聖書一日一章

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1日 旧約聖書・創世記一章
 「初めに、神が天と地を創造した」(一・一)――この力強い御言葉にふれて、同志社大学の創始者・新島襄は回心したという。あなたはこの創世記一章の御言葉にふれて、何を感じるか。
 進化論が広まり始めたとき、人々はこの創世記の御言葉を嘲笑するようになった。しかし、ダーウィン以後一〇〇年以上たった今日、進化論は科学的に否定されつつある。
 進化論を裏づけると主張されたものが、次々とくつがえされ、今や進化論は、証拠なき空論と化している。そして進化論を捨て、創造論に立つ科学者が増えつつある。
 今日、科学の発展の結果明らかにされた様々の事実は、創世記一章の記述内容を裏づける方向に向かっている。これは何と力強いことであるか。
 私たちの信仰は、決して空虚なおとぎ話に基づいたものではない。それは、天地万物を創造された真の神が歴史上になされた出来事と、私たちに与えられた啓示の御言葉(聖書)に基づいているのである。
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2日 新約聖書・マタイ一章
 イエス・キリストのこの系図によって、私たちに何がわかるか。
 第一に、主イエスは、神のご計画のもとに来られたこと。
 それは「一四代」という言葉にもあらわれている(一七)。また、主がダビデの家系に降誕されたことは、何百年も前から予言されていたことだった。
 第二に、主は、罪の世界のただ中に降誕された。それは娼婦ラハブの名や、他人の妻によってソロモンを生んだダビデ王、一千の側室の女を蓄えたソロモン王、偶像に赤ん坊をいけにえとして捧げたマナセやアモンなどの名によって、知ることができる(五、六、一〇)。
 第三に、主はユダヤ人の血だけでなく、異邦人の血をも受けて降誕された。異邦の女ルツ(モアブ人)の名は、それをあらわしている(五)。主は単にユダヤ人のためだけでなく、広く全世界の人々のために降誕されたのである。
 今日もこの主イエスを心の内にお迎えし、自分を指導してくださるよう祈ろう。
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3日 旧約聖書・創世記二章 
 私たちの先祖が「善悪を知る木」の実を食べて以来、この世界は、善と悪が複雑に交錯する世界となった。
 世は戦争と平和、善人と悪人が入り交じり、人の心もまた、善心と悪心が複雑に入り交じっている。そしてあなたの前には、常に二つの道――善の道と悪の道、命の道と死の道、祝福の道と呪いの道とがある。
 これについて、申命記三〇章を読んでみよう。あなたは善の道、命の道、祝福の道をあゆんでいるか。
 あなたはまた、その道を自分の力にたよって歩んでいるか。それとも主イエスを見上げ、主イエスにより頼んで歩んでいるか。
 私たちの力は、上より、神の御座から来る。悪と罪、のろいと死から私たちを解放するものは何か。また誰が、私たちを解放するのか。主イエスのほかに、誰がそれを出来よう。
 主イエスにあって、心に愛を抱き、歩んで行こう。そうすれば、滅びの道に進んでしまうことはない。
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4日 新約聖書・ローマ一章
 キリストの使徒パウロは、「私は福音を恥としない」(一六)と語った。
 「福音」とは何か。「信じるすべての人に救いを得させる神の力」である。この「力」は、ギリシャ原語でデュナミスといい、ダイナマイトの語源となった。
 福音は、ダイナマイトのように、爆発的に人心を変革する神の力である。それは人を罪と滅びから救う、唯一のものだ。
 私たちはキリストの福音を信じることにより、その信仰によって命の道に入る。「義人は信仰によって生きる」(一七)のである。
 あなたは今日、信仰によって生きているか。神の御教えを愛し、それに心を向けているか。それを学び、それに従おうとしているか。
 主イエスと共に歩んでいるか。彼に信頼し、彼があがめられるように生活しているか。
 聖霊を悲しませることなく歩んでいるか。聖霊が好んで吹いてくださるような心をもって、あゆんでいるか。
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5日 旧約聖書・創世記三章
