仏教の「空」 
        キリスト教の「物心論」
        唯物論、唯心論、仏教の「空」思想と、キリスト教の物心論の違い。 
          
        すべては実体のない「空」なのか。 
        それとも、「移り変わらない実体」はあるのか。 
         
         "物質と精神"すなわち"物心"の関係について、仏教とキリスト教を比較しながら考えてみましょう。 
         物質と精神の関係に関しては、古来、人々は様々な思いをめぐらしてきました。人々の考え方は、大きく分けて四つあったと言えるでしょう。それらは「唯物論」「唯心論」、そして仏教の「空」の哲学、また「キリスト教的物心論」です。 
         これら四つの考え方は、互いに全く異なる思想で、歴史の中にそれぞれの大きな流れを形成してきました。それらの独自な世界観、またイデオロギー(観念体系)は、人々の人生観や世界観に大きな影響を及ぼしてきたのです。 
         とくに近代の唯物論は、政治的イデオロギーに強く結びつき、共産革命の原動力となりました。さらには共産主義と自由主義との間に、深刻な対立を引き起こし、世界に破滅的な戦争の恐怖を与え続けてきました。 
         今ではその対立はソ連邦の崩壊によって弱まったものの、このことは、物質と精神に関する考え方が、人間の生き方や国家の政治理念に重大な影響を及ぼすことを、よく示しています。 
         私たちは物質と精神、および生命の実相について、どのように考えるべきでしょうか。「唯物論」「唯心論」、仏教の「空」の思想、「キリスト教的物心論」の四つを比較しながら、それを検討してみましょう。 
         
         
        唯物論と唯心論 
         
         まず「唯物論」を見てみましょう。 
         「唯物論」は、"実体"のあるのは物質であって、精神には実体はない、とする考え方です。精神は物質が引き起こす"現象"にすぎない、とするのです。 
         "実体"とは、つねに変わらずに存在するもののことです。唯物論によれば、実体を持ち本当に存在すると言えるものは、物質以外にはありません。 
         精神(心)は、物質が生み出した"現象"にすぎない、とされます。たとえば唯物論者カール・マルクスは、 
        「精神は、物質が生んだ最高の産物である」 
         と言いました。人間の内の「心」や「思い」は、脳内物質のつくり出す現象にすぎず、物理的・化学的反応ですべて説明がつく、とするのです。 
         唯物論においては、「心」や「思い」は実体のないものなのです。つまり「霊」とか「魂」とかいうような、実体の存在は認めません。 
         一方、「唯心論」はこの逆です。 
         「唯心論」においては、実体のあるのは精神の方です。実体を持ち、本当に存在するのは目に見えない「精神」であって、物質的世界は、単なる"現象"にすぎません。 
         たとえば古代ギリシャの哲学者プラトンは、世界を、「イデア界」と「現象界」というもので理解しようとしました。 
        「イデア界」とは本質の世界で、目に見えない実体の世界です。一方、「現象界」つまり目に見える物質的世界は、「イデア界」の"影像"であると彼は考えました。つまり"影"のようなものです。 
         また一八世紀の唯心論哲学者ジョージ・バークリーは、 
        「"有る"とは知覚されることである」 
         と述べました。物質的世界が「有る」と見えるのは、人間がそう知覚しているからだ。視覚や聴覚や触覚などの感覚を通して、私たちは物質的世界が「有る」と判断しているにすぎない。 
         私たちは感覚を通してのみ、物質世界を認識している。物質的世界は、知覚されなければ存在しないのである。それは人間の心に浮かんだ"仮象"にすぎない。物質的世界は、ちょうど"映画"のように実体のないものだ、としたのです。 
         現代でも、アメリカのある新興宗教では、物質的世界は"有るように見えるだけ"で、実際は実体のないものだ、と信じています。そして、たとえば病気なども、有るように思っても実際は存在しない、と教えています。これなども唯心論の考え方の一種です。 
         このように唯物論と唯心論とでは、考え方がまったく逆です。唯物論においては「物質」だけが実在であり、唯心論においては「精神」だけが実在なのです。 
         また、唯物論は物質を世界の根源とする「一元論」であり、唯心論は精神を世界の根源とする「一元論」である、ということも出来るでしょう。 
         
