行にまさる、と日蓮は説きました。
このように、親鸞、道元、日蓮の考え方は、お互いに大きく異なっています。混乱している、といっても言い過ぎではないでしょう。
さて、私たちの生きている二〇世紀は、末法時代に入ってすでに、千年ほど過ぎています。末法時代は一万年ですから、あと九千年ほどで末法時代は終わり、世界は「法滅時代」に入ります。
この法滅時代に入ってからも、親鸞、道元、日蓮らの仏教は、有効であり続けるのでしょうか。
法滅時代は、悟りを開く人も、修行者も、仏教の教えも皆、なくなってしまう時代です。それは「仏教」という宗教自体が、消滅してしまう時代なのです。
その時代には、仏教の信者も、研究者も、僧侶も、経典も、仏教に関するものは何もなくなってしまうでしょう。仏教は、今から九千年後にやって来る法滅時代には、もはや何の役にも立たない教えになるわけです。
法滅時代の人々は、いったい何を頼りに生きたらよいのでしょうか。何を信じて生きたらよいのでしょうか。
五六億七〇〇〇万年もの未来にやって来る救い主「弥勒仏」を、待ち望んで生きるのでしょうか。いや、その時代には、「弥勒」という言葉自体、知られていないはずなのです。
キリスト教では今は終末時代
つぎに、キリスト教の歴史観を見てみましょう。
キリスト教には、「終末思想」というものがあります。これは「末法思想」と少々言葉が似ていますが、意味するところは大きく異なっています。
仏教の歴史観は、"完全なるものは永久に続かず次第に堕落していく"という下降型の歴史観です。それに対しキリスト教の歴史観は、
"神のご計画は、世の終末に向けて次第に進展していき、やがて終末において神の大規模なご介入があって、至福の新世界が現れる"
という発展型の歴史観です。
キリスト教では、時代は、
(天地創造)→太古時代→父祖時代→選民時代→終末時代→千年王国時代→(新天新地創造)
と進んでいくと考えられています。
まず天地創造・人類創造があって、しばらく「太古時代」が続きます。太古時代において、人類はしだいに、全世界に増え広がっていきます。
人類がある程度増え広がったとき、神は人類の中から、のちの選民イスラエルの「父祖」となるべき人物を、起こされました。アブラハムです。
アブラハムは、チグリス・ユーフラテス川流域に住んでいましたが、七五歳のときに神の召し(召命)を受け、神の示された地パレスチナに向かいました。彼はそこでイサクを生み、イサクからは、ヤコブが生まれました。
アブラハム・イサク・ヤコブの三人が、いわゆるイスラエル民族の父祖たちです。アブラハム召命の年からヤコブの死の頃までを「父祖時代」と考えると、父祖時代の長さは約二百年でした。
ヤコブは、自分の名前を「イスラエル」と改めました。彼の子孫がイスラエル民族です。イスラエル民族は、メシヤ(救い主)を、全世界のために来たらせることを目的として、神が創始し育成された民族です。
イスラエル民族は、弱小で欠点の多い民族でした。しかし、訓練すればメシヤを来たらせる民として最も良い民族になる、と神はお考えになったのです。
このイスラエル民族の時代が、「選民時代」です。「選民時代」は、イスラエル民族が生まれた時からイエス・キリストの降誕の時までと考えると、その長さは約二千年です。
次に、時代は「終末時代」に入ります。聖書は、キリスト以後の時代を「終わりの時」と呼んでいます。こう書かれています。
「キリストは……この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました」(ペテロの手紙第一、一・二〇)
キリスト初来以後は、すでに「終わりの時」
キリストの初来以後はすでに、世の終末と万物更新が間近になった「終末時代」なのです。
一般に「終末時代」は、広い意味と狭い意味で使われています。広い意味では、終末時代はキリスト初来以後のすべての時代です。また狭い意味では、とくにキリストの再来(再臨といいます)が間近になった時代をさして言われます。ですから、現代はとくにそうした狭い意味で「終末の時代」、あるいは「終末が間近になった時代」と言われることがあります。
キリスト初来以後の終末時代には、キリストの福音が、世界中に宣べ伝えられていきます。この時代は、救い主キリストを信じる「神の民」が、世界中で増加するための期間です。
私たちの生きている現代は、終末時代に入ってすでに約二千年近くを経ています。「二千年」というと、人生七〇〜八〇年の私たちには、悠久の歳月に思えるかもしれません。
しかし終末時代の長さは、天地創造からキリスト初来までの期間と比べると、最終的には短いものになるでしょう。