 蛇の背後にいたサタンは、どのようにアダムとエバを誘惑したか。神が「いけない」と言われたことを、「良い」とすることによってである(4)。
 この誘惑は、いつも私たちにふりかかってくる。あなたは、今日その誘惑を受けていないか。あるいは、その誘惑にのってしまっていないか。
 あなたは「ちりだから、ちりに帰る」(一九)者である。そうであれば、サタンの誘惑にのってこの世で欲のおもむくまま生きることは、ひどく空しいことではないか。
 あなたは、自分があたかも主権者であるかのように歩んでいないだろうか。しかし、人生の主権者は神である。主権を神におまかせすることだ。詩篇の作者が言ったように、
 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇三七・五)
 のである。
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6日 新約聖書・マタイ二章
 紀元前八世紀になされた預言者ミカの預言(ミカ五・二)が成就して、キリストは降誕された。
 東方の博士たちは、遠路はるばる旅をして、エルサレムにやってきた。彼らは神を愛する人々であった。
 神を愛することは、行動を伴う。彼らは約束された救い主を一目見、そのみもと近くへ行こうと、長旅をしてきたのである。
彼らは、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬をささげた(一一)。あなたは、主のために何をささげたか。主を愛するしるしとして、何をささげたか。
 今から約二五〇年ほど前、ツィンツェンドルフという人は、キリストの十字架を描いたある絵を見て、その前に立ちつくした。その絵には、
 「私はあなたのためにこれをなした。あなたは私のために何をなすか」
 との画題がつけられていた。ツィンツェンドルフの心は揺り動かされ、彼の生活はその時から全く変わった。
 彼こそ、後のモラビア兄弟団の創設者となった人である。彼は主のために、自分の一生をささげたのである。
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7日 旧約聖書・創世記四章
 神がカインの捧げ物に目を留められなかったのは、神が羊を好み、地の作物を嫌われたからではない。
 捧げる際のカインの態度に問題があったからである。もしカインが純粋に神に喜んでいただきたいとの気持ちで捧げたならば、たとえ目を留められなかったとしても、彼は悲しむことはあったろうが、「ひどく怒る」(五)ことはなかったであろう。
 ひどく怒ったのは、弟アベルに対するねたみの気持ちがあったからである。ねたみは人を殺し、また自分を殺す。
 私たちは、もし自分が正しいことをしたならば、誰かをねたむことがあってはならない。誰かをねたむなら、それは自分のしたことが正しくなく、不純だったことを証明しているのである。
 カインは追放されたが、やがて妻をめとり、子供たちと町を建てた。アダムとエバは多くの男子と女子を生んだので(五・四)、カインはその中から妻をめとったのである(当時の人々は長寿だった)。
 神はあれほどの重罪を犯したカインにさえ、あわれみを示されたのである。
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8日 新約聖書・ローマ二章
 これは、当時の律法主義に対する批判である。当時、多くのユダヤ教徒は、形式的に神の教えを口にしたが、その実状は偽善的であった。
 宗教は精神を失うと、何の価値もない。これは今日も、多くの仏教国、イスラム教国、またキリスト教国等で見られることである。
 もしあなたが、聖書を持っていても、またキリスト教の団体に属していても、また両親がクリスチャンであっても、あなた自身が神を愛していないなら、あなたのキリスト教には何の価値もない。
 あなたが「自分を愛するように隣人を愛しなさい」を教えながら、もし自分が隣人を愛していないなら、あなたのキリスト教は死んだものである。
 真のキリスト教は、心の中からわきあがってくる。「御霊による心の割礼こそ、割礼である」(二九)。心からの神へのディボーション(献身、帰依、専心)が、あなたを真のクリスチャンとする。
 あなたが、幼児のように自分を神にささげることによって、神はあなたを御手の中に抱かれるのである。
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9日 旧約聖書・創世記五章
 「こうして彼は死んだ」との繰り返しの中に、その連続を破る一人の者がいる。エノクである(二一)。