         
        仏教の「空」の思想 
         
         一方、仏教の「空」の思想については、どうでしょうか。「空」の思想は、唯物論や唯心論とは、多少異なった考え方をします。 
         「唯物論」は、実体を持つのは物質だとしました。「唯心論」は、実体を持つのは精神だとしました。唯物論にしても唯心論にしても、実体を、どちらかに認めていたわけです。 
         しかし「空」の思想は、どちらにも実体を認めません。あえて言えば、「空」の思想は,"ゼロ元論"なのです。 
         「空」とはもともと、実体がない、という意味です。「何もない」ということとは違います。現象の存在は認めるのです。しかしそこに"つねに変わらず存在する実体"というものは、認めません。 
         「空」の考え方によると、物質的世界も精神的世界も、ともに実体はなく、あるのは単に生成・消滅し移り変わる現象だけだ、とします。 
        『般若経』などでは、しばしばこの世界を"蜃気楼"や"夢""幻"の類にたとえています。"蜃気楼"や"夢"は、現象はあっても実体はありません。同様に世界のすべての事物は、実体のない「空」である、と説くのです。 
         なぜこのような「空」の思想が生まれたかというと、古代インド人は、人間が「輪廻(りんね)の世界」に生きている、と考えたからです。 
         人間は、死ぬと動物や、他の人間や、地獄界や、天人などに生まれ変わるという、あの「輪廻」説です。輪廻説について古代インド人は、決して今の多くの日本人のように、 
        「また他の者に生まれ変われるのなら、やり直しがききますね」 
         などとは考えませんでした。じつは彼らは、「輪廻」を非常に"苦しいもの"と考えたのです。 
         輪廻の考えによると、人はこの世でなした善あるいは悪に応じて、来世(来生)で幸福な状態もしくは不幸な状態に生まれ変わるのですが、その生まれ変わりには決して"終わり"というものがありません。 
         生命はいつまでも、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天人」の六つの世界を、グルグルと回り続けなければならないのです。 
         ですから、たとえこの世で善行を積んで、天上世界に神々のひとり(天人)として生まれたとしても、そこでもし怠惰と享楽に身をまかすなら、ふたたび地獄その他の、不幸な境遇に転落していかなければなりません。 
         輪廻の世界の「天上」は、キリスト教の「天国」とは違って、そこに住む者は永遠ではなく、いずれ死があるのです。そして死ねば、また他の何かに生まれ変わらなければなりません。 
         こんなことが永遠に続くのですから、たまったものではありません。輪廻の世界は、古代インド人にとって"牢獄"のように思われました。 
         人々は、なんとか輪廻の現実を乗り越えたい、と思いました。そう思っていた人々に、 
        「輪廻の世界は、すべて無我(無実体)なのだ」 
         と説いたのが、シャカです。 
         現代の日本では「無我」というと、「無我夢中」の「無我」とか、「無私の精神」の意味で言われます。しかしシャカの言った「無我」は、こうした現代的意味とは関係がありません。 
        「我」とは、古代インド思想におけるアートマンのことであって、「実体」の意味なのです。シャカは、この世界は「無我である」、つまり、 
        「輪廻の世界はいずれも、実体を持たない単なる現象に過ぎない」 
         と説いたのです。 
         この世界も、自分の存在も、生も死も、すべては「空」であって単なる現象にすぎない。だから、自分の生についても死についても、こだわったり執着したりする必要は全くない、というわけです。 
         つまり「空」(無我)の思想は、輪廻を信じていた人々が、それを否定し、それを乗り越えるために信じ込もうとした思想なのです。 
         
