聖書一日一章

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1日 旧約・民数記二七章
 モーセは、約束の地を目の前にして、もうすぐ死のうとしていた。このときモーセは一二〇歳であった。主はモーセに、
 「アバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる」(一二〜一三)
 と言われた。「あなたの民に加えられる」とは、「よみ」にいる神の民の一員として加えられる、という意味である。
 旧約時代、すべての人は死んで「よみ」に下った(創世四二・三八)。モーセも、死後は天国へ行ったのではない。彼は「よみ」に下った。
 「よみ」は幾つかの場所に分かれており、モーセをはじめ旧約の聖徒たちは、みな「よみ」の「慰めの場所」(ルカ一六・二五)に行った。
 しかし旧約の聖徒たちは、やがてキリストの昇天の際に、キリストと共に天に上げられて、天国に入った(エペ四・八)。
 彼らといえども、十字架の血潮なしには天国に入れなかった。それで彼らは、キリストの十字架の後、キリストの昇天の時に、天国に入ることができたのである。
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2日 旧約・民数記二八章
 カナンの地に入る時が間近に迫ったこの時、二八〜二九章にかけて、火による捧げ物の規定が、繰り返し述べられている。
 それを捧げる日は、毎日、また安息日、月の第一日、正月の一五日から七日間、初穂の日、第七の月の一日、一〇日、一五〜二二日とされた。
 これは神の臨在と、罪からのきよめを常に覚えさせ、また来たるべきイエス・キリストの贖いの予表とするためであった。
 それらは「気をつけて」捧げなければならなかった。聖なるものだったからである。
 こうした捧げ物は、今日の感覚から言えば、あまりに儀式的に感じられるかもしれない。しかし、ここにいるイスラエルの人々の住む世界は、一歩外を見れば、異教と偶像に満ちた古代世界である。
 その世界にあって、イスラエルの人々には、外面的な形からもヤハウェ宗教をしっかり根づかせねばならない、という必要があった。単なる精神論だけでは、ヤハウェ宗教は彼らの心に根づかなかったであろう。
 人はしばしば、外面的な面からも、また内面的な面からも教えに触れなければ、その教えが心に根づかない。
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3日 新約・ルカ二二章
 主イエスが引用された旧約聖書の言葉「彼は罪人たちの中に数えられた」(三七)は、イザヤ書五三章一二節からのものである。
 イエスはこれによって、イザヤ書五三章の「わたしのしもべ」の受難に関する預言が、ご自身に関するものであることを確証されたのである。
 主イエスは、預言の通りに、また神のご計画通りに、ご自身の生涯を歩まれた。彼は、ご自分の生涯がこののちどのように進んで行くかを、知っておられた。
 しかし、十字架の苦しみを思うと、主イエスの御心は張り裂けんばかりの痛みを覚えた。ゲッセマネの園で祈るイエスの御体からは、汗が血のしずくのように地に落ちた(四四)。
 けれどもイエスは、十字架刑の肉体的苦しみを思って、もだえられたのではない。イエスの思われたのは、むしろ霊的な苦しみであった。
 やがてイエスは、私たちの罪を背負い、十字架上で神からの無限の遠きに追いやられようとしていた。神と一体で親密なかたが、その親密さを破られ、神からの無限の遠きに捨てられるのである。
 これは主イエスに、無限の悲しみと痛みをもたらした。
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4日 旧約・民数記二九章
 第七の月の一〇日は、過越の祭と並んで最も大切な「大贖罪日」であった。
 年に一度のその日、大祭司が幕屋の至聖所に入り、自分と民のための罪の贖いをした(レビ一六章)。その日には、「ラッパ」が吹かれた(一)。
 人類の歴史においても、やがて大いなるラッパが吹かれるときが来る。天使たちが神の聖なるラッパを吹きならす時、すなわちキリスト再臨の時がやって来るのである。
 「主(キリスト)は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(一テサ四・一六)。
 その日にはまた、「聖なる会合」(七)が開かれる。神の民が地の四方から集められ、キリストのもとに集結するのである(マタ二四・三一)。 そして神は、彼らのうえにご自身の幕屋を張られる。
 「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです」(黙示七・一五)。