 エノクは六五歳までは、他の人々と同じように歩んだ。しかし六五歳になって、メトシェラを生んだときから、彼は「神と共に歩んだ」(二二)。
 これは、メトシェラを生んだとき、彼の生き方を変えるような大きな出来事があったからに違いない。それはきっと劇的なドラマであったろう。
 エノクの子メトシェラは、史上最も長く生きた人だが、ちょうどノアの大洪水の年に死んだ。おそらくエノクは、メトシェラが生まれた際に、「メトシャラが死ぬ年に、地に大洪水が起こる」との神の啓示を受けたのであろう。
 だから彼は、以後神と共にあゆんだ。そしてやがて、死を見ずに、よみではなく天国に移された。世の終わりの時代にエルサレムに現われるという二人の預言者(黙示一一・三)は、このエノクとエリヤであるとの説もある。
 実際、新約聖書ユダの手紙によると、大洪水以前に生きたエノクは、預言者でもあった(ユダ一四)。
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10日 新約聖書・マタイ三章
 バプテスマ(洗礼者)のヨハネは、主イエスの到来を準備する者であった。
 彼は、自分の教えを説くのでなく、神の教えを説いた。また自分があがめられるのではなく、自分の後に来られるかたをあがめるように、人々に説いたのである。
 私たちも、彼のようでなければならない。やがて天が開けて、主イエス・キリストが再来される。私たちは、彼の到来を準備するために、いま地上にいるのだ。
 神は天から声を出されて、
 「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(一七)
 と言われ、主イエスが神の御子であること、また救い主であることを確証された。私たちが人々に説くべきこともまた、このことである。御子イエスのほかに、私たちを救える救い主はいない。
 あなたは今日、主イエスの到来を準備する者にふさわしい歩みをしているか。自分の教えではなく、神の教えを説き、自分があがめられるのではなく、主イエスがあがめられるようにしているか。
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11日 旧約聖書・創世記六章
 ノアが建造した箱舟は、長さ約一二〇メートル、幅二二メートル、高さ一三メートルであり、今日のタンカー級の巨大な船であった。
 長さ・幅・高さの比は、三〇・五・三であった。これは、今日の造船技術から見て、理想的な形である。
 タンカー級の巨大な船の場合、あまり短いと安定が悪く、一方長すぎると、今度は大波に乗った時に真ん中から折れる危険がある。また、船体は平たいほうが安定がよいが、あまり平たすぎると、強度が低下する。
 NTTの前会長・真藤氏は、NTTに入る前、ある造船会社の社長をしていた。そのとき、タンカー級の大型船の理想的な形を研究するため、研究チームをつくらせた。
 その研究の結果、理想的な大型船の形は、長さ・幅・高さの比が三〇・五・三というものであった。以後、大型船の建造には、この形がよく用いられている。
 これはノアの箱舟と全く同じ比なのである。ノアは大型船知識のほとんどない当時にあって、理想的な船を造ったことになる。これは神様の指導があったからにほかならない。
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12日 新約聖書・ローマ三章
 律法が与えられたのは、神の真理と規範を教えると共に、人々の罪を明らかにするためであった。
 しかし今やキリストによる義が明らかになり、私たちは、キリストのあがないにより、彼への信仰によって「価なしに義と認められる」(二四)。
 使徒パウロは、これはまた「神の義」なのだ、と言っていることに注意しよう。「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり・・・・」(二六)とある。
 私たちを義とすることは、神の義のためでもある。すなわち、神は私たちを罪と滅びから救うことによって、ご自身が義となられるのだ。
 私たちを救い、義とすることなしには、神ご自身も、義をあらわすことができない。人間を救うことは、神ご自身のアイデンティティもかけた、壮絶な行為なのである。
 主キリストのあがないの血潮によって、また彼への信仰によって、神の御前に義とされていることを、今日も感謝しよう。