         
        キリスト教の物心論 
         
         私たちは唯物論、唯心論、そして仏教の「空」の思想をみてきました。つぎに、キリスト教の考え方を見てみましょう。 
         唯物論は、"物質"の側面から世界を理解しようとしました。唯心論は"精神"の側面から世界を理解しようとしました。また「空」の思想は、"現象"の側面から世界を理解しようとしたものです。 
         これらはいずれも、一側面から物事を理解しようとした"部分観"にすぎません。私たちに必要なのは、むしろ"全体観"です。では"全体観"とは何でしょうか。 
         キリスト教は唯物論のように、精神は物質の生みだした単なる"現象"とは考えません。また唯心論のように、物質的世界は人間の心に浮かんだ、実体のない単なる"仮象"だとも考えません。 
         また「空」の思想のように、すべてを夢や幻のように実体のないものだとする、過ちにも陥りません。 
         キリスト教では、物質も精神もともに実体を持つ、と考えるのです。両者はともに、神の創造によって存在を得たものであって、それぞれに実体を持っています。 
         現代科学の説明によれば、私たちの住む物質的宇宙は、「ビッグバン」(大爆発)また「インフレーション」(急膨張)と呼ばれる爆発的な始まりによって存在を得ました。 
         しかも最近の理論によると、宇宙は"無"から爆発的に始まった、と言われるようになっています。科学誌『ニュートン』一九八六年四月号には、こう書かれています。 
         「宇宙は、量子論的自由をもつ"無"から誕生した」。 
         宇宙は"無"の中から、一種の"トンネル効果"によって存在へ呼び出された、というのです。 
          
        最近の科学は「宇宙は無から 
        誕生した」と言うようになった 
         この科学理論は、いまだ完成されたものではなく発展の余地を持っていますが、その指し示しているところは、キリスト教の教典である『聖書』が何千年も前に記していた言葉に、非常に近いものになっています。聖書はこの宇宙が、 
         「無から有を呼び出される神」(ローマ人への手紙四・一七) 
        によって存在に呼び出された、と述べています。宇宙は、一種の"トンネル効果"により、無の中から、実体を持つ「有」へと引き出されたのです。 
         宇宙は創造されたものであって、実体を持つ実在です。私たちの住む物質的世界は、決して単なる"現象""夢""幻""蜃気楼"の類ではありません。 
         表面的にはつねに移り変わっているように見えても、その奥には、常に変わらない実体が存在します。 
         たとえばここに一冊の本があって、それが燃えて、灰になったとしましょう。まことにすべては「移り変わります」。 
         ではそこに、変わらない実体はないのでしょうか。私たちは物理学の授業で、燃焼の前でも後でも、そこにある質量の総量は変わらないことを、学びました。 
         たしかに、燃えて出来た灰は、最初の本より重さは軽くなっています。しかし燃焼の際に生じて逃げていったガスなどの質量をも全部加えると、燃焼前の質量と、燃焼後の質量は同じです。これは、「質量保存の法則」と呼ばれています。 
         また同様に、燃焼前も燃焼後も、そこにあるエネルギーの総和は、一定です。これは「エネルギー保存の法則」と呼ばれています。そしてこの法則は、全宇宙を支配している、と考えられています。 
         物質的世界では、様々なものが生じたり滅したりしていますが、その奥には、つねに変わらぬ実体、あるいは本質が存在しているのです。 
         