 こうしてその日、神と、神の民とは共に住む。神の住まいと人の住まいは一つになり、両者は文字通り家族のように一緒に住むのである。
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5日 旧約・民数記三〇章
 イスラエルでは、人が心にかけていることについて、主に誓願をたて、「物断ち」をすることがあった(二)。今日も、ある人々は祈願の成就のために、物断ちをしてきた。
 慈善事業や医療、福祉等で活躍したキリスト教団体に「救世軍」がある。その日本支部長だった山室軍平の母は、それをした人であった。
 軍平は八番目の子として生まれた。家は百姓のかたわら染屋をしていたが、火事や病人で家は苦しくなるばかりで、軍平が生まれたときなど、さぞや経済的に大変だろうと、近所から気の毒がられるほどであった。
 母・登毛(とも)は、ふと「この子は丈夫に育つだろうか」と不安に思った。そんなとき人から、「塩だち」とか「茶だち」と言って、何か物を断って神仏に祈願するという話を聞いた。
 自分も何か物を断ってこの子の成人を祈ろう、と決心した彼女は、自分にとって食べるに最も良いものを断とう、と決心した。彼女は、以来、卵を断ったのである。
 卵は当時、手に入る最も優れた滋養物であった。彼女は、七〇歳で亡くなるまでの三〇年間、決して卵を口にしなかった。そして軍平のために、ひたすら祈り続けたのである。
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6日 新約・第一テサ一章
 テサロニケ人への第一の手紙は、紀元五一年頃、パウロがテサロニケ教会の信者に宛てて書いたものである。パウロは、
 「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス」(一〇)
 について宣べ伝えた。
 今まで、世界でリバイバル(信仰復興)の起きたところ、必ずこのことが説かれた。一八世紀に、イギリスに起きたリバイバルの中心人物ジョン・ウェスレーも、人々に、
 「来たらんとする御怒りからのがれよ」
 と説いた。彼は人々の良心を目覚めさせ、神の聖と義を描き出し、またイエスの救いに見られる神の愛を語って、熱誠をもってこれを説いたのである。
 私たちの魂は、来たるべき御怒りの時を思って、ふるえつつ目覚めなければならない。すべての人生は、終末のその聖なる究極の時に、つながっている。
 それは、誰もが通過しなければならない。しかしその時、私たちを御怒りからかくまってくれる「隠れの岩」が、イエス・キリストである。
 イエス・キリストの「隠れの岩」のもとにあるとき、神の御怒りは私たちの上を過ぎ越す。
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7日 旧約・民数記三一章
 かつてミデヤン人は、モアブ人と組んで、女たちを用いてイスラエル人を誘惑し、淫行に引き込み、また偶像バアル・ペオルを礼拝する罪を犯させた。その時、神罰が下り、イスラエル人の二万四千人が死んだ(二二・一〜四、二五章)。
 主はイスラエル人に命じて、ミデヤン人を襲い、この「仇に報いる」ようにと言われた(二)。
 今日、私たちはイエス・キリストによって、人に「仇を報いる」ことを禁じられている。私たちは敵に対しても善を行ない、その救いのために祈るべきである。
 では、なぜこの時イスラエル人は、敵に仇を報いたのか。それは、それが主のご命令だったからである。
 一方、私たちはなぜ、敵に対して善をもって報いるべきなのか。それは、それが現在の私たちに対する神のご命令だからである。
 何が善で何が悪かの基準は、神のご命令にある。神のご命令に従うことが、善である。
 神が、ミデヤン人を襲うようイスラエル人に命令されたのは、それによってミデヤン人に罰を加えるためであった。神はイスラエルを用いて、ミデヤン人を裁かれたのである。
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8日 旧約・民数記三二章
 ヨルダン川は、南北に走る川で、北端のガリラヤ湖から南端の死海まで流れている。
 イスラエル人は、このときヨルダン川の東側にいて、やがて川の西側のカナンの地に入って行こうとしていた。するとルベン族とガド族は、川の東側の地が家畜に適した地であるのを見て、そこを割当地として欲しいと言い出した。
 この申し出は最初、四〇年前にカナンの地に入って行きたくないと言った民の言葉と、同類のものと思われた。しかしルベン族とガド族は、大人の男子は一緒にカナンの地に行って戦い、そののちヨルダン川東の割当地に戻ってくる、と約束した。
 この申し出は、その約束の実行を前提にして認められた。これは人間側が願って、誠意をもってその願いを主に提出し、それが受け入れられた例の一つである。