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13日 旧約聖書・創世記七章
 箱舟に、動物たちやノアの家族の全員が入ったとき、箱舟の戸を閉めたのは、ノアではなく、彼の家族でもなく、神ご自身であった。
 「主は、彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた」(一六)とある。それから大洪水が始まった。溺れ死んでいく人々の悲鳴や、助けを呼ぶ人々の声が、箱舟の外からノアたちに聞こえたに違いない。
 しかし彼らは、もはや箱舟の戸をあけることはできなかった。主ご自身が閉ざされたからである。
 ノアたちは、箱舟の戸が閉ざされるまで、必死に伝道したに違いない。しかしその伝道も、箱舟の戸が閉められたときに終わった。そのときから裁きが始まったのである。
 今私たちがなしている伝道も、やがて、それ以上は出来なくなる時が来る。主が戸を閉められるからだ。そして裁きの時が始まる。
 伝道の機会は、いつまでも与えられているわけではない。あなたは、今日なすべき伝道を今日なしているか。
 戸が閉められるときが来る。私たちは今日も、なすべきことをしようではないか。
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14日 新約聖書・マタイ四章
 主イエスは、どのようにしてサタンの誘惑を退けられたか。神の御言葉をもってである。
 主は、サタンの三度の誘惑に対し、いずれも(旧約)聖書の言葉を引用して勝利された。これこそ私たちが模範とすべき、信仰生活における誘惑への対処法である。
 かつてダビデ王は言った。
 「私は、あなた(神)に罪を犯さないため、あなたの御言葉を心にたくわえました」(詩篇一一九・一一)。
 この「たくわえました」は、原語では「宝物化しました」というような意味である。ダビデは昼も夜も神の御教えを口ずさみ、その御言葉を愛した。
 あなたは、主の御言葉を愛しているか。日々、主の御言葉を読み、それに接し、学び、熟考し、心にめぐらし、宝物化しているか。心に御言葉をたくわえることが、誘惑を受けたときに力となるのである。
 主イエスさえ誘惑を受けたのであれば、誰が誘惑を免れよう。御言葉を一つ一つ、自分の血とし肉とするたびに、私たちは強い人間となるのである。
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15日 旧約聖書・創世記八章
 科学的創造論者は一般に、大洪水以前の地球上空には、「大空の上の水」(雲ではない 創世一・七)と呼ばれる膨大な量の水蒸気の層が広がっていた、と考えている。
 水蒸気の層は当時、地球大気全体をおおっていたので、当時の地球はどこもビニールハウスの中のように温暖だった。この水蒸気層がノアの日に大雨となり、全地に降り注いだのである。
 ノアが箱舟に入ってから、箱舟を出るまで、一年以上が経過した(七・一〇、一一、八・一四)。この間ノアは何を思い、何を考えたろう。
 大洪水以前の旧世界と、大洪水後に始まる新世界について、思いをめぐらしたに違いない。新世界は、一体どんな世界となるのか。
 ノアは、自分と自分の家族が、大洪水後のすべての人々の先祖となることも自覚していた。彼は箱舟から出たとき、すぐに主のために祭壇を築いた(二〇)。それは彼の献身の心のあらわれであった。
 ノアがなぜ神の御前に「義人」と見られたのか。それは彼が神に常に信頼し、神のご命令に対し従順を貫いたからである。
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16日 新約聖書・ローマ四章
 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(三)。アブラハムは、何を信じたのか。神を信じたのである。神の何を信じたのか。神の約束を信じたのである。
 彼には、後継ぎとなる子がなかった。彼は年およそ八〇歳の老人であり、妻も老人となっていた。にもかかわらず彼は、彼の子孫が「夜空の星のように多くなる」と言われた神の約束を、信じたのである(創世一五・六)。
 神は、約束を信じる者を義と認められる。 神はキリストを世につかわし、彼の死によって、人々の罪のあがないを成就された。また神は、キリストをよみがえらせ、私たちが来たるべき日に永遠の命の体に復活することの保証を、与えられた。
 キリストの十字架と復活は、私たちの救いの基盤であり、保証なのである。それは神の約束なのだ。神はこの約束を信じる者を、義と認められる。