         
        精神も実体を持つ 
         
         同様に、精神も、実体を持っています。キリスト教では、その実体は「霊」あるいは「魂」という名で呼ばれています。 
         「精神」や「心」「思い」といったものが、単なる脳内物質の"現象"ではないことを示す良い例は、ニア・デス体験(臨死体験)でしょう。 
         最近では、救急医療の発達や蘇生術の進歩により、臨床的に一度「死んだ」と認められながら、しばらくして息を吹き返した人々に関する報告が、増えています。そうした人々が、その"死"の間に体験した出来事を「ニア・デス体験」(死の付近の体験)、もしくは「臨死体験」と呼んでいるのです。 
         ニア・デス体験を世界中から数多く集めてみると、そこには、驚くほどの共通性があることがわかります。詳細は省きますが、その共通性の一つは、ニア・デス体験はその体験者に、死後の魂の存続を強く確信させるものである、ということです。 
         死とは無の世界ではなく、死後も魂は肉体を離れて存続するのです。 
         先日NHKで、「臨死体験」と題するドキュメンタリーが放送されました。その番組の中で、次のようなニア・デス体験が紹介されています。 
         リポーターは、科学ジャーナリストとしても著名な立花隆さん。ニア・デス体験をした人は、アメリカ人男性のアル・サリバンさん(五九歳)です。 
         サリバンさんは、かつて心筋梗塞で救急病院に運ばれ、その手術中にニア・デス体験をしました。そして魂が肉体から離れる、いわゆる「体外離脱」の経験をし、手術室で起きた一部始終を自分で見ていたといいます。 
         彼は、「体外離脱」の間に自分が見たこと聞いたことが事実と合っているかどうかを確かめたいと、手術を担当した医師に会いに出向きました。そのときの対面に、立花さんが同行したのです。 
         手術を担当した医師は、コネチカット州の病院に勤務する日本人心臓外科医・高田裕可さんです。高田さんが手術後サリバンさんに会うのは、初めてのことです。 
        サリバンさんは、自分が手術の時に見たことを、語り始めました。 
        「先生は、私の頭のあたりに立っていました」。 
        「その通りです」。 
         高田医師は答えました。サリバンさんが続けます。 
        「私は体をぬけ出し、手術の様子を見ていたんです。最初に見えたのは、目におおいをかぶせられた自分の姿でした」。 
        「ええ、私たちは目を保護するために特別な紙で、あなたの目をすっぽりおおっていました」。 
        「それで先生は、このようにして(両手を胸にあて、ひじをつり上げて合図するさま)まわりにいる助手に指示を出していました(助手がうなづく)。私は上からながめていて、変な指示のしかただな、まるで鳥が羽ばたいているみたいだな、と思いました。それから先生は、手術用なのかどうかわかりませんが、メガネをかけていました」。 
        「ええ、私は患部を拡大して見るために、特別なメガネをかけていました」。 
        「それから手術なのに、あまり血が出ていませんでした。また私の心臓は、赤くなくて、白っぽい紫色でした」。 
        「たしかに心臓は、白っぽい紫色でした。それは私たちが手術すべき動脈をよく見えるようにするために、あなたの心臓にバイパスをつけて、完全に血をぬいたからです。ですから手術中は、あまり血が出ませんでした。そして心臓はたしかに、あなたの言うように白っぽい紫色に変わっていました」。 
         ここでリポーターの立花さんが、高田医師に質問しました。 
        「サリバンさんは、手術の専門知識を持っていないと述べていますが、彼はなぜこれほど自分の手術の時の様子を、正確に語れるのでしょうか」 
         高田医師は少し考えてからこう答えました。 
        「私には、どうしてこれほど正確に語れるのかわかりません。こういった人間の能力は、とても今の科学では説明できません」。 
         このように、ニア・デス体験は、死後の魂の存続を強く確信させるものです。サリバンさんのような経験は「幻」だとか、「耳から聞いたことを覚えていたのだ」とか言って説明することはできません。 
         「実際に"体外離脱"をしたサリバンさんが見ていた」としか説明できないのです。魂は物質的肉体を離れても、存在することができるのです。 
         魂は「物質の生んだ最高の産物」ではありません。物質によってひき起こされる単なる"現象"でもありません。物質とは全く別の実体なのです。 
         聖書は、死ぬことを、 
        「魂が(肉体から)離れ去る」(創世記三五・一八) 
         ことと表現しています。死とは、肉体と魂の分離です。 
         キリスト教では、物質と精神の双方に、実体を認めます。そして精神(心や思い)に関しては、その実体を「魂」あるいは「霊」と呼ぶのです。 
         