 神と人の関係は、そのようなものである。神が一方的に人に命令するのではない。ときには、人が自分の願いを申し上げてよいのである。
 ただその願いは、誠意と真実と熱意をもって、主の御前に提出されなければならない。
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9日 新約・ルカ二三章
 ピラトやヘロデなど、ローマ帝国側の支配者たちは、イエスを釈放しようとした。しかしユダヤ人指導者らは、イエスの死刑を強く求め、ついにそれを勝ち取った。
 イエスは処刑場への途上で、女たちに、
 「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょう」(三一)。
 と言われた。「生木」とはイエスご自身のこと、一方「枯れ木」とは、あの「枯れたいちじく」(マタ二一・一九)に象徴される、実を結ばないイスラエルのことである。
 イスラエルの罪が直接的な契機となって、イエスは刑場に追いやられた。イスラエルはその罪を負い、やがてこの四〇年後の紀元七〇年に、ローマ軍によるエルサレム完全破壊の時を迎えることになる。
 その時多くのユダヤ人が死んだ。この女たちの子どもの多くも、その時に死んだのである。
 イエスはそれを思い、「枯れ木には、一体何が起こるでしょう」と言われた。おそらくそう言われた時の主イエスの御顔は、深い悲しみに満ちていたであろう。
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10日 旧約・民数記三三章
 これは、荒野放浪四〇年目にあたって、その放浪地の数々を振り返ったものである。簡単に記されているが、どの地にも、それぞれに深い思い出がある。
 このとき、ヨルダン川の向こうのカナンの地では、そこに住む人々の悪が最高潮に達していた。かつてアブラハムに告げられた通りである(創世一五・一六)。
 カナンでは当時、偶像崇拝だけでなく、ホモセックス、獣姦、子どもを殺して神々にささげること、不倫、殺人、魔術、占い、霊媒、その他の目をおおうような悪が蔓延していた(申命一八・九〜一二)。
 神はイスラエル人に、カナンの地に入ったら、その地の民をみな追い払い、すべての偶像を破壊するよう命令された。
 かつてアブラハムに与えられた「カナンの地は永久にあなたの子孫のものとなる」という約束が、いまや成就しようとしていた。神の御約束は、六〇〇年もの歳月を経て、ようやく成就しようとしていたのである。
 神の御約束は、ときに数百年、または数千年の歳月を経て、いくつもの世代の後に成就する。
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11日 旧約・民数記三四章
 主は、これからカナンに入って行こうとするイスラエル民族に対し、占領地となる土地の東西南北の境界を明確に示された。その境界線までは占領してよいが、それ以上はいけないのである。
 ガド族とルベン族、またマナセの半部族は、すでにヨルダン川の東側に割当地を与えられていたから(三二・三三)、川の西側の土地は、残りの九部族と半部族によって分けられることになる(一三)。
 また、割当地を決める際の最高責任者や、実務責任者についても定められた(一七〜二九)。このように、実際にカナンの地に入る前から、多くの取り決めがなされたのである。
 彼らには、「カナンの地を占領してから考えよう」などという思いはなかった。カナンの占領は主が語られたことであり、主の御約束であって、もう成就したと同じだから、占領後のことを今考えるのは当然なのである。
 私たちも、主が語られたこと、また主の御約束をにぎったら、それがもうすでに成就したかのように、行動すべきである。
 事柄は、まず信仰の中で成就する。信仰とは先取りである。つぎに、それが現実の世界に現われる。
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12日 新約・第一テサ二章
 パウロは、主にあるテサロニケの兄弟姉妹たちに、
 「ただ神の福音だけではなく、私たち自身の命までも、喜んであなたがたに与えたいと思った」(八)
 と書くことができた。これはパウロの生き方を、よく表している。
 彼は福音宣教に、自分の実存(現実存在)をかけた。福音宣教はパウロにとって、生活費をかせぐための単なる職業とか仕事ではなかった。彼は福音を人々に伝えるとともに、自分の生命をも人々に捧げようとしたのである。
 福音宣教は、イエス・キリストの福音、すなわち良き知らせを人々に伝えることである。しかし真の伝道者は、単に言葉を伝えるのではない。
 伝える福音に、主に生かされた自分の生命をかける。福音を人々に伝えるとともに、それに自分の全存在をかけ、自分の生命を分かち与える気持ちで取り組むのである。