 「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったかたを信じる私たちも、その信仰を義とみなされる」(二四)
 のである。
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17日 旧約聖書・創世記九章
 大洪水後に神は、人の血を流す者に対して、血の価を要求された。その理由として、人が「神のかたち」に造られたことを、あげられた(六)。
 このことから私たちは、「神のかたち」がアダムとエバの堕落後も、存続していることを知る。そうでなければ、神はこのようには言われなかったであろう。
 ある人々は、アダムとエバの堕落後「神のかたち」は完全に失われたかのように言うが、そうではない。「神のかたち」は堕落によって損なわれながらも、今も存続している。
 神がなぜ人を救おうとされるのか。またなぜ、御子キリストに十字架の犠牲を強いてまで、人を救おうとされるのか。それは人が「神のかたち」に造られたからである。
 神の御前に、人は宝石以上に貴い。あなた自身もそうだ。あなたが、たとえ過去に多くの罪を犯したとしても、なおあなたは神の御前に麗しい。
 神の目から見れば、あなたは、過去がどうであれ、救われなければならない。神のかたちに造られたあなたの本来の生存目的が、回復されなければならないのである。
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18日 新約聖書・マタイ五章
 マタイ五章を読んだ人々の中から、二〇世紀に入って、二人の偉大な人物が世界に現われた。インドのマハトマ・ガンジーと、アメリカのマルチン・ルーサー・キング牧師である。
 ガンジーは、マタイ五章の非暴力の教え(三八〜四八)の箇所に来たとき、限りなく愉快な気持ちにさせられたという。彼は、自己犠牲こそ宗教の最高の形式だと感じたのである。
 ガンジーはこのキリストの御言葉を実践し、それを社会改革の力に応用して、ついにはインドの独立を勝ち取った。
 一方、マルチン・ルーサー・キング牧師も、キリストの非暴力の教えを実践し、それを社会改革の力に応用して、ついには黒人の公民権獲得に成功した。
 彼らは二人とも、心ない暴徒の凶弾に倒れ、激動の生涯を閉じたが、その精神は今も生きている。彼らは、非暴力が社会の不正を正す有力な手段となり得るという、輝かしい実例を残してくれたのである。
 今日、非暴力の精神とは何かをよく考え、それを自分の内に育てるようにしよう。
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19日 旧約聖書・創世一〇章
 ノアの子セム・ハム・ヤペテのこの系図から、何がわかるか。
 まずヤペテの子孫は、おもにヨーロッパやソ連、インド方面に広がった。いわゆるインド・ヨーロッパ語族の人々などである。またレムナントで以前取り上げたが(二九号)、中国や韓国、日本人などモンゴロイド系の人々も、ヤペテ系であると思われる。
 次にハムの子孫は、アフリカや中近東、南アジア等に広がった。いわゆる黒人はハムの子孫であるが、ハムの子孫の中には黒人と言えるほど肌が黒くない人々もいる。のちにイスラエル人に征服されたカナンの諸民族は、ハムの子孫であった(一五〜二〇)。
 またセムの子孫は、おもに中近東に住んだ。イスラエル人は、セムの子孫である。
 最後に、この系図から何がわかるか。セムの子孫、ハムの子孫、ヤペテの子孫は、中東から全世界に広がっていった。中東は、セム、ハム、ヤペテの子孫のそれぞれが住む地域の交点に位置する。イエス・キリストは、この交点に降誕された。それは彼が、全人類のための救い主だからである。
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20日 新約聖書・ローマ五章
 罪は、ひとりの人アダムによって全人類に入り、死によって全人類を支配した(二一)。
 同様に恵みは、ひとりの人キリストを通して人類に入り、義と永遠の命という賜物によって、信じるすべての人を支配する。
 このことから、しばしば神学者は、キリストを「第二のアダム」と呼ぶ(一四)。ひとりのアダムによって罪と死が入ったように、ひとりのキリストによって義と命とが入ったからである。
 キリストは「第二のアダム」となり、第一のアダムの失敗を取り戻された。アダムの失敗を取り戻すために、数千、数万の義人を要しなかった。イエス・キリストという一人の完全な義人がおれば、彼がすべてをなし得たのだ。