         
        しかし「二元論」ではない 
         
         けれども、キリスト教は物質と精神の双方に実体を認めるものの、哲学者のいういわゆる「二元論」とも異なります。 
         「二元論」とは、世界の根源は物質と精神の両方だ、という考えです。物質と精神を対等に見て、双方を世界の根源だと考えるのです。 
         しかしキリスト教では、そうは考えません。聖書にこう記されています。 
        「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(コリント人への手紙第二、四・一八)。 
         この「見えるもの」とは物質世界、「見えないもの」とは精神世界や、天国、神、また魂などをさします。キリスト教では、物質世界は一時的な、限定されたものと考えるのです。 
         物質世界は、神の創造によって存在を開始し、今は神の力によって保たれ、やがては過ぎ去るものです。その意味で、物質世界は「一時的」であり、物質と精神は対等ではありません。 
         また、物質世界は、神の力によって存在へと呼び出されたものです。見えるものは、見えないものから現われました。根源は、見えない神にあります。物質世界は被造物(造られたもの)であって、根源は神なのです。 
         このようにキリスト教では、世界の根源を、ただ霊なる見えない神にのみ認めます。決して、物質と精神の双方を世界の根源だとは考えません。 
         しいて言えば、キリスト教は唯一の神を世界の根源とする"一元論"ということになるでしょうが、唯物論や唯心論のような一元論ではないのです。キリスト教は、物質と精神の双方に実体を認めるからです。 
         ですからキリスト教の考え方は、「一元論」とか「二元論」といった分け方では、うまくとらえることはできません。キリスト教では、物質と精神の両方に実体を認め、さらにそれらの奥に、永遠の実在者である神を認めるのです。 
         神はご自身について、次のように語られました。 
         「わたしは有って有る者。・・・・これは永遠にわたしの名、これは世々にわたしの呼び名である」(出エジプト記三・一四〜一五)。 
        この「有って有る者」という言葉は、英訳では、 
          "I AM THAT I AM"(わたしは「わたしはある」という者である) 
         となっています。もっとわかりやすく訳せば、 
        「わたしは自ら存在する者である」 
         ということです。何と力強い言葉でしょうか。 
         私たち人間は、いわば"有って無い者"です。今はこの世にありますが、数十年前までは存在しませんでした。そしてやがて死ぬ者です。しかし神は、永遠から永遠まで存在しておられるかたであって、真に"実在"と呼べるかたです。 
         神は、他の何にも依存せず、自ら存在しておられます。人間の場合は、生きるために空気や、水や、太陽の光など、多くのものに依存しています。しかし神は、他のいかなるものにも、依存しておられません。 
         神は自ら存在される、"自存的存在者"なのです。一方人間は、"依存的存在者"です。 
         人間は、空気や水や、太陽の光や、その他多くのものに依存しなければ生きていけません。人間は神の恵みに、ひたすら依存して生きている者なのです。 
         その意味で神と人間は、まったく異なる存在です。神は自存的存在者であり「創造者」であって、人間は依存的存在者であり「被造物」(ひぞうぶつ)なのです。 
         人間のみならず、すべての被造物は"依存的存在"です。この宇宙自然は、神によって創造されたものであって、今も神の御力によって保たれているのです。 
         私たち人間は被造物ですから、自分が依存的存在にすぎないことを、率直に認めなければなりません。私たちは神の恵みなしには、生きることもできないのです。 
         これらのことを率直に認めることが、「信仰」の第一歩です。自分に存在を与えてくださったのは神である、と認め、創造者なる神をあおぎ見るのです。 
         また「信仰」とは、人間が、創造者なる神との深い"愛と生命の交わり"に入ることです。神は私たちに自由を与えてくださったのですから、その自由意志で神を信じ神を愛して、神との"愛と生命の交わり"の中に入るのです。 
         そうすることによって私たちは、この世で、神の生命の躍動を、力強く内側に受けることができます。人生を力強く切り開いていく力が、与えられるのです 
        久保有政著 
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