 そうした伝道者から伝えられた福音は、単なる言葉ではない。脈々と息づいた命である。
 これが、福音宣教に自分の実存をかける、ということである。そのような伝道者は、必ずや豊かな実を結ぶ。
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13日 旧約・民数記三五章
 ここで再び、「のがれの町」の法が語られる(一五)。これは、誤って人を殺してしまった者が、そこにのがれて、復讐者から守られるためのものである。
 殺意があって人を殺した者は、死刑にされた。しかし誤って人を殺してしまった者は、保護された。このような正義を行なう国が、当時の古代社会において、他にあっただろうか。
 今日もイスラエルには、のがれの町があると聞く。そこには、イスラエルに味方したパレスチナ人が何十家族も住み、イスラエル政府の力のもとに保護されて生活している。
 テレビに映されたその光景には、銃を片手にした何人ものユダヤ人が、町の周囲で護衛にあたっていた。
 イスラエルに味方したパレスチナ人はこれまで、それが発覚すると、PLOの手によって抹殺されてきた。こののがれの町にのがれてきたパレスチナ人は、PLOの手をのがれ、イスラエル政府に助けを求めてきた人々なのである。
 彼らは、イスラエル人とパレスチナ人の間に真の平和が訪れ、自分たちが安全にそののがれの町から出られるようになる日を、心待ちにしている。
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14日 旧約・民数記三六章
 ツェロフハデには、男子の相続人がいなかったので、土地は彼の娘たちが相続する予定であった(二)。
 しかしそうなると、困った問題が生じた。もしその娘たちが他の部族にとついだら、その相続した土地は、嫁ぎ先の男子の部族のものとなるから、相続地が減ってしまう。
 たしかにヨベルの年になれば、売られた土地はもとに戻ってくる(レビ二五・二三〜二八)。しかし、女性が持つ所有地が結婚のために他の部族に移った場合は、ヨベルの年の律法は適用されない。
 かえって、相手の部族のものと確認されてしまう(四)。そこで、どうすればよいか、ということになった。
 これは、ツェロフハデ家の娘たちは他の部族に嫁いではならない、ということで一応の決着をみた。娘たちはそのようにした。
 これは、どの家の娘たちも他の部族にとついではならない、ということではない。相続地を受け継ぐ娘に限って、他の部族にとつぐことが禁止されたのである。
 カナンの土地は神に与えられたものなので、その相続の問題は、非常に重要視された。
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15日 新約・ルカ二四章
 エマオへの途上にあった二人の弟子のとなりに、復活したイエスが来られ、共に歩かれたが、弟子たちには不思議にも、最初それがイエスだとはわからなかった。
 弟子たちは当然、主イエスの顔を知っていた。にもかかわらず、何時間も共にいて話しながら、また見ながら、わからなかった。聖書は、
 「ふたりの目はさえぎられていた」(一六)
 と記している。これはじつは、主イエスが意図的に彼らの目をさえぎり、彼らを訓練されたからである。
 イエスはやがて、人々の目から見えなくなられようとしていた。四〇日後には昇天されるのである。
 しかしイエスは、そののちもずっと、たとえ見えなくとも弟子たちと共におられる。また、昇天後に弟子たちは、聖書を通して主イエスについて学ばなければならない。
 それでイエスは、道すがら、聖書からご自身について説き明かされた(二七)。弟子たちは、それを聞いているとき、心はうちに燃えた(三二)。
 今日私たちは、イエスを、肉眼で見ることによってではなく、聖書を通して知る。それは、イエスご自身が教えられた方法なのである。
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16日 旧約・申命記一章
 申命記は、モーセによって記された。
 ただ本書内には、モーセの死を記した部分がある。この部分は、モーセ以外の人物が、あとで加筆したものである。編集上、このような若干の加筆は行なわれたが、モーセによる資料がほとんどそのまま用いられたと考えてよい。
本書の内容は、荒野放浪四〇年目にヨルダン川を前にして行なった、モーセの決別説教である。
 モーセは、自分の死が間近であることを知っていた。しかし、民を前に最後の力をふりしぼり、驚くほど英知に満ちた説教をしたのである。彼はまさに、生涯現役であった。
 モーセは荒野生活の最後に、
 「荒野では・・・・この所に来るまでの全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見た」(三一)