 キリストのうちには、神の知恵と力と愛と真理と恵みとが、凝縮されている。信じる私たちは皆、神の力により、このひとりの人キリストのうちに見いだされる。
 またひとりのキリストが、信じる各自の霊の内に宿っておられる。こうしてすべてのキリスト者とキリストとは、一体である。この一体性が、キリスト信者を救うのだ。
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21日 旧約聖書・創世一一章
 バベルの塔を、なぜ神は不快に思われたか。
 それは第一に、彼らの行為は「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(一・二八)という神のご命令に対する違反だったからである。彼らは一個所に集まって、全地に広がろうとしなかった(四)。
 また彼らの行為の中には、神の御前における傲慢さが見られた。彼らは「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」(四)といった。
 塔は彼らの帝国主義と、自己満足と、神への反抗の象徴だった。バビロニア地方には、今も古代の塔の跡がいくつか残っており、そのうちの一つがバベルの塔だったのではないかと言われている。
 現代においても、人々は様々な「バベルの塔」を建設している。「神をあがめず人間をあがめる文明」というバベルの塔だ。
 これも、やがて取り壊されるだろう。私たちは、そのバベルの塔と共に滅びる者とならないように注意しよう。
 神が求めておられるのは、神を第一にした文明だ。それこそ永遠に続くものである。
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22日 新約聖書・マタイ六章
 あなたはこの章を読んで、何を一番教えられたか。
 一つ一つの教えは、珠玉のように、まばゆい光を放っている。これらのうちの一つの教えでも、今日自分のものにしよう。
 たとえ一つでも、これらの教えを自分のものにするなら、あなたは必ずや今までとは違う自分になるであろう。あなたは、どの教えを選ぶか。
 それを選び、それを熟考し、暗記し、自分の血となり肉となるよう祈ろう。
 キリストのこれらの高潔な教えは、何のために語られたか。私たちが真に神の子にふさわしい歩みをなし、私たちを通して天の父があがめられるためである。
 天の父は太陽のようなかたであり、私たち一人一人の神の子は、月のような存在である。太陽は自ら輝くが、月は太陽の光を受けて輝く。
 あなたの顔を、太陽である神に向けなさい。その光を吸収し、その熱を受けなさい。そのとき、あなたは闇の中に輝くようになるのである。
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23日 旧約聖書・創世一二章
 紀元前二千年頃、神はメソポタミヤのハラン(カラン)にいたアブラム(一一・三一)を召し、カナンの地(パレスチナ)に行けと命じられた。
 当時彼は、アブラハムと改名する前であったので、アブラムといった。カナンへ旅だったとき、彼はすでに七五歳であった(四)。
 アブラムはまだ、その地へ一度も行ったことがなかった。どんな地なのかは、知るよしもない。しかし、彼はただ神の御約束を信じて出て行った。
 着いてみると、バラ色の人生が待っているわけではなかった。その地にはききんが激しく、しばらくの間、さらに南のエジプトに行かねばならなかった(一〇)。
 彼はエジプトで、不安な時期を過ごした。「カナンの地を与える」(七)との約束は一体どうなったのか、との思いが、彼の心にはなかったであろうか。
 神は私たちに祝福を約束された。しかし、すぐにバラ色の人生が始まるのか。必ずしもそうではない。私たちが祝福を受けるにふさわしい者となるために、神は私たちを、しばらくのあいだ訓練されるのである。
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24日 新約聖書・ローマ六章
 ここには、「キリストとの一体化」という重要な教えが語られている。三節に、
 「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち」
 という言葉がある。この「つく」という言葉は、原語では、「の中へ」という意味である。