終末とはすべての人が死に絶える時ではない
多くの人は、「終末」、あるいは「世の終わり」とは、すべての人が無差別的に死に絶えてしまう破滅の時だと思っています。しかし聖書のいう「終末」は、もとより、このようなものではありません。
「終末」あるいは人類の破滅は、無差別的に起きるものではなく、むしろ"選択的"です。その日、滅びるのは滅びに値する者だけです。聖書は言っています。
「悪を行なう者は絶ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐ」(詩篇三七・九)
その日、神に反する勢力と、神に属する勢力とは明確に区別されるでしょう。神は、ご自分の者と、ご自分に属さない者とを明確に区別されるでしょう。
悪を行ない、罪から離れない者は、絶ち滅ぼされます。神は、すべての悪を世界から除く、と言われているからです。
しかし神を待ち望み、救い主キリストを信じてみこころを行なう者は、生き残ります。彼らは、至福に満ちた神の御国を継ぐことを、約束されているからです。彼らが滅びることは、決してありません。
また多くの人は、「終末」が来ると、それ以後は何もかも無くなると思っていますが、これも間違いです。聖書のいう「終末」は、すべてが無に帰してしまう最後の時ではありません。
「終末」が来ると、現在の世の体制は終わりますが、代わって、至福に満ちた神による「新しい世」が始まります。「終末」とは、現在の世と、来たるべき新しい世との"境界"にほかなりません。
聖書によると終末時代の最後の時に、キリストの再来(再臨)があります。初来の際に「しもべ」のかたちで来られたキリストは、再来の際には、「王の王」「主の主」として栄光の中に来られます。
再来のキリストは、世界に「千年王国」(黙示録二〇・六参照)を樹立されます。それは一千年に及ぶ、地上の至福の世界です。
千年王国は全世界を支配し、真の幸福・繁栄・平和を確立するでしょう。これが「千年王国時代」です。
神は、古びたこの天地を過ぎ去らせてしまう前に、現在の地上に、かつてエデンに見られた美しい世界を、しばらくのあいだ世界的規模で回復させることを望まれたのです。すべてが新しくなってしまう「万物更新」の前に、そうした世界をある期間地上に見ることは、たしかに意義のあることです。
神はかつて、天地創造の際、「六日」にわたって創造のわざをなされ、「最後の一日」は休まれました(創世記一章)。同様に神は、全歴史の最後の一千年を、安息の時代とされるでしょう。
千年王国が終わると、現在の天地は過ぎ去り、「新しい天と地」が創造されます。現在の世界に見られるすべての事物の体制は終わり、代わって、神による全く新しい世界が創造されます。
新しい秩序の中に、新しい神の王国が築かれます。その時、神を信じ神のみこころを行なった者は皆、その世界に復活して、新しい体を与えられ、そこに住みます。
それは神と人が共に住む世界です。千年王国、およびこうした新天新地における新しい世界を、聖書は「神の国」と呼んでいます。
世界は、この「神の国」に向けて進んでいる、というのがキリスト教の歴史観です。
それはちょうど、漁師が地引き網を引くことに似ています。"地引き網"の中には、良い魚も、悪い魚(食用にならない魚等)も入っています。漁師はそれを岸辺に引き上げ、引き上げた後、良いものと悪いものとを選り分けます。
それと同じように神は、世界の歴史という"地引き網"を引いておられるのです。その網は神の国という"岸辺"に向けて、引き寄せられています。
地引き網の中には、良いものも悪いものも入っています。神はそれを神の国の岸辺に引き上げた後、良いものと悪いものとを選り分け、良いものだけをご自身の神の国に入れられるのです(マタイの福音書一三・四七〜五〇)。
神は、父祖アブラハム、イサク、ヤコブを起こし、イスラエル民族を起こし、キリストを世に来たらせ、また教会を起こして、ご自身のご計画を着々と進めて来られました。それらすべては、最終的に神と人が共に幸福に生きる世界・・「神の国」を、この世に来たらせるためなのです。
神は、やがて悪に満ちた現在の世を過ぎ去らせ、新しい世界を創造して、そこにご自身を愛する者と共に住まわれます。世の「終末」とは、新しい世界の始まりであって、神のご計画が最終的に成就するときなのです。
ですから、神を愛する者にとって世の「終末」は、恐れるべきものではなく、むしろ待ち望むべきものであるわけです。
久保有政著
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