 と民に語ることができた。これは、モーセにとっても、民にとっても実感だったはずである。
 私たちの人生も、ときに荒野のように思えることがある。しかし信じて歩む私たちは、「主がわたしを抱かれていた」と、あとで語ることができるであろう。
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17日 旧約・申命記二章
 申命記では、モーセは民にむかって「あなたがた」とは呼ばず、「あなた」と一人称で語りかけている。これは、民の一人一人の心に語りかけるためであろう。彼は言った。
 「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四〇年の間あなたと共におられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった」(七)。
 荒野には、イスラエル民族は二〇歳以上の男子だけで約六〇万人、女子どもを合わせれば、二〇〇万人以上の大集団を形成していた。その大集団が、最後に「何一つ欠けたものはなかった」と告白することができたのである。
 また、荒野のイスラエル民族は、しばしば神からの叱責を受けた。しかし、全体的に見れば神が「すべてのことを祝福」してくださった、と語ることができた。
 キリスト者は、イエス・キリストに率いられ、この荒野のような世界の中で、大集団を形成して歩んでいる。モーセに率いられた荒野のイスラエル民族は、このことの予型である。
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18日 新約・第一テサ三章
 テサロニケは、ピリピや、コリントと同様、ギリシャ(古代名マケドニヤ)の主要都市の一つである。
 テサロニケは、商業的にも重要な都市であったので、そこには数々雑多な民族と、宗教が入り交じっていた。ユダヤ人のユダヤ教も、そこでは力を持ち、会堂もあった。
 パウロはギリシャに入ると、まもなくテサロニケで伝道した。その結果、大勢のギリシャ人と、幾人かのユダヤ人が信仰に入った。
 しかし、ユダヤ教を信じるユダヤ人からの反発が生じ、パウロはローマに敵対する政治扇動家と訴えられた。そしてテサロニケにとどまることができず、そこを出なければならなかった(使徒一七・四〜一〇)。
 テサロニケ教会も、ユダヤ人から強い迫害を受けた。それが四節で言われている「苦難」である。
 大教の現われるところには、必ず反対が起こる。偉大な教えは、嵐の中に立つ。あなたが、この偉大な教えに従うなら、あなたはしばしば強風の中に立たなければならない。
 しかしこの偉大な教えは、大樹のように、強風の中でも決して倒れることがない。あなたも、それにつかまっている限り、大丈夫である。
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19日 旧約・申命記三章
 神はイスラエルの民に、
 「彼(バシャンの王)を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している」(二)
 と言われた。バシャンの王をイスラエルの民が打ち破るということは、現実の世界ではまだ成就していないが、神の側ではすでに成就している、というのである。
 先に見たように、神の世界においては本質は事物に先立ち、その本質は神のことばの中にある。神が何かを言われるとき、事物の本質はすでに形成されているのである。
 だから、信者に対しては「恐れてはならない」と言われている。恐れず、神を信じるとき、事物の本質は、その信仰の中に宿る。そして信じて行動するとき、その本質は現実化するのである。ヘブル一一・一に、
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」
 と言われている。じつはこの前半部の原文は、「信仰とは望んでいる事柄の本質(ヒュポスタシス)であり・・・・」である。
 神の世界においては、本質は事物に先立つ。その本質は、信仰によって現実化されるのである。
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20日 旧約・申命記四章
 主は、「ねたむ神」であられる(二四)。
 人間のねたみは、同胞の人間に向かうものであるから、それは罪として禁じられている。
 しかし、神の「ねたみ」は、偶像や、本来は存在しない神々に対して向けられたものである。
 たとえば、人間が偶像を拝む。または偽りの宗教を信奉し、神々を拝む。それを見て神は怒られる。このときの神のご心情を、人間的な表現で言い表したものが、「神のねたみ」なのである。
 それは、本来存在しないものに対して向けられた神のご心情である。だから、それは人間のねたみとは、大きく性質が異なっている。