 また「バプテスマ」という言葉は、単なる洗礼式のことではない。沈められるとか、入れられるという意味である。私たちは聖霊によって、キリストの中へと入れられ、「つぎ合わされた」(五)のである。
 キリストを信じる者は、霊的にキリストと一体化させられている。この「一体化」こそが、私たちを救うものなのである。
 キリストが単に「身代わりに死なれた」から、私たちが救われるのではない。身代わりも事実である。しかし私たちが救われるのは、なによりキリストと一体化しているからである。
 キリストと一つになって、キリストの死とも一つになり、キリストの復活とも一つになるから救われるのである(五)そしてキリストとの一体化の度合いが深まるほど、キリストの豊かな命が現われる(一一)。
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25日 旧約聖書・創世一三章
アブラムは、エジプトで不安な時期を過ごしたが、カナンに帰るときは、「家畜や銀と金とに非常に富んでいた」(二)。
 アブラムは、重要な拠点となる場所で、主のために祭壇を築き、主の御名によって祈った(四、一八)。彼はいつでも神を第一にしていた。あなたは、今日も主のために祈りの祭壇を築き、神を第一にしているか。
 人生には、しばしば重要な決断をしなければならない時が来る。アブラムがロトと分かれて住むようになったときも、そうだった(一一)。しかしアブラムは、神を第一にしていたので、選択を誤ることはなかった。神の御手が彼の上にあったからである。
 一方ロトが選んだヨルダンの低地は、よく潤っていたが、よこしまな人々が住んでいた(一〇)。その地はその後、天からの火によって滅ぼされることになる。
 ロトは、主の憐れみによって命を助けられたが、持ち物などはすべて失う。もし彼がアブラムと同じように主を第一にしていたら、あのような災難には会わずに済んだに違いない。
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26日 新約聖書・マタイ七章
 主イエスが、山上の説教を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。「というのは、イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(二九)。
 イエスは何のために、これらの説教をされたのか。彼は、単に未信者に道徳訓を垂れたのか。
 そうではない。主の眼中にあるのは、とくに信仰をすでに持っている者、また信仰を持ちつつある者たちであった。
 主はこれらの教えを、一般の人々の道徳として説いたのではない。神の国に生きる者たちが持つべき倫理として、説いたのである。
 先の章の非暴力の教えなどは、神への信仰のない人には、行ない得ないものに違いない。しかし主は、それを、神の国に生きる者が当然行なうべき倫理として説かれた。
 山上の説教は、きわめて高度の倫理である。これらの倫理のすべてを行なうのは、信仰がないと無理であろう。しかし、信仰のある者がこれらの教えに達し、あるいは近づくことは可能である、と主は知っておられたのである。
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27日 旧約聖書・創世一四章
 アブラムがロトたちを救うために出て行って、帰ってきたとき、シャレムの王メルキゼデクがアブラムを祝福しにやってきた。
 シャレムは、その後のエルサレムで、当時はまだ小さな村であった。メルキゼデクはそこの王で、敬虔な信仰を持ち、祭司の働きもしていた。
 メルキゼデクの名はこの章に突然出てくるわけだが、私たちはこれにより、敬虔な信仰の伝統はアブラムの家だけにあったのではないことを知る。
 アブラムは、決して孤独の信仰者ではなかった。紀元前八世紀の預言者エリヤも、きちんと信仰を持っているのは自分だけだと嘆いたが、神は彼に「いやまだ七千人いる」と言われた(一列王一九・一八)。
 私たちは信仰をもって歩んでいるならば、やがて、他のりっぱな信仰者との良き出会いの時がめぐってくる。
 メルキゼデクは、主の権威によってアブラムを祝福した。このときからアブラムは、一族長としての黄金期に入った。他のりっぱな信仰者との出会いは、あなたにとっても祝福の始まりとなる。
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28日 新約聖書・ローマ七章
 一五節で使徒パウロは、「私には自分のしていることがわかりません」と言った。