 もしあなたに、神以上に大切にしているものが心にあるならば、たとえそれが何であれ、それはあなたにとって偶像である。
 それが名誉であれ、快楽であれ、金銭であれ、恋人であれ、良い暮らし向きであれ、または他の何であれ、もし神以上に大切にするものがあるならば、それはあなたの偶像である。
 神はそれを、ねたまれる。あなたは注意して、つねに神を第一にしなければならない。
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21日 新約・ヨハネ一章
 「初めに、ことばがあった」の「ことば」(ロゴス)は、イエス・キリストのことである。では、どうしてキリストが、神の「ことば」と呼ばれるのか。
 それは、私たちが何かを製作するときのことを考えてみるとわかる。たとえば、職人が本棚をつくるとき、彼はその本棚の寸法や、形、色、材料などを、まず「ことば」で考える。その「ことば」には、本棚の本質的な事柄が、概念の形で含まれている。
 本棚の本質は、それが出来上がる前に、職人の持つことばの中に、先だって存在しているのである。これを「本質が事物に先立つ」という。
 これは神のことばにおいても、そうなのである。神のことばの中には、単なる概念ではなく、事物の本質そのものが、先だって宿っている。
 だから、神が「光あれ」とことばを発せられると光があり、「大空よあれ」と言われると大空があったのである(創世記一章)。
 神のことばにはまた、事物の本質だけでなく、生命の本質も宿っている。その神のことばが、神より生まれ出たという御子キリストであり、そのかたが受肉して人の形をとり世に来られたのである。
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22日 旧約・申命記五章
 「あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で長く生きるためである」(三三)。
 信仰の本質は、服従にある。神の御教えと御命令に服従すること、それが信仰の基礎である。
 信仰は「信頼である」とも言われる。それは本当である。信頼なくして信仰はない。しかしまた、たとえ主への信頼があっても、もし服従がなければ、信仰はないのである。
 私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、それに信頼することによって救われる。それは、「福音を信ぜよ」(マコ一・一五)という神のご命令に従うから、救われるのである。服従が、あなたに救いをもたらす。
 もしキリストの十字架を信じ、キリストを救い主として信頼しているなら、あなたは彼の御教えと御命令にも服従しなければならない。その服従に、信仰がある。
 「行ないのない信仰は、死んだものである」(ヤコ二・二六)。服従のない信仰はあり得ない。これは、あなたが生き、しあわせになるためである。
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23日 旧約・申命記六章
 モーセは、多神教のはびこる世界に立って、
 「聞きなさい。イスラエル。ヤハウェは私たちの神。ヤハウェはただひとりである」(四)
 と叫んだ。イスラエルの人々は、この言葉を記したものを、自分の額や腕につけて祈った(八)。
 今日もユダヤ教徒は、この言葉を記した紙を「ヒラクティリー」と呼ばれる黒い小箱に入れ、それを額に紐でつけて祈る。それはちょうど、日本の山伏(やまぶし)が紐で額につける黒い小箱――兜巾(ときん)に、よく似ている。
 じつは、このような小箱を額につける風習は、ユダヤ教徒と、日本の山伏だけに見られることである。また、山伏は山岳信仰者だが、山の頂を聖なるものとする考えは、ユダヤにもある(創世二二・二)。
 このことから、日本を研究するユダヤ人学者の間では、山伏の兜巾の遠い起源はユダヤにあるとも、うわさされている。
 もしそれが事実なら興味深いことではある。しかし残念なことに、日本の山伏は現在、多神教の世界に生き、唯一の神をすっかり忘れている。
 日本人が、真に唯一神に立ち帰るのは、いつの日のことなのだろう。
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24日 新約・第一テサ四章
 「眠った人々」(一三)とは、死んだ人々のことである。
 クリスチャンたちに関してこの表現が使われるのは、ちょうど眠りに続いて目覚めがあるように、死んでも彼らには復活がある、ということを表現しているのである。
 それは死後に意識がない、という意味ではない。死後にも意識はある(黙示六・九〜一一)。
 さて、主イエスの再臨と共に、キリストにある死者の復活が起こる(一六)。それは旧約時代の聖徒たちをはじめ、初代教会以来の全時代の全世界のクリスチャンの復活であろう。それが、
 「イエスにあって眠った人々を、イエスと一緒に連れて来られる」
 の意味である(一四)。彼らは、朽ちない栄光の体を着て現われる(一コリ一五・五四)。
 復活が起こると、それに続いて、その時生きて地上にいるクリスチャンたちが、復活したクリスチャンたちと共に、たちまち空中に携挙される(一七)。
 このとき、体は朽ちない栄光の体に変えられる。そして新しい体を得た彼らは、空中で主と会う。
 それは壮大な光景である。その後、至福の千年王国と続く。
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25日 旧約・申命記七章
 イスラエル民族が、神の民として選ばれ、育成されたのは、彼らの「数が多かったからではない」(七)。実際、彼らは「すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」。
 神は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対してなした約束を、今果たしておられるのである。
 神がかつて、アブラハム、イサク、ヤコブを選ばれたのは、全知全能のご主権による。神は全地をみそなわし、彼らを選んでその子孫を神の民に育成することが、イエス・キリストを全世界に来たらせるために最も良いと、判断されたのである。
 こうしてイスラエル民族は、キリストを全世界に来たらせるパイプ役となるために、いまや神ご自身の手によって育成されている。彼らは、なんと幸せな民であったろう。
 このとき、モーセの説教を聞いている民の中には、ヨシュアとカレブを除けば、もはや荒野でつぶやいた大人たちはいなかった。彼らはみな、荒野で死に絶えたのである。モーセの前にいるのは、出エジプトの時に子供で、その後荒野で育った者たち、および荒野で生まれ、主に従うことを学んだ人々である。彼らはモーセの言葉を、かみしめながら、喜んで聞いたであろう。
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26日 旧約・申命記八章
 神の民には、富を築き上げる力が与えられている。
 「主があなたに富を築きあげる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を、今日の通りに果たされるためである」(一八)。
 これはクリスチャンにも言える。クリスチャンは「清貧」でなければならない、ということはない。クリスチャンには、富を築き上げる力が与えられている。
 それを用いるか用いないかは、自由である。ただし、次のことを気をつけなければならない。
 「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」(一七)。
 富は神のものである。だから、さらに「あなたの神、主を心に据えなさい」(一八)と言われている。
 あなたは神を心に据え、神を第一にし、その御教えを守らねばならない。その御教えとは、「神を愛し、隣人を愛せよ」ということである。
 あなたは富を得たら、それを神のものと認め、できるだけ多くを隣人のために使わなければならない。
 しかし、もしその富を自分の欲得のためだけに使うなら、あなたはその富の中で滅びるであろう。
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27日 新約・ヨハネ二章
 主イエスが、公生涯に入って最初に行なわれた奇跡は、水をぶどう酒に変え、それを婚宴の客にふるまうことであった(九)。
 一方イエスは、公生涯の終わりに、弟子たちを集め、パンとぶどう酒を用意して言われた、パンについては「これはわたしの体です」。また、ぶどう酒については「これはわたしの契約の血です」と。
 そしてやがて、十字架にかかって、私たちのために贖いの血潮を流された。その清い血潮は、神の国の婚宴に招かれた私たちに対してふるまわれた、生命の「ぶどう酒」だったのである。
 だから、カナにおけるぶどう酒の奇跡は、主イエスの来臨の目的そのものを象徴していた。
 実際、マリヤが「ぶどう酒がありません」と言ったとき、イエスは、
 「わたしの時はまだ来ていません」(四)
 とお答えになった。「わたしの時」とか「イエスの時」という言葉は、ヨハネ福音書にしばしば出てくるが、十字架の時を意味している。
 このようにイエスは、このときすでに、「ぶどう酒」というものによって十字架の時を意識しておられたのである。
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28日 旧約・申命記九章
 カナンの諸民族を征服できるのは、イスラエルが強いからではなかった。イスラエルは、自分たちより強い民を征服しようとしていたのである(一)。