 この「私」とは、単にパウロ個人をさしているというより、一般的な人の心を「私」という第一人称で語ったものである。こうした事柄は「私」と語ったほうが、読者にわかりやすいからだ。
 あなたは、このような心の状態を経験したことがないか。信仰を持つ前に、また信仰を持ったあとに。
 信仰を持ったあとのほうが、こうした心の葛藤を感じることはないだろうか。もし感じるなら、あなたは正常である。
 未信者のときには「誰でもやっているから」で済ませたことが、信者になると基準が引き上がられるので、かえって心の葛藤が増す場合があるのだ。
 七章では、きよめを受ける前のこのような信者の心の状態が、語られている。そして続く八章で、聖霊によるきよめを受け、自由になった魂の状態が語られる。
 この、きよめられた魂の状態は、信仰生活のアドバンスド・コース(上級者コース)である。その状態に進めるよう、主に願い求めよう。
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29日 旧約聖書・創世一五章
 以前に神はアブラムに、彼の子孫は「地のちり」のように多くなると語られた(一三・一六)。ところが彼には、まだ子が一人もない。
 しかもアブラムは、もうこの時八〇歳前後の老人になっていた。妻もそうだ。子が生めるような年ではない。
 神はもう一度、彼の子孫は星のように多くなる、との約束を与えられた(五)。しかし、具体的な方策が示されるわけではない。人間的に見れば全く不可能な状況だ。
 けれどもアブラムは、「主を信じた」。そして主は「それを彼の義と認められた」(六)。
 では、子どもはその翌日に与えられたか。そうではない。初めての子イサクは、それから一五年ないし二〇年たって、やっと二一章になって与えられるのである(一六・一六、一七・一)。これはアブラムが一〇〇歳になってからであった。
 アブラムはこの長い期間、主を信じ続けた。神はこうして、彼の信仰を訓練された。神はしばしば、私たちをも同じように訓練なさるのである。
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30日 新約聖書・マタイ八章
 私たちはこの章から、主イエスがいやしの奇跡をなされたのは、単に病人を憐れまれたからではなく、ある重要な事実を示すためでもあったことを知る。一七節に、イエスがいやしをなされたのは、
 「彼が私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を背負った」
 という旧約聖書の言葉(イザ五三・四)が成就するためだった、と記されている。主は、私たちの罪だけでなく、病をも背負われた。
 主は、たとえいやしの奇跡をなさらなかったとしても、一大宗教勢力を築くことがお出来になったに違いない。
 シャカは病のいやしの奇跡は行なわなかった。マホメットも行なわなかった。しかし彼らは、一大宗教勢力を築いた。宗教勢力を築くために、いやしの奇跡は必ずしも必要なものではないのだ。
 主がいやしをなされたのは、宗教勢力を築くためではなく、人々を憐れまれたからだった。彼は生命の根源であるかたなので、人々のために、その病を背負われたのである。
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31日 旧約聖書・創世一六章
 アブラムは、自分の子孫が星のように多くなるという主の約束を信じてはいたが、その信仰も完全なものではなかった。
 当時、正妻に子がない場合、女の召使いに子を生んでもらい、その子を後継ぎにするということが、一般に行なわれていた。アブラムの妻サライは、この慣習に従って、後継ぎを得るために、アブラムに二節のような申し出をした。
 アブラムはこのとき、主にみこころを尋ねず、自分の判断で妻サライの申し出を受け、女召使いハガルのところへ入った(四)。
 しかし、こうしたことはとかく、いさかいのもとである。召使いハガルはやがて、子のない正妻サライを見下げるようになった(四)。
 ハガルはアブラムに、イシマエルを生んだ。しかし神の意図されたご計画は、イシマエルを通してなされるものではなかった。神のご計画は、やがて正妻サライが生むイサクを通してなされるのである。
 イシマエルは、アブラムの人間的判断で生まれた子であった。しかし神は、この子をも、豊かに祝福された(一〇)。
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