 またそれは、イスラエルが「正しいから」でもなかった。カナンの諸民族が征服されるのは、「これらの国々が悪いから」なのである(五)。
 カナンの地の征服は、イスラエルの功績のゆえではなかった。それはカナンの諸民族への、神の審判だった。また、かつて神がアブラハム、イサク、ヤコブに言われた約束を成就するためなのである。
 神はイスラエルを、カナンの地への審判のために用いられた。そのためにイスラエルをお用いになったのは、ひとえに神のご主権による。
 当時カナンの地の民がどのような行状で、どのような宗教を奉じていたかは、今日、考古学者の手によって発掘され、白日のもとにさらされている。
 偶像バアルのための犠牲として殺された子供たちの、遺骸の入った数々の壷、また、家を建てるときに家族に幸運をもたらすために壁の中に塗り込められたという、殺された幼児の遺体(定礎犠牲・人柱)なども、発見されている。
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29日 旧約・申命記一〇章
 「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい」(一六)
 と言われている。単なる形式上の宗教ではなく、心の割礼を行ない、心の底から真に「神の民」になりなさい、との意味である。
 旧約時代の教えは、しばしば形式的のものと思われがちだが、本当は、モーセが教えたものはそのようなものではなかった。
 彼は、外的なものも厳格に教えたが、なにより心の内面からの信仰を重視したのである。宗教は形式ではない。それは心である。神の御前に正しい関係を保った心である。
 「宗教」の字義は「本もとの教え」ということである。人生で最も大切な教えということである。世には偽りの宗教が多くあるが、真の宗教はただ一つである。
 人生で最も大切なのは、天地の創造者を知り、その御前に恐れかしこみ、その御教えを守ることである。それが私たちの創造目的を回復し、私たちを真に幸せにする。
 あなたは、心の奥底から神を愛しているか。それとも、まだ何かのわだかまりがあるだろうか。もしそうなら、あなたの心は一皮むけなければならない。
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30日 新約・第一テサ五章
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(一六〜一八)
 と教えられている。「これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることだから」(一八)である。
 私たちは、いかなる境遇にあるときも、主イエスの喜びを心に持つべきである。また、絶えず祈り、すべてのことを感謝すべきである。
 つぶやきには益がないが、主を喜ぶことには力がある。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇三七・四)。
 朝顔の花は、その顔を日の光に向けて輝く。あなたも、うなだれていないで、顔を上げ、主を見上げよう。そうすれば、主からの光があなたの顔を照らすであろう。
 あなたはどんなことも、感謝することを忘れてはならない。日常の些細な事柄の中に、神の深い恵みがある。
 その時にはいやだと思うようなことも、感謝して受け取ると、あとでそれが本当に自分のための神の恵みだったことを発見して、感激することがあるものだ。
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31日 旧約・申命記一一章
 きよい人は強い。主が味方だからである。
 真に強い人は、腕力のある人ではない。神の前に正しく生きる人である。その人には、神の豊かな祝福が臨む。
 主は、イスラエルの民が御教えに従って歩むなら、カナンの諸民族をみな追い払うと約束された(二二)。
 しかし、それはすぐに完全な実現を見るわけではなかった。七章二二〜二四節によると、神はカナンの諸民族を一度にではなく、じょじょに追い払うと約束されている。
 カナンの諸民族は、何世代かをかけて追い払われ、ついに根だやしにされる。それは、イスラエルの民の各世代が真に御教えに歩み続けることを、見るためであった。
 私たち人間の心には、つねに罪という敵が住む。私たちはそれを一つ一つ追い出さなければならない。
 それには、神の御教えを愛し、昼も夜もそれを口ずさみ、心に思って、主に従うことである。そうすれば主は、それらの心の敵を一つ一つ追い出し、ついには根だやしにされるであろう。
 そして、あなたの心は、乳と蜜の流れる豊潤な境地をつかむことができるのである。
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